第九章 峠に響き渡る
竜の咆哮が峠を震わせた。
岩壁にぶつかった声が何重にも反響し、頭上から石粒が降り注ぐ。六メティートを超える巨体が地を蹴るたび、硬い岩盤さえわずかに揺れ、足裏から衝撃が這い上がってきた。
「散れ!」
マーカスの声と同時に、四人は左右へ走った。
竜が先ほどまで彼らのいた場所へ突っ込み、巨大な前脚で地面を抉る。砕けた石が飛び散り、キースは腕で顔を庇いながら岩壁側へ身を寄せた。
その背後から、馬の悲鳴が響いた。
反射的に振り返る。
二頭の馬が完全に恐慌へ陥っていた。
手綱を振り切り、竜から少しでも遠ざかろうと互いに身体をぶつけ合っている。荷馬車の車輪が道端の石へ乗り上げ、大きく傾いた。
「まずい!」
マーカスが駆け寄ろうとする。
だが、竜がそれを許さなかった。
長い尾が薙ぎ払われ、岩を砕きながら男の目前を横切る。マーカスは咄嗟に身を伏せ、尾の一撃をかわした。
その間にも、馬車はさらに傾いていく。
右の車輪が崖から外れた。
「離れろ!」
シビウが叫ぶ。
直後、馬車は馬ごと崖へ引かれた。
木材の軋む凄まじい音とともに車体が横倒しになる。暴れる馬たちの嘶きが響き、荷箱が道へ散らばった。
最後に車体が崖際を滑り、そのまま視界の下へ消えた。
数呼吸遅れて、遥か下から何かが砕ける音が届く。
キースは呆然と崖を見た。
三冊まで絞った本も、食料も、天幕も、旅道具の大半も、馬車と一緒に谷底へ消えた。
「見るのは後だ!」
マーカスの怒声に、キースは我に返った。
竜が再びこちらへ頭を向けている。
逃げるための足は失った。
ならば、ここで倒すしかない。
シビウが先に駆けた。
「ちょいと相手してやろうじゃないか!」
鞘から抜かれた《踊る剣》が、彼女の手首の動きに合わせてほどける。幾つもの刃節が銀の軌跡を描き、長い鞭のように竜の首へ走った。
鋭い金属音が響く。
刃は鱗へ当たり、火花を散らした。
だが、切れない。
「ちっ!」
シビウはすぐに腕を引いた。
竜が首を振り、その勢いのまま尾を薙ぐ。
シビウは地面を蹴って跳んだが、避けきれなかった。尾の先が脇腹を掠め、身体が横へ飛ばされる。
「シビウ!」
マーカスが駆け込み、落ちてきた身体を両腕で受け止めた。
「ぐっ……!」
二人分の重量と勢いを受け、マーカスの靴が岩地を滑る。
「大丈夫か!」
「あんたが受けなくても、華麗に着地してたよ」
「その減らず口が出るなら平気だな」
「誰の心配してんだい。前を見な!」
竜が迫る。
二人は同時に左右へ飛んだ。
巨体がその間を抜けていく。
マーカスは振り向きざま、大斧を竜の後脚へ叩きつけた。全身の力を込めた一撃だったが、分厚い鱗に白い傷を残しただけで弾かれる。
「硬え!」
反対側ではシビウも刃を走らせていた。
ダンシングソードが幾度となく鱗の隙間を狙う。二撃、三撃。自在にしなる刃は、普通の剣では届かない角度から襲いかかった。
それでも、深手には至らない。
キースは二人の動きを目で追っていた。
怖い。
竜が頭を振るたび、身体の奥で何かが縮む。牙が見える。角が見える。あれが自分へ向かってきたらと思うだけで、心臓が速くなる。
それでも、足は動いた。
キラービーのときとは違う。
怖いまま、キースは竜から距離を取った。
右手を上げる。
魔力が応じた。
「キース様!」
ローゼンが岩陰から声を上げる。
「分かっている!」
術式を展開する。
頭の中には、竜について学んだ知識が次々と浮かんでいた。
成竜の鱗は物理攻撃へ高い耐性を持つ。とくに背部、頭部、四肢は硬い。弱点は眼球、口腔、関節、そして普段は地面へ向けられている腹部。
腹。
そこを攻撃できれば。
キースは竜と戦う二人を見た。
マーカスも同じことに気づいたらしい。
「腹が出りゃあな!」
竜の突進をかわしながら叫ぶ。
「だったら出してやるよ!」
シビウが返した。
「どうやって!」
「それを考えるのは魔導士様の仕事だろ!」
キースは息を呑んだ。
できる。
地属性で足場を崩すか。
