十五(前編)
小国に戻ってからは毎日が平和だった。
明るく元気で丁寧なサラ。
いつも笑顔でアンジェを抱きしめてくれるカトリーナ。
ただ、醜いオリヴィアと喋ること。
オスカーとの食事は苦手だった。
「アンジェリナ様、これ……使ってみませんか?」
繰り返される同じ日々。しかし、今日は違った。
朝食の後、サラが取り出したのは小皿。
受け取り、まじまじと見る。
小皿の底には赤いものが塗られていた。
「…………?」
見たことのないものだ。
「実はこれ、紅なんです」
「……紅……?」
「そう、口紅」
嬉しそうに笑顔になったサラの口。赤く色づいていた。
(口紅……)
アンジェが知る口紅は、貝殻の内側に玉虫色に光る粉がついたもの。
サラが持っている口紅は初めて見た。
「アンジェリナ様にも使いますね」
そう言って、水差しで指を濡らしサラは紅をすくう。
アンジェの唇に塗った。
差された紅。鏡に映るアンジェ。
顔が一気に明るくなった。
そして、ほんの少し大人っぽくも見える。
「どうですか? 綺麗でしょう」
「ええ、綺麗ね」
「ふふふ、今日は特別ですよ」
人差し指を立て、サラは唇へもっていった。
いたずらをする子どものように笑う。
「ありがとう、サラ」
「いえいえ。そうだ、アンジェリナ様は今日、クリス様の小屋に向かわれるんですよね?」
「……ええ」
クリスの小屋を掃除したものの、アンジェはあれ以来足を運んでいなかった。
見かねたのか、朝食の時にカトリーナに小屋に行くように言われた。
「草がまた伸びてきているので、私も一緒に行きますね」
「ありがとうサラ!」
「アンジェリナ様のことをお守りします!」
『ではホールでまた』と言い、サラは部屋を出て行った。
アンジェは一番上の引き出しを開けた。
私物の少ないアンジェは、ここに全部入れている。
中には小屋の鍵、オスカーのもらった金貨が入っている袋だけ。
鍵を掴む。
(…………)
金貨が入った革袋も取り出した。
全く使っていない、存在すら忘れていた革袋。
中を確認する。
(……あれ?)
一、二、三、四。
金貨が四枚しか入っていない。
一枚少ない気がした。
棚の奥を見るが、落ちていない。
(…………?)
気のせいかもしれない。
最初から四枚だった気もする。
使うこともない金貨の袋を戻した。
そしてサラの待つホールへ向かう。
サラは柄長の大鎌を担いで待っていた。
「それじゃあ行きましょうか」
「ええ」
二人で歩きだす。
大鎌を軽々と持ち上げるサラは頼もしい。
「季節がら、あっという間に伸びますね……」
小道に着くと道には細く草が伸びている。
サラが先頭に立ち、大鎌を振り回して刈っていく。
アンジェはその後ろについていく。
「それではまた。アンジェリナ様」
サラと別れる。
大鎌を振りながらサラは元来た道を戻った。
(…………)
特に来たくもない小屋に着く。
鍵を開ける。相変わらず熱気がこもっている。
あんなに掃除したのに、まだ埃臭い。
不十分だったのだろうか。
窓を開けてベッドに横になる。
生温かい風が室内の空気をかき混ぜる。
(……………)
鳥の鳴き声。木々のざわめき。
風が揺らすカーテンの音。
髪が耳元で揺れる。
そして、足音。
(…………?)
身体を起こすと同時に、ノックがされた。
ドアが開き、カトリーナが立っていた。
そのまま中に入ってくる。
「アンジェ……ちょっといいかしら」
少し暗い表情だ。
「……あら、このまえ掃除したのよね? もうこんなに……?」
カトリーナは眉をしかめる。
鼻が痒いのだろうか。
指先で鼻の下を押さえている。
「オスカーにはまだ言っていないんだけど……大事な話があるの」
カトリーナはアンジェの隣に座る。
ベッドが沈んだ。
「アンジェにまた嫁いでもらおうと思っているのよ」
「え………?」
思わず漏れる声。
(また、結婚……?)
一度目の結婚がフラッシュバックする。
慣れない家事。老人の世話。
怒鳴られる毎日。
(………いや……)
顔に出ていたのだろう。
不安そうなアンジェに、カトリーナは微笑む。
その表情は寂しそうだった。
「大丈夫よ。前の結婚が酷いものだったでしょう? だから、今回はちゃんと相手を選んだわ」
いつものように、アンジェの髪をなでる。
サラに蜜蝋で整えてもらい、なめらかになった髪。
ふわり、と甘い香りが漂う。
「あなたが幸せになれるような、若い男性。戦争で成り上がった……いえ、お金持ちの伯爵よ」
優しい指先。
髪をなでていた指が、アンジェの頬に触れる。
「大国の貴族だけど、最近ここ数年で爵位を授かったようだし……きっと無名だから」
無名だと何が良いのかアンジェにはわからない。
しかし、カトリーナが笑いながら言うということは、きっと。
きっと、良い相手なのだろう。
「結婚は素晴らしいって、アンジェに知ってほしいの」
「…………」
「クリスは……あの子は……可哀想だったから……」
言葉を詰まらせ、カトリーナは口を閉ざした。
苦しそうに声を漏らし、視線を落とす。
しかし、顔を上げるとまた穏やかな笑顔。
「オリヴィアだって難しいわよね? ね、アンジェだけが結婚で幸せを掴めるのよ」
笑顔なのに、今にも泣きだしそうなカトリーナ。
アンジェの頬を両手で挟む。
そして、じっと瞳を覗き込んできた。
アンジェと同じく、ラベンダー色の瞳。
「幸せになるのよ」
「……」
「可愛い可愛い、クリスと……私たちの娘。幸せになって……」
カトリーナはくしゃ、と顔を歪ませる。
その拍子に、涙が一筋こぼれた。
「……はい!」
泣きながら笑うカトリーナ。
(これは……)
泣いているが、カトリーナは喜んでいるのだ。
喜んでいることが嬉しくて、力強く頷く。
途端に、大きく笑みの形で口を開けるカトリーナ。
「ありがとうアンジェ! オリヴィアだってアンジェが幸せになったら喜ぶわ!」
「……はい!」
「もちろん、クリスだって」
そういってカトリーナはなぜかベッドをなでた。
優しい手つき。オリヴィアに向ける、慈しむような表情。
ひとしきりなでてから、カトリーナは立ち上がった。
「ありがとうアンジェ。話はオスカーに通しておくわ」
「…………」
「それから、口紅とてもよく似合ってるわ。当日もつけてね」
涙を拭って、カトリーナはドアを閉めた。
遠ざかる足音。
耳を澄ますが、サラの草を刈る音もしない。
一人になった。
(………)
ころん、とベッドに倒れる。
横になって天井を見た。
ゆっくりゆっくり、瞬きをする。
(そろそろ……かな……?)
小屋での時間の過ごし方がわからない。
早すぎるとカトリーナに『ゆっくりしていいのよ』と言われる。
ゆっくりと身体を起こし、硬いベッドから起き上がる。
ゆっくりした動作で歩き、城に戻ることにした。




