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第91話 自覚


 (その言葉を理解した瞬間、キリの思考は完全に停止した)




 部屋に戻ると。


 アイルは、パソコンの前に座ったまま、いくつものホームページを切り替えていた。


「どう?」


 視線は画面のまま。


「広告、出せそう?」


「……あぁ」


 短く答える。


 だが。


 その声は、いつもよりわずかに鈍い。


 カチ、カチ、とマウスの音だけが続く。


 一拍。


「……ねえ」


 アイルが、ようやく視線を外した。


 キリを見る。


「どうしたの」


「いや……別に」


 即答する。


 反射的に。


 だが。


 その答えに、ほんのわずかな間があった。


「ふーん」


 アイルは、じっと見る。


「……何だ」


「いや?」


 少しだけ首を傾げる。


「珍しいなって」


「何がだ」


「そんな顔するの」


 一拍。


 キリの眉間を、指先で軽く叩く。


 とん、と。


「ここ、シワになっちゃうよ?」


「……」


 言われて、初めて気づく。


 無意識に、力が入っていた。


「……問題ない」


 視線を逸らす。


「そう?」


 アイルは、少しだけ笑った。


「アイル」


「……?」


「アイルは……その……」


 言いかけて、言葉が詰まる。


 自分でも、うまく説明できない。


 思考が整理できない。


「……うまく、言えない」


 ぽつりと漏れる。


 その様子を見て。


 アイルは、ふっと目を細めた。


 やわらかい、どこか優しい眼差しだった。


「うん」


 短く頷く。


「分かるよ」


「……?」


「僕たちエルフってさ」


 少しだけ視線を上に向ける。


「普通の人間だったら持ってる感情っていうのを、意図的に削ってきたでしょ」


「……あぁ」


 キリは頷く。


「だから」


 アイルは続ける。


「急にそれが出てきたら、そりゃ戸惑うよ」


 一拍。


「キリが悩むのも、よく分かる」


「……」


 キリは、何も言わない。


 だが。


 否定もしなかった。


「だけど」


 アイルが、軽く肩をすくめる。


「たまにはさ」


 視線を戻す。


 まっすぐに、キリを見る。


「考えすぎるんじゃなくて」


 一拍。


「そのまま感じた通りに、動いてみてもいいんじゃない?」


「……感じた通り?」


 キリが、眉を寄せる。


「それでは、判断基準にならない」


 即座に返す。


「非合理だ」


「うん、非合理だね」


 あっさり肯定する。


「でもさ」


 少しだけ笑う。


「全部が全部、合理で動く必要ってある?」


「……」


 キリは、言葉を失う。


「シンプルでいいんだよ」


 アイルが、ぽつりと言う。


「“どうしたいか”だけで」


 静かな声だった。


 押し付けるでもなく。


 ただ、置いていくような言い方。


「……」


 キリは、しばらく何も言わなかった。


 頭の中で、言葉を反芻する。


(……どうしたいか)


 その問いは。


 今までの思考には、存在しなかったものだった。


「……分からない」


 正直に、そう答える。


「うん」


 アイルは頷く。


「最初はそんなもんだよ」


 軽く画面に視線を戻す。


「そのうち、分かる」


 あっさりとした声。


 でも。


「……僕も、最初は全然分からなかったから」


 それだけ言って、画面に視線を戻した。


「……」


 キリは、黙ったまま。


 再び、画面に視線を落とす。


 カーソルが、点滅している。


 入力すべき言葉は分かっている。


 だが。


 指が、動かない。


(……どうしたいか)


 翌日。


 店内は、いつも通りの空気だった。


 ――はずなのに。


(……)


 キリの視線は、何度も同じ場所へ向いていた。


 結衣と、エレン。


 並んで話しているだけだ。


 特別なことは、何もしていない。


 距離も、昨日と変わらない。


(……違う)


 いや。


 違う。


 意識してしまっているのは——自分だ。


 アイルの言葉が、頭の奥で繰り返される。


 ――シンプルでいいんだよ。


 ――“どうしたいか”だけで。


(……どうしたいか)


