三十九話(前編)
出産から四日程経ったが、クリスの状態は全く良くならなかった。
痛い痛いと訴えて、渡したグラスも食器も、何もかもを投げつける。
飲まず食わずで突っぱねて、支離滅裂な妄想に取りつかれて騒ぐ。
かと思えば、急に無気力になり死にたい、死にたい涙を流して繰り返す。
「エマ様……どうしましょう」
クリスが寝たころに、エマに相談した。
エマも相当やつれている。
ルーシーよりも常につきっきりで赤子とクリスの世話をしているのだから当然だ。
「……私たちは、クリスティナ様の回復のために尽くすのよ」
「……回復、されるんですか? 日に日に悪化しています……」
「……仕方ないわ、子を産むというのはそういうこと」
「でも、……このままのクリス様を皇帝陛下が受け入れるとは思えません。それに、受け入れたとしてもまた――」
「侍女のくせに口答えをしないでちょうだい! 与えられた仕事をするように、いいわね?」
「…………はい……」
心身共に疲弊しているエマは、だんだん怒りっぽくなってきた。
もともと厳しかったが、窘めるのではなく、怒鳴るようになった。
言い方があまりにも怖い。
それはルーシーも同じで、毎日クリスやエマに対して泣いたり怯えたり、疲れ切っていた。
(クリス様はアンジェ様にお乳も与えないし……どうしたら……)
子どものことを認識しないクリスに代わり、エマがルーシーに代わりに名を授けるように言った。
天使のように可愛いらしい女の子。
ルーシーは悩んだ末に、アンジェリナと名前を付けた。
乳を与えた後にげっぷをする様子が本当に可愛い。
『動かさないように』とエマに言いつけられていたが、ついついお乳の後に抱き上げて背中をさする。
「けぷ……」
口から出る小さな空気の音が、ルーシーにとっての一番の癒しだった。
カゴに戻し、にゃむにゃむ動く口を見つめる。
「ねえ、ルーシー………」
寝ていたはずのクリスが、虚空を映した瞳でルーシーに顔を向けていた。
毎日騒いでいるので、声は掠れ唇にもヒビが入っている。
食欲がありふっくらとしてきたアンジェとは対照的に、四日間何も飲まず食わずでクリスは痩せていく。
「起きられましたか……?」
この数日で呼ばれたのは初めてだ。
恐る恐るベッドに近付く。
今は落ち着いているのか、意味不明な言葉を叫んだりはしないようだ。
「あのね……私を、殺して」
「……ええ!?」
殺される、怖い、と泣き叫んでいるのに、本人の口から殺して、という単語。
ルーシーは耳を疑った。
「あのね……私が私じゃなくなるの。わかる……? 私でいる時間が、どんどん短くなるのよ……」
両手で目を押さえ、クリスはすすり泣いた。
「赤ちゃんも、ルーシーも、エマも……嫌いじゃないのに、憎くなるの。抑えられないの」
「……………」
「お願い、私が私でいるうちに殺して……これ以上、惨めな姿をさらすのは、嫌……。恐怖と不安で、どんどんおかしくなるの……」
「……………」
「ガブリエルから逃げられないんでしょう……? いつか殺されるか、このまま幽閉されるか……。私に未来ってあるの……? これからって、ある?」
「……………」
「一生怯えて、不自由に生きるのは嫌なの……お願いよ、ルーシー。私を死なせて」
「……それは……」
「私のことを、憎く思うなら……傷めつけたいなら、このままでもいいわ……でも、少しでも慈悲があるなら……お願い……お願い……」
言いながら、クリスは眠りについた。
ルーシーは何も言えなかった。
クリスが眠りについた今でさえ、何も言葉が出てこない。
(殺すなんて……無理よ………)
いくらクリスに懇願されても、命を奪うなんてできない。
(なんて恐ろしいことを………)
憎いなんて思っていない。
それなのにまるで、生かし続けることが罰であるかのような言葉に、ルーシーは震えた。
冷たくなる手。右手のこぶしを、左手で包む。
先ほどアンジェと触れ合った時には温かかった手が、今は冷え切っていた。
(エマ様……どうしたらいいの……)
ルーシーはぎゅっと目を閉じた。
その状態で立ち尽くす。
「……………」
ほやほやとした声。アンジェが目を覚ましたようだ。
重い心で顔を見に行く。
「………可愛いですね」
何がおかしいのか、ほやほや笑っている。
真っ赤だった色が落ち着いてきている。
小さな小さな、尊い命。
何時間でも、何日でも見続けていられる。
「……ルーシー、お茶にしましょう」
戻って来たエマの手には、紅茶のセットがあった。
「……お茶!?」
「私たちも休息は必要よ」
テーブルに置かれる、湯気の立った紅茶と、皿に並べられたサクサクの焼き菓子。
実に数週間ぶりだ。
「い、いいんですか!?」
「そう言ってるわ。座りなさい」
一つしかない椅子に、ルーシーが座る。エマは窓辺に座った。
「クリスティナ様がここにきて、あっという間に時間が流れたわね」
ぽつり、とエマがため息交じりに言う。
「振り回されてばかりね」
「明るくて無邪気で、子どもっぽくて、優しくて……良い方です」
先ほどの、殺して。が頭をよぎる。
「世間知らずのお嬢様ね。きっと、この国にはあわないんだわ」
紅茶を啜って、遠くを眺める。
「小国では走り回っていたのでしょう。こんな狭い場所で、何もかもの自由を奪われて……可哀想に」
「……そう、ですね」
「皇帝陛下と幸せになれるのなら尽力するわ。どこまでも、いつまでも。……でも、どうかしら」
「……エマ様……?」
不穏なエマの空気に、ルーシーはカップを置く。
「私が侍女だったとき、元皇妃様に対してもっと意見を言っていたわ。まるで、友達のように」
「……あ……」
「その結果、皇妃様の相談に、皇帝陛下の元へ直訴に行きましょうと……言ってしまった」
「……………」
「何も知らなかったわ、無知だった。目の前で皇妃様が切り捨てられ、私は侍女頭という重い立場に置かれ監視された」
「……あなたは、賢く生きるのよ」
飲み終わったカップを置いて、エマは立ち上がる。
持ってきた清潔な布の整理に入った。
(エマ様……でも、私だって……)
主人が苦しんでいる横で、泣いているだけの侍女だ。
エマのように、自分の意見があり、しっかりした頼もしい女性になりたかった。




