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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第二部 死んだ人間は帰ってこない
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9/30

第八章 竜の峠

 村を出てから半日ほど進むと、街道は二つに分かれた。


 一方は北へ、もう一方は東へ伸びている。道標は古く、長い年月の雨と風に削られていたが、辛うじて文字を読み取ることはできた。


 北――《カラド峠》。


 東――《リュナ街道》。


 キースは馬車を降り、道標の前へ立った。


 北へ伸びる道は、遠くに見える灰色の山並みへ真っ直ぐ続いている。山は雪を頂くほど高くはなく、地図の上でも大山脈とは分類されていない。


 それでも、いくつもの岩峰が鋭い歯のように並び、その間を縫って走る細い峠道は、見るからに険しかった。


 一方、東へ向かう道は緩やかだ。丘陵の裾を大きく回り込み、やがて北側へ抜ける。


 安全な道。


 その代わり、遠い。


「どのくらい違う?」


 キースが尋ねると、マーカスは馬車の荷台から地図を取り出し、地面へ広げた。


「峠を抜けりゃ、明日の夕方には北側の宿場まで行ける」


「東へ迂回した場合は?」


「天気が良くて三日余計にかかる。馬の具合が悪けりゃ四日」


「四日……」


 キースは地図へ目を落とした。


 紙の上なら、ほんの指二本ほどの違いでしかない。だが、その指二本が現実では三日にも四日にもなる。


 神殿で地図を眺めていた頃には、分かっていなかった感覚だった。


「峠はどのくらい危険なんだ?」


「時期次第だな」


 マーカスは顎を掻いた。


「春先なら雪崩。冬なら凍結。今はそのどっちもねえ。雨もここ数日は降ってないから、崖崩れもたぶん大丈夫だ」


「たぶん」


「またそこ気にすんのか?」


「君が絶対という言葉を使うなと言ったんだろう」


「覚えがいいな」


「本を読むのは得意だからな」


 マーカスが笑った。


 少し離れた場所では、シビウが北の山々を眺めている。


「道自体は通れるよ」


 彼女が言った。


「昔、二度越えたことがある」


「二度?」


「ああ。一回目は秋。もう一回は初夏だった」


「何かあった?」


「一回目は山賊。二回目はロックウルフ」


 キースは顔をしかめた。


「それを安全とは言わないだろう」


「安全なんて言ってないよ」


「通れるって言っただけだ」


 マーカスが横から補足する。


「二人とも、言葉の使い方がおかしい」


「神官様は細かいねえ」


「神官長だ」


「旅に出てから、一番元気に言える言葉がそれになってないかい?」


 シビウが笑った。


 キースは言い返そうとして、やめた。


 そんなことより、決めなくてはならない。


 北か。


 東か。


 峠を通れば早い。迂回すれば安全。


 単純な二択に見える。


 だが、キースには簡単に答えを出せなかった。


 昨日までは、一日でも早く北へ進むべきだと思っていた。


 アムドアの大穴。


 世界各地で増え続ける〈混沌〉。


 数百年前の記録に残された《アムドアの穴》。


 一日でも早くラルソウムへ辿り着き、調査を進めたい。


 世界で何が起こっているのかを知りたい。


 いや、知らなくてはならない。


 だが、その思考に黒い毒針の記憶が割り込んだ。


 キラービー。


 自分へ向かって迫ってきた針。


 身体が動かなかった。


 マーカスが助けてくれなければ、死んでいた。


 たった数日前までなら、峠の危険など数字で考えられただろう。怪物出現率、遭難記録、旅人の死亡数、護衛人数。そして、自分には強力な魔導がある。


 そう計算すればよかった。


 だが今は、その危険の中に自分自身が立っている。


 崖から落ちれば死ぬ。怪物に襲われても死ぬ。


 そして危険に晒されるのは、自分だけではない。


 ローゼン。


 マーカス。


 シビウ。


 四人分の命がある。


「東へ行こう」


 キースは言いかけた。


 だが、声にはならなかった。


 昨夜の少年を思い出した。


 何もできなかった。


