三十三話(前編)
普段全くそんなことはなかったのに、一度嘔吐してからは胃が少しも食べ物を受け付けなくなった。
ルーシーが運んでくる、果物を浸した薄く香りのついた水だけは飲める。
ただ、少しずつだけだ。
一度にたくさん流し込むと、それすらも全て吐いてしまう。
たった一日でクリスはずいぶんと気力を失ってしまった。
「……皇帝陛下より拝謁の仰せがありました」
ルーシーに介抱されている横で、エマはそう告げた。
びくり、とクリスの身体が揺れる。
胃がひっくり返るような、喉の奥が締め付けられるような感覚。
「……いやよ、絶対にいや! 行きたくないわ!」
「ええ、今のクリスティナ様は人前に出られるような御身ではございません。御前へ上がるのは叶わぬとお伝えしてまいりましたわ」
「クリス様、しっかり……!」
エマが淡々と、それでいて苦しそうな声で報告している。
洗面器に、今飲んだ水を口から戻すクリスの背中を、ルーシーは一生懸命にさすった。
「寛大なお慈悲を賜りましたが……次があるとは限りません。いつまで皇帝陛下がお待ちくださるか……」
「無理よ……絶対いや、顔も見たくない……!」
唸り声のようなため息。エマは額を押さえている。辛そうだ。
「どうしましょう………」
それは、エマの切実な願い。
クリスも、なんとなく意味は理解できる。
このまま拒絶していたら、クリスだけではなくエマもルーシーも殺される可能性がある。
それでも、それでも会いたくなかった。同じ空気を吸いたくない。
「…………!」
エマが目を見開き、顔を上げる。
「……エマ……?」
ルーシーに差し出された布で汚れた口元を拭く。
「……足音、ですか?」
「え……?」
ルーシーの言葉に、クリスは耳を澄ませた。
階段を上る、規則正しい複数の靴の音。
この塔を行き来できるのはエマとルーシーだけ。
その二人が部屋の中にいる今、この音の正体は――
踏みしめる音が止まった。
「皇帝陛下のお成り――!」
ドアの外から男性の声。
その言葉に、即座にエマとルーシーは跪いた。
目の前の扉が音もなく開く。
ベッドに横たわるクリスの目の前に、ガブリエルと兵士たちが現れた。
「………うっ」
ガブリエルを見た瞬間、クリスは手で口を押さえる。
えずくものの、何も出てこなかった。
胃の中は空っぽなのに、口の中には苦みが広がる。
「来てやった」
たった一言発する男を、クリスは苦しいながらも睨みつけた。
「……頼んでないわ、具合が悪いから……帰って」
怒鳴りつけたい衝動を抑え、ゆっくりと吐き捨てる。
「あなたの顔なんてもう見たくない、非道な人!」
跪いているルーシーとエマが震えている。
不味いな、とは思った。
それでも、言葉は止まらなかった。
「酷いわ……好きだったのに……会えて嬉しかったのに……」
涙が頬を伝う。
「私の、初恋の人だったのに……!」
毛布を手繰り寄せて、目元に当てて泣いた。
言葉が、止めどなく口からこぼれた。
待って、と引き留めることはできない、感情に任せた言葉。
「優しくて、真面目で誠実な人で……あなたなんて、知らない人よ! ……裏切り者!」
そこまで言って、声を押し殺して泣く。
切り捨てられてもいいと思った。
こんなに辛い気持ちを抱えていられない。
それならいっそ、終わりにしてくれてもいい。
毛布に顔を沈めて涙を流す。
(もういい、もうどうでもいいわ)
無音。静寂が流れる。
クリスの啜り泣きだけが響く部屋の中。
暫くして、靴の音が聞こえた。
石畳のらせん階段を降りる、冷たく硬い音。
顔を上げる。そこには、エマとルーシーしかいなかった。
(……なんでよ……)
何も言わずに部屋を出て行ったガブリエルに、クリスは静かに嗚咽を上げる。
「ク、クククリス様!!!」
ルーシーがクリスの上に覆いかぶさるようにして泣いた。
「怖かったですわ、怖かったですわ!!!」
まるで子どものように、涙で顔をくしゃくしゃにさせている。
「……肝が………冷えましたわ………」
エマも、額に汗を浮かべている。
顔色が悪い。相変わらず、震える手を握っている。
「……ごめんなさい」
一応口には出すが、腑に落ちなかった。
エマとルーシーを危険にさらしたことは申し訳ない。
それでも、無言で背を向けたガブリエルにクリスは苛立ちと虚無感があった。
(……何か言ってよ……)
もう一度毛布を掴む。きつくきつく握った。
(私のこと、好きなんじゃないの……? なんでこんな、酷い仕打ちを……)
四年前の約束を覚えていて、わざわざ宮廷に呼び、皇妃として迎え入れるほどなのに。
どうして、クリスの気持ちを無視するのだろうか。
(わからない、わからないわ……でも、もういい……もう、知らない……)
ずっと心を温めていた、ガブリエルへの気持ちがすっと抜ける。
まるで、波が引くように。心が冷めるのをクリスは感じた。




