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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第二部 死んだ人間は帰ってこない
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第九章 峠に響き渡る

 竜の咆哮が峠を震わせた。


 岩壁にぶつかった声が何重にも反響し、頭上から石粒が降り注ぐ。六メティートを超える巨体が地を蹴るたび、硬い岩盤さえわずかに揺れ、足裏から衝撃が這い上がってきた。


「散れ!」


 マーカスの声と同時に、四人は左右へ走った。


 竜が先ほどまで彼らのいた場所へ突っ込み、巨大な前脚で地面を抉る。砕けた石が飛び散り、キースは腕で顔を庇いながら岩壁側へ身を寄せた。


 その背後から、馬の悲鳴が響いた。


 反射的に振り返る。


 二頭の馬が完全に恐慌へ陥っていた。


 手綱を振り切り、竜から少しでも遠ざかろうと互いに身体をぶつけ合っている。荷馬車の車輪が道端の石へ乗り上げ、大きく傾いた。


「まずい!」


 マーカスが駆け寄ろうとする。


 だが、竜がそれを許さなかった。


 長い尾が薙ぎ払われ、岩を砕きながら男の目前を横切る。マーカスは咄嗟に身を伏せ、尾の一撃をかわした。


 その間にも、馬車はさらに傾いていく。


 右の車輪が崖から外れた。


「離れろ!」


 シビウが叫ぶ。


 直後、馬車は馬ごと崖へ引かれた。


 木材の軋む凄まじい音とともに車体が横倒しになる。暴れる馬たちの嘶きが響き、荷箱が道へ散らばった。


 最後に車体が崖際を滑り、そのまま視界の下へ消えた。


 数呼吸遅れて、遥か下から何かが砕ける音が届く。


 キースは呆然と崖を見た。


 三冊まで絞った本も、食料も、天幕も、旅道具の大半も、馬車と一緒に谷底へ消えた。


「見るのは後だ!」


 マーカスの怒声に、キースは我に返った。


 竜が再びこちらへ頭を向けている。


 逃げるための足は失った。


 ならば、ここで倒すしかない。


 シビウが先に駆けた。


「ちょいと相手してやろうじゃないか!」


 鞘から抜かれた《踊る剣》が、彼女の手首の動きに合わせてほどける。幾つもの刃節が銀の軌跡を描き、長い鞭のように竜の首へ走った。


 鋭い金属音が響く。


 刃は鱗へ当たり、火花を散らした。


 だが、切れない。


「ちっ!」


 シビウはすぐに腕を引いた。


 竜が首を振り、その勢いのまま尾を薙ぐ。


 シビウは地面を蹴って跳んだが、避けきれなかった。尾の先が脇腹を掠め、身体が横へ飛ばされる。


「シビウ!」


 マーカスが駆け込み、落ちてきた身体を両腕で受け止めた。


「ぐっ……!」


 二人分の重量と勢いを受け、マーカスの靴が岩地を滑る。


「大丈夫か!」


「あんたが受けなくても、華麗に着地してたよ」


「その減らず口が出るなら平気だな」


「誰の心配してんだい。前を見な!」


 竜が迫る。


 二人は同時に左右へ飛んだ。


 巨体がその間を抜けていく。


 マーカスは振り向きざま、大斧を竜の後脚へ叩きつけた。全身の力を込めた一撃だったが、分厚い鱗に白い傷を残しただけで弾かれる。


「硬え!」


 反対側ではシビウも刃を走らせていた。


 ダンシングソードが幾度となく鱗の隙間を狙う。二撃、三撃。自在にしなる刃は、普通の剣では届かない角度から襲いかかった。


 それでも、深手には至らない。


 キースは二人の動きを目で追っていた。


 怖い。


 竜が頭を振るたび、身体の奥で何かが縮む。牙が見える。角が見える。あれが自分へ向かってきたらと思うだけで、心臓が速くなる。


 それでも、足は動いた。


 キラービーのときとは違う。


 怖いまま、キースは竜から距離を取った。


 右手を上げる。


 魔力が応じた。


「キース様!」


 ローゼンが岩陰から声を上げる。


「分かっている!」


 術式を展開する。


 頭の中には、竜について学んだ知識が次々と浮かんでいた。


 成竜の鱗は物理攻撃へ高い耐性を持つ。とくに背部、頭部、四肢は硬い。弱点は眼球、口腔、関節、そして普段は地面へ向けられている腹部。


 腹。


 そこを攻撃できれば。


 キースは竜と戦う二人を見た。


 マーカスも同じことに気づいたらしい。


「腹が出りゃあな!」


 竜の突進をかわしながら叫ぶ。


「だったら出してやるよ!」


 シビウが返した。


「どうやって!」


「それを考えるのは魔導士様の仕事だろ!」


 キースは息を呑んだ。


 できる。


 地属性で足場を崩すか。


 駄目だ。この場所で地盤を崩せば、こちらまで崖へ巻き込まれる。


 水で足を滑らせるか。


 水量が足りない。


 火では鱗の表面を焼けても、巨体を転倒させるには時間がかかる。


 ならば、風。


 キースは両手を前へ出した。


 空気を集める。


 微風ではない。


 竜の巨体そのものを持ち上げるほどの風。


 理論上は可能だ。


 魔導力も足りている。


「二人とも退け!」


 叫ぶ。


 マーカスとシビウが同時にキースを見た。


 彼の法衣は、すでに足元から巻き上がる風に激しく揺れている。砂礫が浮き、髪が逆立つ。


「何する気だ!」


「竜をひっくり返す!」


「できんのか?」


「できる!」


 躊躇はなかった。


「ならやれ!」