駄目だ。この場所で地盤を崩せば、こちらまで崖へ巻き込まれる。
水で足を滑らせるか。
水量が足りない。
火では鱗の表面を焼けても、巨体を転倒させるには時間がかかる。
ならば、風。
キースは両手を前へ出した。
空気を集める。
微風ではない。
竜の巨体そのものを持ち上げるほどの風。
理論上は可能だ。
魔導力も足りている。
「二人とも退け!」
叫ぶ。
マーカスとシビウが同時にキースを見た。
彼の法衣は、すでに足元から巻き上がる風に激しく揺れている。砂礫が浮き、髪が逆立つ。
「何する気だ!」
「竜をひっくり返す!」
「できんのか?」
「できる!」
躊躇はなかった。
「ならやれ!」
マーカスとシビウが左右へ退く。
竜は逃げる二人を追おうと首を巡らせた。
今だ。
キースは術式を解放する。
「――起きろ、風!」
空気が爆ぜた。
周囲の風が一点へ吸い込まれ、次の瞬間には巨大な渦となって竜へ襲いかかる。
地面が削れ、砂塵と小石が巻き上がった。
竜は四肢を踏ん張る。
咆哮。
だが、キースの魔導はそれを上回った。
前脚が浮く。
続いて後脚。
竜の巨体が地面から離れた。
「うお……!」
マーカスが思わず声を上げる。
中型とはいえ、竜だ。
人間なら何十人がかりでも動かせないであろう巨体が、木の葉のように持ち上がっていく。
キース自身も驚いていた。
できるとは分かっていた。
だが、実際に持ち上がる光景は想像以上だった。
もう少し高く上げる。
それから背中側へ回転させ、地面へ叩き落とす。
腹を晒す。
そこへ二人が攻撃する。
理屈は完璧だった。
だが――。
「キース、待て!」
マーカスが叫んだ。
意味が分からない。
「何だ!」
「そっちは崖だ!」
キースは初めて気づいた。
風の渦は、竜を真上へ持ち上げていない。
峠を吹き抜ける自然風。
岩壁による気流の偏り。
そして何より、キース自身が竜の正面から斜めに術式を放っていた。
巨体は持ち上がりながら、わずかに崖側へ流されている。
修正しなければ。
そう判断した瞬間、竜が空中で激しく身を捩った。
尾が渦を打つ。
キースの集中が乱れる。
「くっ……!」
風圧が一瞬だけ揺らいだ。
竜の身体が傾く。
ここで術を止めれば落ちる。
だが、この高さなら倒せる。
まだ大丈夫だ。
キースはそう判断した。
判断してしまった。
「落とす!」
「待て、まだ――!」
シビウの声が届くより早く、キースは風を切った。
巨体が落下する。
轟音。
竜の背中が岩盤へ叩きつけられた。
峠全体が揺れたかと思うほどの衝撃が走り、岩に放射状の亀裂が広がる。
土煙の向こうで、竜が仰向けになっていた。
腹部が露出している。
「今だ!」
キースが叫ぶ。
マーカスとシビウは、すでに動いていた。
二人は煙の中へ駆け込む。
マーカスの斧が高く上がり、鱗の薄い腹へ振り下ろされた。
肉へ刃が沈む。
初めて、確かな手応えがあった。
竜が絶叫する。
「効いてる!」
シビウの声。
ダンシングソードが伸びた。
刃節が竜の腹を走り、柔らかな皮膚を深く裂く。
暗い血が岩へ飛び散った。
キースは息を吐いた。
やった。
倒せる。
恐怖の中でも術を使えた。
自分は戦えた。
その安堵が、ほんの一瞬だけ判断を鈍らせた。
「下がれ!」
マーカスが叫んだ。
竜は死んでいない。
仰向けのまま、四肢を激しく振り回す。
太い尾が地面を叩き、岩を砕いた。
シビウが身を翻してかわす。
だが、竜の頭が持ち上がった。
「まだ起きるのか!」
キースは再び術式を組もうとした。
今度は押さえ込む。
風で地面へ縫い止めればいい。
だが、術式を選び、魔力を集め、対象を定める。
その数呼吸が、戦場では長すぎた。
竜が身体を捻る。
「シビウ!」
マーカスの声。
竜の爪が迫った。
シビウは跳ぶ。
紙一重で爪をかわし、そのまま竜の首へ駆け上がった。
「こんちくしょう!」
ダンシングソードが一閃する。
右目。
続けて左目。
刃が二つの眼球を切り裂いた。
竜の咆哮が変わった。
