三十七話(後編)
数ヶ月前戻った食欲も、ある日突然消えた。
また、一切の食べ物を受け付けなくなり、全てが吐き気になった。
ルーシーに触られることも不快で、激しく拒絶した。
髪も肌も服も、どんどん汚く、不衛生になっていく。
しかし、それでも身体に触れられることが全身の毛が逆立つほどに、おぞましかった。
「痛い…痛い……」
胎内のあちらこちらを胎児に殴られ、蹴られる。
肋骨や肺など、骨や内臓を無理やり動かされる感覚だ。
胎動が気持ち悪く、そして苦しかった。
ひっきりなしに胎内を攻撃され、やまない。
そのせいで、寝ている時間が少なくなり、みるみると衰弱していった。
「もういや……もういや、助けて……」
ベッドから起き上がることもできずに、ただうわ言のように呟く。
パサパサの髪、饐えた老廃物の臭いを身にまといながらクリスは毎日泣いた。
寝ているだけなのに、下半身はむくみ立つことすらできない。
少しでも体重をかければ足が痺れるように痛かった。
「産みたくない、産みたくないよ……」
胎が重い。重くて重くて死んでしまいそうだ。
「……クリス様、お気を確かに……」
「もう無理、やだ、代わってよ……!」
夜中に目が覚めるたびに騒いでルーシーを起こす。
ルーシーは自分用の布団を用意し、不安定なクリスと同じ部屋で過ごすようになっていた。
「もうこの子を殺してよ、いらない、嫌い!」
「もうすぐですわ、もうすぐお生まれになります」
「今すぐに、産まれてよ!! もう、私の身体から引きずり出して!!」
大きな声を出したことで驚いたのか、胎児にまた蹴られる。
「あ………」
膀胱を蹴られ、失禁する。
「最悪、最悪よ……もう無理、嫌……」
「お、お着替えがありますわ……!」
「近付かないで!! う……いたあああ……痛いいいいい!!!」
まるでお腹を壊したかのような激しい痛みに、クリスは泣き叫んだ。
「ああ、どうされましたか……? まさか……」
「内臓が裂ける、痛いいいい、死ぬ!!!」
内臓を蹴られるのとは違う、激しい腹痛。
そして、
「……え?」
何かが弾けたような感覚。
下腹部から先ほどの尿とは比べ物にならないほどの熱い液体が流れだした。
「え? え? え?」
濡れたシーツを見て、ルーシーが悲鳴を上げる。
「ああああ、そんな……予定日よりもまだ早いのに……!!!」
目が飛び出しそうなほど、ルーシーは自分の両頬を手で挟んでいる。
「あ、あ……エマ様、エマ様……!」
ガチャガチャと鍵を開け、ルーシーは転がるように階段を降りていく。
開きっぱなしのドアに手を伸ばすが、空を切るだけだ。
「やだ、一人にしないでよ!!!」
恐怖がこみ上げる。明らかにおかしい身体の変化。
痛む腹部。心細さに発狂しそうだ。
「い、今エマ様を呼びに行ってもらっていますから!!!」
階段を駆け上がりながら、姿が見えないルーシーが叫びながら教えてくれた。
「ううううう、痛いいいいい、ううううううう………」
痛みにのたうち回りたいが、脚が痛くて動けない。
ただただベッドの上でうねるだけだ。
「エマ様が来ます、間もなく!!」
大きく息を切らし、ルーシーが中に入ってきた。
「死ぬ、死ぬ!!!」
「死にません、大丈夫です!」
「いやああああ、痛い、死ぬ!!!」
あまりの痛みに同じ言葉を繰り返す。
唸ったり叫んだり。本当はうずくまりたいのに、起き上がることすらできない。
「あああ、いやああああ………」
口から泡がゴプゴプと出てくる。
ルーシーがまた悲鳴を上げる。
(あ、私死ぬの?)
なぜか急に冷静になる。
身体は痛いし、心は折れかけているのに、頭だけは急に晴れた。
「ううううう、ううううう……」
しかし、火花が散るほどの腹痛にまた意識が現実に戻される。
「お湯を持ってきたわ、布はあるわよね? 火鉢はそこに置いて! あなたたちはもっとお湯の準備を!」
部屋に入ってきたエマは、螺旋階段に向かって指示を出した。
「予定よりずいぶん早いわね……でも大丈夫、大丈夫ですわ」
唸りながらずるずるとベッドの上で蠢くクリスに、エマは優しく声をかけた。
「ああああ、ああああああああ!!! ううううう!!!」
エマがつきっきりでクリスの股を覗き込み、ルーシーは螺旋階段と部屋を行ったり来たりしている。
クリスの額には大粒の汗が流れ、枕を濡らす。
「もう少しですわ……息を止めて……いきんで」
「ううううううう………」
「そうそう、良い感じですわ……」
いつもは怖いエマだが、今日はとても安心感があった。
指示に従うのが精いっぱいだったし、朦朧とした意識の中で間違えたりもしたようだがエマは怒らなかった。
「お生まれになりましたわ……! 女の子です」
エマが真っ赤な塊を手に抱え、見せてきた。
あまりにも気持ち悪い見た目。しかし、それよりも
「ううううう……痛い、痛い………!!!」
クリスはそれどころではなかった。
首を左右に激しく振る。
止まない腹痛、続く激痛、殺してほしくなるほどの違和感と不快感。
「あああ、やだ、やだ……なんで……!?」
「……まさか……」
エマがルーシーに赤子を渡し、また股の間を覗く。
「……双子!? もう一人いるわ、その子は任せたわよルーシー」
そういってまたエマは処置をした。
(え……双子……?)
