二十八話(後編)
宮廷に戻ってから何日か経ったようだ。
繰返される朝と夜。今が何回目か分からない。数えてもいない。
心配そうに泣きながら、甲斐甲斐しく世話をするルーシー。
ルーシーがいないときを狙ったように現れ、罵倒しながら暴行を加えるエミリー。
交互に憎悪と慈愛をぶつけられ、アンジェの心は更に疲弊していった。
「ほら、食べてください!!!」
口の中に焼き菓子を詰め込み、エミリーはアンジェの頭と顎を掴み無理やり咀嚼させる。
掴まれた顎が痛い。外れそうだ。
反動で焼き菓子が砕け、口の中を傷付ける。
ひりひりした。
「好きですよね!? 嬉しいですよね!?」
口の端からぼろぼろとカスがこぼれ、ベッドを汚した。
「ほら、飲み込んで下さいよ!!!」
今度は両手でアンジェの頭を掴み、ガクガクガクと前後に振った。
首が折れそうになる。
「なーんにも食べない! ならのたれ死ねよ!!」
アンジェの髪を束にして掴み、掛け布団の上に倒した。
「はあ、はあ、はあ、はあ………」
口の中のものが全部ぶちまけられる。
掛け布団の上に、茶色いカスが広がった。
「当てつけのように帰ってきて、当てつけのように何もしない!!」
空になった皿をアンジェに投げつけ、エミリーは怒鳴った。
高い音を立て、皿はアンジェの鼻に当たる。
目の前が、火花が散ったように赤くなる。
「皇帝陛下だっておかしい! なんでこんなやつを生かすの!? 殺せよ、殺せ!!!」
アンジェの顔に枕を押し付けて、エミリーは叫ぶ。
窒息しそうになる。
「何事……エミリー!?」
ルーシーが駆けよってきた。
「ああ、ああ………何をしていたのよ……!」
「鼻血が出ていたから手当てをしていただけです」
「手当ですって……!? ああ、可愛らしいお鼻が内出血して……それに、こんなに血が……」
「なので、手当をしていました」
「……じゃあ、続きは私がやるわ。氷をとってきなさい」
命令するルーシーに、エミリーは礼儀正しく一礼して部屋を出て行った。
「お洋服もベッドも……。ルーシーがお傍にいなかったからこんな……」
ルーシーは血と食べかすで汚れたアンジェを抱きしめ、泣いた。
温もりを感じるが、心は動かない。
アンジェが帰ってきてから泣いてばかりいる。
笑顔だったルーシーはもういない。
「泣いていたらダメね、お着替えをしますわね」
素早くアンジェの服を脱がせ、息を呑んだ。
「あああ、なんでこんなにお怪我が………!!」
胸や腹部、四肢に紫色や青色、血が滲んだ痣が現れた。
背中には何重にもなる引っかき傷。
背中を傷をほんの少しだけ触れるルーシー。
ボコボコとした指の感じ。瘡蓋になっているようだ。
毎日エミリーに力任せに叩かれたり、床にたたきつけられたり、物を投げられたり。背中をかきむしられたり。
その記録が、鮮明に身体に刻まれていた。
「う、うう……ああ……ええと、お洋服を……」
くぐもった声には動揺が浮かんでいる。
震えながら、新しい綺麗な部屋着を被せた。
「シーツは……どうしましょうか………う、うう……」
食べかすをかき集めながら、ルーシーは嗚咽を漏らした。
「アンジェ様……あんなに可愛らしく無邪気で……純粋で……それなのにこんな、惨い………」
シーツを握りしめながらルーシーは崩れた。
隠すように顔をつけ、声を出して泣く。
「アンジェ様……お守りできず、本当に、本当に、申し訳ありません……クリス様……」
耳を真っ赤にし、また呻くように声を上げ震えながら泣く。
(クリス……)
聞いたことのある名前。確か、母の名前。
ルーシーがクリスの名前を出したのが少し引っかかった。
ベッドにしがみついて泣くルーシーに視線を落とす。
「氷、持ってきました」
エミリーが洗面器を持って入ってきた。
泣いているルーシー、着替えたアンジェを順番に見てぴくり、と口の端を引きつらせる。
不快そうに顔を歪めた。
「…………はあ」
エミリーは短いため息を吐く。
先ほどまで号泣していたのに、すっと泣き止んでルーシーは立ち上がった。
「……それを貸して」
「ルーシー様は今お忙しそうですし、私がすることも可能ですよ」
「いいから、貸しなさい」
鼻声だが、有無を言わせない勢いでルーシーは手を差し出す。
エミリーは渋々と、不満を顔に出しながら渡した。
「……アンジェ様、ガーゼで包んでお鼻にも、お身体に充てますね……」
くるくると氷を包んで、ルーシーはアンジェの身体を冷やすように置いていった。
「……これで大丈夫ですわね」
目に涙を浮かべ、また顔を歪めるルーシーは、今度は涙を拭き強く唇を引き結んだ。
「エミリー……ちょっと」
「なんでしょうか」
いつもルーシーに向けていたねっとりとした甘い声はなく、淡々とした声。
エミリーもまた、アンジェが戻ってきてから一度も笑っていなかった。
「アンジェ様に当たるのはやめなさい」
「なんのことでしょうか」
「分からないはずがないでしょう? あなたがやっているのよね? アンジェ様の身体に、あんな、あんな………!」
「はい、私の不手際です。ご自身で動かれないので、うっかり怪我をさせてしまいました」
淡々と答える姿に、ルーシーはこぶしを握り締め、ぶるぶると震わせた。
「そんなわけないでしょう!! アンジェ様の背中、あれはあなたが引っかいたんでしょう!!」
「だったらなんだっていうんですか!! リオン様は、リオン様は殺されたんですよ!!!」
感情に任せたように叫ぶルーシーに、エミリーも叫び返した。
ルーシーがたじろぐ。
リオンが……殺された?
