三十三話(後編)
ガブリエルの顔を見たせいで、気分が悪かった。
水すらも飲めない。本当に体調が悪い。
油断するとすぐに吐き気に襲われる。
胃の不快感や喉の痛み、口の中の苦みも常につきまとう。
ベッドと少しの空間しかないこの部屋にいることが、苦痛だ。
ドアは常に施錠され、窓すら開けられない閉鎖空間が息苦しい。
「お少しだけでもお口に入れてください……」
つきっきりで、ルーシーが何とか食べさせようとしてくる。
スープやパン粥、アーモンドミルクなどを用意してくれたが、何も受け付けなかった。
「……いらない……」
ベッドに突っ伏したまま素っ気なく返す。
枕に顔を押し付け、くぐもる声。
狼狽えるルーシーに少し心は痛むが、何も食べたくなかった。
「入るわね」
ノックと共に、エマが入ってきた。
ガブリエルの訪問を拒否したことで、クリスの無礼と謝罪をするために玉座の間へ向かっていたのだ。
「……お食事は……そう、わかったわ」
エマがルーシーに確認している。
ルーシーは多分、首でも振ったのだろう。
長いため息が聞こえた。
「クリスティナ様……外出の許可が下りましたわ」
沈んでいた心が、少しだけ動く。
「皇帝陛下が……先ほどのクリスティナ様の様子を、お気にされたようで……恐れ多くも……寛大な、お慈悲を賜りました……」
「良かったです、クリス様!」
嬉しい報告のはずだが、なぜかエマの声は重い。
歯切れが悪く、言いにくそうだ。
対してルーシーは嬉しそうだ。
(何よ、エマは私が外に行くのが嫌なの?)
少し機嫌を損ねるが、クリスのためにわざわざガブリエルに許可をとってくれたのだ。
「……気晴らしに……外へ、行きませんか……?」
気乗りしなさそうにエマが提案してきた。
不思議な感覚だ。嬉しいことのはずなのに。
それに、どんなときでもはっきりと発言するエマにしては珍しい。
(変なの。でも、ここを出られる……!)
そう思うと、一刻も早くこの部屋から出て、自然の中に溶け込みたかった。
ゆっくりと、うつぶせになっていた身体を起こす。
「……いくわ」
口から出た声は、弱々しかった。
あまりのかすれ声に驚く。
(私、こんな声だったっけ……)
喉をさすって確認していると、ルーシーが満面の笑みでドレスを手に持って立っていた。
「ご準備はできています!」
目もきらきらと輝いている。
ずっと寝ていたクリスが前向きになったことが嬉しいのだろうか。
「そう、じゃあ支度をお願いね」
エマはルーシーを一瞥してから、部屋を出て行った。
ルーシーは楽しそうにクリスに着付けをしていく。
「良かったです、クリス様には気分転換が必要だと思っていました」
靴を履かせながら、ルーシーは一人で頷く。
「ええ、ええ、クリス様に必要なのは新鮮な空気です。こんなところにいたら気が滅入ってしまいます!」
よかったよかったと一人で喋るルーシー。
いつもおろおろとたじろいでいた姿が嘘のようだ。
年相応の明るく朗らかな声に、クリスは笑った。
「……心配かけてごめんなさい」
「そんな……! それが私の仕事ですから! 皇帝陛下も……ふふ、クリス様のことをお気にかけてくださっているんですね」
そう、なのだろうか。
とても冷たく、知らない人に変わってしまったガブリエル。
言葉はなかったけど、心配してくれていたのだろうか。
「……だったら最初から閉じ込めないでよ」
ぼそりと呟く。
しかし、監禁されていることを除けば、ガブリエルが来ることはめったにないので快適だ。
その自由を奪われている状態が解除されるのなら、今が一番快適に思えた。
「足元にお気をつけて」
ふらふらと立ち上がったクリスへ、心配そうに声をかけながらルーシーはドアを開けた。
石畳の螺旋階段。コツコツと靴の音を響かせて降りる。
一番下に辿り着くと、ルーシーが鍵を開け扉を開いた。
「……わああ……」
温かい空気、快晴の空。
頬をなでる風が冷たく心地良い。
緑の香りを肺いっぱいに吸い込み、クリスは微笑んだ。
(あら?)
