第十章 死者を愛したまま、生きる
その夜、三人は峠を越えた先の岩窪で火を焚いた。
野営地と呼ぶには、あまりにも粗末な場所だった。
山肌の一部が浅く抉れ、片側だけ岩壁に守られているため、谷から吹き上げる風を多少しのげる。それだけが、この場所を選ぶ理由だった。
足元には大小の石が転がり、横になるには背や腰へ当たるものを一つずつ取り除かなければならない。天幕も毛布も馬車とともに谷へ落ちたため、三人は辛うじて手元に残った外套を重ね、岩の隙間から拾い集めた枯れ枝を燃やして、山中の夜をやり過ごすしかなかった。
夕食も、食事と呼べるほどのものではない。シビウが腰袋へ入れていた干し肉を三人で分け、ローゼンが途中で見つけた木の実を少し口にしただけだった。肉は乾ききって硬く、木の実にはわずかな渋みがあったが、誰も味について何も言わなかった。
いつもなら、マーカスが何か言ったはずだった。
干し肉が硬いだの、こんなものでは酒が足りないだの。あるいはシビウの分まで手を伸ばし、怒鳴られて、それでも懲りずに笑っただろう。キースが呆れ、ローゼンが冗談だと気づかず真面目に聞き返せば、さらにくだらない話を膨らませたに違いない。
その声が、ない。
炎の中で薪が弾ける音だけが、沈黙の続く岩窪にやけに大きく響いていた。
シビウはマーカスの斧を自分の傍らへ置いていた。持ち主を失った大斧は、揺れる火を刃へ鈍く映している。細身で自在にしなる彼女の《踊る剣》とは、何もかもが違う武器だった。太く、重く、無骨で、細かな傷が刻まれた柄も、使い込まれて黒ずんだ刃も、見るからにあの大男らしい。
キースは何度も斧へ目を向け、そのたびに視線を逸らした。
あれを振るっていた男は、もういない。
まだ、その事実を事実として受け入れることができなかった。谷のどこかで怪我をして動けないだけなのではないか。奇跡的に岩棚へ引っ掛かり、竜の巨体が衝撃を受け止めてくれたのではないか。明日になれば、別の道からひょっこり現れて、「お前ら俺を置いていきやがって」と、いつもの調子で笑うのではないか。
頭では、あり得ないと分かっている。
それでも心のどこかが、あり得ない可能性をひとつずつ拾い続けていた。
「もう休みな」
不意にシビウが言った。
キースは火から顔を上げる。
「交代で火を見るべきだろう」
「今夜くらい、あたしがやるよ」
「だが――」
「眠れ」
強い声だった。これ以上話しかけるな、という響きがある。
キースは口を閉ざした。ローゼンも何も言わず、岩壁へ身体を預けている。精霊である彼女が人間と同じように眠る必要があるのか、キースはいまだによく知らなかったが、今夜は尋ねる気になれなかった。
外套を身体へ巻きつけ、石の少ない場所を選んで横になる。
だが、目を閉じても眠れない。
瞼の裏へ、何度も昼間の光景が戻ってきた。竜の角を掴んだマーカス。岩盤を滑る足。こちらを見た顔。崩れる岩。シビウが伸ばした手。
届かなかった。
そして、落ちた。
キースは目を開けた。
火はまだ燃えている。
その向こうで、シビウはマーカスの斧へ片手を置き、じっと炎を見つめていた。
何を考えているのか、その横顔からは読み取れなかった。
*
どのくらい眠ったのか、分からない。
キースは夜の寒さに目を覚ました。焚き火はかなり小さくなり、熾火が赤い光を残している。ローゼンは少し離れた場所で目を閉じ、白い髪を外套の上へ広げていた。
シビウの姿がない。
キースは身体を起こし、すぐに彼女のいた場所を見た。
傍らに置かれていたはずのマーカスの斧も消えている。
一瞬、嫌な予感が胸をよぎった。
崖へ戻ったのではないか。
そう思った途端、眠気は消えた。火を絶やさないよう枯れ枝を足し、ローゼンを起こさぬよう足音を忍ばせて岩窪を出る。
月が出ていた。
昼の峠が剥き出しの岩と空の世界なら、夜の山はまるで別の顔を持っていた。白い月光が切り立った岩肌を青灰色に染め、その合間に落ちる影は底知れぬ裂け目のように黒い。谷から吹き上げる風は、岩の隙間を通るたび低い唸りを生み、遠くで何か大きな獣が息をしているようにも聞こえた。
