十七話(前編)
お待たせいたしました。
アンジェの意識が戻ったので連載を再開いたします。
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「まったく、酷い話ですよね!」
小国に戻ったアンジェの足を洗いながら、サラは怒っている。
その様子を、黙って見つめる。
あまり覚えていないので、怒っているサラのことが不思議に感じる。
「目の前で殺されて、爵位も剥奪されて、小国の王女だからって理由で追い返されて……」
しかし、はっとしたように、サラは口を噤んだ。
「アンジェリナ様がお戻りになられて、私もやりがいがあります!」
そういって、サラは甘い香りがするお湯の中で足を揉む。
ふわりと香る。花のような、お菓子のような。
嗅いだことのない、甘い香り。
前はせっけんとサラの私物の蜜蝋だけだった。
アンジェが嫁いでいるときに、甘い香りの香油を買ったようだ。
「さ、綺麗になりましたよ」
ふかふかで柔らかい温かいタオルで、サラはアンジェの足を拭いた。
「ありがとう」
「いいえいいえ! ゆっくり休んでくださいね」
笑顔でサラがドアを閉めた。
「……………」
狭い部屋。硬くて薄いベッド。
小さなテーブルとイス。棚には真鍮の鏡が一つ。
古くて汚い、何もない部屋だ。
ベッドに寝転んだ。
(…………)
ふかふかの、沈むベッドが懐かしい。
やることと言えば寝ることだけだ。
その寝ることすら、アンジェにとっては背中と腰が痛くなる苦痛。
ぼんやりと天井を見ていると、外から男性と女性の話し声が聞こえた。
「……アンジェリナ……また……戻って……」
「……あの子……親孝行……ですわ」
「……そうじゃ……心……心配……」
「……大丈夫……あの子……クリス……強い子……」
「……似て……思えない……」
「……似ていますわ! そっくりでしょう!」
「……見た目はな」
そういいながら二人は建物に入ってきた。
扉が閉まる音がした。
オスカーとカトリーナだ。
二人は最近忙しいらしく、近くの村を回っているらしい。
帰宅は夕方だとサラは言っていた。
「アンジェ、アンジェ!!」
カトリーナが名前を呼んでいる。
階段を駆け上がる音がかすかにする。
「アンジェ!! お帰りなさい!」
ベッドから起き上がっていると、カトリーナは勢いよくドアを開けて入ってきた。
抱擁される。懐かしい。
だが、
(汗臭い……)
この暑い日に、村まで歩いているのだ。
仕方がないとはいえ、鼻に刺す臭いに顔をしかめる。
「アンジェ、あなた……また戻ってくるなんて……!」
「……ただいま、お母様」
目に涙を浮かべて、カトリーナはアンジェの頬をなでる。
「……なんだかふっくらしたわね。顔色も……思ったより悪くないわ」
「……………」
「良いわね、美味しいものたくさん食べてきたんでしょう?」
「………はい」
脳裏に、口の端を歪めて笑う伯爵の姿が浮かんだ。
そして、きつい香水と口臭。
一瞬吐きそうになった。
堪えて目を細めたアンジェに、カトリーナは嬉しそうに笑った。
「そう!! ちゃんと食事ができるのは良いことだわ!」
「……はい……」
カトリーナの笑顔に、アンジェは今度は笑顔を返した。
「本当は私たちもアンジェをお出迎えしたかったけど用事があって……そうだオリヴィア!」
ああ聞くだけで気が滅入る、憂うつな名前。
見た目も醜悪な、異臭を放つ存在。
声が可愛いだけの、姉。
「もう挨拶した? 昨晩、アンジェが帰ってくるって伝えたらとても喜んでいたわ」
「……ふふっ」
思わず出た笑い声。
嫌な状況になると、笑ってしまう。
「まあアンジェも嬉しいのね!? それじゃあ行きましょう!」
満面の笑みのカトリーナ。
『さあさ!』と笑顔を張り付けたアンジェの背中を押し、部屋を出た。
「オリヴィア、アンジェよ。今帰ってきたみたいなの。良いかしら?」
「……はい」
久しぶりに聞いた、可愛らしい小さな声。
少し元気がなさそうだ。
(……う……)
ドアを開けるとむせ返るように熱い。
そして、充満するとんでもない異臭。
「……………?」
部屋の角、床の隅に黒い影が動いた気がした。
「オリヴィア、調子はどう? 暑くない? 窓開けましょうか?」
「……大丈夫よ……」
「……そう。ほらアンジェ、オリヴィアの近くに来て……」
部屋の外に立つアンジェにカトリーナは声をかけた。
とても悲しそうな、暗い声。
それはオリヴィアも同じで、綺麗で可愛らしい声に力がない。
唯一の取り柄なのに、暗く沈んでいる。
オリヴィアに一歩一歩近づく。
灰色の肌は黒みを増し、顔は溶けたように皮膚が下がり顎に溜まっている。
前回オリヴィアが気にしていたボコボコの目元は、つるんと平らになっていた。
光を反射し、光ってすらいる。
「……………」
あまりにも異様な姿に、アンジェはカトリーナを見た。
カトリーナは、困ったように眉を下げている。
(……え……?)
