十一話(後編)
翌朝、早朝に起こされた。
急いで身支度をして部屋を出る。
既に道具が用意されていた。
「料理は私がしますから、あなたは掃除をお願いします」
レイラに渡された水桶と雑巾。
「窓枠を拭いてもらいます。この雑巾を水桶で洗って、捻って絞る」
じょばばばばば……と水を絞り、硬くなった雑巾をパン、と開く。
畳んでからサーっと窓枠を拭いて見せた。
「見てましたね? こんな感じで、廊下の窓枠全部拭いてください」
手本を見せてから雑巾をアンジェに渡した。
汚い湿った布を受け取る。
「簡単ですからこれくらいはできますよね。終わったら厨房に報告に来てください」
そう言い残しレイラはすぐに去った。
取り残されたアンジェ。
「……………」
レイラが拭いた隣の窓枠に手を伸ばす。
そっと雑巾で窓枠に触れる。
そしてレイラの真似をし、大きく手を動かし拭いた。
「あ……!」
勢い余ったのか、バランスを崩す。
身体がよろけた。絨毯に手をつく。
同時に、じんわりと冷たいお尻。
(え……?)
後ろを見ると、水桶を倒してしまったようだ。
絨毯の色が濃くなっている。
しかもアンジェのワンピースも濡れてしまった。
(……………)
どうしたらいいのか分からない。
少しその場で待ってみたが、もちろんレイラが来ることもない。
仕方ないので、服も水桶も絨毯もそのままにすることにした。
言われた通り、窓を拭いていく。
(……冷たい)
濡れた服が張り付いて気持ち悪い。
着替えたいが、言われた通りにしないといけない。
サーっと雑巾で窓枠をなでて行った。
「調子はどうですか」
半分くらいが終わったころ、レイラが様子を見に来た。
「まだここまでですか。……あれ、水桶はどうしましたか?」
「……あっちです」
「……雑巾を定期的に洗って綺麗にする。濡らして拭かないと意味がありませんよ」
「……………」
「……そこまでは確かに教えませんでしたが。持ってきます」
アンジェが指差した方向にレイラが歩いていき、そして止まった。
すぐに戻ってきた。
「水桶ひっくり返したんですか?」
「……はい……」
「それじゃあ先に絨毯を拭かないと。床が傷みます」
「……はい」
淡々とした口調だが、少し怒りが混じっている気がした。
注意され、アンジェは項垂れる。
「ああ、もう……それじゃあ布……いいえ、水桶に水を汲んできてください」
「え……と……」
「あなたの部屋にある水口からでいいですから」
「……はい」
「乾いた布は私が用意します。ああ、鍋も見に行かないと」
レイラが珍しく焦っている。
飛ぶような勢いで駆けて行った。
(レイラ……足が速い)
風のようなレイラを見送った。
それから、自室の前で倒れている水桶を回収し、そのまま部屋に入る。
言われた通り、水口から水を注ぎ水桶を満たす。
たっぷり水が入り重くなった水桶。
重さに腕がぶるぶる震える。
今度はこぼさないよう、慎重に歩いて部屋の外に出た。
(………………)
部屋の前にある、水のシミの前でレイラを待った。
ほどなくしてすぐにレイラは大きな布をもって駆け付けた。
「……何しているんですか?」
「……水、汲みました!」
こぼさず言われた通りできた。
アンジェは笑顔で答えた。
しかし、レイラの表情は無表情のまま。
ぴくり、と口の端が動いたくらいだ。
「なんで水を汲ませたかわかりますか?」
レイラの質問。
アンジェは目を丸くした。
水桶に水を汲むように言われたからしたのだ。
そして問題なくちゃんとできた。
レイラの言葉の意味が分からず、首を傾げる。
「……さっき言いましたよね、濡れた雑巾で窓枠を拭くようにって」
「そう……だったわね」
あまり覚えていないが、レイラがそういうのならそうなのだろう。
「じゃあそうしてください。なんでここにいるんですか」
「ご、ごめんなさい……」
「……窓枠はもういいです。ここの絨毯を拭いてください」
「……はい……」
「いいですか、こうやって、強く、布を押し当てて、水気を布に移すんです。いいですか?」
「は、はい……」
「……料理もしなくちゃいけない、あなたの面倒も見てかつ後始末もしなきゃいけない……なんでこんな……」
レイラが自分の足を抱えて蹲った。
だが、すぐに立ち上がった。
「料理は間もなくできます。これが終わったらすぐ来るように」
「は、はい……」
「侯爵様の朝食の時間に遅れる。それだけはいけませんから」
また飛ぶようにレイラは駆けて行った。
(元気ね……)
行ったり来たりと忙しない。
そういえば、食事も掃除も世話もすべてレイラ一人でやってるみたいだ
他の使用人は見たことがない。
(レイラ……大変ね)
この広大な屋敷の管理と老人の介護。
それを一人で賄っていたレイラは凄い。
アンジェは言われた通りに動くだけだ。
絨毯に乾いた布をあてた。
(あれ……?)
