174 娼館〈運び屋〉
〈灰の裂け目〉の中心部に近づくにつれ、ネオンの色が濃くなり、路地の空気が変化していくようだった。道中、作業用の小型パワードスーツを装着した醜悪な大男が、力を誇示するように近づいてくる。
そのクソッたれの眉間に銃弾を叩き込んでも良かったが、揉め事は避けたほうが賢明だ。俺は間抜けな作り笑いを浮かべたあと、大男のために道をあけた。
薄暗い路地の奥、傭兵たちが寝泊まりする貨物コンテナ群の一角に、赤い布を張った簡素な建物が見えてくる。風に揺れる布は血のような緋色で、ここが〈緋華〉の縄張りであり、欲望に忠実な者たちの拠り所だと静かに主張していた。
その特徴的な建物の外では、肌を露出した娼婦や男娼だけでなく、武装した護衛が客を迎えている。ガスマスクや、過酷な環境から頭部を守るための伝統的な首巻シュマグを身につけた護衛たちは〈緋衛〉と呼ばれ、施設の警備、客の身元確認、トラブル時の排除を担当していた。
強化外骨格や〈サイバネティクス〉で身体能力を底上げした精鋭だ。この場所で問題を起こす者は、例外なく彼らに排除される。命知らずでもなければ、ここで問題を起こすような真似はしない。
赤い布をくぐり、廃墟を改装した建物の前に立つと、若い女性が身を寄せてきた。乳房の柔らかさに思わず反応しながらも、客ではなく荷物を届けに来たと言うが、彼女はきょとんとした表情を見せた。
その瞳には、ネオンの光が揺れ、どこか現実から切り離されたような虚ろさがあった。ここでは誰もが、何かしらの影を抱えて生きている。俺も例外じゃない。
眉が太く、大きな瞳に整った顔立ちをしていたが、浅黒い肌は中東系の人間にも見えた。日本語が通じないのだろう。情報端末を手にしながら、所有していた翻訳チップを使い、いくつかの言語で話しかけた。しかし、どれも通じなかった。この地域特有の方言か、あるいは独自の合言葉を使っているのかもしれない。
そのとき、背後から低い声が聞こえた。
「……揉め事か?」
振り返ると、〈緋衛〉のひとりがこちらに歩いてくるのが見えた。外骨格の関節がわずかに駆動音を立て、その存在感だけで周囲の空気が引き締まる。
俺はゆっくりと手を上げ、敵意がないことを男に示した。
「いや、荷物を届けに来ただけだ。依頼主に取り次いでほしい」
シュマグの奥で義眼が赤く明滅し、彼はしばらく俺のことを観察する。視線は、スリングで吊るしたライフルから荷物の入った小さなケース、そして左右非対称になっている俺の義眼へと移動した。
「運び屋か……」
彼は納得したように小さくうなずき、奥の部屋へと続く通路を指し示す。
「ついて来い。依頼主がお前を待っている」
その際、先ほどの女性が男に向かって何か言葉を口にしたが、護衛はそれを無視して建物に入っていった。客を取られたと思って悪態をついたのかもしれない。
ネオンの光が彼女の頬を照らし、わずかに揺れる影が、この街の底に沈む欲望と孤独を象徴しているように見えた。
暖簾のように垂れ下がった薄い赤布をくぐると、外気とはまったく違う温度が肌にまとわりついた。照明は落とされ、香のような甘い匂いが漂っている。ここが娼館であることを示す演出なのだろうが、どこか舞台装置めいた人工さがあった。
受付らしき若い女性が近づいてきて、何かを問いかけてくる。言葉は理解できないが、客か仕事かを確認しているのだろう。代わりに、背後に立っていた護衛の男が俺の代わりに短く返答した。
彼女は一瞬だけ不満げに眉を寄せたが、すぐに表情を整えた。身なりは整っていて、立ち居振る舞いにも訓練された雰囲気がある。ただの受付ではない――そんな印象を受けた。あるいは、彼女も娼婦なのだろう。この辺りでは珍しいほど綺麗な顔立ちをしていた。
彼女の言葉は相変わらずさっぱり理解できなかったが、とにかく案内に従うしかない。護衛の男はついて来ず、外の見張りに戻っていった。絨毯の敷かれた狭い廊下を歩くにつれ、ここが〝ただの娼館〟ではないことがハッキリしてくる。
欲望と諜報が交差する場所――そう形容するのがもっとも近い。この建物全体が、情報の出入りを管理するための要塞のようだった。
天井を見上げると、改装された天井に溶け込むようにして、警備システムに連動した攻撃タレットの収納口が並んでいるのが見えた。普段は沈黙を保ち、侵入者の武装状態、心拍、呼吸パターンを監視し、異常を検知すれば無音で展開する仕組みなのだろう。
廊下の奥から、低周波の振動のような音が微かに伝わってくる。機械の呼吸とも、人間の呻きともつかないその響きが、この場所の本質を暗示していた。ここでは肉体も情報も、同じように商品として扱われる。そんな空気が、肌の下にじわりと染み込んでくる。
このタイプのタレットは、表向きは殺傷力を抑えたゴム弾や低出力レーザーを使用するが、危険な地域にある娼館だ。表向きの顔を信じるほど、俺は楽観的ではない。
歩を進めるたび、どこか遠くの部屋からは人の声が漏れ聞こえてくる。女性の嬌声のようにも、ただの笑い声にも聞こえる曖昧な音だ。甘い香りが鼻を刺し、頭がぼんやりする。
とにかく嫌な場所だ。だが依頼主はこの奥にいる。ここまで来た以上、引き返す選択肢はない。俺は気を引き締め、案内役の女性のあとを追った。廊下の奥へと進むほど、〈緋華〉という組織の本性が静かに姿をあらわしていくようだった。




