第十一章 宇宙一の魔導士
マーカスを失ってから、旅はひどく静かになった。
馬車も馬も谷底へ消えたため、三人は徒歩で北を目指していた。峠を下りてからは道そのものこそ穏やかになったものの、失った荷物が戻るわけではない。食料も野営道具も乏しく、途中の小さな宿場へ辿り着いて最低限の装備を買い直すまでは、日が傾くたびに雨露をしのげる場所を探し、食べられるものを見つけ、翌日の行程を決めるだけで一日の余力を使い果たした。
それでも、誰も引き返そうとは言わなかった。
シビウはマーカスの大斧を持ち歩いている。自分の《踊る剣》だけでも旅装としては十分な重さがあるはずなのに、あの大きな斧を誰かへ預けようとはしなかった。柄を握る手にも、肩へ担ぐ仕草にも、まだ身体へ馴染んでいない重さが見える。
キースも、もう「持とうか」とは言わなかった。
斧を持つことも、持たないことも、彼女が決めることだ。
ただ、以前なら何かにつけて飛んできたシビウの軽口は明らかに減っていた。なくなったわけではない。ときおりキースを坊やと呼び、食事や歩き方へ文句をつけることもある。けれど、それ以上に沈黙して歩いている時間の方が長くなった。
ローゼンも、無理に明るくしようとはしなかった。白い髪を風に揺らしながら、三人の歩調を合わせ、必要なときだけ言葉を交わす。その静けさは気まずいものではなかった。むしろ、今の三人には必要な余白のように思えた。
三人は歩いた。
死者を忘れるためではない。
死者のためだけに生きないために。
その意味を、キースはまだ完全には理解していなかった。それでも歩きながら、何度もシビウから言われた言葉を思い返した。
――あんたの人生まで、マーカスの死に使うんじゃない。
だからキースは前を見る。
北へ。
まず、ラルソウムへ。
そこでアムドアから回収された古記録と、精霊側に残る記録や記憶を照合する。
そして、その結果を持ってアムドアへ向かう。
旅立った時に比べれば、目的ははっきりしていた。
自分が旅へ出た理由まで、マーカスが死んだことで失ってはいけなかった。
*
山地を抜けて二日目の午後、キースは突然、胸の奥を掴まれたような感覚に襲われた。
「……っ」
思わず足が止まる。
痛みではなかった。それでも身体の内側にある何かが、一瞬だけ強く収縮したように感じた。
「キース様?」
少し先を歩いていたローゼンが振り返り、シビウも足を止める。
「どうしたんだい」
「分からない」
キースは胸へ手を当てた。
心臓ではない。鼓動こそ驚きで速くなっているが、今感じた違和感はもっと深い場所から来ていた。
魔導を使うとき、意識を向ける場所。
「イースが……」
「イース?」
「ああ。今、変な反応をした」
キースは周囲へ目を向けた。
街道の左手には低い森が続き、右手には岩の混じった草原が広がっている。空は晴れ、風も穏やかだ。怪物の姿も、人家もない。見た限りでは、何の変哲もない土地だった。
ところが数呼吸もしないうちに、再び身体の内側で何かが脈打った。
「まただ」
今度ははっきり分かった。
身体の中にあるイースが、わずかに反応している。
魔導を使おうとしたわけではない。術式も組んでいない。それなのに、自分の意思とは無関係に、力が動こうとしている。
「魔導事故?」
シビウの手が剣の柄へ移る。
「違う。少なくとも私の術ではない」
「じゃあ、誰かいるのかい」
「分からない」
キースは目を閉じ、周囲の魔力の流れへ意識を向けた。
人間の魔導士が術を使えば、強弱の差こそあれ周囲には魔力の残響が生じる。大規模な術なら、しばらく土地そのものへ痕跡が残ることさえある。
しかし、今ここにある感覚は、それとは違った。
「何か……薄い?」
「何がです?」
ローゼンが尋ねる。
「魔力が」
口にしてから、キース自身が眉をひそめた。
「いや、違うな。魔力が少ないわけじゃない。私の側が、周囲へ引かれているような……」
「へえ」
知らない女の声がした。
三人は同時に振り返った。
「そこまで分かるなら、看板倒れってわけでもなさそうですわね」
街道脇の大きな岩の上に、一人の女が座っていた。
いつからそこにいたのか、まったく気づかなかった。
年齢はキースより少し上に見える。旅装の上から長い外套を羽織り、足元には革鞄と巻いた毛布、それに数本の細い杖らしきものが無造作に置かれていた。
身なりだけを見れば、旅の魔導士そのものだった。
しかしキースが真っ先に見たのは、女ではなかった。
岩の下。
そこに、三体の怪物が転がっていた。
狼に似た姿をしている。ただし普通の狼より二回りほど大きく、額から短い角が一本ずつ伸びている。
すでに死んでいた。
焦げ跡はない。
切り傷もない。
それなのに、三体とも身体の中心だけが奇妙に陥没していた。
「君がやったのか?」
キースが尋ねる。
女は岩の上で脚を組んだ。
「他に誰がおりまして?」
「何の術を使った」
「挨拶より先にそれですの?」
呆れたように言われ、キースは少し詰まった。
「……失礼した」
「まあ、よろしいですわ。魔導士というのは、人の顔より術式が気になる生き物ですもの」
女は岩から飛び降りた。
かなりの高さだったが、着地に迷いはない。膝を柔らかく使って衝撃を逃がし、そのまま何事もなかったように立ち上がる。
「圧縮術ですわ。空気を一点へ集め、胸郭の外側から肺を潰しましたの」