 知識があっても、薬がなければ救えない。


 知らなければ、もっと何もできない。


 もし本当に〈混沌〉が世界を少しずつ喰らっているのなら、三日、四日という時間のあいだに何が起きるのか。


 新しい穴が開くかもしれない。


 アムドアの封印が崩れるかもしれない。


 もちろん、そんなことは何も起きないかもしれない。


 分からない。


 まただ。


 旅へ出てから、分からないことばかりだった。


「難しい顔してるね」


 シビウが言った。


「考えている」


「道を一本選ぶだけだよ」


「その一本で誰かが死ぬかもしれない」


 シビウの笑みが、少しだけ消えた。


「そりゃそうだ」


 あまりにもあっさりした返答だった。


「東へ行っても?」


「死ぬときゃ死ぬさ」


「君はいつも極端なんだ」


「でも本当だろ」


 シビウは道標へ背を預けた。


「安全な道で盗賊に会うこともある。危険な道を何事もなく抜ける日もある。先のことなんざ、全部分かるわけじゃない」


「だから勘で決めろと?」


「そんなこと言ってないよ」


「なら、どうする」


「分かってるところまでで決める」


 キースは顔を上げた。


「分かってるところ?」


「ああ」


 シビウは北の山を指した。


「雨は降ってない。雪もない。道も生きてる。少なくとも今の季節なら越えられる」


 次に東を指す。


「あっちは安全。でも三日は増える」


「それは分かっている」


「なら、残りはあんたが何を優先するかさ」


 キースは黙った。


 意外だった。


 シビウなら、「峠でいいだろ」と即決すると思っていた。


 だが、決めてはくれない。


「護衛なんだから、君たちが決めてもいいだろう」


「嫌だね」


「なぜ」


「あたしらは道について意見を言う。怪物が出たら戦う。でも、旅の目的まで決めるのはあたしらの仕事じゃない」


 マーカスも頷いた。


「そういうこった」


 キースは二人を見た。


「無責任じゃないか?」


「逆だよ」


 シビウは言った。


「世界が危ないから急ぐって言ったのは、あんただろ」


 返す言葉がなかった。


 確かにそうだ。


 自分が旅をすると決めた。


 メミスを出ることも、ラルソウムへ向かうことも。


 神託ではない。


 巫女が決めたわけでもない。


 神官会の命令でもない。


 自分で決めた。


 ならば、道だけ他人へ決めてもらい、何かあったときに「あの二人が選んだ」と言うのか。


 それは違う。


「……少し考える」


「どうぞ」


 マーカスは道端の岩へ腰を下ろした。


「昼飯にするか」


「今?」


「考えるのにも腹は減る」


 キースは呆れたが、マーカスは本当に荷袋から干し肉を取り出し始めた。


「ローゼンも食うか?」


「ありがとうございます。ですが、わたくしは――」


「ああ、そういや精霊はあんまり食わねえんだったか」


「食べることはできます」


「じゃあ食え」


「では、少しだけ」


「君たちは緊張感がなさすぎる」


 キースが言うと、マーカスは干し肉を噛みながら答えた。


「決まるまで腹空かせてる理由がねえ」


「道を選んだら、もっと腹が減るかもしれないしね」


 シビウもパンを取り出している。


 結局、キースも食べることになった。


          *


 食事を終える頃には、答えは出ていた。


「峠へ行く」


 キースが言った。


 誰も驚かなかった。


 マーカスだけが短く答える。


「そうか」


「反対しないのか?」


「する理由がねえ」


「危険なんだろ」


「危険だ」


「なら――」


「キース」


 マーカスが立ち上がり、大きな手で地図を畳んだ。


「危険だから行くなって言ってたら、俺たちみたいな奴は仕事にならねえ」


「しかし」


「心配すんな」


 マーカスは笑った。


 いつもの豪快な笑みだった。


「俺とシビウが守ってやる」


 シビウが片眉を上げる。


「勝手にあたしまで格好つけた台詞へ入れるんじゃないよ」


「守るだろ?」


「仕事だからね」


「ほら」


「だからって、あんたと一緒に言われると腹立つんだよ」


「なんでだ!」


「なんとなくさ」


「ひでえ!」


