十二話(前編)
アンジェの一日は身支度から始まる。
ワンピースを着て、ブラシで髪をなでる。
準備ができたら、前日の夜にレイラに教えられたとおりの行動をする。
窓枠拭き、ホールのほうき掛け、雑巾がけ。
侯爵のシーツや掛布団の交換、着替え。
身体を拭き、呼び鈴や怒声が飛べば排泄の世話。
(大変ね……)
嫁いで一週間ほど経つが、全く慣れない。
アンジェが目の前で失敗するたび、老人はレイラを怒鳴りつけて罵倒していた。
だからこそ、失敗を補ってくれるレイラの存在は心強かった。
なによりも、一緒に怒られることで仲間意識が芽生えていた。
(レイラ……凄いわ!)
てきぱきと食事や洗濯、アンジェの指導や老人介護まで一人でこなしている。
アンジェにとって安心して頼れる、姉のような存在だ。
ここに嫁いできて、一体どれだけ救われただろうか。
まだ笑ったことがないところを除けば、優しい女性だ。
(……えっと、なんだっけ……)
今朝の仕事は、中庭にある水汲み場へ向かうこと。
新鮮な、綺麗な水を汲むことだ。
これが終わったら厨房から侯爵の食事を受け取り、食べさせる。
(やだな……)
掃除はましだ。レイラが優しく教えてくれる。
だからこそ、枯れ木老人の世話が一番の苦痛だった。
気が沈む。
(でも………)
レイラに存在理由と言われたのだ。
精いっぱい尽くさなければならない。
大変疲れる環境ではあるが、レイラの作る食事はとても美味しい。
アンジェの部屋も、ベッドも清潔で綺麗だ。
その清潔を守るのはもちろん、アンジェ自身の役目ではあるが。
それが心の支えだ。
「……はあ……」
水桶に汲んだ水を、食堂にある大樽の中に入れる。
こぼさないように、慎重に。
あと残り四往復だ。
「ちょっと……あなた、何をしているんですか!」
「………え……?」
野菜を切っていたレイラが、とても冷ややかな視線を向けていた。
この視線にも慣れたものだ。
笑わないレイラの、いつも通りの反応。
「水、足したわ」
こぼさずに大樽に水をそそぐ。
完璧に、確実に一回目を終えることができた。
きっとレイラには、今日こそ褒めてもらえるはずだ。
安心させるようにアンジェは笑顔を返した。
「……その大樽の水は、私たちも飲むんですよ?」
しかし、返ってきたのは笑顔でも感謝でもなく、低い声。
「その水桶は掃除用です。毎日の雑巾がけで使っていますよね?」
「……? はい!」
疑問符が浮かぶ。
(ダメ……?)
毎日使っているからこそ、今日も使った。
明るい返事だけをし、何も言わないアンジェ。
レイラはため息を吐いた。
この流れもいつも通り。
「掃除で使う水桶で汲んだ水、飲めますか? ああ、飲めるんでしょうね、下賤の民だから」
レイラは指で額を支え、再度ため息を吐いた。
「はあ、中身を捨てて樽を洗わないといけませんね……」
「……ごめんなさい……」
「指示されたこともできない、思考能力も判断力もない……役立たずのゴミくず」
手に持っていた包丁の背で、まな板をドンドン、と叩いた。
その様子にアンジェは怯える。
いつも通りのレイラの無言の動き。
それが怖くて、きゅっと身をすくめる。
「……昨日言った通り、大樽の横にある水桶で汲んできてください。急いで、早く」
「は、はい!」
しゃがむと、足元には別の水桶があった。
アンジェが使った水桶と同じ形だが、中の色が違う。
今見つけた水桶は中が綺麗な、真新しい木の色。
対していつもアンジェが使っている水桶は、中が真っ黒に汚い。
まじまじと見ると、底にゴミがついている。
古い糸くずや、沈殿している土埃。そして、黒いシミ。
(汚い……)
あまりの汚さに、驚く。
そういうものだと思っていた。
しかし違いが分かった今、間違えることがないだろう。
綺麗な水桶を持ってアンジェは中庭に急いだ。
四苦八苦しながら水を汲み、また厨房に戻る。
「……だから!」
大樽に近づこうとすると、レイラが叫んだ。
大きな声に驚く。危うく水をこぼしそうになった。
「継ぎ足さないで。台に置いてください」
「は、はい……」
水桶を台の上に置いた。
次の指示を待つため、レイラに向き直る。
(……………)
無視して野菜を切るレイラ。
ぴたりと、その手を止めた。
「アンジェリナさん。私、疲れました」
「………え?」
包丁を投げるようにまな板に置く。
ゴン、と低い音が響いた。
「疲れました。使用人の数が増えたのに、なぜ私の仕事は倍になるのですか?」
「…………」
「こんなはずじゃなかったのに。何もかも……何もかもが憎い、許せない……」
「…………」
「ふ、ふふふ……」
黙り込むアンジェに、レイラは息を漏らした。
「ふふふ、ふふふ……!」
変わらない冷たい目が、今は細くなっている。
そして、歪んだ口元。
(……笑ってる!)