 分からない。


 だが。


 一つだけ、確かなことがある。


(……落ち着かない)


 胸の奥が、ざわつく。


 視線を外そうとしても、勝手に戻る。


(……なぜだ)


 理由が、見つからない。


 そのとき。


「——結衣ちゃん、ちょっといい?」


 エレンが、ひょいと声をかけた。


「え?」


「さっきの件、ちょっとだけ確認したい」


「うん、いいよ」


 二人が、少し離れる。


 キリの視界から、結衣が外れる。


 ――その瞬間。


「はぁ……」


 小さく、息が漏れた。


 自分でも気づかないうちに、肩の力が抜けていた。


(……今のは)


 安堵。


 明確に、そうだった。


(……なぜだ)


 そこへ。


「やっぱり」


 声がした。


 顔を上げる。


 エレンが、すぐ近くに立っていた。


 にやにやと、面白そうに笑っている。


「……何だ」


 キリが、眉を寄せる。


「いや?」


 軽く肩をすくめる。


「分かりやすいなーって思って」


「何がだ」


「視線」


 即答だった。


「さっきからずっと、結衣ちゃん見てたでしょ」


「……」


 否定できない。


「僕が気に入らない?」


 一歩、近づく。


「それとも——」


 わざと、間を置く。


「結衣ちゃんが好きすぎて、嫉妬してる?」


「……は?」


 思考が、止まった。


 一瞬。


 完全に。


「……好き?」


 ぽつりと、漏れる。


「嫉妬……?」


 理解が、追いつかない。


 言葉だけが、浮かぶ。


「なんだ、それ」


 エレンが、くすっと笑う。


「そのままだよ」


 軽く肩をすくめる。


「分かんないなら、そのまま考えてみれば?」


 ひらひらと手を振って、その場を離れる。


 一人、残される。


(……好き)


(……嫉妬)


 頭の中で、反復される。


 だが。


 どちらも、自分の中にあった概念ではない。


(……違う)


 いや。


 違わない。


 今まで、定義していなかっただけで——


(……これは)


 答えに、近づきかけた瞬間。


「キリ?」


 声がした。


 振り返る。


 結衣が、すぐそこにいた。


「どうしたの?」


 覗き込むように、顔を近づける。


 距離が、近い。


 一瞬で。


 ――ドクン。


 心臓が、大きく跳ねる。


(……っ)


 鼓動が、加速する。


 止まらない。


 それどころか。


 どんどん、強くなる。


(……何だ、これは)


 胸が、熱い。


 呼吸が、浅くなる。


 視線を合わせられない。


(……これが)


 エレンの言葉が、よぎる。


 ――好きすぎて。


 ――嫉妬してる?


(……好き)


 結衣のことが。


(……俺が?)


 思考が、追いつかない。


 理解が、追いつかない。


「キリ?」


 心配そうな声。


 さらに、近づく。


(……平静を保て)


 自分に言い聞かせる。


 いつもなら、できる。


 感情を制御するのは、得意なはずだ。


 だが。


 今日は。


「な、なんでもない!」


 反射的に立ち上がる。


 椅子が、大きく音を立てた。


 そのまま、背を向ける。


「ちょっと、外す!」


 止める声も聞かずに、店の外へ出る。


 顔が、熱い。


 耳まで、焼けるように熱い。


(……俺は)


 足が止まる。


 壁に手をつく。


 呼吸を整えようとする。


 だが。


 鼓動は、収まらない。


(……俺は)


 言葉が、ようやく形になる。


(……結衣のことが)


 一拍。


(……好き、なのか)


 その事実だけが、はっきりと残った。


 その頃。


 店の中では。


「……あれ?」


 結衣が、ぽつりと呟いていた。


「なんか、怒らせちゃったかな……」


 少しだけ、不安そうに視線を落とす。


 その横で。


 エレンが、にやりと笑う。


(あーあ)


 腕を組んで、軽く肩をすくめる。


(これはもう、完全に自覚したな)


 一人だけ。


 楽しそうに、状況を眺めていた。

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