表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/24

十二話(前編)

アンジェの一日は身支度から始まる。

ワンピースを着て、ブラシで髪をなでる。

準備ができたら、前日の夜にレイラに教えられたとおりの行動をする。

窓枠拭き、ホールのほうき掛け、雑巾がけ。

侯爵のシーツや掛布団の交換、着替え。

身体を拭き、呼び鈴や怒声が飛べば排泄の世話。


(大変ね……)


嫁いで一週間ほど経つが、全く慣れない。

アンジェが目の前で失敗するたび、老人はレイラを怒鳴りつけて罵倒していた。

だからこそ、失敗を補ってくれるレイラの存在は心強かった。

なによりも、一緒に怒られることで仲間意識が芽生えていた。


(レイラ……凄いわ!)


てきぱきと食事や洗濯、アンジェの指導や老人介護まで一人でこなしている。

アンジェにとって安心して頼れる、姉のような存在だ。

ここに嫁いできて、一体どれだけ救われただろうか。

まだ笑ったことがないところを除けば、優しい女性だ。


(……えっと、なんだっけ……)


今朝の仕事は、中庭にある水汲み場へ向かうこと。

新鮮な、綺麗な水を汲むことだ。

これが終わったら厨房から侯爵の食事を受け取り、食べさせる。


(やだな……)


掃除はましだ。レイラが優しく教えてくれる。

だからこそ、枯れ木老人の世話が一番の苦痛だった。

気が沈む。


(でも………)


レイラに存在理由と言われたのだ。

精いっぱい尽くさなければならない。

大変疲れる環境ではあるが、レイラの作る食事はとても美味しい。

アンジェの部屋も、ベッドも清潔で綺麗だ。

その清潔を守るのはもちろん、アンジェ自身の役目ではあるが。

それが心の支えだ。


「……はあ……」


水桶に汲んだ水を、食堂にある大樽の中に入れる。

こぼさないように、慎重に。

あと残り四往復だ。


「ちょっと……あなた、何をしているんですか!」

「………え……?」


野菜を切っていたレイラが、とても冷ややかな視線を向けていた。

この視線にも慣れたものだ。

笑わないレイラの、いつも通りの反応。


「水、足したわ」


こぼさずに大樽に水をそそぐ。

完璧に、確実に一回目を終えることができた。

きっとレイラには、今日こそ褒めてもらえるはずだ。

安心させるようにアンジェは笑顔を返した。


「……その大樽の水は、私たちも飲むんですよ?」


しかし、返ってきたのは笑顔でも感謝でもなく、低い声。


「その水桶は掃除用です。毎日の雑巾がけで使っていますよね?」

「……? はい!」


疑問符が浮かぶ。


(ダメ……?)


毎日使っているからこそ、今日も使った。

明るい返事だけをし、何も言わないアンジェ。

レイラはため息を吐いた。

この流れもいつも通り。


「掃除で使う水桶で汲んだ水、飲めますか? ああ、飲めるんでしょうね、下賤の民だから」


レイラは指で額を支え、再度ため息を吐いた。


「はあ、中身を捨てて樽を洗わないといけませんね……」

「……ごめんなさい……」

「指示されたこともできない、思考能力も判断力もない……役立たずのゴミくず」


手に持っていた包丁の背で、まな板をドンドン、と叩いた。

その様子にアンジェは怯える。

いつも通りのレイラの無言の動き。

それが怖くて、きゅっと身をすくめる。


「……昨日言った通り、大樽の横にある水桶で汲んできてください。急いで、早く」

「は、はい!」


しゃがむと、足元には別の水桶があった。

アンジェが使った水桶と同じ形だが、中の色が違う。

今見つけた水桶は中が綺麗な、真新しい木の色。

対していつもアンジェが使っている水桶は、中が真っ黒に汚い。

まじまじと見ると、底にゴミがついている。

古い糸くずや、沈殿している土埃。そして、黒いシミ。


(汚い……)


あまりの汚さに、驚く。

そういうものだと思っていた。

しかし違いが分かった今、間違えることがないだろう。

綺麗な水桶を持ってアンジェは中庭に急いだ。

四苦八苦しながら水を汲み、また厨房に戻る。


「……だから!」


大樽に近づこうとすると、レイラが叫んだ。

大きな声に驚く。危うく水をこぼしそうになった。


「継ぎ足さないで。台に置いてください」

「は、はい……」


水桶を台の上に置いた。

次の指示を待つため、レイラに向き直る。


(……………)


無視して野菜を切るレイラ。

ぴたりと、その手を止めた。


「アンジェリナさん。私、疲れました」

「………え?」


包丁を投げるようにまな板に置く。

ゴン、と低い音が響いた。


「疲れました。使用人の数が増えたのに、なぜ私の仕事は倍になるのですか?」

「…………」

「こんなはずじゃなかったのに。何もかも……何もかもが憎い、許せない……」

「…………」

「ふ、ふふふ……」


黙り込むアンジェに、レイラは息を漏らした。


「ふふふ、ふふふ……!」


変わらない冷たい目が、今は細くなっている。

そして、歪んだ口元。


(……笑ってる!)


