二十二話(後編)
サラに部屋に案内され、アンジェは泥のように眠った。
(………………)
ゆっくりと浮上する意識、ゆっくりと開く瞼。
(……重い……)
まだ頭の中は鈍く、意識はぼんやりとしている。
身体もベッドに張り付いたようになかなか起きれない。
部屋の中は薄暗い。
着いたときは黄色い光と澄んだ青空が、今ではオレンジと藍色になっていた。
「………う……ん……」
ベッドから引きはがすように無理やり身体を起こした。
ゆっくりとまた、瞬きをした。
丸一日寝ていたようだ。
お腹が鳴る。空腹だ。しかし、食欲はない。
それよりも喉が渇いた。
(…………)
棚の上を見るが、何もなかった。
アンジェが寝るとき、サラがいつも用意してくれている水差しとグラスがない。
鉛のような体を起こし、アンジェは食堂へ向かおうとした。
すると、そのタイミングでノックの音。
「………………」
返事をしようと思ったが、喉が詰まっているのか声が出なかった。
ぼんやりとドアを見る。
アンジェの返事がないのだから、それで終わりのはずだった。
しかし、ゆっくりとドアノブが回った。
静かに、音を立てずに開くドア。
その隙間から顔を覗かせたのは、サラだった。
「あ、……起きていたんですね」
一瞬驚いた表情をしたが、見慣れた笑顔を浮かべている。
「お水、用意するのを忘れてしまって……持ってきたんですけど……」
たっぷりと水が入った水差しを見せて、サラは部屋の中に入ってきた。
「たくさん眠っていましたね。何度か来たんですけど、全然起きなくて」
グラスに水を注ぎ、アンジェに渡した。
まだ少し震える指先で、アンジェはグラスを受け取った。
サラのワンピースの袖口には、可愛いフリルがついていた。
そして、夕日を受けてきらりと光る眩しい金色のボタン。
「お食事の用意ができているんですけど、行きますか?」
アンジェが飲み干したグラスにまた水を注ぎながら、サラは聞いた。
「……………」
もう喉は乾いていないが、グラスを受け取る。
冷たいグラスを両手で支える。
「オスカー様もカトリーナ様も、気にされているから顔を見せに行っても良いと思いますよ」
少し投げやりな言葉。
いつもの、明るく元気なサラとはどこか違う。
「行きましょうか。その間に私が、アンジェリナ様の鞄の中身を整理しておきますから」
しかし、すぐに顔を綻ばせる。
いつもの、アンジェがよく知るサラに戻った。
「……う……ん……」
声を振り絞って返事をした。
掠れた音。これが自分の声なのか、と驚く半面、どうでもよかった。
明るく弾んだ声の、ご機嫌そうなサラに案内されて食堂へ向かう。
(………………)
ふらふらとする足取りのアンジェに気づいていないのか、サラはすたすたと先に行く。
そして、食堂の入り口でアンジェのことを笑顔を浮かべ待っていた。
いつもと変わらないサラ、のはず。
それなのに、どこか違う人のような感じがした。
(………………)
食堂に入るとあまりの眩しさに目がくらむ。
手で影を作り、少しだけ開いた。
「…………………………」
天井には豪華なシャンデリアが吊り下がっていた。
古い城壁とは似つかわしくない、とても豪勢で煌びやかなシャンデリア。
「アンジェ! 大丈夫? 落ち着いた?」
すかさずカトリーナが駆けよってアンジェの身体を支える。
「シュミーズのままなの? でも、食事が終わったらねるだけだし、いいわね……」
暖かな温もり。優しい言葉。安心する笑顔。
反して、アンジェに一瞥もくれずにオスカーは沈んだ暗い表情でひたすらに食事を続けていた。
「さ、たくさん食べてね。美味しいはずよ」
目の前に並んでいるのは、白いパンと少しだけ野菜の入ったスープ、厚いハム、そしてチーズ。
卵をゆでたものが、一つ。
ふやかした芋を潰したものには、細かく刻まれた謎の草が混ぜられている。
(…………………)
確かに、今までよりは豪華といえば豪華かもしれない。
ただ、ほとんどがそのままの素材である。
料理とは名ばかりの、食材の陳列。
「驚いた? まだ輸入の物ばかりだけど……少しずつ、良いものになってきているのよ!」
カトリーナは、まるで楽しい報告をするかのように元気に言った。
(…………………)
