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九話(後編)

「それじゃあさっそく支度をしましょう! 実はね、もう話は通してあるのよ」


さっきまで泣いていたカトリーナ。今は笑顔だ。

サラも笑っているがほんの少し寂しそうだ。


「アンジェリナ様のお荷物、おまとめしますね」

「お願いね。じゃあアンジェ、最後にオリヴィアに挨拶してちょうだい」


サラがアンジェの部屋に入っていくのを見送る前に、カトリーナはオリヴィアの部屋をノックする。


「はい」


部屋の中から聞こえる返事。

明るい可愛らしい声はいつもと変わらない。


「オリヴィア、あのね……その、急なんだけど……」


カトリーナはまっすぐにベッドに向かい、灰色の塊に近付く。

そうして愛おしそうに頬をなでた。


「アンジェが今日、嫁ぐのよ……」

「……え?」


短く上がる声。息をのむ音すら綺麗だ。


「オリヴィア……ごめんなさいね。あなたが嫁げないかわりに、アンジェに嫁いでもらうことになったの」

「……そう。そう……なのね」

「ごめんなさい、悪く思わないで。愛しい子……」


オリヴィアのこけた頬を両手で挟んで額にキスをしている。

先ほどの笑顔から今度はまた鼻声になっていた。


「アンジェリナ、結婚するのね……」

「あなたも病気が治ったら結婚できるわ。大丈夫、この国はきっと豊かになるわ。ね、アンジェ?」


一筋の涙をこぼし、カトリーナは笑った。

アンジェも、頷きながら笑む。


「ね! ほら、アンジェもそうだって言ってるわ。大丈夫、大丈夫なのよ。また姉妹は……。少しの辛抱だから……」

「お母様……その、少しの辛抱ってどういうこと?」


鈴が転がるような耳に心地良い音。

だが、いつも穏やかなその声は僅かに震えている。

カトリーナは優しく微笑んで脂とフケで汚いオリヴィアの髪をなでた。


「寂しいだろうけどまた会えるわ、今は少しの辛抱は少しなのよ……」

「だから、少しって? どういう意味なの? まさか、期間のことを言っているの?」

「……アンジェが嫁ぐのは、その……ご老人なの。長くはないわ。だからきっとすぐ戻ってくるわ」


カトリーナはまた泣きながら、寂しいわよね、でも大丈夫よと繰り返している。

そのカトリーナの姿に、オリヴィアは静かに目を閉じる。

深い眼窩。


「ああ………」


ため息に交じる優しい響き。

なのに、少し硬い。


「そう、そうなのね……そういうことなの……」

「オリヴィア、悲しんだらダメよ。おめでたいことなの、笑顔で送りましょう、ね?」

「わかったわ、お母様……」


硬く冷たさの混じる声なのに穏やかだ。

オリヴィアの言葉に、カトリーナはまた笑顔になった。

朝食からずっと泣いたり笑ったり忙しない。


「良かったわ! それじゃあアンジェ、オリヴィアとお別れをしてちょうだいね。私は先に行くわね」

「待って!」


涙を拭いて立ち上がるカトリーナに、オリヴィアは鋭く叫んだ。

一瞬にして空気が張り詰めた。ような気がする。

それはカトリーナも同じなのか、驚いた表情でオリヴィアを振り向いた。


「ケホ、ケホ……」

「オリヴィア! そんな大きな声を出して……ああほら、咳が……!」


慌てふためきながらカトリーナはオリヴィアを起こそうと背中に手をまわそうとする。

しかし、思いとどまったのか手が止まる。

再び咳き込むオリヴィアに、カトリーナは両手の爪を噛んだ。


「オリヴィア……!」


半ば悲鳴のように叫ぶ。


「ああ、どうしましょう、でも私が触ったら痛いわよね……ああ、でも咳が……ああ……!」


触ろうとしたり、手を引っ込めたり。

今度はその手で口元を覆ったり。


(オリヴィア……咳も可愛いのね)


止まらない咳を奏でるオリヴィア。

まるで楽器のようだ。


「もう、もう……ごめんなさい……!」


パニックになったのかカトリーナは頭を抱える。

咳き込むオリヴィア。

ドアの近くでそんな二人を眺めるアンジェ。


「ケホ……、さ、叫んでごめんなさい。お母様、落ち着いて……」

「ああ、ああ……もう大丈夫なのね!? 駄目よ、大きな声を出しちゃ……安静にして」

「うん……あのね、私のペンダントをとってほしいの」


まだゆっくりと胸で息をしている。

オリヴィアは振り絞った、苦しそうな声を出した。


「え……ペンダントってオリヴィアが産まれたときに植えた木の……あの……?」

「そう、お願い」

「でも……」

「お願いお母様……嫁ぐ妹に渡したいの……」


カトリーナは少しの間無言でオリヴィアを見ている。

迷っているようだ。

だが、オリヴィアの汚い髪を掻き分け、皮だけになった首元をまさぐる。

何やら手を動かし、すっと手を引いた。

その手には、茶色いものがぶら下がっているペンダント。


「オリヴィア……」

「お願い、アンジェリナに渡して」

「…………」

「お母様、お願い……」


オリヴィアの再度のお願い。

カトリーナは苦しそうにペンダントを胸の前で握りしめる。

それからおもむろにアンジェの首にペンダントを下げた。


(なに……これ……)