この身体に、二人も入っていたというのか?
だからこそこんなに苦しみ、毎日苛立ちを募らせていた?
「ああああ、ああああああ……!!!」
捻り出すようにクリスは息む。
「聞こえますか、クリスティナ様。いきまずに呼吸を整えて」
「うううううう………」
とっくに枯れたと思っていた涙がまた出てきた。
意識は半分飛んでいるが、かろうじてエマの声は認識できる。
声を頼りに従う。
「……お生まれになりましたわ!」
「……はあ、はあ……はあ、はあ………」
また、エマが真っ赤な赤子を見てきた。
(身体……苦しくない………)
赤子が産まれたことにより、苦しみから解放されたことでクリスは微笑んだ。
「女の子と男の子の双子ですわ……」
見せられた二人の子ども。金色の髪の双子。
「え……?」
しかし、エマの言葉に声を失った。
男と聞いて思い浮かぶガブリエルの顔。
リオンすらも殺そうとした、あの男。
「いや、……助けて!!!」
フラフラの腕でシーツに爪を立て、ベッドから降りようとする。
もうなにも宿していないのに、軋む身体。
手には力が入らず、起き上がることすらままならない。
指の先だけで必死にシーツを掴む。
「どうされたんですか!? ルーシー!」
二人の赤子を産湯につけていたエマが、慌ててルーシーに声をかけた。
ルーシーは弾けたように駆け寄り、ベッドの上でもがきのたうち回るクリスの身体を支える。
「殺されるわ、殺されるの!!!」
この二人の赤子は誰が見てもまぎれもない、ジョシュとの子どもだ。
黒髪のガブリエルから、金髪が二人も産まれるはずがない。
そもそも肉体関係がないのだから当たり前だ。
「いや、行かないと……殺される……殺される……」
「行くって……どこにですか……!?」
「いいわ、ルーシー変わりなさい。御子たちをお願い」
リオンが殺されていないのは、第一皇子だからだ。
ガブリエルの血を引く、正統な後継者。
しかし、この二人は違う。特に男児は、殺される可能性がある。
「あ、あ……あの人に……殺さないでって言わないと……」
「大丈夫ですわ、殺されません」
「いや! そんな、無理だわ。だって、だってこの子はジョシュの子よ?」
「……例えそうでも、今の状態でここから出ることは……」
「じゃあいいわ、私が逃がす!! この子を逃がすわ!!」
ルーシーに代わり、身体を押さえるエマを振りほどく。
エマが産湯に浸している赤子に手を伸ばす。
しかし、バランスを崩しベッドに前のめりに倒れた。
「……そのお身体で歩くなんて無理ですわ」
「いやよ、だって……だってこんな、こんな大変な思いしたのに殺されるなんて……いやあああ………!」
その場でクリスは泣き崩れた。
エマが上から見下ろしているのを感じる。
「ジョシュの子が殺されちゃう、殺されるわ……じゃあ、私もその子と死ぬ。返して、その子を返して!!!」
「いけません、まずは安静に――」
「返して! 返してよ!!! 殺されるくらいなら、私が殺す!!! 返しなさい!!!」
「……っ」
暴れるクリスの身体を、エマが抱きしめる。
その肩に噛みつきながら、激しく暴れた。
肉を噛み千切る勢いだったのに、付いたのは歯型だけ。
「返してよ!! 返せ!!! 殺す、みんな大嫌いよ!!!」
「ルーシー、その子を逃がして!!!」
「ふざけないで!! 返してよ!!! 私に寄越せ!!!」
「早く、ルーシー!! 村のはずれの教会……そこなら孤児を見てくれるわ!!!」
エマに指示されてルーシーは男児を清潔な布でくるみ、エマが用意していたかごに入れる。
「クリス様、エマ様……」
「早く行きなさい!!」
弾かれたように、ルーシーは走り出した。
エマの首から口を離し手を伸ばす。
「あ、あ……行かないで、私の赤ちゃん……!!」
せっかく自分の手で殺してあげようと思ったのに。
そして、クリス自身も死のうと思ったのに。
もう誰もいない虚空を何度も掴みながら、抱きしめるエマの腕の中で眠りについた。
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