怒りではない。
痛みと恐怖。
突然、世界を奪われた獣の絶叫だった。
シビウは竜の頭から飛び降り、地面を転がる。
「目を潰した!」
「こっちへ来い!」
マーカスが彼女へ手を伸ばした。
その声へ反応したのか。
あるいは、ただ近くにあった音へ向かっただけなのか。
竜が頭を振る。
何も見えていない。
それでも巨体は動いた。
腹から血を流しながら四肢を岩へ叩きつけ、無茶苦茶に暴れ始める。
「まずい!」
キースは魔力を集める。
風で止める。
今度こそ。
だが、竜はキースより先に動いた。
頭を低くする。
四本の角が正面を向く。
その先に、マーカスがいた。
「マーカス!」
シビウが叫ぶ。
竜が突進した。
距離がない。
避けられない。
マーカスは大斧を捨て、両腕を広げた。
何をするつもりなのか。
キースには理解できなかった。
直後、轟音とともに竜の頭部がマーカスへぶつかった。
「ぐ……っ!」
マーカスは角の間へ身体を入れ、左右の角を両手で掴んでいた。
「マーカス!」
「来るな!」
腕の筋肉が膨れ上がり、足が岩盤へ食い込む。
人間一人の力で、竜の突進を止めようとしている。
無茶だった。
それでも、ほんの一瞬。
竜の動きが止まった。
「今だ!」
マーカスが叫ぶ。
「キース! 撃て!」
キースは右手を上げた。
できる。
竜は止まっている。
狙える。
だが、マーカスが近すぎる。
火を使えば巻き込む。
雷も同じ。
風なら――。
再び持ち上げる?
だが、先ほどのように制御を誤れば、今度はマーカスまで飛ばす。
どうする。
何を使う。
どこを狙う。
キースの頭の中で、無数の術式が交錯する。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
だが、戦場では長すぎた。
「くそっ!」
マーカスの靴が滑った。
竜が押す。
一歩。
マーカスが下がる。
もう一歩。
「止まれ……この野郎!」
両腕で角を押さえ込む。
それでも竜の巨体は止まらない。
盲目になった獣は、自分がどこへ向かっているのかさえ分からず、ただ正面へ進み続ける。
その先にあるのは、崖だった。
「マーカス、後ろ!」
シビウの声が裂ける。
マーカスが一瞬だけ、肩越しに後ろを見た。
何もない。
空。
谷。
彼の踵は、すでに崖の縁へ掛かっていた。
「……あ」
驚くほど小さな声だった。
次の瞬間、岩の縁が崩れた。
マーカスの片脚が落ち、体勢が崩れる。
それでも男は、竜の角を離さなかった。
離せば、竜の突進がその後ろにいる誰かへ向かう。
キースはそう理解した。
「手を離せ!」
叫ぶ。
「マーカス、離せ!」
男がこちらを見た。
一瞬、いつもの顔だった。
旅の途中で笑っていた。
本を減らせと文句を言った。
黒パンを食えと言った。
蜂の毒針から助けてくれた。
強いことと、戦えることは違うと教えた。
そして峠へ入る前には、心配するなと笑った。
――俺とシビウが守ってやる。
そのマーカスが、笑ったように見えた。
竜の重みが崖へ傾く。
人間一人では支えられない。
岩が砕けた。
シビウが走る。
「マーカス!」
伸ばした手は、届かなかった。
竜の巨体が崖の向こうへ消える。
それに引かれるように、マーカスの身体も消えた。
「――マーカス!」
シビウの叫びだけが谷へ落ちていった。
何かが岩壁へぶつかる音。
一度。
もう一度。
それから、何も聞こえなくなった。
キースは動けなかった。
風が吹いている。
さっきまで止まっていた峠の風。
その音だけが戻ってくる。
ローゼンも言葉を失っていた。
シビウは崖際に立ったまま、下を見つめている。
誰も声を出さなかった。
キースは自分の右手を見る。
まだ魔力が集まっている。
撃てた。
術はあった。
力もあった。
それなのに、選べなかった。
迷った。
「マーカス……?」
自分でも、なぜ名前を呼んだのか分からない。
返事はなかった。
キースは崖へ走った。
「キース様!」
ローゼンの声にも構わず、縁へ膝をつく。
