204 森の民・聖域〈運び屋〉
◆聖域
大樹に架けられた吊り橋を慎重に渡っていると、空気が変わっていくのが分かった。森の湿り気が薄れ、代わりに長い間放置されていた鉄とコンクリートの冷たい匂いが鼻を刺す。馴染みのある匂いだ。
視線の先では、旧文明期の高層建築物に大樹の太い根が絡みつくように覆い被さっていた。変異したツル植物が巨木を締め付けるように、無数の根が地中に半ば埋まった建築物と同化している。建物の上層だけが地中から突き出すように顔を出し、文明の残骸と森の異形が融合した悪夢めいた光景を形作っていた。
俺たちを案内してくれていたタカクラが「聖域だ」と短く告げる。巫女が先頭に立ち、屋上に設けられた非常用出入り口らしき隔壁へ歩み寄る。そこには、生きた端末が壁に埋め込まれていた。
彼女の指先が触れると端末が微かに光り、生体認識が行われる。その直後、長いあいだ閉ざされていた隔壁が、重い呼吸を吐き出すように開いた。森の根が絡みつき自然と同化していた外壁とは対照的に、内部は清潔で、それでいて無機質で、まるで時間が止まっているかのようだった。
タカクラが言うには、旧文明期に存在した企業の研究施設だったようだ。部族によって管理されてきたこともあり、内部には大量の物資が残されているらしい。
〈ミツバ〉が扱えない高度な技術を必要とする機器、研究目的で保管されていた武器、そして手付かずの遺物。報酬として旧文明期の遺物を提供するという話は、どうやら本当のようだ。
隔壁の先は、森とは別世界だった。空気はひんやりと澄み、汚染を気にする必要がないためマスクの装着も不要だった。
廊下は汚れひとつなく、白い壁が周囲の光景を反射していた。自律型の掃除ロボットが、まるで儀式の一部であるかのように徘徊している。文明崩壊から途方もない年月が流れているにもかかわらず、ここだけは時間が止まり、旧文明の残響が静かに息づいていた。
まだ管理システムが生きているのだろう。俺たちが保安ユニットに攻撃されないのは、生体認証を受けた巫女がいるからだった。もっとも、その巫女がどのようにID登録しているのかは見当もつかなかった。
とにかく、巫女に案内されるようにして、俺たちは照明が灯された廊下を歩いた。徐々に湿った土の匂いが薄れ、代わりに冷たい金属と滅菌された空気の匂いが鼻腔を満たす。森の気配が背後に遠ざかり、旧文明の残響が足元から立ち上がってくるようにさえ感じられた。
保管庫らしき部屋に入ると、そこはまるで医療組合の――それも上級会員しか近づけないような施設を、森の奥へそのまま移植したかのような空間だった。
無数のロボットアームが天井から垂れ下がり、壁面に並んだ装置からはマニピュレーターがむき出しのまま整然と並んでいる。余計な装飾は一切なく、試作品めいた無骨さが逆に不気味さを際立たせていた。
アームの先端には手術器具が装着され、麻酔タンクや生体接続用ケーブルが蜘蛛の巣のように絡み合っている。組合の〈自動医療機器〉と同じ構造だが、より複雑で、より高度な機械という印象を受けた。
巫女が端末に触れると、機械のあちこちでホログラムが投影され、すぐにでも利用可能だと示していた。そこで彼女は振り返り、コトネの前に立つ。
情報端末の不完全な翻訳によれば、コトネの腕を治療してくれるのだという。突然の申し出に、コトネは驚いたように眼を見開く。彼女の簡易義肢は〈ツチグモ〉に破壊されて以来、最低限の機能しかない粗末な代用品だった。
指の本数も足りず、動作もぎこちない。それが気になっていたのだろう。依頼を引き受けるかどうかはまだ決めていないと伝えたが、巫女は首を振り、『医療品を届けてくれた感謝の気持ち』とだけ告げた。
コトネは備え付けのチェアに座らされ、腕が固定される。つぎの瞬間、複数のマニピュレーターが一斉に動き出し、義肢の接続部を解体し始めた。金属片が静かに外され、ケーブルが抜かれ、古い義肢が皮膚を剥ぐように取り外される。その際、幻肢痛を抑える麻酔が自動投与されていることが分かる。
続いて、新しい義肢が装着された。精巧な人工皮膚は皮下装甲を備えていて、指先に触れると人の体温に近い温度へ自動調整されていることが分かった。関節部は生体電流に反応し、コトネの神経信号に合わせて微細に動く。
金属の塊だった腕が、より人間らしい形へと変わっていく。彼女は自分の新しい指をゆっくり曲げ、驚いたように息を呑んだ。
「これだけの設備があるなら、医療品も作れるんじゃないか?」
イジュンが何とはなしに訊くと、タカクラは首を横に振った。
「ここは研究施設だ。武器やインプラントのための設備はあるが、食料や医療品を提供する設備はない」
怪我や病気を治す場所ではないようだ。治癒ではなく、あくまで改造を目的にしている。救済ではなく強化。森の脅威に対抗するためだけに残された技術だった。
皮肉なことに、それは森と共に生きる部族が求めていたものではなかった。だが、少なくとも報酬は期待できそうだった。




