六話(後編)
翌朝、自然に目が覚めた。
狭くて小さな硬いベッド。薄い掛け布団。
寝心地が悪くて目覚めたようだ。
「…………」
部屋の中を見るが、誰もいない。
(まだ朝じゃないのかしら……)
窓からの光は温かく、いつもの朝のようではある。
起きあがって、そっと廊下へ続くドアを開ける。
顔を出すと、
「あ、おはようございますアンジェリナ様!」
ドアの横に立っていたサラが元気に挨拶をした。
「お支度をしに中に入ってもよろしいでしょうか?」
「え、ええ……」
頷くと、サラはクローゼットに行きワンピースを一着取り出した。
丁寧にアンジェの服を脱がせ、すとんとワンピースを着せた。
そして椅子に座らせ、テーブルの上に鏡を置く。
「今日はどのような髪形にしましょう?」
「え、えっと……」
「で、も昨日みたいな凝った髪型にはできないので……うーん」
「……………」
「そうだ、私にお任せしてもらってもいいですか!?」
「ええ、いいわ」
ブラシで優しく髪の毛をすきながら、サラは楽しそうに笑った。
エミリーも明るく笑う侍女だったが、サラも同じく明るく笑う侍女だ。
少しだけ、寂しい気持ちがなくなる。
「アンジェリナ様の髪の毛はきれいな金色ですね、透けるような……まるで銀のような……」
「そう……? ありがとう」
「ただ、艶が……そうだ、私のラードを使ってもいいですか!?」
「ラード……?」
確か、動物の脂だった気がする。
「そうです! この間お給金が出てやっと買ったんですよ!」
少し待っていてくださいね! とアンジェを残しサラは部屋を出た。
すぐに戻ってきて、小さな瓶に入った白い塊を見せてきた。
「これがラードです。少し奮発しちゃいました!」
胸を張るサラ。
顔を近づけて匂いを嗅ぐと、昨日の食事のような獣臭さがした。
あまりの臭さに、思わず顔をしかめる。
「……これ、髪に塗るの?」
「ええ! じゃあほら、前を向いていてくださいね!」
白い脂を指ですくい、体温で溶かしてからアンジェの髪の毛へ塗り込んだ。
まるでルーシーのように、丁寧で優しい手つき。
鼻をくすぐるのは、きつくなった獣臭。
「ほら、どうでしょう! つやつやですよ!」
臭くなった髪の毛を触る。
臭いは最悪だが、確かにつやが出ている。
ルーシーの香油ほどではないが。
「……すごいわ、綺麗ね」
「でしょ! 今日から毎日塗って差し上げますね」
少し顔が引きつる。
(この臭いが……毎日……)
獣臭が鼻をつき、吐きそうになる。
でもサラが笑っているのだから、いいことなのだろう。
「嬉しいわ、ありがとう!」
お礼を言うとサラは花を咲かせるようにまた笑った。
軽く髪を結ってもらい、一緒に食堂へ行く。
椅子にカトリーナが座っていた。オスカーはいない。
「おはようございます、カトリーナ様、オスカー様」
「アンジェリナ、おはよう! よく眠れたかしら! 大丈夫?」
勢いよく立ち上がり、カトリーナはアンジェを椅子に座らせる。
「初日だから緊張したわよね、いいのよ。ここではゆっくり過ごしてちょうだい」
「……ありがとうございます」
目の前に置かれる銀の皿。
運ばれてきたのは、ふやかしてすり潰された芋と、昨晩のスープ。
(またこれ………?)
でも、臭くて硬い肉と変な果物がないだけマシである。
少し胸をなでおろす。
食べようとしたとき、オスカーが厨房から出てきた。
「……これを、アンジェリナに」
目の前にことりと置かれた銀の皿。
上には、いつ切り分けたのか分からないほど干からびた薄いチーズが乗っている。
「オスカー、あなた……」
「いいだろう、これくらいは……」
「あなたの大好物じゃない……。ありがとう……」
なぜかカトリーナがオスカーに礼を言っている。
「……ささ、アンジェリナ……遠慮しないで食べてちょうだいね」
「……はい……」
一品増えてしまった。
昨日と同じように、三人で無言で食べる。
この時間が本当に辛い。
「………」
チーズを一口齧る。
と風味もなく、ぱさぱさで歯にくっつく嫌な硬さだった。
(これ、ちょっと無理かも……)
この中で食べられそうなものは、青臭い芋だ。
無理やり口に運ぶ。
それでも口の中が気持ち悪い。
なんとか飲み込み、フォークを置く。
これ以上の食事は受け付けなかった。
(あとでクッキーもらおう……)
水を飲んでいると、カトリーナは目を細めて笑った。
「ふふふ、明るいところで見ると本当にクリスにそっくりね」
その瞳は優しく潤んでいた。
「アンジェリナ、私はね……ずっとあなたをこの国に迎えたかったのよ」
「……え?」
「ガブリエル皇帝陛下に何度も手紙を送ったの。一目でもいい……会わせてほしいって。……クリスにも、アンジェリナにも」
初耳だ。
アンジェは目を瞬かせる。
「それがやっと叶って嬉しいのよ!」
カトリーナが近づき、アンジェのそばにしゃがむ。
「お帰りなさい、アンジェリナ!」
困惑しているアンジェをよそに、カトリーナはアンジェの手を力強く握った。
「あの怪物が奪った妹の……娘……」
苦しそうな、苦い声。
噛みしめていた唇をぺろりと舐めて、カトリーナはまた微笑む。
「アンジェリナ、私たちはあなたを養子に迎えようと思っているの」
「……養子……?」
「ええ。これからは、あの国の皇女ではなく、この国の王女になるのよ」
「この国の……王女」
脳裏に浮かぶのは、エミリー、ルーシー、リオン。
そして、今食べた貧しい食事。
「そうしたら、あなたは来賓のままではなく堂々と過ごせるわ」
「………………」
「……急に言われても難しいわよね」
笑顔だが、悲しそうな表情でカトリーナは握っていた手を放す。
「そうだ、あなたの従姉の……私の娘、オリヴィアを紹介するわ」
「……従姉?」
「ええ、あなたの二歳上よ。年が近くて話しやすいんじゃないかしら」
途端にアンジェの顔が明るくなる。
(ということは、この国の王女様……!)
