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二十三話(前編)

部屋に戻ると燭台に火がついていた。

サラだろう。

すっかり沈んだ夕日。窓の外は濃い紺色の、暗い景色。

薄暗いが。明るくなった室内。

ふと視線の先、鞄は二つになっている。


(………………?)


確か、三つあったはずだ。

しかし、部屋の中を見回しても二つ積みあがった鞄以外はない。


(……………)


気のせいだったかもしれない。

なんでもいいのだ。なんでも。

服だって、化粧品だって、髪型だって。何でもいい。


「……はあ……」


寝ようと思ってベッドにもぐりこんだ。

重い、霧掛かったような頭。全身のだるさ。

すぐに寝られるはずなのに、目だけはさえている。

しばらく横になってもなかなか寝付けない。


(……………)


起き上がって水を飲もうとした。

しかし、先ほどサラが持ってきた水差しだけで、グラスがなかった。

補充されていなかった。


(………………)


急に寂しい気持ちになる。

サラは今までアンジェにとてもよく仕えてくれていた。

気が利き、気遣いができる明るく元気な侍女。

私物の香油や蜜蝋、化粧品、そしてラードでアンジェの髪を整えてくれたりもした。

それなのに、今日はなんだか様子が違った。


(……………)


考えても仕方ないので、アンジェはベッドから降りて、厨房へ行くことにした。

そこに行けばグラスがあるだろうし、カトリーナやサラがいるかもしれない。

トン、トン、トンと冷たい石の階段を降りる。

汚かったカーペットは真新しいカーペットになっていた。

廊下の燭台も、一つ置きに明かりがともっていたのに、今は全部の燭台に火がついている。


「…………」


食堂のシャンデリアの火は消え暗い。

テーブルの上に、一つだけ燭台がぽつんと置いてあった。


「……じゃ……よ」

「……が……で……」


食堂に入ると、厨房からオスカーとカトリーナの声が聞こえてきた。

ぼそぼそと喋っている。


「………っ……」


お母様。そう声を出そうとするが、まだ出ないようだ。

喉が苦しい。仕方なく、声のする方へ進む。


「…………いい加減にしろ、もうたくさんだ」

「…………なんでそんなに投げやりなの!? まるで私が悪いみたいじゃない!」

「…………そうは言ってない」

「…………私は母親よ! 誰よりもあの子のことは理解しているわ。わかるでしょ、オスカー」


オリヴィアのことだろうか。

歩みの速度が落ち、ゆっくり、ゆっくりと踏み出す。


「………あの子は喜んでいるわ。笑顔で返事するでしょう?」

「………意見を言わない子だろう」

「………言ってるわ! だって、じゃなかったら断るもの。私ならそうする。クリスだってそう」

「………あの子は……クリスじゃないだろ……」


オリヴィアではなくクリスの話題らしい。

言葉の剣幕からして、邪魔したらよくない。そう思った。

息をひそめ、会話が終わるのを待つことにした。


「……クリスと同じよ。だってクリスの娘だもの。そして私の娘」

「……それはそうだが……」

「……そしてあなたの娘でもある。だからこの国が豊かになることがあの子の幸せ」

「……婚資はたくさんもらっただろ。予定外の遺産だって」

「……足りないわ、この国を救うにはもっとアンジェの力が必要なの」


違う、アンジェの話だ。

冷や水を浴びせられた様に血の気が引く。

自然と足は止まった。


「……なぜそうなる」

「……オスカー、何を勘違いしているの? あの子は幸せなのよ」

「……本当にそう思うのか?」

「……ええもちろん。私は分かるの、母親だもの。あの子は心から喜んでいる。天使のような笑顔で」

「……そうか…………」

「……私がアンジェに頼むとき、一度だっていやな顔したことある?」

「………………」

「……ないわよね。嫌がっていないの、喜んでいるの。国を豊かにする、それがあの子の喜びよ」

「……なら好きにすればいい」

「……そうさせてもらうわ。今までも、これからもずっとね。クリスとアンジェ、そしてこの国のために」


まだ話し声は聞こえる。

しかし、アンジェは聞いていられなくなり後ずさった。

一歩、一歩、静かに下がる。ばれないように、気づかれないように。


(………そんな……)


騒ぐ心、混乱する心。


『クリスの小屋に行きなさい』


ふと脳裏によぎる、カトリーナの言葉。

部屋には戻りたくなかった。

戻ったらまた、嫁がされる。

金貨と引き換えに。


(い、いや………)


食堂を出ると、ホールへ駆け出した。

重く閉ざされた扉を少しだけ開け、アンジェは夜の道に走り出す。


(いや、いや………もういや………!)


カトリーナ、サラ、オリヴィア。

レイラにも、伯爵にも、三姉妹たちにも。

アンジェはずっと笑ってきた。

相手が笑っていれば、喜んでいると思ったから。

そして、笑っている相手に笑い返せば、何とかなって来た。

そう思う。


(……笑顔のままじゃ……ダメなの?)


夜の道を啜り泣きながら、アンジェは歩く。

頭の中がぐちゃぐちゃで、何もかもが散らかっている。

婚資、遺産、そして笑顔。

良いことのはずなのに。今のアンジェには何もわからなかった。


「……っ、…………ずずっ」


何も考えられない頭で足だけ進める。

目の前には、クリスの小屋があった。

鼻水を垂らしながら、小屋のドアに手をかける。


(……あ……鍵……)


鍵を置いてきてしまった。

中に入れない。


「う、う、……わあああん……」


途端に、心が張り裂けたように涙と声が溢れた。


(……声、出た……)


気持ちとは裏腹に、冷静にそう思ったりもした。


「わああん、わああああん………」


しかし涙と喉は止まらない。大きな声をあげて泣く。

恥ずかしいとか、情けないとか、そんな気持ちもなく、ただ苦しさを吐き出すように泣いた。


「わあああ……わあああああん……あ、あ……」


ガサガサ、と近くの茂みから音がした。


「……あ、あ……」


段々と声が小さくなる。茂みの音は大きくなる。

アンジェは、腕で身体を守るように胸にくっつけた。

小さな身体をさらに平らにし、隠すように。

すぐ目の前に迫る音に、身体を固くする。

音に気を取られ、涙はすでに引っ込んでいた。

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