気付いた途端、アンジェは顔を輝かせた。
初めて見るレイラの笑顔。
心の底から嬉しくなる。
「ふふふ、……アンジェリナさん、時間切れです。お疲れさまでした」
時間切れ、という言葉にアンジェは目を瞬かせた。
単語の意味が理解できなかった。
「私は疲れたので替わりに料理してください。できますよね?」
「え……?」
「毎日見ていたんだから、できますよね?」
「はい……!」
ずっと無表情だったレイラの笑顔。
アンジェもまたとびきりの満面の笑みを向ける。
レイラが少し位置をずらし隣に移動した。
空けられた場所にアンジェが立つ。
途中まで切られた野菜。
指示を仰いで、レイラの顔を見る。
「好きにやりましょう。侯爵様はきっと、アンジェリナ様の……奥様の手料理が食べたいと思います」
奥様、という単語に胸が締め付けられる。
あの枯れ木老人の妻であることを突き付けられた。
「さ、奥様。ご自身で作る料理は美味ですよ、頑張りましょう」
レイラは重なるようにアンジェの背面に立つ。
手に包丁を握らせた。
初めて触るレイラ。その手はとても冷たい。
「私の料理を毎日見ていた……眺めていた奥様。実践です」
身体が密着していて振り向けない。
レイラの顔は見えないが、言葉はいつもより優しい気がした。
「……わかったわ……!」
そういうと、レイラはアンジェの手を離し、離れた。
刻みかけのニンジンを手に取る。
薄く、細かく、食べやすく。
毎日レイラが何度も言う言葉。
包丁をニンジンにあてる。
(…………)
初日に指を切った記憶がよみがえる。
痛かった。レイラには、舐めておけと言われ放置された。
結局アンジェは血を見ないよう、ワンピースで拭った。
いつの間にか傷は治っていたが、あんな思いはもう嫌だ。
(……怖い……)
両手で包丁を握る。
これなら手を切ることがない。
両手で力を込めて包丁をニンジンの上におろした。
半分ほど食い込む。が、それ以上動かない。
「…………?」
「力を込めて!」
包丁から手を放そうとした瞬間、レイラは指示を出した。
言われた通り、さらに力を込める。
ストン、とニンジンは半分に切れた。
(やった……!)
額に汗を浮かべ振り向く。レイラは笑っていた。
褒めてもらった気がした。
「その調子です。どんどん切りましょう」
ほっと胸をなでおろす。
あっているようだ。また包丁を振り下ろす。
ストン、ストン、とニンジンを半分に切っていく。
「時間がかかりすぎです。早く煮込みましょう」
鍋のお湯が沸いたのを確認し、レイラが促す。
言われた通りアンジェはニンジンを両手で掴む。
鍋に落としていく。
(熱い……!)
お湯が手にはねた。慌てて引っ込める。
最初よりはずいぶんと小さくなったニンジン。
お湯の中でゴロゴロと踊っている。
「さ、次はジャガイモと玉ねぎ、そしてお肉」
パン、と手を叩いてレイラはアンジェをまな板に戻らせる。
まな板と包丁を一式出した。
「私は下ごしらえをします。奥様は同じように切ってください」
玉ねぎの皮を剥いたり、肉の筋を取ったりと慣れた手つきでレイラは準備をする。
渡された食材をアンジェは包丁で真っ二つにする。
「自分で作った料理は格別ですから。ね、奥様」
半分に切る作業に苦戦しているアンジェに、レイラは楽しそうに話しかけた。
額の汗がまな板にこぼれる。アンジェは頷いた。
「きっと素晴らしい、最高の朝食になります」
「そう、なの……?」
「だからほら、早く手を動かしてください」
レイラに注意され、また食材に向き合う。
包丁はまだ少し怖いが、レイラがそういうならきっと。
美味しくて楽しい食事になりそうだ。




