三十七話(前編)
妊娠の可能性が出てからは、クリスは一週間に一度だけ外に出ることを許された。
そして、必ずルーシーが同席した。
その後ろを、全身甲冑の兵が距離を開けてついてくるだけだ。
一言も喋らないし兜もとらないから、本当にジョシュなのか不安になる。
「ジョシュと話したいわ」
「それは、いけません」
何度も訴えたが、ルーシーは首を横に振るばかり。
そう言われてからは外に出ることもあまりしなくなった。
ただ単純に、楽しくなかった。
そしてだんだんと重くなる身体。
「……やはり、妊娠されていますね」
四ヶ月が経った頃、夕食の前にエマに確認され虚無の心で報告を聞く。
言われるまでもなく、わかっていた。
膨らむ腹、続く食欲不振。
熱っぽい身体の症状は治まってきたが、食欲は相変わらず戻らない。
「……クリス様、少しでもお召し上がりにならないと身体に悪いですわ」
「食べたくないの……」
「そうおっしゃらずに……」
ルーシーはとても粘り強く、毎日飽きもせずにクリスを諭す。
そして最後にはクリスの代わりにスプーンを持ち、口元へ運ぶ。
「少しずつ食べましょう……」
良い香りのスープ。鼻をくすぐる。
ごくり、と喉が鳴った。
「……………」
口を開けると、ルーシーは優しく流し込んだ。
食材を煮込み、旨味が濃縮されたスープ。
細かく刻まれた野菜は、口の中でほろほろと崩れる。
クリスの体調を考え、作られたであろう食事。
(美味しい……)
悔しかった。
前までは、悪阻で何もかもを吐き戻していた。
身体が固形を一切受け付けなかった。
唯一喉を通ったのは、皮肉なことに果物水だけだ。
あんなに苦くて不味かった果物水が、美味しくてたまらなかった。
だからこそ、食事を拒否できたのに今は食欲がなくても空腹を感じる。
口に入れられる料理は、どれも心が浮足立つように美味しかった。
「……食欲が戻ってきましたね」
「……………」
安堵したようにルーシーが微笑む。
しかし、それすらも不快だった。
(あのまま、餓死すればよかったのに……!)
産みたくない、と思いながらも食べ物を求めてしまう身体が憎かった。
口を開き、ルーシーに何度も運んでもらう。
食べたくない、と心で拒否しているのに身体は欲している。
(気持ち悪い、私じゃないみたい……)
この数ヶ月、変わっていく体調の変化にクリスは何度も泣いた。
妊娠していないことを願いつつ、それでもジョシュの子を産みたいとも思った。
何度も何度も葛藤した。そして、辿り着いた答えが、
「……あの人、何も言わないのね……」
これだった。
ドレスの上からでもわかるほどに膨らんでいる腹。
少し前まで、毎日悪阻に襲われ、苦しんでいる様子。
それを、何一つ気にしないようだ。
「……皇帝陛下はクリス様を大事にされていますので……」
「嘘よ、だって私があの人の子どもを身ごもることなんてないもの」
一度だって身体を重ねていない。
なんなら、この塔に一回来ただけだ。あれ以来、呼び出しも会いに来ることもなかった。
「……私に興味がないのね……でも、それならそれでいいわ……」
膨らんだ腹部を、優しくなでる。
「ジョシュとの子を許したってことでしょ。だったら、もう……私を手放してよ……」
寝間着に涙が落ちる。涙もろくもなった。
ルーシーくらい泣いている気がする。
「お食事は終わりにしてお休みになりますか?」
「…………食べるわ………」
こういうところに小国出身の意地が出てしまう。
美味しいものは食べないと損、そいう貧しいが故の意地汚さ。
「温かいものを食べると落ち着きますから。明日からはパン粥やシチューなども頼んでみますね。それに、熱々のミルクも」
名前を聞くだけで胃がむかついていたのに、料理の名前を聞いただけで唾液が溢れる。
しゃばしゃばする唾液と一緒にスープを飲み込んだ。
「食べたいものがありましたら私がお伝えしますから、お申し付けくださいね」
ルーシーは文句を言わずに微笑み、一生懸命に食べさせる。
こういう甲斐甲斐しいところがクリスの胸を締め付けた。
当たり散らしていたことに、罪悪感を覚える。
(本当に体調、戻って来たんだ……)
心の余裕がなく泣き叫び吐き戻していたあの時期。
ルーシーはおろおろしつつも常に傍にいてくれた。
そのことを疎ましい、と思ったりもしたが、今はその優しさが身に染みる。
「寒くなってきましたから、掛け布団を持ってきました」
食事を終え、横になったクリスにルーシーは掛け布団を乗せた。
「……ねえ、ルーシー……産まれた子が男の子なら殺されるの?」
ルーシーは一瞬固まるが、口元を綻ばす。
「そんなはずありませんわ。男の子でも、女のことでもきっと大事にされます」
「でも、リオン皇子がいるわよね……」
「リオン様も殺されていません。お子に手をかける方ではありませんわ」
毎日毎日繰り返す質問。
最初こそルーシーは困っていたが、今ではすぐに笑みを浮かべる。
毎日確認しても不安は拭えなかった。
「……ねえ、ルーシー。今晩一緒にいて……」
「ええ、わかりました。クリス様がよろしいのでしたら」
優しい笑顔。
(私のこと、憎んでないの……?)
焦ったり困ったり怯えたり。
心配したり安堵する顔はするが、不快な表情をクリスに向けたことはなかった。
「私たち、仲良くなれていたかもしれないのにね……」
「……私は、クリス様の侍女ですから、いつでも心に寄り添います」
ああ、そうだった。
肝心なことを忘れていた。
献身的なルーシーは、結局クリスを突き放すのだ。
それはさも、当たり前の線引き。
だが、今のクリスには深く胸に刺さる。
(結局この国で私に優しい人なんていないんだわ……)
目を瞑る。瞼の裏に浮かぶのは、ジョシュの顔。
(ああ、ジョシュ……会いたい……)
会いたい。だが、会っても触れることも喋ることも叶わない。
それに、本当にあの全身甲冑の中身はジョシュなのだろうか?
クリスと話すときは兜をとってくれていたから認識できていた。
それを、兜も外さずに離れてついてくる兵士は、本当にジョシュなのだろうか……。
(この世で一人になっちゃった……)
寂しかった。ルーシーはこの部屋にいる。
それなのに、一人で閉じ込められているときよりも悲しい。
丸く膨らんだお腹をなでながら、クリスは静かに涙を流した。