「シビウ」
声を抑えて呼ぶ。
返事はない。
キースは月明かりを頼りに足元を探り、小石のずれや踏み跡を追って岩窪の裏手へ回った。
そこで、足を止めた。
シビウがいた。
大きな岩へ背を預け、地面に座っている。
マーカスの斧を両腕で抱いていた。
そして、泣いていた。
声を殺し、肩を震わせ、子どものように顔を伏せている。
昼間までの彼女からは、想像もできない姿だった。竜へ向かって真っ先に駆けた女。キースが崖へ飛び込もうとしたとき、殴り飛ばして止めた女。《死んだ人間は帰ってこない》と、震えながらも言い切った女。
そのシビウが今は、斧の柄へ額を押しつけ、堪えきれない嗚咽を洩らしている。
「……馬鹿」
途切れ途切れの声が聞こえた。
「ほんっとに……馬鹿な男だよ……」
キースは動けなかった。
見るべきではなかった、とすぐに思った。知らないふりをして戻り、彼女が一人で泣いたことを誰にも知られないままにしてやるべきなのだろう。
それなのに、足が動かない。
「守ってやる、じゃないよ……」
シビウの指が斧の柄へ食い込む。
「何が守ってやるだ……自分が落ちてどうすんのさ……」
声が震え、最後には嗚咽へ変わった。
「馬鹿……」
それ以上は言葉にならなかった。
キースは俯いた。
昼間、彼女は泣かなかったのではない。
泣けなかったのだ。
荷物も馬も失い、山中に三人だけで取り残された。キースとローゼンを連れ、安全に夜を越せる場所まで進まなければならなかった。マーカスがいなくなった途端、残された中でもっとも旅に慣れた者は彼女になった。
だから、崩れられなかった。
悲しみをなくしたのではなく、後へ回したのだ。
自分より経験の浅い二人の前で、先に立てなくなることを、自分へ許さなかった。
キースは、そっと後ろへ下がろうとした。
足元の小石が鳴った。
ほんのかすかな音だったが、戦士の耳はそれを聞き逃さなかった。
「……誰だい」
シビウが顔を上げた。
もう、黙って戻ることはできない。
「私だ」
しばらく沈黙が続いた。
シビウは慌てて涙を隠そうとはしなかった。ただ赤くなった目でキースを見て、それから長く息を吐いた。
「趣味が悪いね」
「すまない」
「女が泣いてるところを覗き見かい?」
「探していたんだ。崖へ戻ったのかと思って」
「戻ってどうするのさ」
「……分からない」
「そうだろうね」
シビウは鼻をすすり、袖で乱暴に顔を拭った。
「見なかったことにしな」
「できない」
「こういうときくらい、気を利かせなよ」
「嘘はつきたくない」
「ほんと、面倒な男だねえ」
そう言って、シビウはほんの少し笑った。
泣き顔のままの笑みだった。
キースは彼女から数歩離れた岩へ腰を下ろす。
近づきすぎない。
かといって去りもしない。
二人の間を山の冷たい風が抜け、月光だけが白く岩を照らしていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがてキースが口を開く。
「シビウ」
「何だい」
「謝らせてくれ」
彼女の顔から、わずかに笑みが消えた。
「昼間も言っただろ」
「でも」
「今はやめなって言った」
「今なら言える」
「……あたしは聞きたくないね」
明確な拒絶だった。
それでもキースは続けた。
「私が峠を選んだ」
「キース」
「東へ迂回することもできた。三日を惜しまなければ、あの竜には出会わなかったかもしれない。それに戦いでも、私がもっと早く――」
「やめろ」
「もっと早く術を選べていれば。竜を落とす方向を間違えなければ。最初から――」
「あんた!」
シビウの声が鋭く夜気を裂いた。
キースは口を閉ざす。
彼女は斧を地面へ置くと、真正面からキースを見た。涙に濡れた目の奥には、悲しみだけではなく、明確な怒りがあった。
「そこから先を言うんじゃないよ」
「だが、事実だ」
「事実?」
「私の失敗が――」
「じゃあ聞くけどね」
シビウは低い声で遮った。
