三十八話(後編)
くたくたになりながら城壁へ戻った。
足は棒のように痛く、足の裏もひりひりとした。
髪も服も乱れ、ボロボロになりながら抜け道を通る。
あんなに走ったのに、なぜか帰りの方が距離が短く感じた。
(クリス様……大丈夫かしら……)
塔を出るとき、とても錯乱している様子だった。
駆け足で塔へ向かう。
「ジョシュ様……?」
「神父と会えましたか?」
出かける前と同じく、ジョシュはそこにいた。
「ええ、おかげさまで。あの子は……セオドールと名付けてもらいました」
「……セオドール。素敵な名前です」
「それで……」
「私はただの見張りの兵士です。ルーシー様、持ち場へ戻ってください」
「……………」
セオのこと、教会へのこと。
言いたいことはたくさんあったが、ジョシュは冷たく拒絶した。
(そう、そうよね……余計なことだわ……)
一連のことに感極まっていたが、本来なら兵士と侍女、関わってはいけないのだ。
ましてや皇妃の子どもを捨てに行くだなんて。
「エマ様、クリス様……」
部屋に戻ってドアを開ける。
涙の跡を残しながら寝ているクリス。
椅子に座るエマ。
ルーシーは、絶句した。
「ああ……お帰りなさい……」
「そのお怪我は!?」
数時間しか経っていないのに、エマはずいぶんくたびれている。
服も肌もボロボロだ。
赤子を抱く白い腕は赤くなっていた。
「これは……一体……!?」
「クリスティナ様がね……それより、子どもは届けられたの?」
「はい、教会に行き神父様へ……」
「そう、それならいいのよ」
ガーゼと水を用意し、エマの横に立つ。
「お手当てしますね」
「……ありがとう」
流れた血はすでに乾燥し、こびりついていた。
(エマ様、お手当てもできずに……私がもっと早くに戻っていれば……)
カサカサの血を綺麗に落としてガーゼを当てる。
「クリスティナ様、先ほどやっとお休みになったのよ。それまでは暴れていて大変だったわ」
「……産後間もないお身体で……」
「あなたも見たでしょう、少し錯乱していたみたい」
くるくるっと包帯を巻く。
「私は一旦着替えて必要なものを準備をしてくるわ。この子を任せてもいいかしら?」
「もちろんです!」
エマが、抱えていた赤ちゃんをルーシーに渡した。
小さな女の子は、腕の中で丸い目をきょろきょろ動かし、ルーシーを見た。
(可愛い……)
あまりの愛おしさに、口元が綻ぶ。
すると、赤ちゃんも楽しそうに笑った。
「その子、とても大人しいの。お乳の時間には戻ってくるわ。頼んだわよ」
エマが乱れた服を直しながら部屋を出て行った。
ルーシーは赤子に釘付けになった。
歯の生えていない口を開けている。
まだ赤みのかかった肌に、薄い金色の髪、クリスにそっくりなラベンダー色の瞳。
(セオドール様も……同じ色味だったわ。男女の双子なのにそっくり。本当に……愛らしい子)
小さな身体でおくるみのなかで動いている。
目はきょろきょろと動いているのが可愛くてたまらなかった。
あまり動かさないようにしながら、布の上からなでる。
目を細めて小さな口を開けて、赤ちゃんは笑った。
エマが戻ってくるまでの間、ずっと眺めていた。
ころころ変わる表情、そして疲れて眠る顔。
いつまでも見続けられる。むしろ、見ていたかった。
「カゴを持ってきたわ、この中に入れてあげて」
服を着替え髪を整えたエマが、手にたくさんの荷物を持って入ってきた。
名残惜しいが、赤ちゃんをカゴに入れる。
にゃむにゃむと口を動かしながら眠っている様子に、また笑みがこぼれた。
「……可愛いですね……」
「そうね。初乳の確認はしたけど、数滴ね。本格的に出るまでは暫くかかるから、動物の乳を与えましょう」
「乳母の用意はされないんですか?」
「……クリスティナ様の状態次第ね……」
重いため息を吐きながら、エマは視線を逸らす。
「この部屋に部外者を呼んでも問題ないか。無理なら、お嬢様と離れても問題ないか……」
