十二話(後編)
朝食の準備ができ、ワゴンを押しながら二人は侯爵の部屋に向かった。
「今日は遅くなったのできっと侯爵様はいつも以上に怒ります」
「…………」
「でも、奥様が手作りしたのだから喜ばれると思います」
「………!」
「侯爵様が騒いでも気にせずに。食べさせれば大人しくなります。いつも通りに」
「……はい」
レイラがアンジェに指示を出す。
汚い声で怒鳴り散らす侯爵は、食べているときだけは静かになる。
ノックをしてレイラが声を出す前に、部屋の中から物が壊れる音がした。
「……失礼いたします」
「レイラ!!! 何をしている、とっくに時間は過ぎているぞ!!!」
「本日は奥様がお料理をされたので、少し手間取りました」
「時間厳守だと言っているだろう!!! これだから親に売り飛ばされた女共は!!!」
「さ……奥様、侯爵様にお食事を」
「若さと見た目しか価値のない女共、下劣な女共が!!!」
レイラに促され、ワゴンをベッドの横に持っていく。
スープ皿を手に取って、スプーンですくう。
まだ喚き散らしている醜い老人の口に運んだ。
「……男に仕えることしか……脳のない女共……」
口に入れると、老人は怒鳴るのをやめ咀嚼した。
口を動かすたびに周りには皺が寄る。
罵声が止まったことに、アンジェは胸をなでおろした。
ゆっくりと口を動かしている男の口元にニンジンを乗せたスプーンを待機させる。
(良かった……)
普段とは少し違うスープ。
いつもは細かく丁寧に作ってある、どろどろのレイラのスープ。
しかし今日は、具だくさんのサラサラのアンジェのスープ。
違う食感に枯れ木男は文句を言うことなく、口を動かしている。
「う……!」
枯れ木老人が口を開けた。
口の端から液体がこぼれている。
すかさず口の中に肉の入ったスープを入れる。
「うぅ………!」
くぐもった老人の声。
口の端からだらだらとスープをこぼしながら、口を開けている。
アンジェはまたスプーンで大きな野菜を口の中に入れようとした。
しかし、舌で拒否されたため必死に押し込む。
「ぐ、………ぐっ! ごふっ!」
口の中に入っているスープをアンジェに吹きかける。
(う……)
とっさに目をつぶった。
恐る恐る開けると、また枯れ木男の口が開いている。
「奥様、急いで。早くしないと侯爵様に怒鳴られます」
レイラに催促される。
せっかく静かになったのに、怒鳴られるのはいやだ。
(あ、早く……!)
口が開いたらすぐに運ばなくてはいけない。
この一週間、このテンポがずれると枯れ木老人は怒鳴り散らすのだ。
またスプーンですくい、ジャガイモを口に運んだ。
「………、………!」
怒鳴り声も呻き声も止んだ。
しかし、茶色い肌の老人は目を見開いている。
黄ばんだ白目の部分が充血しているのか、赤い。
ゆっくりと大きく開く口に、アンジェはまたスプーンを入れ、流し込む。
だが口はぴくりとも動かない。
舌の上に乗ったニンジンを残し、スープは流れ老人の服を汚した。
「…………?」
開きっぱなしの口に、もう一度スープを流す。
「はい、結構です」
レイラが近づいてきた。動かない老人の顔を覗き見る。
「それじゃ、後片付けをしましょう。ワゴンを食堂に運んでおいてください」
「…………?」
「終わったら自室で待機を」
皿に残っているスープ。
食事はまだ終わっていない。
(いいの……?)
今は静かだが、怒鳴られないだろうか。
ふとそんなことを思う。
だが、レイラに指示されればアンジェは従うしかない。
ワゴンを食堂に戻し、自室に戻る。
アンジェは部屋に戻ると窓際にある椅子に座った。
ほどなくして、レイラが入ってくる。
(…………?)
窓の外から音がする。
立ち上がって外を見ると、馬車が屋敷に向かっていた。
中から人が出てきて建物に入ってくる。
お客さんだろうか。
アンジェは中庭を眺める。
せっかくの庭園なのに荒れている。もったいない。
「失礼します、奥様」
部屋に入ってきたレイラにアンジェは振り向いた。
「侯爵様が亡くなったので、奥様には小国へ帰っていただきます」
侯爵が亡くなった。この言葉に、アンジェは固まる。
(……え………?)
先ほどまで喚き散らしていた枯れ木老人。
死んだ?
「本来ならばこの土地を継ぐのは奥様ですが……爵位は皇帝陛下に返上する予定です」
久々に聞いた嫌な単語。心臓が痛くなる。
皇帝陛下。そうだ、ここは大国なのだ。アンジェは俯く。
身体が震えた。耳の後ろから冷たくなっていく。
暫く会っていないのに腕に鳥肌が立つ。
「奥様が継いだって管理しきれないでしょう。私だってここに残るつもり、ありませんので」
「……………」
「これは私からの慈悲です」
「……………」
「それでは支度を。出立は明日。私の方でも手続きを進めてまいります」
レイラはそれだけを言って部屋から出て行った。
(帰る……?)
食事もままならない、城だって今にも壊れそうなあの国に。
無口で怖い顔のオスカー。
醜く臭いオリヴィア。
だけど、笑顔のサラと優しいカトリーナ。
「……そう」
小さく呟いた。
レイラが決めたならそれが正しいのだ。
ただ一つ。困ったことがある。
まとめる荷物を入れるカバンがなかった。