 二人の喧嘩が始まった。


 キースは苦笑する。


 妙なものだった。


 ほんの数日前、キラービーの毒針の前で動けなくなった自分を、マーカスが救った。


 それを思えば、彼の言葉には十分すぎるほどの重みがある。


「頼りにしている」


 キースが言うと、マーカスが喧嘩を止めた。


「おう」


 シビウも一瞬だけキースを見る。


「だからって、全部あたしらに任せるんじゃないよ」


「分かっている」


「本当に?」


「……努力する」


「そこは即答しな」


 ローゼンが楽しそうに笑った。


 一行は北へ進んだ。


          *


 カラド峠へ近づくにつれ、大地から緑が減っていった。


 低い草原はやがて岩混じりの斜面へ変わり、道の両側には切り立った岩壁が迫ってくる。車輪の下では、小石が絶えず音を立てていた。


 がたん。


 ごとん。


 馬車が揺れる。


 神殿を出た直後なら、キースは早々に気分を悪くしていただろう。


 今は少し慣れた。


 とはいえ、本を読む気にはならない。


 御者台の横へ座り、キースは周囲を見ていた。


「ずいぶん見張るようになったな」


 マーカスが言った。


「悪いか?」


「いいことだ」


「怪物の痕跡は?」


「今んところねえな」


「足跡は?」


「山羊だ」


「あれは?」


「鳥」


「あの岩の傷」


「古い崩落跡」


「では――」


「ちょっと黙れ」


「なぜだ!」


「俺が疲れる!」


 後ろからシビウが笑った。


「ほら。坊やのお勉強につきあってやりな」


「お前がやれ!」


「あたしは後ろを見張ってんだよ」


「都合のいいこと言いやがって」


 軽口は続いていた。


 それでも、平地を進んでいた頃とは空気が違う。


 マーカスの視線は何度も岩壁の上を走り、シビウも喋りながら、手はいつでも剣を抜ける位置へ置かれている。


 二人も警戒している。


 キースには、それが分かった。


 つまり、この道は本当に危険なのだ。


 そして、その道を自分で選んだ。


 胸の奥で、不安が少しずつ膨らんでいく。


 判断を間違えたか。


 東へ行くべきだったのではないか。


 三日。


 たった三日だ。


 世界が数年かけて崩れ始めているという話なのに、三日を惜しむ必要などあったのか。


 アムドアの異変はすでに数年前から続いている。


 ならば、数日遅れたところで――。


「キース様」


 隣からローゼンが声をかけた。


「何だ」


「先ほどから、同じところを何度もご覧になっています」


「同じところ?」


「はい」


 指を差される。


 自分では周囲を警戒しているつもりだった。


 だが実際には、何度も同じ崖の裂け目へ視線を戻していたらしい。


「……少し考えていただけだ」


「峠を選んだことですか?」


 キースは答えなかった。


 それで十分だった。


「お戻りになりますか?」


 ローゼンが尋ねる。


「戻る?」


「はい。まだ引き返せない場所ではないと思います」


 キースは振り返った。


 これまで登ってきた道が、岩壁の向こうへ曲がりながら続いている。


 確かに戻るなら今だ。


「君はどう思う」


「わたくしですか?」


「ああ」


 ローゼンはしばらく考えた。


「わたくしは、キース様がお決めになった道でしたら、どちらでも参ります」


「それでは参考にならない」


「申し訳ありません」


「謝らなくていい」


 キースは前を向いた。


 また、自分で決めろということか。


 神殿にいた頃は、自由が欲しいと思った。


 決められた役目。


 決められた人生。


 決められた婚姻。


 何もかもが窮屈だった。


 だが自由とは、自分で決めるということは、決めた結果も自分で背負うことなのかもしれない。


「進もう」


 キースは言った。


 今度は、さっきよりはっきりと。


「戻らない」


「はい」


 ローゼンが微笑む。


 マーカスは何も言わなかった。


 聞こえていたはずだ。


 ただ手綱を軽く鳴らし、馬車を峠のさらに奥へ進ませた。


          *


 午後になると、空の色が変わった。


 青空そのものは残っているが、山の稜線から薄い雲が流れ始め、ときおり陽光を遮っている。