気付いた途端、アンジェは顔を輝かせた。

初めて見るレイラの笑顔。

心の底から嬉しくなる。


「ふふふ、……アンジェリナさん、時間切れです。お疲れさまでした」


時間切れ、という言葉にアンジェは目を瞬かせた。

単語の意味が理解できなかった。


「私は疲れたので替わりに料理してください。できますよね?」

「え……?」

「毎日見ていたんだから、できますよね?」

「はい……!」


ずっと無表情だったレイラの笑顔。

アンジェもまたとびきりの満面の笑みを向ける。

レイラが少し位置をずらし隣に移動した。

空けられた場所にアンジェが立つ。

途中まで切られた野菜。

指示を仰いで、レイラの顔を見る。


「好きにやりましょう。侯爵様はきっと、アンジェリナ様の……奥様の手料理が食べたいと思います」


奥様、という単語に胸が締め付けられる。

あの枯れ木老人の妻であることを突き付けられた。


「さ、奥様。ご自身で作る料理は美味ですよ、頑張りましょう」


レイラは重なるようにアンジェの背面に立つ。

手に包丁を握らせた。

初めて触るレイラ。その手はとても冷たい。


「私の料理を毎日見ていた……眺めていた奥様。実践です」


身体が密着していて振り向けない。

レイラの顔は見えないが、言葉はいつもより優しい気がした。


「……わかったわ……!」


そういうと、レイラはアンジェの手を離し、離れた。

刻みかけのニンジンを手に取る。

薄く、細かく、食べやすく。

毎日レイラが何度も言う言葉。

包丁をニンジンにあてる。


(…………)


初日に指を切った記憶がよみがえる。

痛かった。レイラには、舐めておけと言われ放置された。

結局アンジェは血を見ないよう、ワンピースで拭った。

いつの間にか傷は治っていたが、あんな思いはもう嫌だ。


(……怖い……)


両手で包丁を握る。

これなら手を切ることがない。

両手で力を込めて包丁をニンジンの上におろした。

半分ほど食い込む。が、それ以上動かない。


「…………?」

「力を込めて!」


包丁から手を放そうとした瞬間、レイラは指示を出した。

言われた通り、さらに力を込める。

ストン、とニンジンは半分に切れた。


(やった……!)


額に汗を浮かべ振り向く。レイラは笑っていた。

褒めてもらった気がした。


「その調子です。どんどん切りましょう」


ほっと胸をなでおろす。

あっているようだ。また包丁を振り下ろす。

ストン、ストン、とニンジンを半分に切っていく。


「時間がかかりすぎです。早く煮込みましょう」


鍋のお湯が沸いたのを確認し、レイラが促す。

言われた通りアンジェはニンジンを両手で掴む。

鍋に落としていく。


(熱い……!)


お湯が手にはねた。慌てて引っ込める。

最初よりはずいぶんと小さくなったニンジン。

お湯の中でゴロゴロと踊っている。


「さ、次はジャガイモと玉ねぎ、そしてお肉」


パン、と手を叩いてレイラはアンジェをまな板に戻らせる。

まな板と包丁を一式出した。


「私は下ごしらえをします。奥様は同じように切ってください」


玉ねぎの皮を剥いたり、肉の筋を取ったりと慣れた手つきでレイラは準備をする。

渡された食材をアンジェは包丁で真っ二つにする。


「自分で作った料理は格別ですから。ね、奥様」


半分に切る作業に苦戦しているアンジェに、レイラは楽しそうに話しかけた。

額の汗がまな板にこぼれる。アンジェは頷いた。


「きっと素晴らしい、最高の朝食になります」

「そう、なの……?」

「だからほら、早く手を動かしてください」


レイラに注意され、また食材に向き合う。

包丁はまだ少し怖いが、レイラがそういうならきっと。

美味しくて楽しい食事になりそうだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