175 依頼〈運び屋〉
案内役の女性に導かれ、薄暗い廊下を抜けると、簡素な応接室へ通された。部屋は驚くほど質素で、それまで娼館が醸し出していた妖しげな雰囲気とは対照的だった。
ソファーと低いテーブル、それに仰々しいデスクがひとつ。壁は旧文明の廃墟をそのまま利用しているだけあって、ところどころに補修跡が残されている。
それでも、どこか落ち着かない。甘ったるい香りが空調に混じって漂い、天井には攻撃タレットの収納口が埋め込まれていた。今は沈黙しているが、いつでも展開できるよう待機しているのが分かる。この部屋が〝ただの応接室〟ではないことを、嫌でも意識させられた。
しばらくすると、先ほどの女性が戻ってきた。彼女は俺の正面に腰を下ろし、静かに息を整える。受付係のように見えたが、その落ち着いた所作は、この場所でそれなりの地位にある者のものだった。やはり、只者ではなかったようだ。
彼女はテーブルに情報端末を置き、細く綺麗な指先を滑らせて翻訳アプリを起動する。端末の光が彼女の横顔を照らし、その表情は一瞬だけ無機質な仮面のように見えた。光と影の境界で、彼女の輪郭が電子ノイズのように揺らめく。
『――これで話ができます』
彼女の声を完璧に再現した合成音声は、落ち着いていて、よく通る。それから彼女は軽く頭を下げ、淡々と自己紹介を始めた。
『私は、この娼館〈緋華〉の支店を任されている者です。そして……今回の仕事の依頼主でもあります』
受付に見えた彼女が、この拠点の主――つまり〈緋華〉の顔というわけだ。甘い香りと静かな空調音の中、彼女の視線だけが鋭く、こちらの内側を探るようだった。やはり、一筋縄ではいかないようだ。
俺は余計な言葉を挟まず、依頼品――〈クリスタル・チップ〉を収めたケースをテーブルに置いた。その瞬間、彼女は少し困ったように微笑んで見せた。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、俺の反応が想定外だったのだろう。
それとも、もっと別の反応を期待していたのか。いずれにせよ、彼女は俺への対応を慎重に考えているようだった。そして、その考えるという行為そのものが、彼女にとっては困りごとであるかのような気配が、微笑みの奥にちらついた。
『こんな状況なのに、とても冷静なのね。いつも、そんなふうに斜に構えているの?』
長いまつ毛が影を落とし、その視線がこちらを探るように揺れる。
俺は何も言わず、彼女の顔を見つめた。彼女は困ったように唇を噛み、やがて観念したように言葉を続けた。
『それじゃ、荷物を検めさせてもらうわね』
彼女はケースを開き、静電気対策が施された内部から水晶めいたチップを取り出す。そして、迷いなく首元のチップソケットへ挿し込んだ。マルウェアに対する警戒はしていないように見える。自信からくる驕りか、それとも裏社会で生きる者特有の慣れなのか。
直後、彼女の瞳がチカチカと明滅した。頭の中にデータが流れ込み、脳と直結したインターフェースが作動しているのだろう。その光は、彼女の内側に別の人格が宿ったかのように見えた。
やがて彼女は首をかしげ、流し目でこちらを見た。そして長いまつ毛が頬に触れるほど伏せられ、ゆっくりと持ち上がり、俺のことを真っすぐ見つめた。
自分が何をしているのか、百も承知なのだろう。この部屋に漂う甘ったるい香りを含め、その仕草のすべてが、相手を惑わせるための計算された動きに見えた。美貌を武器に、こちらの判断を鈍らせる。そして相手に膝をつかせ、彼女の手を取って懇願するような反応を期待しているのかもしれない。
だが、俺は動かなかった。
『そう、さすが〈廃墟の街〉で名を馳せる〝運び屋〟ね』
膝をつかなかった俺に、彼女はわずかに肩をすくめ、話を前に進めることにしたようだ。
『たしかに荷物は受け取りました』
俺が情報端末を差し出すと、彼女は自身のIDカードをかざし、受取人確認を行った。端末が短く電子音を鳴らし、俺の信用度がひとつ上積みされる。
面倒事を押し付けられる前に席を立とうとしたが、彼女はそれを許さないように、静かに言葉を重ねた。
『あなたが運んできてくれたチップには、私たちが〈灰の裂け目〉で生き残るために必要な情報と、本部からの指示が添えられていたわ』
そして、わずかに声を落とす。
『――それと、あなたへの新たな依頼も』
甘い香りが空気に溶け、天井のタレットが沈黙したままこちらを見下ろしているように感じた。どうやら逃げ道は用意されていないらしい。
それから彼女は姿勢を正し、淡々と語り始めた。声は落ち着いているのに、言葉のひとつひとつが妙に重い。まるで、彼女の背後にある巨大な組織の影が、その声で語り掛けているかのようだった。
『大樹の森で起きている異変について、あなたも多少は耳にしているでしょう』
俺は黙ってうなずく。蜘蛛使いの名で知られた傭兵、あるいはスカベンジャーが森の部族と接触してから、森の勢力図が変わり始めたという噂は、〈廃墟の街〉でも流れていた。
彼女は続ける。
『森の部族は、外の人間を滅多に受け入れることがない。けれど、蜘蛛使いが接触してから、彼らの態度が変わった。森の内部で、何かが動き始めた』
甘い香りが空調に混じり、彼女の声だけが静かに部屋を満たしていく。
『異変を嗅ぎつけた傭兵組合は、その混乱に乗じて勢力の拡大と、支配領域に対する影響力を広げようとした。しかし、それはうまくいかなかった。彼らは〝亡霊〟と呼ばれる旧文明の自律兵器に遭遇し、そして二度と帰らなかった』
亡霊――旧文明の遺産であり、制御不能の多脚型自律兵器。噂では聞いたことがあるが、実際に遭遇した者はほとんどいない。というより、生存者がいなかった。
『傭兵組合が影響力を失い、商人組合が勢いをつけてきたことで、〈灰の裂け目〉の情勢は一気に不安定になった。そこで、私たち〈緋華〉も動くことが決まった』
彼女は指先でテーブルを軽く叩き、その音が妙に乾いて響いた。彼女たち〈緋華〉は、今も〈大樹の森〉で活動する傭兵からの情報提供を受けて、その自律兵器との接触、あるいは捕獲を試みる計画を立てたのだという。
彼女の言葉に、俺は眉をひそめた。暴走した旧文明の自律兵器を捕獲するなんて、正気の沙汰ではない。だが、彼女の表情には迷いがなかった。
『そこで、あなたに頼みたいのは……森の部族と交流を続けている情報提供者への支援物資の運搬よ』
「それは運び屋の仕事の範疇を越えている。それに適任者がいるだろう。どうして〈灰荷隊〉に頼まないんだ?』
彼女は俺の目をまっすぐに見つめた。瞳の奥で、義眼の光が微かに揺れている。
『その〈灰荷隊〉も、ここでは私たちと競い合う勢力だから。これまでにない危険な依頼なのは分かっている。でも、報酬も支援も惜しまない』
それだけ重要な任務なのだろう。俺は彼女の眸を見つめながら、依頼を受けるべきかどうか考えた。
「森にいる傭兵は何者だ?」
『かつて傭兵組合に所属していた古参の兵士』
〈大樹の森〉の異変に亡霊、そして〈緋華〉の思惑。どれもが、ただの運び屋が関わるには重すぎる。だが、逃げ道は最初からなかった。彼女の視線が、静かに俺の答えを待っていた。
その眼差しは、選択肢を提示しているようでいて、実際にはひとつしか残されていないことを告げていた。