アンジェの心に刺さる言葉。
鈍い頭。言葉を上手くかみ砕けない。
「エ、エミリー待って、ここでその話は……」
「良いじゃないですか、聞かせましょうよ」
あはは、と乾いた笑い声をあげエミリーは腰に手をあて首を傾げた。
「聞かせてあげましょうよ? 隠しておくつもりですか、リオン様の死因を? それは不義理です」
「……わかったわ、でも今はその時じゃない。お願い、落ち着いて」
「私はいつでも落ち着いていました。この女にぶちまけたかったのを我慢してきた」
「……やめて、口を慎んで」
「アンジェリナ様、あなたが皇帝陛下にもっと媚びて懇願しないから――」
「黙りなさい!!」
冷たく厳しい声で、ルーシーは制した。
そのルーシーを一瞥し、エミリーは息を吸う。
「復興も見込めないような荒れた辺境……」
「やめて!」
「リオン様は準備不足のまま向かわされ……」
「違う、違うわ」
「そして疫病で死にました……」
「アンジェ様は関係ないわ!」
――リオンが、死んだ?
辺境の地に行って、疫病で?
(…………え?)
静かだった胸が、波立った。
耳を疑う。おかしい、と思った。
アンジェはリオンを助けるためにガブリエルに会いに行き、そして代わりに小国で過ごしたのだ。
(そんな……)
眉間にしわを寄せ、ルーシーがエミリーに掴みかかろうとするのをひょいと避ける。
ルーシーがバランスを崩して床に倒れる。それを見下ろすエミリー。
「関係ないわけないじゃないですか」
「皇帝陛下の判断よ。責任転嫁はしないで!」
「責任だってあります。自分だけは小国に逃げてぬくぬくしていたんですよ? リオン様が病で苦しんでいたというのに!」
吐き捨てるようにエミリーは言う。
(………お兄様………?)
言葉が呑み込めないまま、ただ動かずに見ているアンジェに、エミリーは憎々しげな表情を向ける。
食いしばっている唇には、うっすら血が滲んでいた。
「……違うわ、それはアンジェ様にはどうにもできなかった」
「じゃあこの女は何をしに小国に行ったんですか? 何のために?」
「……それは……戦地行きを、止められたじゃない」
「はは、あはは! そうですね、確かにね! でも結果死んだ。この女が助けなかったせいで!」
声高々にエミリーは腹を抱えて笑った。
(……お兄様が……そんな……)
何が楽しいのか分からない。ただ、エミリーは大きな声で笑い続ける。
ルーシーは俯きながら、ただその声を聞く。
不気味な光景。
状況が呑み込めず、アンジェの喉がごくりと鳴る。
(……ルーシー……? エミリー……?)
アンジェが知っている二人ではない。
惨めに床に座り込むルーシー。勝ち誇ったかのように見下ろすエミリー。
「アンジェリナ様がリオン様を殺したんですよ」
「違う、違う……」
ルーシーが力なく否定している。
「それに、あの女が嫁いだ先……伯爵家だって商人の家だって……ここで働く使用人たちの家族や親せきが働いていたんですから」
「……そ、それは……それはまた、違う問題よ……」
「違いません。あの女のせいで、働き口を失ったり家族を失った使用人なんて、この宮廷にたくさんいますよ」
「………アンジェ様のせいじゃ……」
「アンジェリナ様のせいです」
す……っと、エミリーは人差し指をアンジェに向けた。
鋭い、刺すような目つき。
明らかに憎しみや侮蔑がこもった、悪意のある表情。
アンジェは頭の中が真っ白になった。
「リオン様が死んだのも、この宮廷の使用人たちを苦しめるのも、全部あの女のせい!」
「……う、う……ちが……」
エミリーに気おされながらも、気丈に反論していた。
だが、とうとうルーシーは堪えきれずに泣きだした。
「あの女はこの宮廷で嫌われています。私が手を下さなくても、みんなが狙っていますよ」
「う、うう、ううう………」
「ルーシー様、大事なアンジェリナ様を守れるのはあなただけです。あなただけ」
「うう、ううう………」
「リオン様のように、お命狙われないといいですね」
泣き崩れるルーシー。
にっこりと、まるで嘘のような笑顔を張り付けてエミリーはルーシーに囁いた。
アンジェは二人のやり取りをただ眺めるしかなかった。
(………そんな………)
瞬間、背筋が凍った。
ゆっくりとエミリーは顔を上げ、その笑顔をアンジェにも向けた。
何の感情も宿していない、ただ目を細め口の端を吊り上げたとても不気味な表情だった。
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