第90話 最適化できない感情
(——ドクン。その鼓動だけが、どうしても最適化できなかった)
ホームページは、公開された。
けれど。
「……増えてないね」
結衣が、画面を見ながらぽつりと言う。
アクセス数。
ほとんど、動いていない。
「想定内だ」
ノクスが淡々と答える。
「公開しただけでは、見つからん」
「うん……分かってるけど」
少しだけ、肩を落とす。
「せっかく作ったのに、誰にも見られないのは……ちょっと寂しいね」
その言葉に。
キリの指が、ぴたりと止まった。
画面を見ていた目が、わずかに動く。
一拍。
二拍。
「……ならば、呼び込めばいい」
顔を上げる。
その目が、明らかに輝いていた。
「広告を出す」
「え?」
結衣が瞬きをする。
「検索結果に、こちらから割り込む。需要がある場所に、直接出向くのだ」
「いや、ちょっと待って」
結衣が慌てる。
「広告って……高くない?」
「制御できる」
即答だった。
「予算は設定可能。上限も決められる。もしオーバーしそうなら、即時停止すればいい」
「さらに、どのキーワードから流入したか、どのページで離脱したか——」
「はいストップ」
結衣が手を出して止める。
「情報量が多い」
「だが重要だ」
キリは一歩も引かない。
「これは、感覚ではなく“数値”で判断できる。どこに問題があって、何を改善すれば効果が出るか——全部、数字が教えてくれる」
その顔は、ここ数日で一番生き生きしていた。
声のトーンも、いつもより少しだけ早い。
「……やりたいんだね?」
結衣が、少しだけ笑う。
キリは、一瞬だけ黙った。
自分の声が、いつもより熱を帯びていたことに、そのとき初めて気づいたのかもしれない。
「……当然だ」
少しだけ間があってから、答えた。
「なら、やってみようか」
「いいのか?」
「うん。せっかく作ったんだもん。見てもらいたいし」
その言葉に。
キリの口元が、わずかに上がった。
「……私も」
ぽつりと、結衣が言う。
「何か、やってみようかな」
「何をだ」
ノクスが視線を向ける。
「営業、とか」
少しだけ考えながら言う。
「今まで、お客さん待ってるだけだったし。自分から、動いてみたいなって」
その言葉に。
エレンが、くすっと笑った。
「いいじゃん」
軽く頷く。
「じゃあさ、ちょっと練習してみる?」
「え?」
「人と話す時のコツ」
「そんなのあるの?」
「あるよ」
にやりと笑う。
「めちゃくちゃある」
「え、教えてほしい」
結衣が身を乗り出す。
「いいよ」
エレンが軽く指を立てる。
「じゃあまず——営業の鉄則、ひとつ目」
「て、鉄則……?」
結衣が少し身構える。
「商品を売ろうとしないこと」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出る。
「売らないの?」
「売らない」
即答だった。
「正確には、“売り込まない”。代わりにやることは一つ」
指先で、軽く空を示す。
「相手の未来を見せる」
「未来……?」
「例えばさ」
少しだけ視線を外す。
「“このお米、美味しいですよ”って言われても、ピンとこないでしょ?」
「あ、うん……」
「でも」
ふっと笑う。
「“炊きたての香りで、家族がちょっと嬉しそうにするご飯”って言われたら?」
一拍。
「……あ」
結衣の目が、少しだけ変わった。
頭の中に、画が浮かんだ。
お父さんが生きていた頃の夕飯の時間。
炊きたての匂いが部屋に広がって、みんなが自然と食卓に集まってくる、あの感じ。
「想像、できるでしょ?」
「……できる」
小さく頷く。
声が、少しだけ湿っていた。
「それが“売れる言い方”」
エレンが指を軽く鳴らす。
結衣は、じっと考え込んだ。
(……私)
ずっと、説明してた。
産地がどこで、精米したてで、価格が上がった理由。
全部正しくて、全部必要な情報で。
でも。
(聞いてなかった)
相手が何を大事にしていて、何を求めていて、何を想像したいのか。
そこを、全然見ていなかった。
「で、もう一つ」
エレンが続ける。
「最初にやるのは、“話す”じゃない」
「え?」
「聞く」
間を置かずに言い切る。
「相手がどんなご飯食べてるのか。何を大事にしてるのか。何に困ってるのか。それ聞かないと、未来なんて作れないでしょ?」
「……あ」
今度は、はっきりと理解した顔だった。
「だから順番は」
指を折りながら言う。
「①聞く、②想像する、③未来を見せる。これだけ」
「……シンプル」
「でしょ?」
