176 思惑〈運び屋〉
依頼を引き受ける前に、ひとつだけ確認しておきたいことがあった。俺は静かに息を吸い、それから彼女に質問した。
「俺は、誰のために働くことになる?」
彼女は長いまつ毛を伏せ、わずかに微笑んだ。その笑みは、何もかもを見透かしているようで、どこか冷たい。
しばらくして、情報端末を介して通訳された言葉が聞こえた。
『〈緋華〉のためよ。それ以上でも、それ以下でもない』
組織の誰が何を求めているのか――その核心には触れようとしない。ただ荷物を届けてほしい。それが彼女の望みであり、答えだった。俺は別の角度から切り込むことにした。
「届け先の相手は?」
彼女は端末を操作し、まつ毛を伏せたまま画面をこちらへ向ける。そこに映し出されたのは、壮年の男の顔だった。
三十代後半から四十代前半。前線で戦う傭兵としては、すでにベテラン、あるいは老兵の域だった。けれど、この過酷な世界でその年齢まで生き延びているという事実が、彼の実力を雄弁に物語っていた。
『彼の名はタカクラ。かつて傭兵組合に所属していた男よ。今は組織を抜けて、独自に活動している』
黒く短く刈られた髪、浅黒い肌、彫りの深い厳つい顔立ち。〈廃墟の街〉では珍しいほど〝純粋な日本人〟の血を感じさせる容貌だった。まるで古い任侠映画のフィルムから抜け出してきたような、時代錯誤の風貌だが、この人種のるつぼとなった街では、逆に異質で、強烈な印象を残す。
画面越しでも過酷な戦場を生き延びてきた者だけが持つ、金属片のような鋭さが伝わる。
『彼は身内同然の傭兵部隊とともに、〈大樹の森〉の奥地にいる部族の調査をしていたの。でも組織のゴタゴタに巻き込まれて、ほとんど放置されるようにして見捨てられた。そこで、旧知の仲だった人間に支援を要請した……』
彼女は淡々と語るが、その裏には複雑な思惑が渦巻いているのが分かる。タカクラ――名前は聞いたことがある。実力も折り紙付きで、仕事相手としては信頼できる部類の人間だ。
問題は〈緋華〉の企みだが、彼女は俺を巻き込むような素振りは見せなかった。依頼はあくまで物資を届けること。それ以上でも、それ以下でもない。しかし、それはむしろ都合が良かった。組織の問題に首を突っ込んで火傷を負うようなことはしたくない。
俺はしばらく彼女の眸を見つめ、その奥に潜む意図を探ろうとしたが、甘い香りと静かな空調音が思考を曇らせる。ここで迷っても仕方がない。覚悟を決め、俺は仕事を引き受けることを短く告げた。
彼女は満足げに微笑んだ。その笑みは、まるで最初から俺の答えを知っていたかのようだった。しかし、それでも実りのある仕事だ。〈灰の裂け目〉を拠点とする組織とのつながりも作れる。運び屋としては悪くない選択だった。
ただし――この依頼の先に何が待っているのか、それだけは誰にも分からない。都市の闇はいつだって、報酬より高い代償を要求してくる。
タカクラに届ける予定の物資は、後日受け取ることになった。前金とは別に、経費としてそれなりの額のクレジットが振り込まれている。端末の残高が跳ね上がるのを確認していると、『無駄遣いはしないでね』と、彼女は微笑んで見せた。
甘い香りの漂う応接室を出る前に、俺はひとつだけ確認しておきたかった。
「〈大樹の森〉に同行する人間を雇ってもいいか?」
危険な森にひとりで入るほど愚かではない。彼女は長いまつ毛を伏せ、静かに頷いた。
『ええ、構わないわ。あなたが信頼できる人間を選びなさい』
〈侵食帯〉を知り尽くした〈灰荷隊〉から雇うつもりだと伝えると、彼女は特に文句を言わなかった。ただし――『依頼人はあくまで〝あなた〟であり、私たちは関係がない』
〈緋華〉の存在を隠しておきたいようだ。恐ろしく早く情報が飛び交うこの世界で、そんな秘密にどれほどの意味があるのかは分からない。だが、彼女がそう言うなら従うしかない。
物資の受け取り期日を確認し、俺は娼館をあとにした。美人の顔が見られなくなるのは惜しいが、どうせまたすぐ会うことになる。
外に出ると、鉄錆の臭いとネオンの光が混ざり合い、娼館の甘い空気が一瞬で剥がれ落ちた。街路に漂う湿った電子のざらつきが、意識を現実へと引き戻す。俺は酒場〈裂け目亭〉へ向かう。同行者を探すためだ。
扉を押し開けると、埃っぽい臭いと煙草の煙が混ざり合う空間が、再び俺を迎えてくれた。薄暗い照明の下、傭兵たちが酒をあおり、ドロイドが無機質な音を立ててグラスを運んでいる。
カウンターまで歩いたが、目的の人物――イジュンの姿は見当たらなかった。仕方なく、給仕ドロイドに伝言を残す。
「イジュンに仕事があると伝えてくれ。急ぎで頼む」
名前を告げると、ドロイドは無表情のまま短く電子音を鳴らし、伝言の受理を示した。
店を出ると、薄汚れた傭兵たちがこちらを睨んでくるが、彼らの相手をしている暇はない。バカの相手をしてもクレジットは増えない。
ドロイドから聞いていた物資の入手先へ向かう。まずは交易所として機能する市場へ。そこから〈鉄根〉と呼ばれる工房へ向かうつもりだ。
ネオンの光が濡れた路面に反射し、遠くで多脚車両の駆動音が響く。〈灰の裂け目〉の夜は、いつだって危険と商売の臭いが混ざり合っている。
その中で準備を整えることにした。タカクラが待つ〈大樹の森〉へ向かう前に、やるべきことは山ほどある。