 マーカスとシビウが左右へ退く。


 竜は逃げる二人を追おうと首を巡らせた。


 今だ。


 キースは術式を解放する。


「――起きろ、風!」


 空気が爆ぜた。


 周囲の風が一点へ吸い込まれ、次の瞬間には巨大な渦となって竜へ襲いかかる。


 地面が削れ、砂塵と小石が巻き上がった。


 竜は四肢を踏ん張る。


 咆哮。


 だが、キースの魔導はそれを上回った。


 前脚が浮く。


 続いて後脚。


 竜の巨体が地面から離れた。


「うお……!」


 マーカスが思わず声を上げる。


 中型とはいえ、竜だ。


 人間なら何十人がかりでも動かせないであろう巨体が、木の葉のように持ち上がっていく。


 キース自身も驚いていた。


 できるとは分かっていた。


 だが、実際に持ち上がる光景は想像以上だった。


 もう少し高く上げる。


 それから背中側へ回転させ、地面へ叩き落とす。


 腹を晒す。


 そこへ二人が攻撃する。


 理屈は完璧だった。


 だが――。


「キース、待て!」


 マーカスが叫んだ。


 意味が分からない。


「何だ!」


「そっちは崖だ!」


 キースは初めて気づいた。


 風の渦は、竜を真上へ持ち上げていない。


 峠を吹き抜ける自然風。


 岩壁による気流の偏り。


 そして何より、キース自身が竜の正面から斜めに術式を放っていた。


 巨体は持ち上がりながら、わずかに崖側へ流されている。


 修正しなければ。


 そう判断した瞬間、竜が空中で激しく身を捩った。


 尾が渦を打つ。


 キースの集中が乱れる。


「くっ……!」


 風圧が一瞬だけ揺らいだ。


 竜の身体が傾く。


 ここで術を止めれば落ちる。


 だが、この高さなら倒せる。


 まだ大丈夫だ。


 キースはそう判断した。


 判断してしまった。


「落とす!」


「待て、まだ――!」


 シビウの声が届くより早く、キースは風を切った。


 巨体が落下する。


 轟音。


 竜の背中が岩盤へ叩きつけられた。


 峠全体が揺れたかと思うほどの衝撃が走り、岩に放射状の亀裂が広がる。


 土煙の向こうで、竜が仰向けになっていた。


 腹部が露出している。


「今だ!」


 キースが叫ぶ。


 マーカスとシビウは、すでに動いていた。


 二人は煙の中へ駆け込む。


 マーカスの斧が高く上がり、鱗の薄い腹へ振り下ろされた。


 肉へ刃が沈む。


 初めて、確かな手応えがあった。


 竜が絶叫する。


「効いてる!」


 シビウの声。


 ダンシングソードが伸びた。


 刃節が竜の腹を走り、柔らかな皮膚を深く裂く。


 暗い血が岩へ飛び散った。


 キースは息を吐いた。


 やった。


 倒せる。


 恐怖の中でも術を使えた。


 自分は戦えた。


 その安堵が、ほんの一瞬だけ判断を鈍らせた。


「下がれ!」


 マーカスが叫んだ。


 竜は死んでいない。


 仰向けのまま、四肢を激しく振り回す。


 太い尾が地面を叩き、岩を砕いた。


 シビウが身を翻してかわす。


 だが、竜の頭が持ち上がった。


「まだ起きるのか!」


 キースは再び術式を組もうとした。


 今度は押さえ込む。


 風で地面へ縫い止めればいい。


 だが、術式を選び、魔力を集め、対象を定める。


 その数呼吸が、戦場では長すぎた。


 竜が身体を捻る。


「シビウ!」


 マーカスの声。


 竜の爪が迫った。


 シビウは跳ぶ。


 紙一重で爪をかわし、そのまま竜の首へ駆け上がった。


「こんちくしょう!」


 ダンシングソードが一閃する。


 右目。


 続けて左目。


 刃が二つの眼球を切り裂いた。


 竜の咆哮が変わった。


 怒りではない。


 痛みと恐怖。


 突然、世界を奪われた獣の絶叫だった。


 シビウは竜の頭から飛び降り、地面を転がる。


「目を潰した!」


「こっちへ来い!」


 マーカスが彼女へ手を伸ばした。


 その声へ反応したのか。


 あるいは、ただ近くにあった音へ向かっただけなのか。


 竜が頭を振る。


 何も見えていない。


 それでも巨体は動いた。


 腹から血を流しながら四肢を岩へ叩きつけ、無茶苦茶に暴れ始める。


「まずい!」


 キースは魔力を集める。


 風で止める。


 今度こそ。


 だが、竜はキースより先に動いた。


 頭を低くする。


 四本の角が正面を向く。


 その先に、マーカスがいた。


「マーカス!」


 シビウが叫ぶ。


 竜が突進した。


 距離がない。


 避けられない。


 マーカスは大斧を捨て、両腕を広げた。


 何をするつもりなのか。


 キースには理解できなかった。


 直後、轟音とともに竜の頭部がマーカスへぶつかった。


「ぐ……っ!」


 マーカスは角の間へ身体を入れ、左右の角を両手で掴んでいた。


「マーカス!」


「来るな!」


 腕の筋肉が膨れ上がり、足が岩盤へ食い込む。


 人間一人の力で、竜の突進を止めようとしている。


 無茶だった。


 それでも、ほんの一瞬。


 竜の動きが止まった。


「今だ!」


 マーカスが叫ぶ。


「キース! 撃て!」


 キースは右手を上げた。


 できる。


 竜は止まっている。


 狙える。


 だが、マーカスが近すぎる。


 火を使えば巻き込む。


 雷も同じ。


 風なら――。


 再び持ち上げる?


