三十話(前編)
「う、ううう、うう………」
腫れあがったアンジェの顔を見て、ルーシーは案の定号泣した。
しかし、綺麗に整えられた髪、清潔になったドレス。
パリッとしたハンカチ、バラの香りの香油を漂わせるルーシーの姿にアンジェは安心する。
ただ一つ、せっかく綺麗に化粧していたのに取れてしまっているのは残念だ。
「ううう、うう……アンジェ様……」
顔の周りに氷嚢を置きながら、ルーシーはアンジェに覆いかぶさる。
(……良い匂い……ルーシーの……)
嗅ぎなれた香りに包まれ、アンジェは目を閉じる。
そして、ルーシーの背中をさすった。
「痛くないわ……痛くないの……」
「ううう、それは麻痺しているんです!!! こんなに腫れて痛くないわけないんですから!!!」
泣き叫ぶルーシーに、アンジェはじっと天井を見つめた。
(……そう、なの?)
言われてみれば感覚がなくなっていた。
氷嚢が冷たい気もするが、あまりよくわからなかった。
でも、それなら痛くないから大丈夫なのではないだろうか。
泣き続けるルーシーに、アンジェは困惑する。
(……あ……えっと………)
ルーシーは身体を離し、アンジェの顔を食い入るように見つめる。
みるみると目から涙を溢れさせ、ベッドに突っ伏してまた泣きだした。
「ううう、アンジェ様のお顔が……もう、ラベンダーの瞳しか判別つきませんわ……!」
また声を上げて泣くルーシーに、アンジェは何か言わなくてはいけない気がした。
このままではまたルーシーは衰弱してしまう。
(……あ、そうだ……)
一生懸命ひねり出して思いついたのが、ラベンダー色の瞳。
直前に、ルーシーが触れた話題。
「……あのね………」
まるで楽しい話をするかのように、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
小国で出会った、ラベンダー色の瞳、金と銀の色が混ざったような髪の色の少年。
まるで、アンジェの片割れのような、そんなそっくりな色味のセオ。
少しずつ、少しずつ言葉を紡ぐ。
いつの間にか、ぴたりとルーシーが止まっていた。
(……良かった……)
泣き止んだようで一安心だ。
ない頭を振り絞り、話をした甲斐があった。
「………セオ、と言いましたか……?」
ベッドに突っ伏したまま、ルーシーは静かに言った。
なんとなく、声が震えている気がした。
「え、ええ………」
「……大国の……辺境にある村の小さな教会……?」
「そう……孤児院の……男の子よ」
「……………………………………………………………………」
ルーシーが動かなくなった。
(………………?)
とても長い沈黙が流れる。
泣いているとはいえ、お喋りなルーシーが黙ると空気が重くなる気がした。
「……その子が……それから?」
「あ、えと………」
一緒に逃げようと提案してくれたこと。
二人でたくさん歩き、教会を目指したこと。
途中捕まり、セオが――
「広場の………断頭台で………」
アンジェは口を閉ざした。
ここから先は言いたくなかった。
口をきつく引き結ぶ。
「……処刑された子は、……セオ、なんですね」
ルーシーが顔をあげた。
シーツに着いた鼻水が糸を引く。
だが、そんなことよりもルーシーの表情にアンジェは鳥肌が立った。
背筋が凍る。
「セオが……あの子が………」
化粧がすっかり落ち、顔がぐちゃぐちゃになっている、ということではない。
焦点の合わない虚ろな瞳。
まるで魂が抜けたような、感情の一切ない表情。
力が入らないのか、ゆらゆらと揺れる身体。
(ルーシー……!?)
あまりの異様な状態に、アンジェは怖くなった。
今まで一度も見たことのない、無気力な、放心したようなルーシー。
優しく頼もしく、厳しくもあり泣いたり笑ったりと感情豊かなルーシー。
そんなルーシーが遠くを見つめ、ふらりふらりと水草のように漂っている。
(……………)
次にどんな動きをするのか、今どんな心境なのか全くわからなかった。
固唾をのんで見守る。
ルーシーは、視線を落としシーツを握りしめた。
爪が表面を擦り、ぎゅうううっと音を立てる。
平和と安らぎの象徴のオリーブ、その灰が爪の軌跡になる。
「……アンジェ様……」
力なく、ルーシーは名前を呼んだ。
振り絞るような、掠れた声。
「……ルーシーは……ルーシーは……」
うわ言のように繰り返している。
「……アンジェ様、アンジェリナ様……先に謝らせていただきます……」
大きく息を吸い、長く長く息を吐く。
ルーシーはそれを三回繰り返した。
「クリスティナ……クリス様についてお話しさせていただきますわ……」
シーツを握る手を緩め、ルーシーは顔をあげた。
笑いそうな、泣きそうな顔。
まだ虚ろな目には、涙が浮かんでいた。
「どこからお話ししましょうか……。……最初からお話し、しないといけませんね……」
「…………」
「クリス様の姉、カトリーナ様から聞いてご存じだと思いますが、とても天真爛漫な方だとお聞きしています」
初めて聞いた。
カトリーナは、クリスに似ているといっていたが、天真爛漫な性格は知らなかった。
「……当時、カトリーナ様は既にオスカー様とご結婚をし、クリス様は公爵家の娘、王妃の妹というお立場であらせられました」
淡々とした口調でルーシーは語り出す。
「アンジェ様と同じ十六歳でしたわ。とても明るく、そして慈悲深く――怪我人を放っておけず、ご自身で建てられた小屋で手当てをされていたようです」
なんとなく、聞いたことがあるような気がした。
小屋のことも頭に浮かぶ。
(…………?)
ただ、クリスの話を始めたことにアンジェは動揺した。
理由がわからなかった。ルーシーがおかしくなったのだろうか?
だが、黙って声に耳を傾けるしかない。
「敵味方関係なく、手当をなさる本当に慈悲深く、公平な方でした」
まるで懐かしむような表情。
ルーシーは僅かに微笑んだ。
「……ガブリエル様は第三皇子であらせられました。第二皇子に付き添いで戦場に出ていらっしゃっていて……それで、怪我をしたところをクリス様が……」
嫌な単語。名前。聞きたくない、と瞬時に窓の外を見た。
ルーシーにこれ以上喋ってほしくなかった。
しかし、あまりにもルーシーが異様な状態なのと、話の内容がよくわからずにアンジェは動けなかった。
「数日間、心身を共にされたようです。そこで、お二人は恋に落ち数年後……」
吐き気がしてきた。気持ち悪い。
苦いものがせりあがってくる。
アンジェは必死に喉を狭め、飲み込む。
「ここから、ここから悲劇が始まったのです……」
うっと呻き、ルーシーがすすり泣いた。
アンジェも一緒になってうっと呻く。
当たり前だが、クリスの話にはガブリエルはつきものかもしれない。
おぞましさをまとう名前に、吐き気がやまない。
「ガブリエル様はクリス様を所望されました。……クリス様は……公爵家によって売られたのです」




