173 裂け目亭〈運び屋〉
◆裂け目亭
店内は薄暗く、まだ早い時間帯ということもあり、客の入りは少ない。埃っぽい臭いと、数人の傭兵が吸う煙草の煙が混ざり合い、淡い照明のなかで白い煙がゆっくりと渦を巻いていた。古びたネオンサインが壁に反射し、色の抜けた影だけが床を這っている。
俺はさりげなく周囲を見回し、危険な気配がないことを確認してからカウンター席へ向かった。そのカウンター内に設置されていたレールを滑るように、多腕の給仕ドロイドが近づいてくる。金属の指が軽く触れ合い、乾いた音を立てながら注文を促した。
「ウィスキーを頼む」
情報端末を使ってクレジットを払うと、ドロイドは無言でキューブ型の缶詰を差し出した。手のひらに収まるコンパクトな缶詰。封を切ると、内部の溶液が混ざり合い、化学反応で一気に活性化する。保存のためゼリー状だった内容物がみるみる液体へと変わり、ウィスキー特有の香りが立ち上った。
ひと口含むと、喉の奥がじんと温まる。その熱を確かめるように息を吐きながら、となりの席に座る人物へ視線を向けた。
「……よお、久しぶりだな」
声をかけると、青年は鋭い眼をさらに細め、俺の顔を確認してから笑みを浮かべた。イジュン――かつて〈技術組合〉に所属していた凄腕の情報解析技術者。今では、より実入りのいい〈灰荷隊〉で働いている。薄暗い照明の下、その笑みはどこか影を帯びて見えた。
「めずらしい顔ですね。運び屋がこんな危険な場所でなにを?」
軽口を叩くその声は、以前と変わらない。俺は肩をすくめ、ウィスキーをもう一口飲んだ。合成酒の刺激が、舌の奥に鈍い痺れを残す。
「〈灰の裂け目〉について聞きたいことがある」
イジュンは角ばった缶詰を指先で回しながら、興味深そうに眉を上げた。寂れた酒場には似合わないほどの端正な顔立ちだ。その薄暗い店内の照明が、彼の義眼のレンズに淡い光を落とす。
外では傭兵たちの怒号が遠く響き、ここが〈侵食帯〉の縁であることを嫌でも思い出させる。だが、このカウンターの上だけは、情報と酒が静かに流れる奇妙に平和な社交場だった。
「……いいですよ。話してみてください」
イジュンがそう言って身を乗り出した。ウィスキーをひと口含んで喉を温めたあと、俺は声を潜めるようにして切り出した。
「どんなに些細なことでもいい。なにか変わったことは起きていないか?」
イジュンは眉を寄せ、わざとらしく天井を見上げて考えるフリをした。数秒後、いつもの皮肉めいた笑みが口元に浮かぶ。
「そうですね……これまでデカい面をしていた傭兵たちが、〈大樹の森〉で集団失踪してから、商人たちが支配者のように振る舞うようになりました。おかげで、商人と傭兵たちの間で喧嘩は絶えません」
「縄張り争いか……それ以外には?」
イジュンは缶詰の中身を指先で回しながら、少しだけ声を落とした。
「変わったことと言えば……昆虫みたいな長い触角をつけたヤクザ者を見かけました」
その言葉に、俺の手がわずかに止まった。
「……もしかして、承恩のことか?」
イジュンは俺の反応を見て、ニヤリと目を細める。承恩――〈廃墟の街〉で名の知れたギャングの構成員。蟲の触角にも似た翎子の形をしたサイバネティクスを頭部に埋め込み、異様なシルエットで知られる男だ。
数日前、〈廃墟の街〉で顔を合わせたばかりだった。まさか〈侵食帯〉にまで足を踏み入れているとは思わなかった。
イジュンは俺の表情を読み取り、ワザとらしく肩をすくめる。
「その顔……なんだかキナ臭いですね」
そう言いながら、彼は追加の注文をドロイドに伝えた。食事を取るつもりだったのだろう。しかし調理ドロイドの無機質な音声に苦戦しているようで、何度か聞き返されては苦笑していた。
俺は礼を口にしたあと、クレジットの入ったカードを差し出したが、イジュンは受け取ろうとしなかった。代わりに、韓国語で「チョシマセヨ」――気をつけてください、と口にした。
その声音には、冗談めいた軽さはなかった。彼は何かを知っているのだろう。そんな空気が、言葉の端からじわりと滲み出ていた。
俺はカードを引っ込め、ウィスキーを飲み干した。喉の奥に残る熱が、妙に重く感じられた。承恩が〈侵食帯〉に来ている理由は、おそらく偶然ではないのだろう。
ろくでもない未来が想像できたし、警戒するに越したことはない。だが、まずは依頼主に会いに行くことが先決だ。〈人工眼球〉にスパイウェアを忍ばせるような相手だ。まともな依頼であるはずがないし、一筋縄でいくとも思えない。
席を立ち、〈裂け目亭〉の扉を押し開ける。外の空気は冷たく、霧の匂いが微かに混じっている。遠くで傭兵たちの怒号が響き、ネオンの光が廃墟の壁に反射して揺れていた。街の輪郭は霧に溶け、光と影だけが踊るように瞬いている。
配達先は、〈灰の裂け目〉で性産業を束ねる組織〈緋華〉が運営する娼館だ。嫌な予感しかしないが、仕事は仕事だ。
俺は気持ちを切り替え、ネオンの灯りが濃くなる方向へ歩き出した。霧の向こうに、〈緋華〉の赤い光がぼんやりと滲んでいる。まるで血の臭いを孕んだ誘蛾灯のように。
さて、トラブルはどんな顔をして待っているのだろうか。そんな皮肉を胸の内で呟きながら、俺は依頼主のもとへ向かった。