 だが、先ほどのように制御を誤れば、今度はマーカスまで飛ばす。


 どうする。


 何を使う。


 どこを狙う。


 キースの頭の中で、無数の術式が交錯する。


 一瞬。


 ほんの一瞬だった。


 だが、戦場では長すぎた。


「くそっ!」


 マーカスの靴が滑った。


 竜が押す。


 一歩。


 マーカスが下がる。


 もう一歩。


「止まれ……この野郎!」


 両腕で角を押さえ込む。


 それでも竜の巨体は止まらない。


 盲目になった獣は、自分がどこへ向かっているのかさえ分からず、ただ正面へ進み続ける。


 その先にあるのは、崖だった。


「マーカス、後ろ!」


 シビウの声が裂ける。


 マーカスが一瞬だけ、肩越しに後ろを見た。


 何もない。


 空。


 谷。


 彼の踵は、すでに崖の縁へ掛かっていた。


「……あ」


 驚くほど小さな声だった。


 次の瞬間、岩の縁が崩れた。


 マーカスの片脚が落ち、体勢が崩れる。


 それでも男は、竜の角を離さなかった。


 離せば、竜の突進がその後ろにいる誰かへ向かう。


 キースはそう理解した。


「手を離せ!」


 叫ぶ。


「マーカス、離せ!」


 男がこちらを見た。


 一瞬、いつもの顔だった。


 旅の途中で笑っていた。


 本を減らせと文句を言った。


 黒パンを食えと言った。


 蜂の毒針から助けてくれた。


 強いことと、戦えることは違うと教えた。


 そして峠へ入る前には、心配するなと笑った。


 ――俺とシビウが守ってやる。


 そのマーカスが、笑ったように見えた。


 竜の重みが崖へ傾く。


 人間一人では支えられない。


 岩が砕けた。


 シビウが走る。


「マーカス!」


 伸ばした手は、届かなかった。


 竜の巨体が崖の向こうへ消える。


 それに引かれるように、マーカスの身体も消えた。


「――マーカス!」


 シビウの叫びだけが谷へ落ちていった。


 何かが岩壁へぶつかる音。


 一度。


 もう一度。


 それから、何も聞こえなくなった。


 キースは動けなかった。


 風が吹いている。


 さっきまで止まっていた峠の風。


 その音だけが戻ってくる。


 ローゼンも言葉を失っていた。


 シビウは崖際に立ったまま、下を見つめている。


 誰も声を出さなかった。


 キースは自分の右手を見る。


 まだ魔力が集まっている。


 撃てた。


 術はあった。


 力もあった。


 それなのに、選べなかった。


 迷った。


「マーカス……?」


 自分でも、なぜ名前を呼んだのか分からない。


 返事はなかった。


 キースは崖へ走った。


「キース様!」


 ローゼンの声にも構わず、縁へ膝をつく。


 谷底を覗いた。


 深い。


 あまりにも深い。


 岩壁が途中で張り出しているため、底まで見通すことさえできない。


 人影も、竜も見えない。


「まだだ」


 キースは呟いた。


「まだ分からない」


 シビウが彼を見る。


「落ちただけだ。途中の岩棚に引っ掛かっているかもしれない。竜が下になったなら、衝撃も――」


 言いながら、キースは崖の斜面を探した。


 降りられる場所。


 足場。


 何か。


「風の魔導を使えば降りられる」


 立ち上がる。


「浮遊術式を組めばいい。完全な飛行は無理でも、落下速度なら抑えられる。私が行く」


「キース様!」


 ローゼンが腕を掴んだ。


「離してくれ!」


「危険です!」


「マーカスが下にいる!」


「ですが――」


「まだ助けられる!」


 ローゼンの手を振り払う。


 崖へ足を掛け、魔力を集める。


 風。


 先ほど竜を持ち上げたほどの力だ。


 自分一人なら降りられる。


 そう思った。


 思いたかった。


「待ってろ!」


 誰に向けた声だったのか。


