193 異界〈運び屋〉
◆異界
森へ踏み込んでから数日、俺たちは順調に安全な移動経路を開拓していた。だが、この森で〝順調〟という言葉は何の保証にもならない。毎日が新しい発見であり、命の危険を感じるような脅威との遭遇だった。
樹高百メートルを優に超える巨木の洞を、地下街の拠点との中継地点として整備していたとき、俺たちはその異形を目にした。
大型多脚車両をも凌ぐ体長を持つ生物が、森の奥からゆっくりと姿をあらわした。ノミにも似た巨大な甲虫。建物の三階ほどの高さまで届きそうな長い脚を持ち、体表を覆う外骨格は金属のような艶を放ち、その表面には苔が繁茂し、手のひらほどの別種の昆虫の群れの棲み処になっていた。
幸い、人間には興味を示さず、巨木の根を踏み砕きながら森の奥へ消えていった。翌日、俺たちは別の脅威を目にすることになった。最初は野生動物の死体か何かと思ったが、それは川のそばで屍と化していたのは傭兵部隊だった。
近づくにつれて違和感が増していく。腹部が内側から破裂していた。皮膚は裂け、肋骨は外へ向かって反り返り、内臓は――空だった。まるで体内を食い荒らされたように。
ガスマスク越しでも腐敗臭がフィルターを通り抜けてくる。防護服の内側で汗が冷たく流れ、背筋が粟立つ。
イジュンがしゃがみ込み、腹部の裂け目に照明を向ける。
「……寄生虫の類ですね。体内から食い破られたみたいです」
それは、俺たちが知る寄生虫とは違うようだ。裂けた腹腔の奥には、細い管のようなものが残されていた。透明で、ゼリー状の膜に覆われ、先端には小さな鉤爪が並んでいる。まるで体内を移動するための足のようだった。
コトネがノイズの乗った合成音声で言う。
『こいつらは、宿主の神経を乗っ取る。痛覚を遮断して、生きたまま内臓を食う。見て、川が近いでしょ。寄生虫は川を伝って、別の宿主の体内に入り込んでる』
傭兵の死体の顔は苦痛ではなく、どこか放心したような表情をしていた。寄生虫が脳に作用し、恐怖や痛みを奪ったのだろう。その間に体内を食い尽くされた。最悪の死に方だ。
だが、俺たちにとっては幸運でもあった。傭兵たちが連れていたカーゴドローンが無傷で残されていたからだ。荷台には手付かずの物資が積まれ、弾薬にフィルター、用途不明の除染剤、未開封の戦闘糧食――森の探索に必要なものが揃っていた。
イジュンが休眠状態のカーゴドローンにアクセスすると、ゆっくりと姿勢を正しながら、多脚を使って器用に立ち上がって見せた。
「使えるみたいです。少なくとも、こいつらの死は無駄じゃなかった」
俺は傭兵の裂けた腹部をもう一度見た。寄生虫の残骸がまだ微かに痙攣していて、ゼリー状の膜が青白く光った。
〈大樹の森〉は、生きている。ありふれた表現だが――この森は、人間を資源として扱う。俺たちはカーゴドローンを連れて森の奥へ進んだ。ガスマスク越しの呼吸音が、濃密な緑の闇に吸い込まれていく。この森の深部には、まだ誰も知らない異質な世界が広がっている。そして俺たちは、そこへ踏み込もうとしていた。
翌日からの捜索は、さらに慎重なものになった。半ば白骨化し、蠅や昆虫が這い回る傭兵たちの死骸を見たあとでは、森の景色も別のものに見えてくる。
〈大樹の森〉は、ただの汚染地帯ではない――森そのものが、それを毎日のように証明し続けていた。朽ちた木材ではなく、傷ひとつない金属の杭に絡みつく樹木が林立する区域を通り過ぎた辺りから、変異体の数は増えていった。
そんな中、俺たちは不可思議な構造物を見つけた。かつて鳥居と呼ばれていた信仰的象徴――赤いはずの塗装は剥がれ、苔が繁茂し、木材は変異した菌類に侵食されている。それでも形だけは保たれ、巨木の根の間に、異様な門として立っていた。
コトネはそれを見るなり、青白い皮膚をさらに白くして、すぐにその場を離れた。背中のケーブルが震え、生命維持装置の管が脈動を早める。その理由について訊くと、彼女は短く答えた。
『鳥居がある場所の近くでは、〈混沌の領域〉から這い出してきた生物の存在が確認されている。あれは異界とつながる場所の目印みたいなものだ』
鳥居の周囲の空気は、確かに他とは違っていた。ガイガーカウンターの数値は安定しているのに、コンパスは狂い、足元を移動する偵察ドローンのジャイロが微妙に誤差を吐き続ける。音も歪んでいた。遠くの変異体の鳴き声が、距離に合わない近さで聞こえたかと思うと、逆に足元の枝が折れる音が、何メートルも先から響いてくる。
まるで空間そのものが歪んでいるようだった。〈大樹の森〉には、人間のように知性を持つ異種族が確認されている――そんな噂を、俺は〈ネオン・ハーレム〉で何度か耳にしていたが、こうも現実離れした光景を毎日のように見せられると、その噂もただの与太話とは思えなくなる。
鳥居の向こうには、巨木の根が絡み合って形成された自然の回廊が続いていた。根の表面には、文字とも記号ともつかない刻印が走り、陽炎のように空間が揺らめいていた。イジュンは偵察ドローンに新たな指示を与え、鳥居を避けるように迂回ルートを設定し、コトネは近づこうとすらしなかった。
俺たちは数日かけて、こうした〝異質な領域〟を避けながら慎重にルートを開拓していった。巨大な変異体の通り道、寄生虫に食い破られた数えきれないほどの動物の死体が転がる川沿い、こちら側とあちら側の世界の境界を示す鳥居が点在する地区――それらを地図上に記録し、可能な限り安全な道を繋いでいく。
そしてついに、目的の部族の生息域にたどり着いた。不必要な衝突を起こさないよう、まずは荷物の受取人でもある「タカクラ」と連絡を取ることにした。




