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二十九話(前編)

ルーシーが何かを指示したのか、あれ以来エミリーは部屋に来なかった。

そして、ときおりドアをノックする近衛兵に対し、ルーシーは何かを訴えていた。


「……アンジェ様、お食事ですよ」


顔色の悪いルーシーが、ワゴンでアンジェの食事を運んできた。


(………………)


あれ以来、ルーシーはアンジェにつきっきりで看病をしている。

エミリーを恐れてか、ほとんどアンジェの部屋から出ることなく、一緒に過ごす。


(……ルーシー………)


明らかにやつれている。

張りがあった肌は今は光を失い、艶やかで豊かな髪もボサボサになりくすんでいる。

ルーシーが離れるときは、食事を作りに行くときだけだ。

ベッドに力なく横たわるアンジェを起こし、スプーンで少しずつ口に運んだ。

煮込まれた、流動食のような食事をゆっくりと食べる。


「……美味しいですか……?」


声も掠れ、目の周りも水分を吸い腫れている。

赤い眼球、赤い鼻。

かつて、身だしなみに厳しかった乳母の姿は見る影もない。


「食事がとれるようになってきて良かったですわ」


持ってきたルーシーの食事を食べ終わると、安堵したように息を吐く。

ほんの少しの量を、たくさんの時間をかけて食べる。

それに文句も急かしもせず、ただただルーシーは付き合ってくれた。


「まずは……まずは療養が先決ですからね」


アンジェの包帯を変え、ワゴンに積んであった洗面器から氷を取り出し包む。

細く、小さな身体にそっと添えた。


「足のお怪我の方もずいぶんよくなりましたわ」


傷の具合を見ながら、ルーシーは塗り薬を塗った。

セオと一緒にいたときに傷ついた足の裏は、今では少し沁みるくらいになっていた。


何人なんぴとも、面会なんてさせませんわ。ルーシーが許しません……今は回復が先決なんですから……」


うわ言のように呟きながら、ワゴンを部屋の外に置いた。

そうすると、メイドたちが片付けてくれるようだ。


「そうだ……アンジェ様……こちらを」


ベッドに戻ってきて、ルーシーはアンジェの首に手を回した。

そして、ごそごそと首筋を動かし、するりと胸の上に下ろす。

木彫りのペンダントだ。

明るい茶色に、くすんだ黒い筋のような模様の入ったペンダント。


「オリーヴの木ですわね……。平和と安らぎの象徴ですわ」


オリーヴ。聞いたことがあるような音だ。


「それと、結婚のときに祝福として贈られる木でもあります。アンジェ様は……あちらでも、愛されていたのですね」


うっすらと笑顔を浮かべ、ルーシーは涙を拭った。


(………………)


思い出した。オリヴィアにもらったペンダント。

初めて嫁ぐときに、カトリーナに頼んでアンジェの首にぶら下げられた。

今のアンジェの状態も、まるでオリヴィアのようだった。


(……………)


このまま寝たきりだったらオリヴィアのようになってしまうのだろうか。

胸が締め付けられるような息苦しさを感じる。


「安心してお休みください。アンジェ様のことは、ルーシーがお守りしますわ」


力なく、ルーシーは微笑んだ。

目元の腫れで皺がない分、口元に集中している。

あまりにも頼りない表情に、アンジェは更に胸が苦しくなる。


「ルーシーも少し、少しだけ眠りますわね……少しだけ……」


アンジェのベッドの横に膝をつく。

肘から先を折り、その上に顔をうずめた。


「………すう、すう、すう……」


すぐに寝息を立て、ルーシーは眠った。


(ルーシー…………)


優しく厳しく、お母さんのようだったルーシー。

今は、やつれてしまい疲労が溜まっているようだ。

ずっとアンジェと一緒に過ごし、自分の食事や身だしなみを整えている様子もない。

厳格な佇まい、美しく綺麗な女性は今は萎んでしまっている。


「……ルーシー………」


ゆっくり手を伸ばし、乱れた髪に触れる。

滑らかで柔らかかった髪が、ごわごわしている。

手触りの悪い髪に、涙がこぼれた。


「ルーシー………」

「……あ、は、はい! どうしましたか!?」


ぱっと上げられた顔は、寝ぼけている。

驚いたアンジェは目を丸くした。手が宙に浮いたまま止まる。


「……アンジェ様……?」

「ルーシー……ごめんなさい……」


また涙がこぼれる。

慌てて起き上がり、ルーシーはアンジェの濡れた頬をハンカチで拭いた。

いつも持ち歩いている清潔で、パリッとしていたハンカチ。

今はよれてくたびれている。


「……良いんですよ、大丈夫です。ルーシーはアンジェ様のお傍にいますから」


泣き止ませようと、ルーシーはアンジェを抱きしめた。

初めて嗅ぐ、高貴なバラの香油ではない、ルーシーの臭いを感じる。


「…………私、大丈夫よ………」

「………え?」

「……私、大丈夫……だから……」


このままでは、ルーシーが死ぬのではないか。

あんなに綺麗好きで、少し口煩くも威厳のあった乳母。

そんな不安にアンジェはつい言葉をこぼしていた。


「……だから……。……………」


そのあとに言葉が続かない。思いつかない。

だから元気でいて? だから健康でいて? だから、死なないで?

ルーシーは目をゆっくりと瞬かせてから、顔を伏せた。

自分の服装や、手に持っているハンカチを見る。

最後に、髪をなでた。


「あら、まあ……酷い恰好ですわね……」


手で一生懸命にボサボサの髪を整えて、ルーシーは困ったように笑った。


「こんなにみすぼらしくては、アンジェ様をお守りできませんわね………」

「………………」


違う、守ってほしいわけではない。

ただ、相応しい言葉が見つからずにアンジェは無言で唇を噛んだ。


(……………)


口を緩め、乾いた唇を少しだけ舐める。


「……だい、大丈夫だから…………」


まだうまく動かない、頬の肉を持ち上げ、アンジェはにっこりと笑おうとした。


「………………」


ただ、失敗したようだ。ルーシーの顔がみるみる不安そうに歪む。


「アンジェ様…………いいえ、いいえ……」


両手で顔を覆い、ルーシーは震えた。

ひとりしきり時間を使い、おもむろに手をどけた。

そこには、久々に見るとても優しい、安心するルーシーの笑み。


「……少しだけ、離れますわね。アンジェ様の傍にいても恥ずかしくないよう、支度してきます」

「うん……!」


意図は通じたようだ。胸をなでおろす。

ルーシーはドアに近付き、僅かに開けた。

顔を出し、周りを確認している。


「すぐに戻りますからね、すぐに……!」


それだけを言って、部屋から出て行った。

静かになる部屋。ひとりぼっちだ。少しだけ寂しい。


(………良かった……)


しかしそれよりも今は、ルーシーが本来の姿になることの方が嬉しかった。

優しくも頼もしい乳母、ルーシー。


(…………)


顔を窓際に向ける。

窓から見える空は、とても澄んだ秋の青空に変わっていた。

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