三十二話(後編)
「……驚きましたわ。冷や汗が止まりません……」
エマがひっきりなしにハンカチで額の汗を拭いている。
しかしよく見ると、ルーシーと同じく首元が濡れていた。
「エマ、お水飲む?」
「結構ですわ!! ……怒鳴って申し訳ありません。ただ、クリスティナ様……皇帝陛下に直接のお言葉はお控えください」
少しだけ感情を見せた後、ため息を吐いてエマは諭す。
「あのような拝謁の場で……皇帝陛下に直接物を申すのは、今後お控えくださいね」
「……わかったわ」
でも気になったんだから、という言葉は飲み込む。
エマもルーシーも汗だくになっているが、そのおかげで確信した。
ガブリエルが全員を殺した。
動揺したり、気にしたり、悪びれたり。
そういう素振りが一切なく、さも当たり前のように命を消した。
(え……それって……?)
汗だくの二人を見る。そして、汗だくの兵士。
「ほ、本当に……怖かったです……」
鼻を盛大にかみながら、ルーシーはまたしゃくり泣く。
「ええ、危なかったですわね。私も、ルーシーも、近衛騎士長も……もちろん、クリスティナ様だって」
「……ごめんなさい……」
俯くと、エマはまた大きくため息を吐いた。
「クリスティナ様、皇帝陛下は……その、少々苛烈であられます」
「……みんなを殺したみたいに……?」
「滅相もありません! クリスティナ様、それ以上は……どうかお口を慎んでください」
真っ青になりながらもまた汗を拭き、エマは肩で息をしている。
「…………」
ベッドから立ち上がる。
水差しでグラスに水を注ぎ、エマに差し出した。
「落ち着いて、心を整えて、エマ」
「…………。……いただきますわね」
昨日エマに言われた言葉を返す。
エマは意表を突かれたように驚き、グラスを大人しく受け取る。
一気に飲み干した。
「ルーシーもどうぞ」
水を注いでルーシーに渡す。
「あ、あ、あ……ありが、ありがとう、ございます……」
しゃくりをあげながらルーシーは、身体を揺らし一気に飲み干した。
あまりの様子に、可哀想になる。
「……意見を言うだけで処刑されるなんて、おかしいわ」
「だから、口を慎んでください」
「おかしいもの。それに、私たちは殺されなかったわ」
「寛大なお慈悲なのです」
頑なに言い張るエマに、少しだけむっとする。
その表情を察してか、エマは眉を下げた。
「……前皇妃様は……皇帝陛下が別の方を、クリスティナ様のことを想われていることをご存じでした」
「え……?」
意外な話に、クリスは耳を傾ける。
エマは両手押さえるように握っている。
小刻みに震える手は、驚くほど白く骨が浮き出ていた。
「そのことを受け入れてご結婚なされたのです」
「……そう、なの………?」
「ええ、第一皇子や前皇帝の崩御の理由も……お察しになられて……。それで……リオン様の身を案じ、命乞いをなさいに…………」
「……まさか、意見って……」
エマが黙る。沈黙が流れた。
クリスは口を半分開けたまま、ベッドに座る。
とても深い衝撃に、心が音を立てる気がした。
ぴしり、という、嫌な音。
(そんな……そんな……)
意見を言った、という言葉のせいで頭のどこかで気が強い女性だと思っていた。
しかしエマから改めて聞いた言葉には、母親としての当たり前の行動が描かれていた。
視界が歪む。涙が滲んだ。
「……ルーシー……本当なの……?」
無意味だとわかっていても、もう一人の侍女に声をかける。
ルーシーはまた泣きだしながら頷いた。
「ほ……本当でございます……! お嬢様はとても慈悲深く、そして……誰よりも、リオン様のことを想われておりました……!」
頭の中に、高い音が響く。
無意識に耳を塞いだが、頭の中で鳴り響く。
耳鳴りだ。
吐き気がせりあがってきた。
「……うっ」
「クリス様!」
とっさに両手で口を押えるが、隙間から液体がこぼれた。
口の中が苦い。酸っぱい臭いが立ち込めた。
「あ、ああ、ああどうしましょう……!」
「ルーシー、落ち着きなさい。着替えをとってきてちょうだい。それから湯桶と清潔な布」
「は、はい……!」
「新しい水差しとグラスもよ」
てきぱきと指示しながら、エマはグラスに水を注ぐ。
返事もせずに、勢いよくルーシーは飛び出していった。
「クリスティナ様、うがいを」
「……ごめんなさい……」
「いいえ、私が負担になるお話をしてしまったから……」
「……違うわ、私が……私が、無理やり聞いたのよ」
水を含み、ゆすぐ。
エマが口元に布を当ててくれたのでそこに吐きだした。
「……クリスティナ様がお優しい方なのは知っていました。だからお伝えするのか悩みましたが……」
汚れた服を拭きながら、エマはとても長いため息を吐いた。
「……皇帝陛下はそういう方なのです。だから、気を付けて欲しくて」
「……昔は、そんな方じゃなかったわ……」
涙が頬を伝った。
怪我をした時のガブリエル。
いざ目の前にしたガブリエル。
そして、エマとルーシーから見たガブリエル。
どれも同一人物だとは思えなかった。
(ううん、違う……)
目の前にしたガブリエルと、エマたちから聞いたガブリエルは同じだ。
低い声。冷酷な判断、感情が読めない表情。
相手を怯えさせる、冷たい目。
四年間思い続けていた相手、そして自分のことを想ってくれていたというのに。
(私……間違っていたの……?)
その仕打ちが、罪もない前皇妃の死。
また胃が不快を覚える。
うっと喉がなり、身体を折る。
「吐き出してください、落ち着きますわ」
いつの間にかエマが隣に座り、洗面器を顔の下に差し込む。
背中の、胃がある辺りを何度もさすった。
う、う、っと何度も嘔吐きそうになる。
堪えていた吐き気がせりあがってきた。
「う、う……うえええ……えええ……」
エマにさすられながら、胃の中のものがなくなってもなお、クリスは吐き続けた。