 風も強くなった。


 岩の隙間を抜ける風が、低い笛のような音を立てる。


 道幅も狭まっていた。


 左手には岩壁。


 右手には崖。


 遥か下に、細い川が見える。


 キースは崖下を覗き、すぐに顔を戻した。


「高いな」


「落ちたら助からないね」


 シビウが言う。


「なぜ君は、そういうことだけ即答する」


「分かりきってるからさ」


「縁起でもない」


「崖の上で『落ちても大丈夫』って言う方が無責任だろ」


 反論できない。


 車輪が大きな石を踏んだ。


 馬車が傾く。


「うわっ」


「動くな!」


 マーカスが手綱を引く。


 車体は揺れながらも元へ戻った。


 キースの顔が引きつる。


「今のは?」


「普通」


「普通?」


「峠道ならな」


「……東へ行けばよかったかもしれない」


 小さく呟くと、マーカスが笑った。


「今さら言うな」


「分かっている」


「ま、初めてなら怖いわな」


「君は怖くないのか?」


「怖いぞ」


「そうは見えない」


「怖いから、崖側の車輪見てんだろ」


 言われてみれば、マーカスは先ほどから何度も右後輪を確認している。


「怖くても進めるものなのか」


 キースが訊いた。


「進まなきゃならんときはな」


「それだけ?」


「それだけだ」


 マーカスは前を向いたまま続ける。


「怖くなくなってから動こうなんて思ってたら、たぶん一生動けんぞ」


 キースは黙った。


 キラービーのとき、怖かった。


 そして動けなかった。


 次に同じことが起きたとき、自分はどうなるのか。


 まだ分からない。


「その顔」


 シビウが後ろから言った。


「また蜂のこと考えてんだろ」


「……分かるのか?」


「分かりやすいからね」


 彼女は外を見たまま続ける。


「怖いなら、怖いままでいな」


「何?」


「忘れようとするから余計に怖くなるのさ」


 キースは振り返った。


「君も何か怖いものが?」


 シビウの目が、ほんの一瞬だけ遠くを見た。


 日が落ちた夜。


 暗闇。


 幼い頃の記憶。


 キースはまだ知らない。


「あるよ」


 それだけ答えた。


「誰だってある」


「マーカスにも?」


「こいつは女房が怖い」


「元だ!」


「誰のことだい!」


「ほら怖い!」


「谷底へ蹴り落とすよ!」


「やめろ! 今それだけは冗談にならん!」


 キースとローゼンが笑った。


 峠の冷たい空気へ、四人の声が広がる。


 ほんの少し、緊張が和らいだ。


 だから、最初の異変に気づいたのは人間ではなかった。


          *


 二頭の馬の耳が、同時に立った。


 次いで、ぴたりと足を止める。


「どうした?」


 マーカスが手綱を緩めた。


 馬は進まない。


 低く、苦しそうに鼻を鳴らしている。


「おい」


 マーカスの表情が変わった。


 手綱を引く。


「進め」


 馬は逆に一歩退いた。


「マーカス?」


 キースが尋ねる。


「静かにしろ」


 声が低かった。


 シビウもすでに立ち上がっている。


「何かいるね」


「見えるのか?」


「見えない」


 彼女の手が、ダンシングソードの柄へかかる。


「でも馬が怯えてる」


 そのとき、風が止んだ。


 ほんの一瞬だった。


 峠全体から、音が消えた。


 先ほどまで岩の隙間を鳴らしていた風も、崖下の川の音も、鳥の声も。


 何も聞こえない。


 キースは無意識に右手を握った。


 心臓が速くなる。


 蜂。


 違う。


 蜂ではない。


 羽音はない。


 代わりに、低い振動が地面の下から響いてくる。


 ご……。


 ごご……。


「地震?」


 キースが言う。


「違う」


 マーカスが即座に答えた。


「降りろ!」


「何?」


「早く!」


 マーカスが御者台から飛び降り、シビウも馬車の後ろから地面へ降りる。


「ローゼン!」


 キースは彼女の腕を取った。


 二人で馬車を降りた、その直後。


 地面が大きく揺れた。


 馬たちが悲鳴を上げる。


「ヒィィィン!」


 二頭が前脚を高く上げた。


 マーカスが手綱へ飛びつく。