軽く笑う。
「でも、これが一番難しい」
結衣は、しばらく黙っていた。
テーブルの上を、指でそっとなぞる。
(じゃあ)
顔を上げる。
「サンプル……とかあったらいいのかな」
「サンプル?」
「うん。実際に食べてもらえたら、“未来”ってもっと想像しやすくなるよね」
「……いいね」
エレンが、少しだけ驚いたように笑う。
「ちゃんと繋がってる」
「ほんと?」
「うん。それ、かなり強い」
結衣の顔が、ぱっと明るくなる。
「じゃあ、小さい袋で……試食用とかもできるかも」
自然と、次のアイデアが出てくる。
言葉が、するすると繋がっていく。
さっきまでと、少しだけ違う顔をしていた。
その様子を。
少し離れた場所から、二人が見ていた。
「……」
「……」
沈黙。
視線の先では、エレンが結衣の目線に合わせて身を屈めている。
距離が、近い。
明らかに。
必要以上に。
そして——結衣が、それを気にした様子もなく話し込んでいる。
「……近い」
ノクスが、低く呟く。
「近いな」
キリも即座に同意する。
一拍。
「……なぜだ」
キリがぽつりと呟く。
「何がだ」
「なぜ、あそこまで自然に受け入れている」
受け入れている、という言葉が、自分の口から出た瞬間。
何かが、胸の奥に引っかかった。
不快、というわけではない。
でも——落ち着かない。
(……また、これか)
キリは視線を画面に戻そうとして、戻せなかった。
「……理解不能だ」
小さく、呟く。
ノクスは答えない。
ただ。
視線だけが、外れなかった。
二人して、同じ方向を見たまま。
画面の数字は、静かに動き続けていた。
その夜。
夜は、すっかり更けていた。
店の明かりは落ちている。
けれど、居間だけはまだ灯りがついていた。
ノートパソコンの画面に、淡い光が揺れる。
「……違う」
キリが、小さく呟く。
打ち込んだ文章を見て、眉を寄せる。
「弱いな」
一行消す。
打ち直す。
「……いや、これでは届かない」
また消す。
キャッチコピー。
説明文。
どれも正解に近いのに、決定打にならない。
「……何が足りない」
指先が止まる。
思考が、行き詰まる。
そのとき。
「キリ」
静かな声。
振り返る。
結衣が、湯気の立つ湯呑みを持って立っていた。
「お茶、入れたよ」
「ああ……」
自然に受け取る。
温かい。
指先から、じんわりと熱が広がる。
「まだやってたんだね」
「……最適化している」
「最適化って……」
少しだけ、笑う気配。
「もうだいぶ遅いよ?」
時計を見る。
確かに、深夜だった。
だが。
「まだ、詰めが甘い」
視線を画面に戻す。
「このままでは、反応率が低い」
「そっか……」
結衣が、すぐ隣に腰を下ろす。
距離が、近い。
ふわりと。
石鹸の匂いがした。
その瞬間。
――ドクン。
心臓が、大きく鳴った。
「……っ」
思考が、一瞬途切れる。
(……なんだ、今のは)
呼吸を整える。
だが。
鼓動が、落ち着かない。
「どうしたの?」
結衣が、覗き込む。
距離が、さらに近づく。
「顔、ちょっと赤くない?」
「問題ない」
即答する。
だが。
視線を合わせられない。
(……おかしい)
頭の中で、冷静に整理する。
この反応は不要だ。
作業効率を下げる。
集中を乱す。
排除すべき要素。
(原因は——)
視界の端に、結衣がいる。
すぐ隣に。
何気ない顔で、こちらを見ている。
(……近い)
それだけか?
違う。
距離の問題だけではない。
同じ空間にいるときは——
むしろ、安定している。
思考は落ち着く。
余計なノイズが減る。
作業効率は、上がる。
(……だが)
ふとした瞬間に。
今のように、乱れる。
規則性がない。
再現性もない。
(……理解不能だ)
結衣が、小さく息をつく。
「無理しすぎないでね」
その声に。
また、鼓動が跳ねる。
(……またか)
眉をわずかに寄せる。
抑え込もうとするが、完全には制御できない。
(……不快ではない)
むしろ。
逆だ。
どこか、心地がいい。
だが同時に。
(……落ち着かない)
相反する感覚。
整合性が取れない。
「キリ?」
呼ばれて、意識を戻す。
「……続ける」
ぽつりと呟く。
「え?」
「作業を」
言い直す。
視線を画面に戻す。
キーボードに指を置く。
だが。
ほんのわずかに。
思考の一部が、そちらに引っ張られている。
(……なぜだ)
答えは出ない。
ただ。
隣にいるだけで。
妙に、意識が逸れる。
その事実だけが、残った。
その隣で。
結衣は、何も知らずに微笑んでいた。




