十話(前編)
馬車に乗るのは二回目だが、寝ている間に目的地に着く良い乗り物だ。
御者に手を引かれて降り立つ、久しぶりの大国。
しかし、見慣れぬ風景。
古風で広大な屋敷。ツタの生えた威厳のある侯爵邸。
久々に見る大きな建物に、アンジェは息を呑む。
(お母様たちのお城より……大きい)
圧倒される。
尻込みしていると、建物の中からメイド服を着た女性が出てきた。
「お待ちしていました、アンジェリナ様」
にこりとも笑わない女性。
アンジェから冷たい視線を外し、御者へ近づく。
「譲渡金に関しては本日中にお届けいたします」
女性の言葉に、御者は一礼をして馬車に戻った。
立ち尽くすアンジェに、女性は冷たい視線を向ける。
「私はレイラ。よろしくお願いいたします」
「……あ………」
アンジェが何か言おうと口を開く。
レイラはこちらです、と言って歩き出した。
(え………?)
先を歩くレイラ。
御者はもういない。
その場にはアンジェだけ。
サラが用意してくれたカバンと一緒に。
(このままで……いいの……?)
気にはなるが、カバンを置いてレイラの後をついていった。
木造の大きなドアを開け、レイラは中へ促す。
「あら? お荷物はどうされたんですか?」
「え……?」
「まあいいでしょう。必要なものはすべて揃っていますので」
それだけを言い、レイラは再び歩き出す。
「まずは侯爵様へのご挨拶からお願いいたします」
柔らかい絨毯は久しぶりだ。足が痛くない。
感触を楽しんでいるアンジェとは対照的に、上品な足取りのレイラ。
カトリーナの騒がしい動きとも、サラの元気な足取りとも違う。
とても落ち着いている。
「失礼いたします。アンジェリナ様が到着されました」
そう言ってメイドは一歩下がった。
「………?」
閉じたドアを前にしてアンジェはレイラを見つめる。
しかしレイラは一礼したまま微動だにしない。
どうしたものか途方に暮れていると、中から物を投げる音がした。
ガシャン、と壊れる音。
「さっさと入れ、馬鹿者が!!!」
そして聞いたことのないような怒声。
アンジェは驚き、身体が大きく揺れた。
そしてまたレイラを見る。少しも動かない。
(……怖い……)
部屋の主は怒っている。アンジェは気付いた。
入りたくない。だが、ドアが開けば入らなくてはいけないだろう。
アンジェはじっと足元を見てその時を待った。
それなのに、ドアは一向に開かない。
そしてまた、ガシャン、物が壊れる音。
「レイラ! 何をしている、レイラ!!!」
「……申し訳ございません」
名前を呼ばれると、レイラはドアを開いた。
懐かしい広い部屋。ビロードのカーテン。シャンデリア。
綺麗な壁紙に広いベッド。
ベッドの上には細い老人が座っていた。
「早く連れてこい!!!」
また怒声。
「どうぞ」
冷たい声に促される。
委縮しながらもアンジェは中へ入った。
「早くこっちに来い!!」
怒鳴る老人。
アンジェはレイラの顔を確認する。
「だ、そうです」
返ってきたのはたった一言。
「来いと言っているだろう!!!」
バンバンと布団を叩き、老人は咳き込む。
レイラは再び一礼をしている。
(え……私?)
レイラの様子を見て気付いた。
怒鳴られているのはレイラではなくアンジェなのだ。
怒られるようなことは全くしていないのに。
(え……?)
怒っている理由がわからず、アンジェはおずおずと近付く。
細い老人。目が細く吊り上がっている。
アンジェを睨む強い眼光に、再び委縮する。
ねっとりとした視線を向けてくる。
アンジェを頭からつま先へ、そしてまた頭へ。
「顔はまあまあだな。美人だっていうから安く仕入れてやったんだから当然だ」
鼻を鳴らし、老人は笑った。
細く吊り上がった目。荒れた薄い唇、曲がった口、抜けた歯。
その顔の中心には、肥大化した鼻が張り付いている。
つるりとしたシミだらけの頭。
申し訳程度に毛が数本生えている。
(……よかった……)
オリヴィアより見た目がマシだ。
少しだけ胸をなでおろす。
これならまだ気持ちが楽だ。
「ふん、メイド代わりにタダで働く見た目の良い女を仕入れたんだ」
急に伸びてきた枯れ木のような細い腕が、アンジェを掴む。
干からびた腕はあまり力がないが、腕に爪が食い込む。
「しっかり世話をしろよ!」
にやり、と口元が笑った。
「……はい」
アンジェも笑顔で返す。
その反応に、さらに枯れ木老人は口を歪めた。
「あの極貧王妃が『可愛い第二王女』として売りつけただけはある」
「……あ」
アンジェの腕を引っ張る。
ふわりと髪が揺れた。
瞬間、男はアンジェを突き飛ばした。
アンジェはお尻から絨毯に倒れる。
「臭い!!! レイラ、この女臭いぞ!」
「ただいま入浴の準備をいたします」
「獣のようだ!! さすがは下賤な国の女だな!!!」
鼻をつまみ、手で大きく仰ぐ。
そうして服でその手を拭う仕草をした。
(……痛い……)
腰を打った。
痛くて立てないでいると、今度は枕が投げられた。
「早く出て行け、このドブネズミが!!!」
枕が顔に当たる。
その衝撃に、またアンジェは床に倒れる。
「この愚図が!! おいレイラ、その女をさっさと連れ出せ!!!」
「かしこまりました」
傍で控えていたレイラが、アンジェを支えて起こす。
そしてそのまま部屋から出る。
すぐさま身体を離し、レイラはドアを閉めた。
「アンジェリナ様のお部屋はこちらです」
そういって隣の部屋を示す。
「…………」
「どうぞ、中へお入りください」
指示されて、アンジェはドアを開けた。
中は男がいた部屋と同じ作りだった。
初めて見たが、この質感、感覚。とても懐かしく感じる。
少なくとも、小国では何一つお目にかかれない。
「入浴の準備ができました」
アンジェが部屋を見ていると、すぐにレイラは浴室から出てきた。
「それでは」
そうしてドアを閉める。
(え…………?)
入浴がまだなのに、レイラは出て行ってしまった。
取り残される。
どうしたらいいのか分からない。
とりあえず、窓に近付いて窓を開けた。
広い庭。しかし、手入れはされておらず荒れ果てている。
しかし、何もない小国でも自室に比べたら断然ましである。
(……静か……)
季節は夏。熱を持った空気。
頬をなでる熱風。遠い木々のざわめき。
古い建物だが、部屋の中はきれいだ。
鼻をくすぐるラードの臭い。
(……広いお屋敷、いいな……)
そうぼんやりと思った。