やり方を忘れてしまった。
先ほど、水けを布に移す、と言っていた。
そのやり方がわからない。
(あれ、あれ……?)
布を強く押して水気を移す?
どの場所を?
大きな布の端を持ち、色が濃くなっている絨毯の端っこに押し当てた。
ぎゅううっと押すと、手に冷たい水の感触があった。
(これで、いいの……?)
更にぎゅうっと押す。じわっと滲む。
(…………?)
あっているのか不明だ。
「アンジェリナ様、早く! 急いでください!」
遠くからレイラの声が聞こえた。
厨房近くの廊下から叫んでいるのだとしたら、ずいぶん大きな声だ。
慌てて立ち上がり、厨房へ向かう。
レイラはすでにワゴンを準備して廊下にいた。
アンジェの姿を見て急いで進んだ。
「食事は昨日教えたとおりにするんですよ。大丈夫ですよね?」
念を押された。
アンジェが夕飯を食べている横で、レイラは口を酸っぱくして何度も言っていた。
冷まして、口に運ぶ。ただそれだけなのだが。
部屋に着きノックをしレイラは昨晩のように一礼。
アンジェはおずおずとワゴンを押して老人の近くに行った。
「遅い! 早くしろ、ドブネズミが!」
気持ち悪い見た目で汚い言葉を吐く枯れ木老人。
起き上がることはできないのに、口だけは回る。
「は、はい……」
口を開ける老人に、言われた通りスプーンを口に運んだ。
(良かった……!)
上手くいっているのか、大人しくなった。
口を開けるたびに、黄色い歯と白い舌が見える。
そして口臭がきつい。濁ったような、嗅いだことのない臭い。
(……気持ち悪い……)
だが、罵られたり口から吹き出さないだけましだ。
口の端からこぼれたものをハンカチで拭いながら、アンジェはひたすら食べさせる。
「ふん、やればできるじゃないか」
食べ終わると、男はげっぷをアンジェに吹きかけた。
(臭い………)
息を止めるのが間に合わず、吸ってしまった。
「レイラ、ちゃんと躾けられたじゃないか」
「お褒めにあずかり光栄です」
「排泄する。早くしろ」
脈絡なく話が飛ぶ。
しかしレイラは急いで駆け寄る。
ベッドの下から入れ物を取り出した。
横長の、口の曲がった花瓶のような壺。
(え………?)
耳を疑う。
食事をして、レイラを褒めて、排泄する。
そう聞こえた。
「アンジェリナ様。次回からはあなたの仕事になるのでよく見ていてください」
「…………」
「侯爵様、そのため掛け布団を失礼いたします」
レイラは掛け布団を避ける。
細い枯れ木の身体が現れた。
寝間着をはだけさせ、枯れ木の本体が見えた瞬間。
アンジェはあまりの悍ましさに目を少し背けた。
(……………)
視界の端に映る姿。
暫しの間。陶器の壺を水が叩く音がした。
むわっとした、不快な臭気が立ち込める。
鼻をつまんでしまいたい衝動に襲われる。
「終わったぞ」
「失礼いたします」
レイラは素早く寝間着を直し、掛け布団をかけた。
壺をワゴンに置く。
そうしてすぐに二人は部屋の外に出た。
「見ましたね? わかりましたね?」
「……はい」
なんとなく見たけど理解できなかった。
理解しようともしていないのかもしれない。
「アンジェリナ様、あなたの一番のお仕事は侯爵様の介護です」
「え、ええ……」
「食事を食べさせ、身体を拭き、着替えさせ、排泄を手伝う。それが一番のあなたのお仕事です」
「え、ええ………?」
耳を疑う単語。
掃除だけではないらしい。
食事だけでもないらしい。
「あなたはそのために、ここに嫁いできたのです」
レイラはそう言い切った。
「そうして、お世話をしながら料理、掃除と私がしていることをできるようになればいいんです」
「…………」
「そうじゃないと、困ります」
ひとまず、ワゴンを厨房に置いた。
レイラが壺の中身の捨て方を教えてくれる。
再び立ち込める異臭。顔が歪む。
「尿はまだましです。固形の場合はまた教えます」
「…………」
その言葉に、気絶しそうになる。
顔面が蒼白になっている気がした。
レイラはアンジェに冷たい視線を向ける。
「まずはできることからしましょう。水桶の水の片づけ、窓枠の拭き方……」
言われて思い出す。
放置したままだ。
「あなたは人より出来が悪いのに良い金額で嫁いできました。ですから、しっかり働いてください」
「は、はい……」
「旦那様を一人で支えられるように」
「……はい」
また言われて思い出す。
アンジェは、あの枯れ木老人の妻としてここにいるのだ。
自覚すると、足元から悪寒が走る。
吐き気がせりあがってきた。鳥肌が立つ。
「役に立つことがあなたの存在理由です」
「はい………」
ぞっとする。忌むべき役割だ。
身の毛のよだつ事実だが、存在理由ならば全うしなくてはいけない。
「頑張ります」
そう言って、アンジェは笑顔になった。