「今行くから!」


 足を踏み出した瞬間、頬に衝撃が走った。


 視界が横へ飛ぶ。


「――っ!」


 キースは岩地へ倒れた。


 一瞬、何をされたのか分からなかった。


 頬が熱い。


 口の中には血の味がする。


 顔を上げる。


 シビウが立っていた。


 拳を握っている。


 彼女が殴った。


「何を――」


「馬鹿野郎!」


 声が峠へ響いた。


 これまで聞いたことのない声だった。


 怒鳴っている。


 だが、怒りだけではない。


 その奥に、何かが必死に押し込められている。


「何するんだ!」


「それはこっちの台詞だ!」


「マーカスを助けに――」


「どこへ行く気だ!」


「下だ!」


「どうやって!」


「風を使えば――」


「今さっき、その風をまともに制御できなかった奴がか!」


 キースの息が止まった。


 言葉が胸へ刺さる。


「だが……」


「今度は自分まで落ちるつもりかい!」


「それでも!」


「死んだ人間は帰ってこない!」


 シビウの声が途切れた。


 風だけが吹いている。


 キースは地面に手をついたまま、彼女を見た。


 シビウも動かなかった。


 自分で言った言葉を、自分自身が聞いてしまったような顔をしていた。


 死んだ人間は帰ってこない。


 彼女は、それを以前から知っていたのだろう。


 傭兵。


 戦士。


 旅。


 死。


 何度も見てきたはずだ。


 だが、知っていることと、今それがマーカスであることは同じではない。


「死んだって」


 キースは声を絞り出した。


「まだ決まったわけじゃない」


「決まってる」


「見てもいない!」


「見なくても分かる!」


「分からないだろ!」


「分かるんだよ!」


 シビウが叫んだ。


「ここから落ちて、生きてられるわけないだろ!」


 声が震えた。


 初めて、ほんの僅かに。


 それでも彼女は泣かなかった。


「竜ごとだ」


 シビウは言った。


「途中で岩にぶつかってる。下が川だったとしても、あの高さだ。生きてるわけがない」


「それでも確認しなければ」


「どうやって?」


「迂回して谷底へ――」


「何日かかると思ってる」


「何日でも!」


「世界を調べるんだろ!」


 キースは言葉を失った。


 シビウは続ける。


「アムドアに行くんだろ。〈混沌〉が広がってるんだろ。だから三日を惜しんで、この峠を選んだんだろ!」


 胸を抉られた。


 自分が、この道を選んだ。


 東へ迂回することもできた。


 それでも、三日を惜しんだ。


 マーカスは言った。


 ――俺とシビウが守ってやる。


 そして、本当に守った。


「私が……」


 喉が震える。


「私が、この道を」


「今それを言うな」


「でも」


「言うな!」


 シビウは、ほとんど叫んだ。


 そして顔を背ける。


 肩がわずかに上下していた。


「今あたしに、それを聞かせるんじゃないよ」


 その一言だけは、ひどく小さかった。


 キースは口を閉ざした。


 何も言えなかった。


 ローゼンは二人を見ていた。


 深紅の瞳には、どう声をかければいいのか分からない戸惑いが浮かんでいる。


 長いあいだ、三人は崖の前から動かなかった。


          *


 やがてキースは、谷へ降りる道を探し始めた。


 シビウに殴られても、諦めきれなかった。


 峠道を少し戻り、脇道を調べる。岩壁へ刻まれた古い獣道、雨水が削った溝。どこかに下へ降りられる道がないかと探し続けた。


 ローゼンも黙って手伝った。


 シビウは止めなかった。


 彼女自身も、どこかで見つかってほしいと思っていたのかもしれない。


 半刻。


 一刻。


 日が傾いていく。


 だが、道はなかった。


 北側の谷は深く、岩壁はほとんど垂直に切れ落ちている。まともに谷底へ向かうなら、一度峠を抜けてから大きく回り込み、川沿いに戻ってくるしかない。


