十話(後編)
目をつぶっていると突然、隣の部屋からくぐもった怒声。
壁越しで内容は聞き取れないが、怒鳴っているようだ。
そしてまた、物の壊れる音。
(いやだな……)
枯れ木老人が騒いでいるのだろう。
アンジェはため息を吐く。
すると、部屋のドアが開いた。
立っているのはレイラだ。
「……何をしているんですか」
冷たい視線、笑わない口元。
少しも変わらない表情。
「早く入浴をすませてください」
上品な足取りのまま部屋に入り、浴室のドアを開けた。
(……………)
言われた通り、アンジェは中に入った。
動かないレイラをじっと見る。
変わらない冷ややかな視線のまま、暫しの間が流れた。
「ああ、なるほど。作法を知らないのですね」
レイラは頷いた。声の温度が低い。
「あの意地汚い国にはないでしょうから。ではまず、湯口から手桶にお湯を入れます」
淡々とレイラが説明した。
冷たい声、と思っていたアンジェはまた、固まる。
「え………と……?」
いつもなら侍女のサラがすぐに支度をしてくれる。
それなのに聳え立つような威圧感でアンジェを見下ろすレイラ。
アンジェは縮こまった。
「……ああ、名称すら知らないのか。いいですか、これが湯口。これが、手桶です」
アンジェの手を掴み、湯口と手桶を触らせた。
「湯口から手桶へ、お湯を入れてください」
アンジェはさらに驚く。
(自分で……?)
言われた通り手桶を掴む。手が震えた。
湯口からお湯を汲む。
怯えながらレイラを見上げる。
「そこの棚にせっけんや蜜蝋、香油があるので好きなものを使ってください」
指示に従い白い棚を開ける。
中には香油や蜜蝋、せっけんが並んでいる。
「ただ、今は家畜小屋の臭いがするので頭もせっけんで洗ってください」
せっけんを手に取る。
すべすべした不思議な感触。
「あとはもうわかりますか?」
「……………」
「……指示待ち女でしたか。逐一指示をしないといけないなんて面倒な……」
表情は変わらないが、少し声のトーンが暗い。
(怖い……。サラ……)
明るく元気で、優しく丁寧に洗ってくれるサラ。
レイラは指示だけなので、言われた通りに自分自身で動くしかない。
お湯をかける、すすぐ、泡立てるなどを丁寧に一つずつ指示した。
初めての作業に戸惑う。
しかしレイラは声を荒げることなく、何度も説明してくれた。
(怒って……ない?)
あたふたとぎこちない手つきのアンジェ。
だが、笑わなければ声も荒げることのないレイラに、少しだけ安堵した。
用意されていた装飾のないワンピースを着る。
(新しいお洋服……!)
質素なデザインだが、汚れもほつれも縫い跡もない。
綺麗なワンピースだ。
(嬉しい……!)
言われた通りぼさぼさの髪をすきながら鏡を見る。
不器用な手で髪をなでる。
いつもより髪が綺麗な気がした。
「髪型は……教えるのが手間だから、好きにしてください」
「……は、はい……」
「以上です。覚えましたね。今後ご自身ことは一人でしてもらいます」
レイラの言葉に驚く。
(え……!? そんな………)
言われた通りにするのが精いっぱいだった。
覚えられただろうか。
一人で準備できるか不安だ。
「次へ行きます。急いでください」
そういうなり部屋を出た。
急いでついていく。
「……まったく、こんなに要領が悪くて私の身代わり勤まるの? 困るわ、早くここを出たいのに……」
柔らかい絨毯の先、一番奥の部屋。
レイラはドアを開け中に入る。
「ここが食堂です、そして奥が厨房」
十人以上が座れそうな長い豪華なテーブル。
眺めながら、歩みを進める。
「では、さっそく支度をしましょう」
テーブルの上にはすでに食材が乗っている。
新鮮な野菜、果物、玉子……。
床下の貯蔵庫から、肉と魚を取り出すレイラ。
(あ……すごい)
知っている食べ物たち。懐かしい食材。
みずみずしくて甘い、アンジェの好きな果物。
ごくり、と喉の奥が鳴る。
「緊張しているんですか? いつも通りでいいですから」
「…………?」
「さ、夕飯の支度をしていきますよ。それくらいはできますよね」
まな板に食材を乗せ、トントンと切り始める。
アンジェはその様子を見ていた。
「鍋にお湯を沸かしてください」
指示が飛んでくる。
しかし、鍋の位置がわからない。
どうしたらいいのか答えを求め、レイラを見つめる。
「鍋は下の戸棚の一番上、水は樽の中。半分まで入れる」
「は、はい……!」
言われた通り棚を開ける。
しかし、鍋がわからない。
一番下にある平たい鍋を掴む。
「それはフライパン。鍋はその横、右です」
大きな鉄の、深い形をした塊。
(これ……?)
あっているのか分からず立ちすくむ。
そんなアンジェをレイラは一瞥だけし、また自分の作業を続けた。
(あってる……?)
わからない。だが、注意されないならそうかもしれない。
樽を覗き込む。たっぷりと入っている水。
「……………」
どうやって入れればいいのか知りたくて、レイラを見た。
トントントントン、とすごい勢いで食材が切られている。
(すごい……)
食い入るように見る。
「早くしてください」
顔をあげずにレイラは催促した。
掴んでいた鍋を樽に沈ませ持ち上げようとした。
だが思いのほか重く苦戦する。
「あ………」
するりと鍋は手から離れ、ゆっくりと沈んでいった。
呆然とする。
「はあ、もう……何やってるんですか……」
手を止めてレイラは樽の中に長い棒を入れ、鍋を救い出す。
「……なんでこんな手間を……。では火を起こしてください」
お湯が半分入った鍋を窯の上に置く。
(ひをおこす……?)
聞きなれない言葉に、またアンジェは立ち尽くした。
レイラは手を止め、アンジェに向き合う。
「……あの国の人間は野蛮で下賤だけど、働き者だと聞いていますよ」
表情は変わらないが、静かな声。
「貧しい中での生活で力もあり、忍耐もあるとか」
アンジェを抱えるサラのこと。
森の中を何時間も歩くカトリーナのことを思い出す。
(そうね……)
レイラの認識は身に覚えがある。
「貧乏国家の姫は何もできなくても許されるんですか? そんなに余裕あるんです?」
寝たきりのオリヴィアのことを思い出す。
(オリヴィアは病気だから……)
何もできなくても仕方ない気がする。
「……見た目だけの、はずれを掴まされましたか……」
ずっと無表情だったレイラの表情が、ほんの少し歪んだ。
しかしまたすぐに無表情に戻る。
「……それなら、仕込まないと……」
「…………」
大きく長いため息を吐いて、レイラはアンジェのことをまっすぐに見た。
「私のために、仕込まないと……この指示待ちはずれ女に……」




