171 侵食帯〈運び屋〉
◆浸食帯
瓦礫で埋め尽くされた区画を抜けると、地面に穿たれた巨大な亀裂が姿をあらわした。大地そのものが悲鳴を上げながら裂けたような光景だ。
幅は数十メートル、深さは底が見えないほどで、薄い霧がその裂け目からゆっくりと立ち昇っている。その霧の向こうには切り立った崖が見えるが、対岸まで歩いて渡ることなど到底できない。
俺は〈灰荷隊〉から入手していた地形図を視界に投影し、現在位置を確認した。拡張現実のインターフェースに淡いラインが浮かび上がり、推奨ルートが示される。周囲を見回すと、崩れかけた高速道路の高架が、ちょうどこの亀裂を跨ぐ橋のように架かっているのが見えた。
灰荷の話では、あの高架は倒壊の恐れがなく、数日前にも安全に渡れたという。だが、遠目に見る限り、その言葉が信じられないほど荒れている。支柱は斜めに傾き、コンクリートは剥がれ、鉄筋が骨のように露出している。なぜ今も崩れ落ちずに残っているのか、不思議なくらいだ。
それでも、迂回する余裕はない。濃霧の区域を避けて進める経路は限られていて、あの道路を渡るしかなかった。俺は深く息を吸い、覚悟を決めて高架に足を向けた。
近づくにつれて、足元の瓦礫が細かく砕け、乾いた音を立てる。深い地割れの底からは、霧の匂いが風に乗って流れてきた。あの霧は自然現象ではない。汚染地帯から漂う、意思を持つ霧――風に流されず、まるで生き物のようにその場に留まり、迷い込んだ者を餌食にする。
斜めに傾いた高架橋は、近くで見るとさらに不安定に見えた。けれど、灰荷の言葉を信じるしかない。彼らはこの土地のことを誰よりも知り尽くしている。俺はゆっくりと足を踏み入れた。
直後、鉄筋が軋む音が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。霧のざわめきと、俺自身の鼓動が混ざり合い、感覚が曖昧になっていく。
倒壊しかけた高架橋には、いくつかの崩落箇所があった。そこには、誰かが敷いた鉄板が渡されている。おそらく、高架を頻繁に利用する灰荷たちが設置したのだろう。その足場は不安定で、踏み込むたびに金属がわずかに沈み、嫌な軋みを上げた。いつ崩れてもおかしくない、そんな感覚が足裏から伝わってくる。
それでも他に道はない。俺はできるだけ安全そうな経路を選びながら、高架橋を慎重に進んだ。幸い、略奪者の襲撃もなければ、ゾンビめいた〈人擬き〉の姿も見えない。だが、それを喜ぶ余裕はなかった。
対岸は〈侵食帯〉の領域だ。ここから先には安全地帯など存在しない。傭兵たちが拠点とする〈灰の裂け目〉にたどり着くまで、休息できる場所はひとつもない。
高架を渡り切る前に、俺はガスマスクを再調整し、不自然に漂う薄霧の中へ足を踏み入れた。景色は対岸と大きく変わらない。瓦礫が散乱し、倒壊した廃墟が並んでいる。だが、そこに漂う雰囲気は異なる。
廃墟の影に、生命の気配が感じられる。姿は見えないのに、誰かに監視されているような、背筋を撫でる感覚がつきまとった。
汚染濃度が高い区域に近づくと、放射線測定器がカリカリとクリック音を鳴らした。いつ聞いても慣れることのない嫌な音だ。まるで死神が歩幅を合わせて近づいてくるような、不快なリズムだ。
その場を離れようとしたとき――霧の向こうから赤子の泣き声が聞こえた。人の心を乱し、不安にさせる声だ。すぐに駆け寄り、何が起きているのか本能的に確かめたくなるが、俺は足を止めなかった。それが変異体の鳴き声だと知っているからだ。
その変異体は、体毛のないウサギのような姿をしているが、実際はもっとグロテスクな生物だ。体長は大型犬ほどもあり、鋭い前歯で人間の子どもすら捕食する。霧の中に潜み、泣き声で獲物を誘き寄せる――そんな生態を持つ危険な生物だ。
俺はライフルのストックを肩に引き寄せ、背中を見せないようにゆっくりと後退した。霧の中に不用意に踏み込めば、群れに囲まれる。この区域では、それがお決まりの襲撃パターンだ。薄霧が風に揺れ、廃墟の影がわずかに動いたように見えた。俺は呼吸を整え、再び歩き出す。
黙々と薄霧の中を進んでいると、ときおり霧の向こうで巨大な影がゆっくりと動くのが見えた。輪郭は曖昧で、霧に溶けるように揺らいでいる。以前、この辺りでは〝老人〟と呼ばれる変異体が目撃されていたことを思い出す。
その名の通り、老人のように痩せ細った姿をしているとされ、手足は枯れ枝のように細い。だが、その外見に反して恐るべき力を持ち、獲物を捕らえると脳を捕食する――そんな噂があった。
いつからか目撃談は途絶えていたが、だからといって安心できるわけではない。霧の向こうに見えた影が老人のものなのかは分からない。だが、この区域で油断は死に直結する。俺は足音を殺し、影が遠ざかるのを待ってから歩き出した。
しばらく進むと、崩落により冠水した通りが見えてきた。濁った水面が霧の光をぼんやりと反射し、どこか不気味な静けさが漂っている。そのとき、違和感に気づいた。
水滴が浮いている。通りの一角で、無数の水滴が空中に留まっていた。拳大の水球から、小指の爪ほどの水滴、それらが重力を無視するように宙に漂い、ゆっくりと揺れている。まるで、その場所だけ重力異常が起きているかのようだった。
汚染地帯が近いせいだろう。放射線測定器は先ほどからカリカリと嫌な音を鳴らし続けている。だが、放射能汚染だけでこうはならない。これはもっと別の、人知を超えた異常だ。
俺は冠水した通りを迂回することにした。ここで無理をする必要はない。もうすぐ〈灰の裂け目〉が見えてくるはずだ。




