三十九話(後編)
クリスは一向に飲まず食わずを貫くが、エマは三食毎回食事を運んできた。
「わたしがやるわ」
ルーシーが食器に触れようとするのを制し、エマはクリスに近付いた。
「クリスティナ様、少しだけ――」
「いらないわ、触らないで!」
手を大きく振って、クリスはエマの手を叩いた。
「……お願いします、少しだけでも。楽になりますわ」
「エマの嘘つき!! 楽になんかならない、殺されるのに!! 怖い、怖いわ!!」
またクリスの妄想が始まる。
毛布をかぶり隠れる。
「……クリスティナ様、エマからの一生のお願いでございます」
「じゃあ、私の一生のお願いも聞いて、ここから出して!! 帰らせて!! お母様、助けて!!!」
毛布の中でバタバタと足を動かして暴れている。
「…………。わかりましたわ、手配いたします」
「エマ様!?」
「……本当に!?」
暴れていた動きが止まる。
「ええ、でもまずは長旅になりますから……お水を飲んでください……」
「……エマは嫌。信用できない。ルーシー、本当? 早く答えて、あいつに殺される」
意見を求められぎょっとする。
エマを見ると、何の感情も宿さない冷たい目で、頷いていた。
(本当に……? できるの……?)
しかし、セオの一件がある。
もしかしたら、エマが何か裏で手配した可能性がある。
乾いた唇を舐めて湿らせた。
「ほ、本当です! ですから、お水を飲みましょう。一口だけでも!」
ちらり、とエマを見ると、三回も頷いている。
予想は合っているようだ。
「お願いします、クリスティナ様……一口だけでも……」
「……分かったわ」
毛布からクリスは出てきた。
帰れる、と理解したからなのかクリスの抵抗が少ない。
ただ、顔には不機嫌と怒りが浮かんでいる。
「クリスティナ様……」
「いや!」
エマが差しだした水を払いのける。
手から落ち、ばしゃりと布団を濡らした。
「エマは嫌い、大嫌いよ! ルーシーが飲ませて! なんで布団が濡れてるの……? エマに怒られる、あの人に殺されるわ!!」
「あ、では私が……」
「待って、もう一度私に任せて」
グラスに水を注ぎ、エマはまたクリスの目の前にゆっくりと近づける。
「クリスティナ様……」
「いや!! 触らないで、……ううう、痛い……痛いいよおお……ルーシー……助けて……」
クリスは、泣きながらルーシーに手を伸ばす。
その様子に、胸が痛くなった。
「エマ様、グラスを私に!」
「……いえ、待って、もう一度……」
「……エマ様! 同じです、早く……クリス様のために!」
「…………………」
「エマ様!」
無言のまま動かないエマがじれったい。
乱暴にグラスを奪い、クリスの口元に近付けた。
「帰れます、帰れますよ……これで家に帰れますから……」
「お母様……お父様……お姉様……帰りたい、怖い、助けて……」
グラスから、少しずつ水を飲んでいる。
ゆっくりと、こくり、こくりと喉が鳴る。
(ああ……アンジェ様みたい……)
そういえば、アンジェはまだ起きないようだ。
可愛らしいほやほや声がまだ聞こえない。
「……ごふっ」
アンジェのカゴに視線を向けた瞬間、クリスは口から水を吐き出した。
俯いて、大きく痙攣している。
「クリス様……!?」
グラスを捨て、慌てて肩を掴む。
久々すぎて、器官に水が入ったのかと怖くなった。
アンジェにするように、背中をさする。
「ごぷっ! こぷ……ココココココ……」
げっぷではない不吉な音。
まるで喉が鳴るような? いや、水の音?
「……大丈夫ですか……?」
恐る恐る声をかけ、ルーシーは悲鳴をあげた。
「ク……ク、ク、ク、クリス様!!!」
小刻みに震える身体。尋常じゃない。
怖くなって肩から手を離すと、そのままクリスはベッドに倒れた。
「え? え? え!?」
痙攣が止まった。しかし、動かない。
「え? え? え?」
「……産後の肥立ちが悪かったようです」
静かにそう言い、エマは布でクリスの口元を拭いた。
「え? え? え? え??」
「心身の疲労と四日間の断食で、限界だったようですわ」
開ききった目の上に手のひらを乗せ、動かす。
瞼が閉じた。
髪を整え、毛布を掛け、まるで寝ている状態に戻す。
まるで、何事もなかったかのように。
「……皇帝陛下に報告いたします。クリスティナ様が亡くなったと」
「え? え? え?」
「……エミリー、私の娘のことも、頼みます」
ルーシーとクリスを一瞥し、エマは部屋を出て行った。
「ほやあ、ほやあ……」
呆然と立ち尽くすルーシーの耳に、アンジェの泣き声だけが響いた。
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