いつも二人いる全身甲冑の兵士が、今日は一人だ。
そして、その隣には憂いを帯びたような、なんとも微妙な表情のエマが立っていた。
「エマ、ここにいたのね」
「ええ、まあ……。ルーシー、ちょっと」
クリスに視線を向けず、すぐにルーシーを呼び止めた。
「大事な話があるからいいかしら」
「え? クリス様が一人になります……」
「ええ、じゃあ、あなた。少しの間クリスティナ様のことをお願いできるかしら」
エマは淡々とした口調で淀みなく、全身甲冑の兵士に指示した。
「御意」
兵士は敬礼をする。
声の感じからすると若い青年のようだ。
(ええええ………)
仰々しい見張りを付けられ、クリスは一気に気分が重くなる。
「そう、ありがとう。行くわよルーシー」
「え、え……? は、はい……」
心配そうにしているルーシーの肩をだき、半ば連行するようにエマはその場を去った。
(ルーシー……エマ……)
兵士と二人残され、その場で立ち尽くす。
(どうしたらいいのよ……)
とても気まずい。
この国の全身甲冑の兵士は、みな同じ見た目で動きが統一されている。
だから、どこか無機質で、人間味がなく苦手だ。
どうしたものか、と迷っていると、兵士が兜をとった。
「初めまして、クリスティナ様。私はジョシュ。よろしくお願いします」
ジョシュと名乗った青年は、亜麻色のくすんだ髪に、金の明るい瞳をしていた。
なんとなく、銀のような金髪とラベンダー色の瞳のクリスと似ていた。
「あなた……もしかして、同じ国の人かしら?」
おずおずと質問する。
小国は大国に比べて髪や目の色素が薄い。
ルーシーもエマも黒褐色の髪だ。
ガブリエルに関しては漆黒の髪に灰銀の双眸。
金の髪や金の目は、小国出身者にしかいない特徴だ。
「ええ、よくお気づきになられましたね。あちらの生まれです」
ジョシュは破顔した。
「戦争孤児らしく、幼いころにこちらの両親に育てられ、ずっと宮廷に勤めています」
「そうだったの!? ……大変ね」
同郷と知り、嬉しくなる。
「まさかここで会えるなんて。懐かしいわ……懐かしくて、帰りたくなっちゃう」
つい本音が漏れて、慌てて口を押える。
油断していた。ジョシュは、ガブリエルの配下にいる臣下なのだ。
ちらり、様子を確認すると歯を見せて笑っていた。
「大丈夫、報告なんてしませんよ。警戒しないで。正直、私もたまに帰りたくなります。……秘密ですよ」
「ふふふ……!」
見張りとは思えないほどに親しみやすく、クリスは胸が熱くなった。
(やっぱり、私たちの国の人の方が話しやすいわ)
それから他愛のない話をした。
最近の小国の様子、クリスの実家の話、姉のカトリーナなの話。
そして、ガブリエルとの馴れ初め。
ジョシュはとても聞き上手で、クリスの話を一生懸命、真剣に聞いてくれた。
だからついつい話に花を咲かせる。
(すごい、今一番楽しいわ……!)
話しながら、クリスも笑ったり泣いたり怒ったり、感情を自由に出した。
ジョシュはそれを優しく受け止めてくれる。
夢中で話していると、エマとルーシーが戻って来た。
「クリス様、遅くなって申し訳ありません。そろそろ戻りましょう」
「……でも……」
まだ話していたい。塔へ戻りたくなかった。
躊躇しているクリスに、ジョシュは安心させるような笑みを浮かべた。
「また外出される際にはお話ししましょう」
「ええ、もちろん! きっとよ!!」
金属の手を握る。ずっしりとした重量感。
ひんやりと冷たかった。
「あ、でも次は……いつ外に出してもらえるか分からないけど……」
「私はここの見張りの兵士です。いつも立っています、クリス様をお守りするために」
「ふふふ、そうなのね! それじゃあ……格子になっていて窓に近付かなかったけど、戻ったら手を振るわ、絶対よ!」
「ええ、お待ちしています」
「では行きましょう、クリスティナ様」
エマに促され、塔に戻る。何度も何度もジョシュを振り向く。
ジョシュは、笑顔を向けてくれていた。
「早く窓に行かないと! 急いで部屋に戻りましょう!」
「あ、お待ちくださいクリス様、危ないですよ!」
先頭に立ち、足早に階段を駆け上がる。
その後ろを、鍵を持ったルーシーが追いかける。
エマは一番後ろで、重いため息を吐いてる音が聞こえたが、クリスは気にも留めなかった。