たった十日ほどだ。二週間も経っていない。
その数日の間に、オリヴィアの姿は著しく変わっていた。
まるであの、枯れ木老人が腐ったような姿。
生きているのが本当に不思議だ。
「……最近特に暑いでしょう? 疲れちゃったみたいなの」
「…………」
疲れるとこんなになってしまうのか。
あまりの悲惨な姿に、アンジェは身震いした。
「オリヴィア、眠いの?」
「……いいえ、大丈夫よ……」
力なくオリヴィアは言葉を紡ぐ。
優しい綺麗な声は弱弱しい。
「この子ね、アンジェが嫁いで行ってからずっと泣いていたのよ。姉妹ってやっぱり、離れ離れ……いやよね……」
くぐもった声。
鼻をかんで、カトリーナは涙を拭いた。
「でもほら、アンジェが戻って来たわ。だからオリヴィアも頑張って。早くよくなりましょう、ね?」
「……お母様、あのね……」
もごもごと口を動かすオリヴィアの髪をカトリーナがなでた。
「ああ、ああ……オリヴィア……!」
ビクッと身体を震わせ、カトリーナは後ずさった。
ずるり、とオリヴィアの額がずれた。
裂けてできた割れ目から、黄色い液体が流れている。
茶色く変色している枕にしみこんでいった。
(………うっ)
アンジェは顔を背け、口を手で押さえる。
悲鳴が出そうなのを飲み込んだ。
「ちが、違うのオリヴィア……!」
「お母様、落ち着いて……大丈夫だから……」
「ごめんなさい、ごめんなさい………!」
「……大丈夫、痛くないから………」
カトリーナが立ったり座ったり、手を差し出したり引っ込めたりしている。
触れたことで崩れたオリヴィア。だから、焦っているのだろう。
「もう、もうどうしたら……」
「……痛くないの、本当よ」
「お水、お水を持ってくるわ。出た分飲まないと……!」
「…………。……わかったわ」
カトリーナは転がるようにして部屋を出て行った。
(………………)
いつもの、二人きりの時間。
重い空気。逃げ出したい場所。
アンジェはオリヴィアを直視できずに俯いた。
「……暑いとね、身体の中に水が溜まるみたい……」
「………………」
「……汗が出るところ……なくなったんだって……」
「………………」
「……だから体内に、水が溜まるの……」
「………………」
「……驚かせて、ごめんね」
笑えなかった。
反射的に、笑顔を向けることすらできない。
胸の中がもやもやした。
耳に心地良いはずの声が、か細いからだろうか。
「……暑いとか、寒いとか……痛いとか……もう分からなくて……」
「………………」
「……だから私のこと、気にしないでね……」
「………………」
「……もう来なくていいわ。……今までごめんね、ありがとう」
「………………」
「……大好きよ、アンジェリナ。バイバイ」
「………。……バイバイ」
少しずつ、少しずつ後ずさる。
ないとは思うが、背中を見せたらオリヴィアが襲い掛かってきそうで怖かった。
ゆっくりとドアを開け、部屋を出る。
廊下の新鮮な空気を肺いっぱいに吸った。
(………………)
廊下に出ると嬉しくなるはずが、今日はあまり嬉しくなかった。
カトリーナもオリヴィアも笑っていないからかもしれない。
気分が沈む。吐き気のする臭いを払うように、アンジェは手を振った。