 地図を見る限り、それだけで二日以上かかる。


 しかも谷底の川が、どこを流れているのかさえ正確ではない。


 遺体がそこに留まっている保証もなかった。


 竜の巨体とともに落ちたのだ。


 川へ落ちたなら流されているかもしれない。途中の裂け目へ落ちたなら、人間には近づけない。


 キースは崖際に座り込んだ。


「……何もできない」


 昨日までなら、その言葉は自分が弱いという意味だった。


 今は違う。


 本当に、何もできない。


 死んだかもしれない人間へ。


 どれだけ強い魔力があっても、どれだけ知識があっても、何一つ届かない。


 ローゼンが隣に立った。


 今度は慰めなかった。


 ただ一緒に谷を見ていた。


 キースは、それがありがたかった。


「マーカス様は」


 ローゼンが、しばらくして呟いた。


「最後まで、わたくしたちを守ろうとしておられました」


 キースは目を閉じた。


 見えてしまう。


 角を掴んだマーカス。


 後ろが崖だと知った瞬間。


 手を離せと叫んだ。


 それでも離さなかった。


 もし、あのときすぐに術を放っていれば。


 もし最初の風を、もっと正確に制御していれば。


 もし峠を選ばなければ。


 いくらでも《もし》が浮かぶ。


 どれも遅い。


 それだけは分かった。


 背後で金属音がした。


 シビウが、マーカスの大斧を拾っていた。


 竜が突進したとき、彼が投げ捨てたものだ。


 大きな斧。


 シビウ一人で持てないほどではないが、彼女の細身には不釣り合いだった。


 それでも彼女は、両手で持ち上げた。


「行くよ」


 声には何もなかった。


 キースが振り返る。


「どこへ」


「峠を越える」


「もう日が暮れる」


「この先に少し開けた場所があったはずだ。今日はそこで夜を越す」


「でも――」


 シビウが見た。


 キースは続きの言葉を飲み込んだ。


 まだ探す。


 もう少し待つ。


 そんなことを言えば、彼女がどうなるのか分からなかった。


「……分かった」


 キースは立ち上がった。


 旅の荷物は、ほとんど失われた。


 食料も毛布も少ない。


 馬もいない。


 これからは歩かなければならない。


 それでも進むしかない。


 シビウは斧を肩へ担いだ。


 いつもなら、重いだの邪魔だのと文句を言ったかもしれない。


 何も言わない。


 ダンシングソードを腰に。


 マーカスの斧を肩に。


 一人で二人分の武器を持つ。


「シビウ」


 キースが呼んだ。


「何だい」


 彼女は振り返らない。


「……すまない」


 足が止まった。


 ほんの一瞬だけ。


「今はやめな」


 それだけだった。


 シビウは再び歩き始める。


 キースとローゼンも、その後を追った。


 峠の先へ。


 誰も話さない。


 いつもなら、マーカスが何かを言ったはずだった。


 歩くのが遅い。


 腹が減った。


 キースの荷物が多い。


 シビウの機嫌が悪い。


 何でもいい。


 くだらないことを言って、シビウに怒鳴られていたはずだ。


 その声がない。


 それだけで、峠は行きよりずっと広く感じられた。


 キースは何度も後ろを振り返った。


 崖はもう見えない。


 マーカスも見えない。


 何もない。


 遺体すら回収できなかった。


 人が死んだというのに、墓へ入れる身体さえない。


 これが外の世界なのか。


 キースは唇を噛んだ。


 前を歩くシビウの肩で、マーカスの大斧が鈍い光を返している。


 彼女は一度も振り返らなかった。


 そして、一度も泣かなかった。


 少なくとも、キースたちの前では。

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