「もし東の道を選んでたら、絶対に誰も死ななかったって言えるのかい?」
「それは……」
「盗賊がいなかった? 別の怪物が出なかった? 崖崩れも病気もなかった? 馬が脚を折ることも、夜中に襲われることも絶対になかった?」
「言えない」
「だろ」
「それでも、あの竜との戦いでは私が――」
「戦ってたのは、あんただけかい?」
キースは答えられなかった。
「マーカスも戦った。あたしも戦った。ローゼンだって、できることをしてた。あんたは竜をひっくり返した。あたしは目を潰した。それでも竜は死ななくて、最後にマーカスへ突っ込んだ」
シビウは、起きた出来事を一つずつ確かめるように並べていく。
「最後に角を掴んだのは、マーカスだ」
「それは、私たちを守るために――」
「そうさ」
声が震えた。
それでも、彼女は目を逸らさない。
「あいつが自分でそうした」
キースは唇を噛んだ。
「だから、あんたが全部背負うな」
「でも……」
「あんたが殺したみたいな顔すんじゃないよ」
シビウの目から、また涙が落ちた。
「そんな顔されたら、あいつが自分でやったことまでなくなっちまうだろ」
その言葉に、キースは息を止めた。
崖際のマーカスが蘇る。
手を離せ、と叫んだ。
彼はこちらを見た。
何が起こるか理解していなかったわけではない。
恐怖で動けなくなっていたわけでもない。
それでも、角から手を離さなかった。
選んだのだ。
「マーカスは……私たちを守った」
「そうだよ」
シビウは泣きながら笑った。
「馬鹿だからね」
そう言って、斧へ手を置く。
「昔っからそうさ。考えてるんだか考えてないんだか分からない顔して、肝心なときだけ余計なことしやがる」
声がまた掠れた。
「ほんとに……馬鹿な男だよ」
キースは何も言わなかった。
慰める言葉を探さない。
励まそうともしない。
ただ、彼女が泣く時間を奪わずにいた。
やがてシビウは、斧の柄を撫でながら自分から話し始めた。
「離婚したときね」
意外な言葉だった。
キースは黙って耳を傾けた。
「もう二度と、あんな男と一緒になるもんかって思ったよ」
「嫌いだったのか」
「嫌いになれたら、どれだけ楽だったかね」
シビウは鼻で笑った。
「腹が立った。呆れた。殴りたくなった。顔を見るだけで喧嘩になった。今だってそうだっただろ」
「ああ」
「でも、信用はしてた」
短い言葉だった。
それ以上のものが、その一言には込められていた。
「戦ってるときは、あいつがどこにいるか見なくても分かった。あいつもそうだった。背中を向けたって、そこにいるって分かってた」
キースは竜との戦いを思い出す。
二人は、ほとんど言葉を交わさずに動いていた。片方が避ければ、そこへもう片方が踏み込む。片方が隙を作れば、もう片方の刃が走る。
普段は顔を合わせれば喧嘩ばかりしているのに、戦場では互いの呼吸も視線も知り尽くした、一つの身体のようだった。
「愛していたんだな」
口にしてから、失礼だったかと思った。
シビウは怒らなかった。
「今もね」
キースは彼女を見る。
シビウは泣き腫らした目で夜空を見上げていた。
「死んだからって、嫌いになる理由はないだろ」
「ああ」
「別れたからって、好きだった時間が消えるわけでもない」
風が吹き、黒髪が揺れた。
「だから、愛してるよ。今も」
それは死者へ向けられた言葉だった。
過去形ではなかった。
「でもね」
シビウはキースへ視線を戻す。
「だからって、あいつのところへ行こうとは思わない」
キースの胸が痛んだ。
昼間、自分は崖へ飛び込もうとした。あのときは、まだ助けられると思っていたからだ。
だが、もし助けられないと分かってなお、あの場に留まり続けていたら。
自分はどこまで行こうとしたのだろう。
「シビウ」
「何だい」
「もし、本当に死者を取り戻す方法があったとしたら」
シビウの眉が、わずかに動いた。
「何の話だい」
「魔導の理論上、魂についての研究はある。神話にも死者の帰還譚はある。私自身、それが可能だとは思っていない。ただ……もし神が現れて言ったなら。マーカスを生き返らせてやる、と」