年の近い親戚の存在。心が躍った。
嬉しそうな顔をするアンジェに、カトリーナもまた微笑んだ。
「案内するわ。行きましょう」
「……はい!」
カトリーナに案内され、二階の一番奥の部屋のドアの前に立つ。
「オリヴィア、入るわよ」
ノックをして、カトリーナが声をかける。
中から、はい。と小さな可愛らしい声がした。
ドアが開けられ、中に入る。
入った瞬間。
獣臭とはまた違う、むわっとした嫌な臭いが鼻をつく。
思わず顔をしかめた。
「オリヴィア、この子がアンジェリナよ」
ベッドに寝ている、オリヴィアと呼ばれた人物。
少女というにはあまりにも細い腕。灰色の肌。
痩せた頬。不気味に落ちくぼんだ両目。
アンジェ以上に艶のない髪には、フケがたまっている。
(……怖い……!)
本当に人間なんだろうか。
恐怖で足が止まる。
「……こんにちは、アンジェリナ!」
茶色い口から紡がれる、細い小さな声。
しかし、声は鈴を転がしたように可愛らしかった。
「会いたかったわ……」
「初めまして……」
カトリーナに促され、ベッドの真横に行く。
枯れ木のような細い腕をゆっくりと上げる。
「……アンジェリナ、握ってあげて」
「……はい……」
「オリヴィアは病気でね、身体が動かないのよ……」
ぶるぶると大きく震える手を握る。
不気味な表情で、オリヴィアはふふふ、と笑った。
嬉しそうに。
「アンジェリナ、オリヴィアと少しお話してあげて」
「……はい……」
「じゃあ私は行くわね」
一瞬、耳を疑う。
(え……!?)
カトリーナが静かに歩き、アンジェの横に立つ。
「またね、オリヴィア。愛しい子」
カトリーナは脂っぽいオリヴィアの前髪をかき分けて、額にキスをした。
見ているアンジェの肩に手を置き、カトリーナは部屋を出た。
「………………」
二人きりになる。
何を話したらいいのか分からなくて、アンジェは指をすりすりと撫でた。
「ふふふ。アンジェリナの髪の毛、綺麗ね」
「……ありがとう……」
「光で綺麗な銀色に光ってる……。綺麗ね……」
「……ありがとう……」
お礼しかいうことができない。
そんなアンジェの様子に、オリヴィアは少し沈黙した。
「……私のこと、怖い?」
小さな可愛らしい声。
しかし、悲しみを含んでいる。
「いいのよ、わかってる。怖いわよね……」
「…………」
怖い。正直に言うと怖い。とても怖い。
身体の芯から冷えるガブリエルの恐怖とは別の、吐き気がする怖さ。
「お母様はああいっていたけど、いいのよ。部屋に戻って」
紡がれる細い細い声。
エミリーともルーシーともリオンとも違う。
優しくて可愛らしい声。穏やかなしゃべり方。
「…………」
「ふふふ、会えて嬉しかったわ」
「…………」
「じゃあね、アンジェリナ」
大きく震える手を持ち上げ、オリヴィアは左右に振った。
裾が下がり、さらに灰色の、枯れ木のような細い腕が現れる。
(怖い……)
とっさに一歩下がる。
「………またね」
かろうじてそれだけを言うと、急いで部屋の外に出た。
ドアを閉めた瞬間、綺麗な空気を肺いっぱいに吸い込む。
(おばけみたいな子……)
一度見たら目に焼き付いて離れない、恐ろしい姿。
そして、とてもいやな……汚い臭い。
それでいて、耳に心地よい可愛い声で優しい喋り方の少女。
(オリヴィア……)
ともかく、解放された。安堵感。
胸をなでおろし、アンジェは自分の部屋に戻った。




