十五話(後編)
サラに夕食の時間と、声を掛けられ食堂へ向かう。
(………あ……)
椅子に座っているのはオスカーだけだった。
いつもはカトリーナだけか、カトリーナとオスカーの二人だ。
初めて二人きりになる。
(…………)
無表情で、何を考えているか分からない人。
アンジェはオスカーが苦手だ。
「アンジェリナ……」
「は、はい……」
名前を呼ばれ、身体を硬くする。
緊張した。
「……カトリーナと決めたなら、それでいい」
「……………」
「……すまない」
険しい表情。少しも笑わない目。
怒っているような、悲しんでいるような、不機嫌なような。
その雰囲気が、アンジェの目には不気味に映る。
(お母様、はやく……)
居心地の悪い空気にアンジェは俯いた。
目の前の銀の皿を見る。
「あ………」
黒いパンの横に、三枚の平たいものが乗っていた。
クッキーの偽物。
パキパキとした硬い食感と、あっさりした味のビスケット。
ちらりとオスカーの食器を見る。
パンの横には何もなかった。
(ああ………)
また、私だけ。
アンジェだけによこされる、あまり美味しくない一品。
「お待たせ! 伯爵へのお返事を書いていたら遅くなってしまって」
満面の笑みでカトリーナが登場した。
笑顔のカトリーナを見ると安心する。
アンジェも顔を綻ばせる。
「待たせてごめんなさいね。それじゃあ食べましょう」
カトリーナが食べ始めるのを見て、オスカーもアンジェも動いた。
ビスケットを手に取って口に入れる。
パキパキと音を立てて口の中で崩れた。
(……あれ……?)
あまり美味しくないのは、前に食べたから知っている。
しかし、
(不味い……)
前回出されたときに完食したビスケット。
美味しくないが、食べきれたビスケット。
しかし今日のは無理だ。美味しくない。
(…………?)
味や食感は変わらない。
それなのに、どうしても美味しいと思えず皿に戻す。
一口だけかけた、ビスケット。
そんなアンジェの様子を見たオスカー。
「………ふぅ……」
無表情なのに先ほどよりも表情が硬い。
唸るような息を吐いた。
(え……?)
初めてため息を吐かれた。
アンジェと視線が合うと、すぐにオスカーは顔を背ける。
何事もなかったかのように、ひたすら食べている。
(怒ってる……?)
分からないから不安だ。
そんなオスカーとアンジェの様子にカトリーナは手を止めた。
オスカーをじっと見て、アンジェに視線を向ける。
にこ、と笑った。
「大丈夫よ。好きにたべてちょうだい」
「……は、はい………」
オスカーは怖い。
しかし、オスカーのことを見たカトリーナがほほ笑んだ。
だから大丈夫なのだろう。
美味しくない食事を無理やり食べ、スプーンをテーブルに置いた。
「アンジェ、嫁ぎ先のことなんだけど……実は少し前からやり取りをしていたのよ」
カトリーナは視線だけをオスカーに向けた。
オスカーは無言だ。
何も言わないオスカーを確認してから、カトリーナは満面の笑みになった。
「伯爵はとても乗り気でね。アンジェのことを大切にするって言っていたのよ!」
嬉しそうに手のひらをあわせ、カトリーナはそこに頬を乗せた。
「だから任せることにしたの。それで、先ほど返事したから明日明後日には出立することになるけど……」
「……早すぎないか」
無言を貫いていたオスカーが、じっとカトリーナを見ている。
カトリーナは驚いたのか、笑顔が消える。
「え、ええ……でも乗り気なのよ? 若くて爵位もある、アンジェを気に入っている素晴らしい貴族よ!」
「……アンジェと会ったことないだろう」
「それは、アンジェの容姿を書いたのよ! だってクリスに似てとても可愛らしいんだから!」
「…………」
「大切なことでしょ? アンジェの一番の魅力だわ!」
「………。……寝る」
それだけを言い、オスカーは食堂を出て行った。
「だって、だって良いことだわ!」
カトリーナは何も言わないオスカーの背中に叫んでいる。
「良いことよ、良いことでしょ? ね、アンジェ?」
「え……? は、い……」
笑顔で振り向いたカトリーナ。
アンジェは思わず頷いた。
「そうでしょう、そうなのよ!」
嬉しそうなカトリーナに、アンジェも微笑む。
「アンジェは分かってくれると思っていたわ! それじゃあ――」
ああ、来る。あの言葉。
幾度となく繰り返されてきた、忌まわしいあの言葉。
