最終話 報い
「ん……っ」
頭を掻き抱かれ、髪を激しく撫で回される。陽太の顔が左へ、右へと忙しなく傾き、唇が深く密着する。
突き飛ばそうと思えばできただろう。だが、私はそうしなかった。こういう空虚な行為をすることで、彼が弟であることを否定したかったのかもしれない。
目の端に、あんぐりと口を開けた父親の姿が映ったが、最早どうでもよかった。
私は陽太を受け入れた。性急に彼を求めた。呼吸さえ煩わしくなって、陽太のにおいを深く吸い込んだ。唾液を交換する淫靡な音。僅かに受け取り損ねたそれが細く、太く糸をつくり、顎を這っていく。涙が次々とこぼれた。
我を忘れて貪るその姿は、獲物を骨までしゃぶりつくす獣のようだった。青くさい。陽太らしくないキスだ。だが、真実を知ってもなお、変わらない陽太の気持ちが痛いほど伝わってくる。
やがて、唇がそっと離れた。唾液が糸を引き、脆く崩れていく。
「何してんのよ……」
心とは裏腹に、姉としての理性が口をついた。
陽太の綺麗な瞳が微かに濡れている。
「教えてよ。俺、こんなにそばにいたのに、陽花のこと何も知らないんだなって思ったらさ、悔しいよ。悔しくて悔しくてたまらない」
陽太は眉根を下げて、いつかのように掠れた笑いを漏らした。そうして私の顔を覗き込むと、そっと涙を拭った。
微かなため息が聞こえたのは、その時だった。背後からだ。言うまでもないが、陽太の父親である。
砂を擦る踵の音が遠ざかっていき、やがて軽トラックの扉が開く。その後はもう、何も聞こえてこなかった。
「止めないで、あのまま帰してあげればよかったかな」
陽太がぼそりと呟いた。彼の視線は私を通り越して、どこか遠いところを見ていた。
何度目だろうか、目の奥から熱いものがこみ上げてくる。
遥か後方で、陽太の父親が聞いている。軽トラックの扉を開け放して、私の話を聞こうとしているのだ。
せめてもの償いだろうか。血の繋がった娘の叫びを聞こうとしているのだろうか。生ぬるい。犯した罪は、こんなにちっぽけなものではない。私よりももっと、もっと大きくて、決して消えることのない痛みだ。
私は父親に聞こえるように声を張り上げた。
「私、本当は陽太を殺すつもりだった!」
思いのほか、大きな声が出た。陽太が微かに目を見張った。
「そのつもりで近づいたのよ……。父親の前で殺してやろう、後悔させてやろうって思ってた。それが私の復讐だった。だって、死んだって聞かされてた父親が生きてるって知った時には、もう家族がいたのよ! 息子だって高校生になってた! 自分だけ幸せになろうなんて、許せるわけないじゃない!」
まるで立場が逆だ。これではどちらが年上なのかわからない。
子供っぽい陽太を、時には姉のように叱っていたつもりなのに。結局、感情に振り回されてこのザマだ。
私は母の過去をぽつりぽつりと話し始めた。
母は私を身籠った後、実家から勘当された。子供を堕ろせ。堕ろさないのなら家から出ていけ。その一点張りだったそうだ。
最初は事務の仕事に就いた。経験や学歴を問わず、とにかく向上心のある明るい人材を求めていたからだ。月給十三万という数字が、母には輝いて見えた。
手取りは十万を切っていたが、その時は自分一人の生活費さえ稼げればよかった。どうしても足りなければ、養育費として貰った二百万がある。
だが、現実はそう甘くはなかった。
生活が苦しくなったのだ。なぜなら、私が生まれたからである。
産休は許可された。子育ての知識についても、職場には第二の人生を始めた年配の女性が多く、それについて苦労することは無かった。
問題は金である。日々の生活費はもちろん、健診に十万、出産に四十万。幼稚園の学費が年間二十三万。公的な制度を利用していれば負担額は大幅に減っていただろうが、母はそういったことに疎かった。我が家の金銭事情は、たちまち困窮に追い込まれたのである。