「落ち着け! おい!」


 だが馬は、人間の声など聞いていなかった。


 白目を剥き、泡を吹き、何かから逃れようと必死に身を捩っている。


「何に怯えている?」


 キースが周囲を見回す。


 岩。


 崖。


 空。


 何もいない。


 ただ、ローゼンだけが別の方角を見ていた。


「……下です」


「何?」


「下に」


 再び地面が揺れる。


 さっきより近い。


 岩肌から小石が落ち、ごろごろと崖へ転がったまま谷底へ消えていく。


「全員、馬車から離れろ!」


 マーカスが叫んだ。


 キースたちは岩壁側へ走る。


 シビウはすでに抜剣していた。


 細身の刃が陽光を受ける。


 地鳴りが響く。


 一度。


 二度。


 そして、前方の岩陰から巨大な何かが姿を現した。


 最初に見えたのは角だった。


 一本。


 二本。


 さらに二本。


 合計四本。


 岩肌と見分けがつかない灰褐色の頭部が、ゆっくりと持ち上がる。


「……嘘だろ」


 キースの喉から声が漏れた。


 書物では何度も見た。


 骨格図。


 生態図。


 古代絵画。


 討伐記録。


 神代には空を覆うほどいたと伝えられ、今なお各地の深山や荒野に棲息する大型魔獣。


 竜。


 だが、本の挿絵は音を出さない。


 匂いもない。


 地面を揺らすこともない。


 目の前の竜は違った。


 全長は六メティートほど。


 竜としては中型に分類される。


 そう――知識の上では。


 だが人間の目の前に立てば、十分すぎるほど巨大だった。


 太い四肢。


 岩のような鱗。


 蜥蜴に似た長い頭部。


 口の端から覗く牙は、一本一本が短剣ほどもある。


 背骨の両側には角状の突起が並び、それは尾の先まで続いていた。


 巨大な胸が膨らむ。


 吐息。


 熱を帯びた獣臭が届いた。


 キースの身体が強張った。


 頭の中では、竜についての知識が一斉に蘇っている。


 鱗は硬い。


 腹部は比較的柔らかい。


 視野。


 突進速度。


 噛みつき。


 尾撃。


 爪。


 生息域。


 危険度。


 全部知っている。


 それなのに、その知識とはまったく別の場所で、身体が叫んでいた。


 怖い。


「キース」


 マーカスの声がした。


 キースは彼を見る。


 大男はすでに斧を抜いている。


 笑ってはいない。


 だが、逃げてもいなかった。


「大丈夫だ」


 低い声だった。


「蜂とは違うぞ」


 キースの心臓が跳ねる。


「お前はもう、一回怖いって知ってる」


 マーカスが一歩前へ出た。


 その隣へ、シビウが並ぶ。


「今度はちゃんと後ろにいな」


 彼女のダンシングソードが、しゃらりとほどけた。刃の節が長く連なり、地面を這う。


「戦うなということか」


「違うよ」


 シビウは竜から目を逸らさない。


「死なない場所で戦えってことさ」


 竜の黄色い瞳が動いた。


 四人を見る。


 馬を見る。


 そして、頭を低くした。


「来るぞ!」


 マーカスが叫ぶ。


 次の瞬間、竜の咆哮が峠そのものを震わせた。


 轟音。


 空気が殴りつけるように押し寄せる。


 馬たちが狂ったように暴れた。


 キースは思わず腕で顔を庇う。


 耳が痛い。


 岩肌から石が落ち、谷の向こうでは鳥の群れが一斉に飛び立った。


 そして竜は、巨大な爪で岩を砕きながら、一行へ向かって突進した。


「散れ!」


 マーカスが叫ぶ。


 シビウが右へ。


 マーカスが左へ。


 ローゼンが後退する。


 キースは――一瞬だけ、足が動かなかった。


 黒い毒針が脳裏を横切る。


 だが、今度は拳を握った。


 一歩。


 自分の意志で後ろへ退く。


 もう一歩。


 身体が動いた。


 怖い。


 それでも、動ける。


 右手へ魔力が集まり始める。


 竜が迫る。


 マーカスの大斧が持ち上がり、シビウの剣が風を切る。


 白い髪をなびかせ、ローゼンが何かを叫んだ。


 そしてキースは、初めて自分から戦うために術式を開いた。

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