なぜ、こんなことを訊いたのか。
キース自身にも、よく分からなかった。
ただ、目の前の女が、自分の人生から切り離せないほど愛した者の死を、どう受け止めようとしているのか知りたかった。
シビウはすぐには答えなかった。
月明かりの下で、長いあいだマーカスの斧を見つめている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……今のあたしなら、縋るかもしれないね」
キースにとっては、予想していなかった答えだった。
シビウは自嘲するように笑った。
「こんなに痛いんだ。返してくれって、泣いて頼むかもしれない。何でもするって言うかもしれない」
その答えの方が、かえって彼女らしいように思えた。
強い人間だから諦められるわけではない。
愛しているからこそ、取り戻したいと願う。
「だけどさ」
シビウは続けた。
「本当にそれをやったら、きっと駄目なんだ」
「なぜ?」
「あいつが死んだことまで、間違いにすることになるから」
キースは眉を寄せる。
「死は、間違いじゃないのか?」
「嬉しいわけあるか」
シビウの声が強くなる。
「死んでほしかったわけじゃない。百まで生きて、しわくちゃになっても喧嘩してやるつもりだったよ」
一度、息を呑んだ。
「でも、今日あいつは死んだ」
その一文だけは、静かだった。
「竜を止めて、あたしたちを守って、落ちた」
涙が頬を伝う。
「それを『なかったこと』にしたら、今日のマーカスはどこへ行くんだい」
キースには答えられなかった。
「死ななかったマーカスに書き直したって、それであたしが嬉しくてもさ。あいつがあそこでやったことまで消えちまうなら、それは違う気がする」
死者を取り戻す。
それは慈悲に見える。
愛に見える。
だが、失った出来事そのものを消してしまえば、そこで選ばれた意志まで消える。
そんなふうに死を考えたことは、キースにはなかった。
「難しいね」
シビウは小さく笑った。
「今はまだ、あいつに戻ってきてほしいよ。会いたい。声が聞きたい。もう一回喧嘩したい」
それでも、言った。
「戻らないんだ」
夜の中へ、言葉が静かに落ちる。
「死んだ人間は帰ってこない」
昼間と同じ言葉だった。
けれど、その響きはまるで違っていた。
昼間は、自分を立たせ、キースを崖から遠ざけるために言った。
今は、泣くだけ泣いて、それでも目の前にある現実を引き受けるために言っている。
「だから、生きるしかない」
シビウは言った。
「忘れずに?」
「当たり前だろ」
「忘れた方が楽かもしれない」
「楽になるために忘れるくらいなら、痛いままでいいよ」
そこに迷いはなかった。
「愛したままでいい。死んだままでいい。あいつがいたことも、死んだことも、全部持ってく」
キースは彼女を見つめた。
名前を持たない巫女が言っていたことを思い出す。
人を役だけで呼び続ければ、その役の下にいる者が何を考え、何を感じているのか、いつか誰も見なくなる。
ならば、死者も同じなのかもしれない。
英雄。
犠牲者。
戦死者。
そうした言葉へ置き換えてしまえば、マーカスという一人の男は簡単に見えなくなる。
酒が好きだった。
大声で笑った。
シビウと喧嘩した。
本を減らせと言った。
黒パンを勧めた。
蜂からキースを助けた。
そして、最後に竜の角を掴んだ。
そのすべてが、マーカスだった。
死んだからといって、最後の一瞬だけでその人間を語るべきではない。
「私は」
キースはゆっくりと口を開いた。
「どうすればいい」
シビウが怪訝そうに見る。
「何が」
「マーカスの死を、どう背負えばいい」
「あんたは背負いたがりすぎなんだよ」
「でも、忘れることはできない」
「忘れなくていい」
「なら……」
シビウは少し考えた。
やがて、静かに言った。
「あんたの人生まで、マーカスの死に使うんじゃない」
キースは息を止めた。