母は仕事を辞めた。同僚や上司に惜しまれながら母が足を踏み入れたのは、夜の世界だった。キャバクラに始まり、果てはヘルスやソープだ。
子供のころ、母が夕方に出かけるのは遊びに行くためだと思っていた。服装は普通だが、化粧が山姥みたいに濃いのだ。寂しかったが、母の苦労は傍で見て知っていたし、私のために働いてくれていると思うと、“遊びに行く”彼女を止めることはできなかった。
去年の暮れ、実家のバーが軌道に乗り始めたころのことだった。母が初めて私に話してくれたのだ。私の父親が生きていること、それが朝川という地主の息子であること。そして、これまで会わせてあげられなかったが、いつか祖父母に会いに行こう、と。
その時、私はようやく悟ったのだ。母はずっと一人で生きてきた。頼るべき身寄りも無く、たった一人で私を育ててくれたのだ。
母はそんなそぶりを見せなかった。苦しかっただろう。泣きたかっただろう。だが、弱った姿など、一度も見せなかった。母は強かった。
「周りは言うのよ。お金貰ったんでしょって。本当はお金持ちだって知ってて近づいたんじゃないのって。バッカじゃないの……。どいつもこいつもバカばっか! そんなにいっぱい貰ってたら、見ず知らずの男とやったりしないわよ! 金目当てで近づいてたら、たったの二百万ぽっちで納得するわけないじゃない! 確かに母さんもバカだったのかもしれない。でも、でもこんなのあんまりよ! なんで母さんばっ……母さんばっかり辛い目に遭わなきゃなんないのよ……!」
今朝、私たちを怒鳴った男の顔が脳裏に浮かんだ。ああ、そっくりだ。
こんなふうに当たり散らすことはできるくせに、結局陽太を殺すことはできなかった。言葉のナイフで何度も何度も陽太の心を刺して、何度も何度も殺したくせに、鞄に忍ばせた本物のナイフを取り出すことはできなかった。
刺した刃を引き抜く度胸も無かった。何が溢れてくるのか、怖くて怖くてしかたなかった。私は臆病なのだ。
「ふざけんな! ふざけんな! 母さんに謝れバカ野郎!」
声が裏返った。血を吐くような叫びとは、まさにこのことを言うのだろう。私が私でないようだった。
そうしてすべてをぶつけ終わるころには、のどがざらついていて、ひどく痛かった。
いつのまにか、私は陽太の腕を掴んでいた。指の先が白くなるほど力が入っている。
「ご、ごめん」
慌てて手を離すと、陽太は首を振って私を抱きすくめた。
「陽花。辛かったよね、苦しかったよね……。俺は後悔してないよ。聞いてよかった、陽花の口から聞けてよかった。話してくれてありがとう」
服越しに体温と体温が溶け合っている。燃えるような熱さ、この確かな実体こそが生だと思った。と同時に、陽太の腕に抱かれているという事実に、ひどく心が締めつけられた。
私は陽太の胸を押しのけた。
「やめてよ、もうやめて……」
腕に取り残された陽太の手が、行き場を失って佇んでいる。
「なんでそんなに余裕そうなのよ……。どうせ別れるのよ。責めればいいじゃない。いつもみたいに怒って、私のせいにして、子供みたいに拗ねてよ! 私、そうされても文句言えないようなことしたのよ……!」
困ったような顔に向かって、私は子供みたいに喚いた。
だが、陽太が私を責めるとは思えなかった。その表情にうかがえるのは、まぎれもなく同情である。悔しかったし、悲しかった。
「あんなふうに会いたくなかった、好きにならなきゃよかった……! そしたら、そしたら陽太のことなんて平気で傷つけられたのに……」
何を言っているのか、自分でもわからなくなっていた。なんて勝手なのだろう。我ながら、ひどい女だと思った。
