168 信頼関係〈運び屋〉
◆信頼
緊張を強いられたせいなのか、ほとんど眠れなかった。耳を澄ませば、風が瓦礫を転がす音や、遠くで鉄骨が軋むような音が聞こえてくる。そのたびに身体が反射的に強張った。それでも――危険な街で無事に夜を越せたと考えれば、幾分か気は楽になった。
夜が明けると、空は薄い灰色に染まり、ホログラム広告が瞬く高層建築群の間にわずかな光が差し込んだ。運送屋に同行している専属の整備士は、多脚車両の脚部に潜り込み、油圧ラインの交換や関節部の調整に取り掛かる。訛りのきつい言語で不平を漏らしながらの作業だったが、その手際は驚くほど良かった。
傭兵たちは、引き続き建物の屋上から周囲を監視していた。トラブルの対処に慣れているのか、目立った混乱は起きなかった。夜の間に変異体が近づいた形跡はないか、略奪者が再び襲撃してくる兆候はないか――彼らの視線は常に動き、油断という言葉とは無縁だった。
夜中に眠れなかった者たちも、見張りを交代しながら短い仮眠をとり、最低限の体力を取り戻していく。そうして、午前中には移動を再開できる状態になった。整備士の兄ちゃんは工具を片付けながら「こんなボロ、次は動かねぇぞ」と肩をすくめたが、結局は仕事を完璧にこなしてくれた。
多脚車両が再び脚を伸ばし、駆動系が唸りを上げる。俺たちは荷物を積み直し、車両に乗り込んだ。出発すると、再び瓦礫に埋もれた〈廃墟の街〉を進むことになった。途中、目的地らしき廃墟のモールで数名のスカベンジャーを降ろし、高速道路の高架下で別のスカベンジャーを拾った。
灰色の空の下、街は相変わらず死んだように静かだった。その中で、ホログラム広告の残光が瓦礫に反射し、まるで都市そのものがまだ息をしているかのように見えた。生きているのか、死んでいるのか――この街はいつだって、その境界線の上に立っている。
新たに加わったスカベンジャーたちは、旧文明の廃品をリュックいっぱいに詰めて、疲れた顔をしていたが、この街で戦い続ける者特有の諦めを知らない目をしていた。
車両は揺れながらも順調に進み、〈侵食帯〉へ向けて距離を縮めていった。
空が茜色に変わるころ、周囲の景色が変化していくのが分かった。〈侵食帯〉が近いのだろう。旧市街に入ると、建物の多くは原形を留めないほどに破壊されていた。文明崩壊に伴う混乱期に集中的な爆撃が行われ、大量破壊兵器が使われた痕跡が街の至るところに残されていた。
熱によって鉄骨はねじれ、コンクリートは黒く焦げ、地面にはクレーターのような穴がいくつも穿たれていた。汚染濃度の高い区域に入ったのだろう。車両の外気センサーが警告音を鳴らし始めると、誰ともなくガスマスクを装着するようになった。
それでも、植物は生えていた。いや、植物のようなものと言うべきか。〈大樹の森〉という特殊な環境と隣接しているせいなのか、鉄錆のような色合いの異形の植物が、瓦礫の隙間から伸びているのが確認できた。葉は金属片のように硬く、茎はケーブルのようにしなやかで、環境に合わせて進化したかのように生息圏を広げている。
風が吹くたび、植物の表面が微かに光を反射し、生き物がこちらを見ているような錯覚を抱かせた。
さらに進むと、横手に濃霧が立ち込めている区域が見えてきた。汚染濃度の高い霧は視界を奪うだけでなく、その向こうで何かが動いているような気配を感じさせる。霧の中に沈む廃墟は、まるで巨大な亡霊の群れが街を覆っているかのようだった。
この辺りでは、普段は見かけない大型の変異体が霧の中を横切るのが確認できる。四足歩行の影、壁を這う細長い影、そして、霧の奥で瞬く複数の眼。
だが、ここはまだ〈侵食帯〉ではない。目的地には遠く、まだ〝入り口〟にすらたどり着いていない。それが、何より恐ろしい。
本当の〈侵食帯〉は、その霧の向こうにある。この異様な光景ですら序章に過ぎないのだ。運送屋は、進路を近場の地下街へと通じる経路に向けた。今夜の宿となる場所だ。多脚車両は濃霧を避けるようにして慎重に進んでいく。
車両の脚が瓦礫を踏みしめるたび、霧の奥で何かが反応するように、微かな音が返ってきた。
今回世話になる地下街は、暗いトンネルの先で発見された区画だった。ほとんど崩壊しかけたトンネルだが、わずかに機能が生きているのか、古びたメンテナンスドロイドが、ぎこちない動きでケーブルの点検をしている姿が見られた。
技術組合が修理を請け負っているのかもしれないが、時折、意味もなく動きを止めて光学センサーを点滅させていた。それでも、こうした生きた機械が存在するだけで、この地下街がまだ機能していることが分かる。
この地下街で、運送屋とは別れることになる。必要以上に慣れ合うことは、この街では命取りだ。彼らは優秀な傭兵を抱えた運送屋で、仕事は確かだが、結局のところ武装集団であることに変わりはない。状況が変われば、簡単に牙をむく。他者を傷つけることに躊躇いはない――それが、この街の傭兵だ。
景気がいいときの彼らは、気のいい連中に見える。冗談を言い合い、煙草を回し、酒を飲みながら笑う。だが、それは余裕があるときだけの顔だ。
ひとたび状況が悪化すれば、彼らは迷いなく弱者を切り捨てる。とくに俺のようなソロの運び屋は、いいカモだ。寝込みを襲えば、貴重な品を苦労せずに手に入れられる。信頼なんてものは、この街では紙より薄い。
だから、ここで別れる。優秀な傭兵を連れた運送屋は貴重だが、警戒するに越したことはない。残りのクレジットを支払い、俺は彼らの視線を背中に感じながら、地下街の人混みに紛れ込むようにして関係を断った。
この街では、誰もが生き残るために仮面をかぶっている。俺も例外じゃない。地下街の薄暗い照明が、まるで影を引きずるように長く伸びていくのが見えた。