「あいつのことを覚えときな。あいつに教わったことも、今日失敗したことも、全部覚えときゃいい。でも、そのためだけに生きるな」
シビウは斧の柄を軽く叩いた。
「『マーカスが死んだから』で、この先の全部を決めるな。戦うのも、逃げるのも、誰かを助けるのも、全部あいつの死のせいにするんじゃないよ」
キースは俯いた。
それこそ、少し前から自分が始めようとしていたことだった。
峠を選んだから。
魔導を失敗したから。
もっと早く撃てなかったから。
マーカスが死んだから。
この先に何をしても、その一点へ戻ろうとしていた。
「そんなことしたら」
シビウの声が少し柔らかくなる。
「マーカスが、あんたの人生まで殺したみたいじゃないか」
その言葉は、胸の奥へ深く刺さった。
キースは目を閉じる。
マーカスなら、そんな顔するなと笑っただろうか。
もっと乱暴に、腹が減ったから飯にしよう、と言ったかもしれない。
「……そうだな」
ようやく答えた。
「そうだ」
「分かったかい」
「全部は、まだ」
「それでいいよ」
シビウは立ち上がった。
目元は赤く、涙の跡も残っている。
もう、それを隠そうとはしなかった。
マーカスの斧を両手で持ち上げる。
「重いな、これ」
初めて弱音らしい弱音を吐いた。
キースも立ち上がる。
「持とうか?」
「嫌だね」
「なぜ」
「これは、しばらくあたしが持つ」
「ずっと?」
「そのうち考える」
シビウは斧を肩へ担いだ。
「先のことなんざ、まだ決めなくていい」
いつか聞いた言葉だった。
分かっているところまでで決める。
世界のすべてを、先に知ることなどできない。
「戻ろう」
シビウが言った。
「ああ」
二人で野営地へ戻る。
その途中、キースは月を見上げた。
「シビウ」
「今度は何だい」
「泣いていたことは、ローゼンには――」
「ああ?」
シビウが振り返った。
「何だい。言いふらすつもりだったのか?」
「違う!」
「なら黙っときな」
「分かっている」
「あと、マーカスにも言うんじゃないよ」
キースは足を止めた。
シビウも止まる。
一瞬、二人とも何も言わなかった。
やがて彼女自身、自分が何を口にしたのか気づいたらしい。
「……馬鹿だね、あたし」
少し笑った。
泣きそうな笑みだった。
キースは首を横に振る。
「いいんじゃないか」
「何が」
「まだ、そういう言い方をしても」
シビウはしばらくキースを見た。
やがて、小さく答える。
「そうかい」
それだけ言って、再び歩き始めた。
*
野営地へ戻ると、ローゼンが起きていた。
消えかけた火の前へ座り、二人を待っていたらしい。
「お帰りなさいませ」
「起きてたのかい」
「はい」
「心配した?」
「少し」
「悪かったね」
シビウはそれだけ言い、火の傍へ腰を下ろした。
ローゼンは、彼女の赤く腫れた目へ気づいたはずだった。それでも何も訊かず、いつもと同じ静かな表情で二人を迎えた。
キースも黙って薪を足した。
炎が少しだけ大きくなる。
三人。
一人足りない。
その事実は、もう何をしても変わらない。
明日の朝になっても。
ラルソウムへ着いても。
たとえ世界を覆いつつある〈混沌〉の謎をすべて解いたとしても。
マーカスが死んだという出来事そのものは消えない。
それでも、朝になれば歩く。
彼を忘れるためではない。
彼が死ななかったことにするためでもない。
死者を愛したまま、その死を抱えたまま、生きている者は自分の足で先へ進む。
夜明けまで、あと幾刻かあった。
シビウはマーカスの斧を傍らへ置き、ようやく目を閉じた。
キースは、小さくなっていく火を見守った。
もう《もしあのとき》と考えないとは約束できない。
明日も、きっと考えるだろう。
もっと早く術を選べていれば。
別の道を選んでいれば。
もっと強く、もっと賢く、もっと経験があれば。
何度も思い出し、何度も後悔するに違いない。
けれど、その後悔だけに、自分のこれからを明け渡さない。
それが今夜、キースにできる最初のことだった。
火の向こうで眠るシビウの指は、それでもなお、マーカスの斧の柄へ触れていた。