エマの首に残る噛み跡の手当てをしたばかりなので、ルーシーは何も言えなくなった。
「産後は特に不安定になるわ。クリスティナ様はもともと不安定な状態が続いていたから、こればかりは分からないわね……」
「そう、ですよね……」
「赤ちゃんが泣いたらお乳をあげて。用意はここ。前にも教えたけどもう一度説明するわ」
エマは、てきぱきと説明した。
もともと乳母をし産婆も経験があるからか、とても詳しい。
何一つ聞き漏らさぬよう、ルーシーは真剣に指示を胸に刻む。
ひととおり説明されたころ、ほやほやとした泣き声が聞こえた。
「じゃあルーシー、お乳を上げて。見ててあげるわ」
「は、はい……」
小さな注ぎ口のある銀の器に、温かい乳を入れる。
赤ちゃんの口の端に、一滴たらす。
すぐに口を閉じ、飲み込んだ。
「……飲みました!」
「続けて」
嬉しくなる。
またほやほやと泣く口の端に、ぽたりと垂らす。
「そう、そうやって少しずつ飲ませるのよ」
一回一回飲み込むのを確認しながら、ルーシーはまたぽたり、ぽたりと乳をあげた。
こぼさないように、一気に口の中に入れないように。
慎重に、慎重に。雫を口の端に垂らしていく。
「……終わりました!」
「赤ちゃんが泣いたらミルクをあげて。この子はあまり泣かないから、楽かもしれないわ。……問題はクリスティナ様ね……」
ハーブを水に漬けて、エマはため息を吐いた。
「ん………んんん……」
びくり、と二人の身体は震える。
動きが止まる。
まるで、起こさないようにと息を潜めた。
「……痛い……痛いわ……」
クリスが子どものようにぐずり泣いた。
「痛くて寝られない……痛い……」
「時期に収まります」
「痛い、痛い……苦しい、助けて……!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、クリスは声を上げて泣いた。
「もういや、助けて、お母様、お父様!!!」
「私たちがここにいます」
「いやよ、いらない!! お母様助けて、迎えに来てよお!!」
「エマが、一緒にいますわ。ルーシーも」
「痛い、痛いの!! まだお腹にいるわ、いらない!! 何人出てくるのよ!!」
「お子様は無事に生まれましたわ、何もいません。少しの辛抱です」
「いや、いやよ産まれる、殺される!! 産んだらまた殺される!!!」
エマがクリスの隣に着き、一生懸命宥めている。
しかしクリスはまるで言葉が通じないみたいに、何度も何度も悲鳴のように叫ぶ。
あまりの痛々しさ、異様さに、ルーシーは思わず赤ちゃんをカゴからすくい、抱きしめた。
大人たちの声に不安を感じさせないよう、背中をなでる。
「けぷ………」
小さな音が、赤ちゃんから漏れる。
「……?」
「……けぷ」
まただ。げっぷ?
「……あの、エマ様……」
「大丈夫ですわ、殺されません。お気を確かに」
「どうせみんな殺されるのよ!! なんでよ、私はガブリエルのこと助けたあげたじゃない!!」
「……皇帝陛下はクリスティナ様のことを大事に思っていらっしゃいます」
「ううう、痛い……もう一人産まれるわ、男の子よ!! ジョシュの子だわ、私、動物のようにたくさん産むんだわ!!」
支離滅裂なクリスを宥めるのに必死なエマに、ルーシーは何も言えなかった。
そのまま、赤ちゃんをカゴの中に戻す。
すぐにすうすうと寝息を立てて、寝ている。
(この子、逞しい……)
周りの音を気にせずに眠る女の子。
エマが、あまり泣かなくて手がかからないと言っていた理由が分かった。
「離して、帰る! 帰るわ!!」
「……どちらにですか。クリスティナ様の居場所はここです」
「いや、殺されるの、怖い!!」
手足をバタバタと動かして暴れるクリス。
必死に抑えるエマ。
ただ見つめることしかできないルーシー。
そして、とても大人しい赤ちゃん。
たった一日で、状況が大きく変わったこと。ルーシーは不安に思った。
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