カトリーナは、アンジェが残したビスケットの銀の皿を手に取る。
「オリヴィアに挨拶に行きましょうか」
「……はい」
笑顔を崩さずに、アンジェは返事をした。
(……………)
満足そうなカトリーナに続き、オリヴィアの部屋に向かう。
「オリヴィア、起きている? アンジェが来たわよ。入るわね」
カトリーナがドアを開けた。
アンジェのいる廊下に嫌な臭いの空気を流す。
「お母様、アンジェリナ。こんばんは」
綺麗で優しい声。
姿さえ見なければ、いつまでも聞いていられる。
「さ、アンジェも早く中に入って」
小さな声で促され、部屋の中に入る。
見たくないのに見えてしまうオリヴィア。
変わらずに醜い。
目元もボコボコした皮膚もそのままだ。
「お夕飯の時間なの?」
「ええ、ビスケット持ってきたわ。あとでお湯で溶いてくるわね」
「嬉しいわ、大好きなの!」
銀の皿に乗った、三枚のビスケット。
一つはアンジェの齧りかけだ。
「それでね、オリヴィア……アンジェがまた大国に嫁ぐことになったのよ」
「……え? また? だって、そんな……戻ってから一ヶ月くらいしか経っていないわ」
可愛らしくきれいな声。
テンポがいつもより早い。驚きが浮かんでいた。
カトリーナは脂ぎったオリヴィアの頭をなでた。
その動きで、フケがぽろぽろと落ちた。
アンジェは目を背けた。
「そうなの……。寂しいわよね……」
「……どんな方なの? 素敵な方?」
「ええ! もちろん! お金持ちの貴族で、アンジェのことをとても気に入っているのよ!」
「良かった、アンジェリナとはもう会っているね」
「いえ、それは…………」
カトリーナが言葉を濁した。
暫しの無言。沈黙が流れる。
「会ったこと……ないの?」
「お手紙だけでアンジェの良さは伝わるわ。良い子だもの、あなたも知っているでしょう?」
「…………。…………そうね」
力の抜けた、オリヴィアの囁き。
「アンジェリナはいつ、家を出るの?」
「お相手が乗り気だから、明日か明後日には」
「……そう……」
「何も心配はいらないわ。今度こそうまくいくもの」
オリヴィアの灰色の瘦せこけた頬と髪にキスをして、カトリーナは立ち上がった。
「ビスケット、お湯で溶かしてくるわ。二人でお話していてね」
そう言ってドアを閉じた。
寝たきりで動けないオリヴィア。
逃げたいのに、許可がないと出られないアンジェ。
二人きりの空間。
「アンジェリナ……また大国に行ってしまうのね」
ため息交じりの、綺麗な音の声。
「せっかく戻って来たのに、こんなにすぐ……まるで、売られるような……あっ」
「…………?」
「ごめんなさい、違う。違うの……。でも、これが本当にアンジェリナの幸せなの……?」
柔らかな声色。オリヴィアの問いかけ。
僅かな口の隙間から見える口の中。
漆黒の闇。
「みんな変だわ。お母様も、サラも……」
「…………」
「……でも、決まったならもう……。……寂しくなるわ」
漆黒の穴から出る、吐息交じりの小さな声。
紡がれる音は耳に心地良い。
「……私はいつでもここで、アンジェリナの幸せを願っているわ」
真っ黒い穴が、横に伸びた。
茶色い歯も見える。笑っているようだ。
「今度こそ、良い人でありますように」
「……う、うん」
不気味な笑顔に、アンジェも笑顔を返す。
しかし、引きつってぎこちない。
上手く笑えなかった。
「ありがとう、ごめんね……もう戻っていいわ」
「うん……」
お許しが出た。
じりじりと後ずさりながらドアに近付く。
ドアノブを触ると、急いで部屋の外に出た。
「……アンジェリナ、本当にごめんなさい………」
閉じたドアからかすかに聞こえる声。
(…………)
まだ何か言うかその場に立って待つ。
しかし、オリヴィアはそれ以上何も言わなかった。
声だけは本当に綺麗で可愛らしい。
なぜ生きているのか不思議なくらい不気味な見た目なのに。
怪物のような見た目から紡がれる声は優しく、穏やかで心地よい。
(………はあ…)
もし結婚したなら、毎日オリヴィアに会うことはなくなる。
それだけで、心が軽くなる。
オリヴィアの部屋に通うことは、本当に不快で堪らない。
(結婚か……)
アンジェの結婚。
カトリーナが喜んでいるから良いことだ。
オリヴィアに会わずにすむ。
不機嫌なオスカーとだって会わなくていい。
部屋に戻りながらアンジェの心は弾んだ。




