↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不死の子供たち・設定集  作者: パウロ・ハタナカ
第九部・新たなる脅威 後編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
173/211

173 裂け目亭〈運び屋〉


◆裂け目亭


 店内は薄暗く、まだ早い時間帯ということもあり、客の入りは少ない。埃っぽい臭いと、数人の傭兵が吸う煙草の煙が混ざり合い、淡い照明のなかで白い煙がゆっくりと渦を巻いていた。古びたネオンサインが壁に反射し、色の抜けた影だけが床を這っている。


 俺はさりげなく周囲を見回し、危険な気配がないことを確認してからカウンター席へ向かった。そのカウンター内に設置されていたレールを滑るように、多腕の給仕ドロイドが近づいてくる。金属の指が軽く触れ合い、乾いた音を立てながら注文を促した。


「ウィスキーを頼む」


 情報端末を使ってクレジットを払うと、ドロイドは無言でキューブ型の缶詰を差し出した。手のひらに収まるコンパクトな缶詰。封を切ると、内部の溶液が混ざり合い、化学反応で一気に活性化する。保存のためゼリー状だった内容物がみるみる液体へと変わり、ウィスキー特有の香りが立ち上った。


 ひと口含むと、喉の奥がじんと温まる。その熱を確かめるように息を吐きながら、となりの席に座る人物へ視線を向けた。


「……よお、久しぶりだな」


 声をかけると、青年は鋭い眼をさらに細め、俺の顔を確認してから笑みを浮かべた。イジュン――かつて〈技術組合〉に所属していた凄腕の情報解析技術者(データスミス)。今では、より実入りのいい〈灰荷隊〉で働いている。薄暗い照明の下、その笑みはどこか影を帯びて見えた。


「めずらしい顔ですね。運び屋がこんな危険な場所でなにを?」


 軽口を叩くその声は、以前と変わらない。俺は肩をすくめ、ウィスキーをもう一口飲んだ。合成酒の刺激が、舌の奥に鈍い痺れを残す。


「〈灰の裂け目〉について聞きたいことがある」


 イジュンは角ばった缶詰を指先で回しながら、興味深そうに眉を上げた。寂れた酒場には似合わないほどの端正な顔立ちだ。その薄暗い店内の照明が、彼の義眼のレンズに淡い光を落とす。


 外では傭兵たちの怒号が遠く響き、ここが〈侵食帯〉の縁であることを嫌でも思い出させる。だが、このカウンターの上だけは、情報と酒が静かに流れる奇妙に平和な社交場だった。


「……いいですよ。話してみてください」


 イジュンがそう言って身を乗り出した。ウィスキーをひと口含んで喉を温めたあと、俺は声を潜めるようにして切り出した。


「どんなに些細なことでもいい。なにか変わったことは起きていないか?」


 イジュンは眉を寄せ、わざとらしく天井を見上げて考えるフリをした。数秒後、いつもの皮肉めいた笑みが口元に浮かぶ。


「そうですね……これまでデカい面をしていた傭兵たちが、〈大樹の森〉で集団失踪してから、商人たちが支配者のように振る舞うようになりました。おかげで、商人と傭兵たちの間で喧嘩は絶えません」


「縄張り争いか……それ以外には?」

 イジュンは缶詰の中身を指先で回しながら、少しだけ声を落とした。


「変わったことと言えば……昆虫みたいな長い触角をつけたヤクザ者を見かけました」


 その言葉に、俺の手がわずかに止まった。

「……もしかして、承恩(チェンエン)のことか?」


 イジュンは俺の反応を見て、ニヤリと目を細める。承恩――〈廃墟の街〉で名の知れたギャングの構成員。蟲の触角にも似た翎子(りんず)の形をしたサイバネティクスを頭部に埋め込み、異様なシルエットで知られる男だ。


 数日前、〈廃墟の街〉で顔を合わせたばかりだった。まさか〈侵食帯〉にまで足を踏み入れているとは思わなかった。


 イジュンは俺の表情を読み取り、ワザとらしく肩をすくめる。

「その顔……なんだかキナ臭いですね」


 そう言いながら、彼は追加の注文をドロイドに伝えた。食事を取るつもりだったのだろう。しかし調理ドロイドの無機質な音声に苦戦しているようで、何度か聞き返されては苦笑していた。


 俺は礼を口にしたあと、クレジットの入ったカードを差し出したが、イジュンは受け取ろうとしなかった。代わりに、韓国語で「チョシマセヨ」――気をつけてください、と口にした。


 その声音には、冗談めいた軽さはなかった。彼は何かを知っているのだろう。そんな空気が、言葉の端からじわりと滲み出ていた。


 俺はカードを引っ込め、ウィスキーを飲み干した。喉の奥に残る熱が、妙に重く感じられた。承恩が〈侵食帯〉に来ている理由は、おそらく偶然ではないのだろう。


 ろくでもない未来が想像できたし、警戒するに越したことはない。だが、まずは依頼主に会いに行くことが先決だ。〈人工眼球(バイオニックアイ)〉にスパイウェアを忍ばせるような相手だ。まともな依頼であるはずがないし、一筋縄でいくとも思えない。


 席を立ち、〈裂け目亭〉の扉を押し開ける。外の空気は冷たく、霧の匂いが微かに混じっている。遠くで傭兵たちの怒号が響き、ネオンの光が廃墟の壁に反射して揺れていた。街の輪郭は霧に溶け、光と影だけが踊るように瞬いている。


 配達先は、〈灰の裂け目〉で性産業を束ねる組織〈緋華(ひばな)〉が運営する娼館だ。嫌な予感しかしないが、仕事は仕事だ。


 俺は気持ちを切り替え、ネオンの灯りが濃くなる方向へ歩き出した。霧の向こうに、〈緋華〉の赤い光がぼんやりと滲んでいる。まるで血の臭いを孕んだ誘蛾灯のように。


 さて、トラブルはどんな顔をして待っているのだろうか。そんな皮肉を胸の内で呟きながら、俺は依頼主のもとへ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。