谷底を覗いた。
深い。
あまりにも深い。
岩壁が途中で張り出しているため、底まで見通すことさえできない。
人影も、竜も見えない。
「まだだ」
キースは呟いた。
「まだ分からない」
シビウが彼を見る。
「落ちただけだ。途中の岩棚に引っ掛かっているかもしれない。竜が下になったなら、衝撃も――」
言いながら、キースは崖の斜面を探した。
降りられる場所。
足場。
何か。
「風の魔導を使えば降りられる」
立ち上がる。
「浮遊術式を組めばいい。完全な飛行は無理でも、落下速度なら抑えられる。私が行く」
「キース様!」
ローゼンが腕を掴んだ。
「離してくれ!」
「危険です!」
「マーカスが下にいる!」
「ですが――」
「まだ助けられる!」
ローゼンの手を振り払う。
崖へ足を掛け、魔力を集める。
風。
先ほど竜を持ち上げたほどの力だ。
自分一人なら降りられる。
そう思った。
思いたかった。
「待ってろ!」
誰に向けた声だったのか。
「今行くから!」
足を踏み出した瞬間、頬に衝撃が走った。
視界が横へ飛ぶ。
「――っ!」
キースは岩地へ倒れた。
一瞬、何をされたのか分からなかった。
頬が熱い。
口の中には血の味がする。
顔を上げる。
シビウが立っていた。
拳を握っている。
彼女が殴った。
「何を――」
「馬鹿野郎!」
声が峠へ響いた。
これまで聞いたことのない声だった。
怒鳴っている。
だが、怒りだけではない。
その奥に、何かが必死に押し込められている。
「何するんだ!」
「それはこっちの台詞だ!」
「マーカスを助けに――」
「どこへ行く気だ!」
「下だ!」
「どうやって!」
「風を使えば――」
「今さっき、その風をまともに制御できなかった奴がか!」
キースの息が止まった。
言葉が胸へ刺さる。
「だが……」
「今度は自分まで落ちるつもりかい!」
「それでも!」
「死んだ人間は帰ってこない!」
シビウの声が途切れた。
風だけが吹いている。
キースは地面に手をついたまま、彼女を見た。
シビウも動かなかった。
自分で言った言葉を、自分自身が聞いてしまったような顔をしていた。
死んだ人間は帰ってこない。
彼女は、それを以前から知っていたのだろう。
傭兵。
戦士。
旅。
死。
何度も見てきたはずだ。
だが、知っていることと、今それがマーカスであることは同じではない。
「死んだって」
キースは声を絞り出した。
「まだ決まったわけじゃない」
「決まってる」
「見てもいない!」
「見なくても分かる!」
「分からないだろ!」
「分かるんだよ!」
シビウが叫んだ。
「ここから落ちて、生きてられるわけないだろ!」
声が震えた。
初めて、ほんの僅かに。
それでも彼女は泣かなかった。
「竜ごとだ」
シビウは言った。
「途中で岩にぶつかってる。下が川だったとしても、あの高さだ。生きてるわけがない」
「それでも確認しなければ」
「どうやって?」
「迂回して谷底へ――」
「何日かかると思ってる」
「何日でも!」
「世界を調べるんだろ!」
キースは言葉を失った。
シビウは続ける。
「アムドアに行くんだろ。〈混沌〉が広がってるんだろ。だから三日を惜しんで、この峠を選んだんだろ!」
胸を抉られた。
自分が、この道を選んだ。
東へ迂回することもできた。
それでも、三日を惜しんだ。
マーカスは言った。
――俺とシビウが守ってやる。
そして、本当に守った。
「私が……」
喉が震える。
「私が、この道を」
「今それを言うな」
「でも」
「言うな!」
シビウは、ほとんど叫んだ。
そして顔を背ける。
肩がわずかに上下していた。
「今あたしに、それを聞かせるんじゃないよ」
その一言だけは、ひどく小さかった。
キースは口を閉ざした。
何も言えなかった。
ローゼンは二人を見ていた。
深紅の瞳には、どう声をかければいいのか分からない戸惑いが浮かんでいる。
長いあいだ、三人は崖の前から動かなかった。
*
やがてキースは、谷へ降りる道を探し始めた。
