196 接触〈運び屋〉
◆接触
亜人の生活圏は、森の光と影が複雑に折り重なる、神秘的とすら感じられる場所だった。巨木の根が絡み合い、自然の回廊をつくり、その奥で彼らは静かに暮らしている。
まず彼らと接触する前に、移動経路を調べ、その道中に食料品を置くことから始めた。いきなり対面するのはリスクが高すぎる。ツチグモの監視網に触れず、なおかつ亜人たちに〝これは安全なものだ〟と認識させてから直接会うほうがいい。時間はかかるが、イジュンの提案はもっともだった。
俺たちは人工肉や固形タイプの栄養食を開封し、匂いが広がるように周囲の草を刈って配置した。何を食べるのか分からないので、種類を変えながら根気強く試すしかなかった。
観察できる時間は限られていた。〈ツチグモ〉の巡回が近づけば即座に退避しなければならないし、亜人たちも毎日狩りに出るわけではない。
最初の数日は見向きもされず、食料品は森に生息する昆虫や小動物の餌になったが、それでも場所を変えながら根気強く設置していくと、数体の亜人が人工肉の匂いを嗅ぎ、慎重に手を伸ばす姿を確認できた。
彼らの体格は人間とほぼ同じで、直立二足歩行が可能だった。指の構造も人間と同様で、細かな動作ができる。だが頭部は猫科動物――とくにヒョウ属に近い。前方に向いた大きな眼球は暗所に特化していて、森の薄暗がりでも高い視認能力を発揮していた。
実際、彼らは弓の名手で、遠距離から小動物を正確に射抜く場面を何度も見てきた。顔面の表情筋は発達しているが、構造が人間と異なるため、感情の読み取りは難しい。怒っているのか、警戒しているのか、あるいは興味を持っているのか――判断には時間がかかった。
全身は密度の高い体毛で覆われていて、毛色や模様の個体差が大きい。斑点模様、縞模様、斑模様。森の中に溶け込むための迷彩のようだった。個体識別には役立つが、遠目にはどれも同じ影に見える。
男性――というか雄の個体は筋肉質で、〈データベース〉で目にした旧文明期以前のライオンのようなたてがみを持ち、首から肩にかけて密集した長毛が特徴的だった。
対照的に雌は艶のある短毛に覆われていて、小さな頭部と引き締まった体躯を持つ。胸部や腹部の体毛は比較的薄く、ときおり露出した乳房も確認できた。
彼らは人工肉を嗅ぎ、爪先でつつき、慎重に指先を舐める。食べられると判断してからは仲間を呼び、互いに匂いを確かめるような光景も見られた。俺たちは遠くからその様子を見守り、〈ツチグモ〉に見つからないように息を潜めた。
〈大樹の森〉には、確かに亜人が存在していた。それは噂で聞くよりもずっと現実的でありながら、ひどく非現実的な存在にも思えたが、醜悪な変異体が徘徊する世界では美しいとさえ思える種族だった。
根気強く観察を続けたことによって、彼らは我々が提供する食料に興味を持ち始めていた。そこに至って、俺たちは作戦を第二段階に移行した。つまり、ここからが本番だった。
ツチグモの巡回は依然として厳しく、亜人の生活圏に近づくたび、攻撃される危険性を孕んでいた。境界線を越えれば即座に攻撃の的にされる。丸腰での接触を前提にしているとはいえ、喉元を締めつけるような緊張感は常に消えなかった。
亜人との接触の役割を引き受けたのは俺だった。もともと、それは俺の提案だったからだ。接触の相手に選んだのは若い雄の個体。
たてがみが生え揃ったばかりで、まだ群れの中では半人前といった風情だが、こちらが設置した食料品にもっとも興味を示していた個体でもあった。警戒心は強いが、好奇心も強い――接触するなら、ああいう個体がいい。
森の影が濃くなり、彼がひとりで行動する時間を狙い、俺はゆっくりと姿を見せた。両手を上げ、敵意がないことを示す。ガスマスク越しの呼吸が重く、胸の奥で心臓が跳ねる。
若い雄はすぐに反応した。耳がピンと立ち、瞳孔が細くなり、弓弦を引き絞る。その動作は迷いがなく、訓練された兵士のようだった。鏃が俺の喉元を正確に捉えている。
だが、彼の視線が人工肉の包みに向けられた瞬間、その動きが止まった。鼻先がわずかに震え、匂いを確かめるように空気を吸う。彼を刺激しないよう、俺はゆっくりと人工肉を差し出した。手のひらを見せるように、ゆっくり、慎重に。
若い雄は戸惑っていた。弓を引いたまま、人工肉と俺の顔を交互に見比べる。その表情は読めない。彼らの顔は人間の感情表現とは違う。だが、耳の角度と尾の揺れで、わずかな迷いが伝わってきた。
そして、彼は弓を下ろした。鋭い爪の生えた指で人工肉をつまみ、匂いを嗅ぎ、次の瞬間には一目散に森の奥へ駆けていった。
はじめての接触にしては上出来だった。攻撃されず、人工肉を受け取ってくれた。それだけで、突破口がひとつ開いた。
それから数日、俺たちはこの接触を繰り返した。若い雄は次第に警戒を解き、人工肉を受け取るまでの時間が短くなった。尾の揺れ方が柔らかくなり、耳の角度も攻撃姿勢ではなく興味の角度へ変わっていく。そうして彼は人工肉を受け取ったあと、森へ逃げずにその場で俺のことを観察するようになった。
人間そのものは、この森でもとくに珍しい存在ではないのだろう。彼が興味を持ったのは、俺が連れていた〈カーゴドローン〉や身につけている装備だった。不思議なことに、この亜人と接触している間、〈ツチグモ〉の攻撃判定に引っかかることはなかった。