それ以上、陽太は何も言わなかった。ただ黙って私を見つめていた。子犬のように愛らしい瞳に、私の醜い顔が映っている。
涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔が見えたわけではない。中途半端な復讐を終え、どこかすっきりしたような自分が、憎くてたまらなかった。
「…………ごめんね」
もう、その四文字を口にするのが精いっぱいだった。
◇◆◇
私が電車に乗ると、陽太はホームの端で立ち止まった。その手は私の右手を掴んだままだ。
「もう、泣きやんでよ。俺が悪者みたいになっちゃう」
陽太は冗談っぽく言って、笑った。
確かにひどく目立っていただろう。電車の入り口で、格好を見れば十代後半から二十代と思われる女が、壊れたように泣き続けているのだから。声こそ殺していたが、通り過ぎた乗客は皆、ぎょっと目を剥いた。
あの後、私が落ちついたころを見計らって、陽太が「送っていくよ」と申し出た。だが、別れ際になってまた涙が出てきてしまったのだ。
「ね、永遠の別れじゃないでしょ。会おうと思えばいつでも会える距離なんだから」
陽太はそう言うが、この先、私たちが会うことはないだろう。もちろん、陽太は社交辞令が言える人間ではない。単に、再会する未来が描けないのだ。
右手のほうから轟々と音が聞こえてきた。新幹線が隣の車線を走り抜けていく。海岸へ押し寄せる波のように、電車が揺れた。
これで最後か。頭上を仰ぐと、発車を報せるベルが甲高く鳴り響いた。
『お乗りでないお客様は、車両から離れてください。繰り返します。お乗りでないお客様は――』
駅員が手に提げていた拡声器を口に当て、淡々とした口調で告げた。薄いグレーの制帽の下で、生気の無い瞳がこちらを一瞥する。
「じゃあね、陽花。……元気でね」
陽太が口早にそう告げた。私は頷くことしかできなかった。額にそっと触れるだけのキスをして、あっけなく陽太は離れていく。
扉が閉まった。私は扉に手をついて、彼の目を見つめた。ほんの少しでもいいから、近くにいたかったのだ。
陽太が口端を上げ、どこか寂しそうな笑顔を浮かべるころには、電車はゆっくりと動き出していた。ガタンゴトン、ガタンゴトン。体の奥深くに沈んでいくような重たい音だ。
陽太が離れていく。私たちを引き離すように、電車はどんどん離れていく。
電車の窓越しに、陽太が顔を覆ってその場に膝をついた。彼は人目もはばからず泣いた。私の前では決して見せなかった姿だ。
「うっ」
嗚咽が漏れた。私はずりずりと扉を擦りながらしゃがみ込んだ。本当は子供みたいにわんわんと泣きたかったのだが、それができるほど幼くはないし、私にその権利は無い。
ワンピースの胸元を掴んでぐっと堪えた。
ピンクや紫のグラデーションが美しい、花柄のワンピース。袖は長いが、膝頭が隠れるくらいの丈で生地が薄く、秋の終わりに着るには少し肌寒い。初夏、陽太とデートをした時に買ったものだ。
陽花、こういうの似合うよね。
陽太はそう言って、誇らしそうにしていた。その光景が昨日のことのようにはっきりと思い出せる。
この先、陽太は誰と付き合って、誰と結婚するのだろう。私とは正反対の人だろうか。純粋で、甘え上手で、きっと育ちのいい女の子に違いない。世間知らずで従順なら、かわいげもあるだろう。
陽太を愛してくれる人なら誰でもいい。私は永遠に知ることのない未来を思い描いて、吐息を漏らした。
扉のくすんだ銀色に映る、腫れた目の彼女と目が合った。彼女は眉根を下げて、微笑んでいる。
私の中でいつのまにか芽吹いていたそれが、ズキリと疼いた。
副題「〜父親の目の前で〜」を付けたい(
これにて完結です。
読んでくださった方、有難うございました。