スプーンですくい、ふやかした芋を食べた。
途端に鼻を刺すのは、芋なのか草なのか分からない強烈な青臭さ。
手が止まった。
「……疲れているわよね、ゆっくり食べていいのよ」
カトリーナはその様子に、労わるように声をかけ席に戻った。
「あら、オスカー? アンジェへの特別な一品、今日はないの?」
カトリーナが不思議そうに、それでいて少しからかうかのような声でオスカーに聞く。
聞こえているはずだが、オスカーは無言で食べている。
「歓迎の印って、毎日張り切っていたじゃない」
「……………」
「あ、ごめんなさい。これ、アンジェには秘密のもてなしだったわよね……?」
「……………………」
「……ごめんなさい、余計なこと言ったわ……」
「……………。………今日は食欲がなさそうだからな……」
たっぷりと間を開けて、オスカーはおもむろに言った。
「そう? それもそうね」
カトリーナはそれ以上気にせずに、食べかけの食事を口に運ぶ。
「あら、アンジェ。全然食べていないじゃない。どうしたの?」
その様子をなんとなく見ていると、カトリーナが首を傾げた。
「たくさん食べないと元気が出ないわ。クリスだってあの子……ふふふ、あんなに細くてよく食べる子だったんだから」
アンジェを見つめるカトリーナ。
しかしその目は遠くを見るような、懐かしむような表情になった。
「……ねえ、本当に大丈夫? 食べないなら食べないでいいのよ。無理しないで」
動かないアンジェの目の前の皿を、カトリーナが手に取った。
そして、オスカーの皿と自分の皿に振り分ける。
「そういう日もあるわよね。食べ終わったら……オリヴィアの部屋に行きましょう」
オリヴィア。
その単語に、虚ろだったアンジェの瞳が揺れた。
可愛らしい声とは裏腹に、見た目が崩れた姉。
見るたびに段々と姿が変わり、悍ましさが増す。
脳裏によぎる姿に、鼻の中が痛くなった。
「じゃあオスカー、またあとでね」
珍しくカトリーナは食堂を出るときにオスカーに声をかけた。
唸るようなくぐもった返事をしアンジェの残り物を食べている。
「入るわよ、オリヴィア」
ノックをするカトリーナ。
しかし、部屋の中からは、澄んだ綺麗な声はしなかった。
無音である。
(………あれ?)
カトリーナは少しだけ待ってからドアを開けた。
強烈な異臭が廊下に充満する。
「さ……入ってアンジェ」
「……………」
言われるままに部屋の中に入った。
オリヴィアはいた。
ベッドに横たっている。いつも通りだ。
しかし、その落ち窪んだ眼は閉じられている。
「……オリヴィア、アンジェが帰って来たわよ」
歌うような、小さな声でカトリーナはオリヴィアの耳元で囁いた。
そして、そのままオリヴィアの口元に耳を近づける。
暫しそのままの状態で、カトリーナは止まった。
「……生きている……良かった」
身体を起こしながら、安堵した表情を浮かべる。
「ごめんなさいね、アンジェ。オリヴィア、昨日からずっと寝たきりなのよ」
「………………」
灰色の溶けた皮膚、原型を留めていない顔。
髪はほとんど抜け落ち、皮膚はカサカサと粉を吹いていた。
前見た時と同じ、醜悪な見た目。
アンジェにはオリヴィアが動いているのかもわからなかった。
(………………)
少しだけ開く灰色の唇、黄色い歯と、深淵のように真っ黒な口の中。
そこから紡がれる言葉や声。それはもうない。
心の奥がきゅっとなる。寂しいと思った。
(……好きだったのに……)
そう思った。
「………あ………」
「……アンジェ……?」
ふいに漏れた一言。
カトリーナがアンジェを振り向く。
立ち尽くすアンジェ。
アンジェはオリヴィアの声が好きだった。
安心する可愛くて綺麗な声、優しい言葉、涼しげな音。
今無性に恋しくなった。聞きたかった。
全身が痺れる。
「そろそろ行きましょうか。オリヴィアが起きたら教えるわ」
カトリーナが立ち上がり、ドアを開けた。
従ってアンジェも外に出る。
「せっかく帰って来たんだから、クリスの小屋にも行ってみなさいね。明日にでも」
クリス……小屋……森の中の……何もない、建物。
まだ痺れているアンジェは、カトリーナの言葉を上手く飲み込むことができなかった。