シビウに殴られても、諦めきれなかった。
峠道を少し戻り、脇道を調べる。岩壁へ刻まれた古い獣道、雨水が削った溝。どこかに下へ降りられる道がないかと探し続けた。
ローゼンも黙って手伝った。
シビウは止めなかった。
彼女自身も、どこかで見つかってほしいと思っていたのかもしれない。
半刻。
一刻。
日が傾いていく。
だが、道はなかった。
北側の谷は深く、岩壁はほとんど垂直に切れ落ちている。まともに谷底へ向かうなら、一度峠を抜けてから大きく回り込み、川沿いに戻ってくるしかない。
地図を見る限り、それだけで二日以上かかる。
しかも谷底の川が、どこを流れているのかさえ正確ではない。
遺体がそこに留まっている保証もなかった。
竜の巨体とともに落ちたのだ。
川へ落ちたなら流されているかもしれない。途中の裂け目へ落ちたなら、人間には近づけない。
キースは崖際に座り込んだ。
「……何もできない」
昨日までなら、その言葉は自分が弱いという意味だった。
今は違う。
本当に、何もできない。
死んだかもしれない人間へ。
どれだけ強い魔力があっても、どれだけ知識があっても、何一つ届かない。
ローゼンが隣に立った。
今度は慰めなかった。
ただ一緒に谷を見ていた。
キースは、それがありがたかった。
「マーカス様は」
ローゼンが、しばらくして呟いた。
「最後まで、わたくしたちを守ろうとしておられました」
キースは目を閉じた。
見えてしまう。
角を掴んだマーカス。
後ろが崖だと知った瞬間。
手を離せと叫んだ。
それでも離さなかった。
もし、あのときすぐに術を放っていれば。
もし最初の風を、もっと正確に制御していれば。
もし峠を選ばなければ。
いくらでも《もし》が浮かぶ。
どれも遅い。
それだけは分かった。
背後で金属音がした。
シビウが、マーカスの大斧を拾っていた。
竜が突進したとき、彼が投げ捨てたものだ。
大きな斧。
シビウ一人で持てないほどではないが、彼女の細身には不釣り合いだった。
それでも彼女は、両手で持ち上げた。
「行くよ」
声には何もなかった。
キースが振り返る。
「どこへ」
「峠を越える」
「もう日が暮れる」
「この先に少し開けた場所があったはずだ。今日はそこで夜を越す」
「でも――」
シビウが見た。
キースは続きの言葉を飲み込んだ。
まだ探す。
もう少し待つ。
そんなことを言えば、彼女がどうなるのか分からなかった。
「……分かった」
キースは立ち上がった。
旅の荷物は、ほとんど失われた。
食料も毛布も少ない。
馬もいない。
これからは歩かなければならない。
それでも進むしかない。
シビウは斧を肩へ担いだ。
いつもなら、重いだの邪魔だのと文句を言ったかもしれない。
何も言わない。
ダンシングソードを腰に。
マーカスの斧を肩に。
一人で二人分の武器を持つ。
「シビウ」
キースが呼んだ。
「何だい」
彼女は振り返らない。
「……すまない」
足が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「今はやめな」
それだけだった。
シビウは再び歩き始める。
キースとローゼンも、その後を追った。
峠の先へ。
誰も話さない。
いつもなら、マーカスが何かを言ったはずだった。
歩くのが遅い。
腹が減った。
キースの荷物が多い。
シビウの機嫌が悪い。
何でもいい。
くだらないことを言って、シビウに怒鳴られていたはずだ。
その声がない。
それだけで、峠は行きよりずっと広く感じられた。
キースは何度も後ろを振り返った。
崖はもう見えない。
マーカスも見えない。
何もない。
遺体すら回収できなかった。
人が死んだというのに、墓へ入れる身体さえない。
これが外の世界なのか。
キースは唇を噛んだ。
前を歩くシビウの肩で、マーカスの大斧が鈍い光を返している。
彼女は一度も振り返らなかった。
そして、一度も泣かなかった。
少なくとも、キースたちの前では。