人差し指と親指で摘まむ。

汚いオリヴィアが身に着けていた、汚い木の塊が付いたペンダント。

いつから身に着けているのかは分からない。


(いや……いらない……)


ただ、とにかく手放したかった。

不安を抱きながらちらりとカトリーナを見る。

カトリーナも不安そうな表情だ。


「アンジェ……あなたに、ですって……」

「…………」


首からとって今すぐに返したかった。

だが、確認するよう恐る恐るオリヴィアを見る。


(あ………)


色あせた唇を細めていた。

黄ばんだ歯が規則正しく並んでいる。

笑っている。そう思った。

灰色の肌を引きつらせ、オリヴィアがとても不気味に笑っていた。


「嬉しいわ! ありがとう!」

「……それ、あげる。私の大事な木で作ったペンダントよ。お守りなの」

「ありがとう!」


まるで、顔を引っ張られているかのように笑うオリヴィア。

アンジェも一緒に笑う。

オリヴィアの姿、とても不気味だが笑っているのだから楽しいのだろう。


(怖いけど……喜んでいるのね!)


その二人の姿に満足してか、カトリーナは静かにドアを閉めた。

閉じられる際に笑顔だったのをアンジェは見逃さなかった。

オリヴィアと二人きりになる。


「ふふふ……」

「……ねえ、アンジェリナ」


笑っていると、静かな可愛いらしい声でオリヴィアは呟く。


「本当に……ごめんなさい……」

「え………?」


先ほどとは一変した雰囲気にアンジェは固まる。


「私は……あなたの純粋さを知っているわ……」

「…………」

「……ごめんなさい」

「…………」

「…………」


綺麗な声が途切れた。

無言。沈黙が流れる。


(え……と………?)


灰色の肌の塊は動きが止まった。

いつもはまっすぐにアンジェを見つめる落ちくぼんだ瞳。

今は静かに伏せられている。


「………」


どうしたらいいのか分からずにオリヴィアを見つめる。


「はあ……」


漏れる小さな吐息。可愛らしくて綺麗な音。


「アンジェリナ……またね」


またね、の言葉に反応する。

オリヴィアのまたね、は部屋を出ていい合図だ。


「またね……」

「元気でね、アンジェリナ。私はここであなたの幸せを願っているわ」

「…………」

「心から……」

「…………」


とても悲しそうな声に、アンジェは何も言えずに部屋を出た。


「すう………はああ………」


部屋を出た時の最初の呼吸が好きだ。

息の詰まるような臭いの部屋からの解放感。

しかし、今日はいつもよりとても重く感じる。

圧迫感があった。


「アンジェリナ様、ご準備ができていますよ」


ホールに降りる元気なサラの声。


「アンジェリナ様が祖国から大事に持参されたものを、丁寧に詰めておきました」

「ありがとう、サラ」

「いいえいいえ! 新品のラードも一緒ですよ!」


思わずアンジェは自分の髪を触る。

獣臭はもう気にならない。馴染んだようだ。


「アンジェリナ様……寂しくなりますが……お幸せに」


サラは笑っているが少し寂しそうだ。

困ったように眉が下がっている。

その横にはオスカーとカトリーナ。


「それじゃあね、アンジェリナ。また……」


サラよりももっと悲しそうな笑顔のカトリーナ。


「……元気でな……」


じっとアンジェを見つめる無表情のオスカー。

三人の表情に喜んでいいのか、悲しむのか分からなくなる。


「えっと………」

「ああ! また大国に戻らせるなんて不安だわ……でもね、アンジェ。アンジェリナ」


大きく手を広げてカトリーナは抱きしめた。


「あなたの選択はこの国を、私たちを救うの。いってらっしゃい」


そうして身体を離したときにはもう、カトリーナは満面の笑みだった。

アンジェも負けないように笑みを返す。


「はい! 行ってきます。お父様、お母様」


そうして御者へ手を引かれ馬車に乗る。

悲しそうに笑うサラ。

じっと見つめているオスカー。

最後に、張り裂けそうに笑うカトリーナ。

三人に見送られ、馬車が動き出した。

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