キースは改めて怪物の死骸を見た。
「空気圧だけで?」
「当然でしょう」
「そこまで瞬間的に圧縮すれば、術式維持が難しい。対象が動いていたなら座標固定も――」
「できますわよ」
女は、何でもないことのように言った。
「三匹程度なら」
「三匹、同時に?」
「ええ」
キースは再び死骸を見る。
問題は、術の威力だけではない。
移動する三つの標的を同時に捕捉し、それぞれ別の座標へ圧力を発生させる。理論上は可能だ。だが実戦では、術式の構築と照準、対象の移動予測までをほとんど同時に処理しなければならない。
竜との戦いが脳裏へ蘇った。
どの術を使う。
いつ撃つ。
誰を巻き込む。
その判断に迷った、あの数呼吸。
目の前の女は、おそらくそこで迷わない。
「見事な術だ」
キースは素直に言った。
女は満足そうに微笑む。
「分かればよろしくてよ」
シビウが鼻を鳴らした。
「ずいぶん偉そうなのが出てきたね」
「あら」
女の目がシビウへ移る。
「剣士ですの?」
「見りゃ分かるだろ」
「その剣、面白いですわね」
彼女の視線が、シビウの腰にあるダンシングソードへ落ちた。
「魔導線を節刃へ通しているのかしら。古い形式ですけれど、かなり良い仕事ですわ」
「触るんじゃないよ」
「触っておりませんわ」
「目が触ってんだよ」
「それは無理ですわね」
いきなり相性が悪い。
キースはそう思った。
ローゼンだけが、いつものように丁寧に頭を下げる。
「初めまして。わたくしはローゼンと申します」
「あら」
女の目が少し大きくなった。
「精霊?」
「はい。ラルソウムより参りました」
「ラルソウム!」
そこで初めて、女の余裕が大きく崩れた。
「本当に?」
「はい」
「場所は?」
「場所……でございますか?」
「正確な位置ですわ。地図によって違うのですもの。北方第七地誌では記憶の森西部。旧巡礼記では東。精霊文化誌では『風が花を逆へ向ける谷』なんて馬鹿みたいな書き方をして――」
「馬鹿みたいとは何です」
今度はキースが食いついた。
「あれは位置情報を座標ではなく、自然現象によって記録する精霊文化の――」
「あなた、読んでますの?」
「当然だ」
「第何版?」
「第四版」
「古いですわね」
「増補版は記述が雑だ」
「分かってませんわね。増補版の価値は本文ではなく脚注ですのよ」
「脚注の出典が不明瞭だろう!」
シビウが額を押さえた。
「なんなんだい、こいつら」
ローゼンは少し嬉しそうだった。
「お話が合うようでございますね」
「どこがだ!」
「どこがですの!」
キースと女の声が重なった。
シビウは深いため息を吐く。
「はいはい。似た者同士だよ」
「一緒にするな」
「失礼ですわ」
「そこまで同時に言えるなら十分だろ」
女は不愉快そうに髪を払った。
「まあ、よろしいですわ。それより」
視線が再びキースへ戻る。
「あなた、先ほどイースが反応したと言いましたわね」
「ああ」
「どのように?」
「勝手に魔力が引き出されるような感覚だ。脈動に近い。だが、術式は形成されない」
女の顔から、先ほどまでの軽薄さが消えた。
「痛みは?」
「ない」
「熱?」
「それもない。ただ、身体の内側でイースだけが別の方向へ引かれる」
「方向は分かりまして?」
キースは少し考え、もう一度その感覚へ意識を向けた。
微かな脈動。
違和感。
そして、確かに引かれている。
「……北西」
女は黙った。
キースが指した方角へ目を向ける。
「何だ?」
「同じですわ」
「同じ?」
「わたくしも」
彼女は自分の胸へ指を置いた。
「この地点へ入ってから、イースに微弱な引き込みが出ていますの」
キースは眉を寄せた。
「君にも?」
「だからここにおりますのよ」
女は革鞄の傍らへ戻り、そこから紙束を取り出した。
折り畳まれた地図が何枚もある。
広げられた紙面には、各地へ細かな印が書き込まれていた。
「これは……」
「わたくしが、この半年で回った場所ですわ」
キースは地図を覗き込む。
中央大陸。
北方への道。
そのほかにも、キースが名前しか知らない土地へ小さな印が散っている。
「これだけ一人で?」
「一人のときもございますし、商隊へ混じったこともありますわ。危険地帯だけは護衛を雇いましたけれど」
シビウが口笛を吹いた。
「見た目より旅慣れてるじゃないか」
「当然ですわ。わたくし、研究室へ籠もって世界が分かると思うほどおめでたくありませんもの」
その一言が、キースの胸へ微妙に刺さった。
「……私を見て言ったか?」
「どうして?」
「いや」
「まさか、図星でしたの?」
「違う」
「顔に出ていますわよ」
「君までそれを言うのか」
この旅へ出てから、顔に出ていると言われる回数が増えた気がする。
女は気にした様子もなく、一枚の地図を地面へ広げた。
「わたくしが調べておりますのは、魔導士の減少ですわ」
キースはすぐに顔を上げた。
「魔導士の?」
「正確には、魔導力の衰えと、イースを持って生まれる者の減少」
胸の奥がざわついた。
メミスでも起きている。
旅立つ前、神官会で議題になったばかりの問題だった。
「どこでその情報を?」
「旅先の魔導院、神殿、傭兵団、治療院。公的記録を見せてもらえない土地では、葬儀屋と産婆にも聞きましたわ」
「産婆?」
「生まれた子どものことなら、役人より産婆の方が詳しいでしょう?」
確かに。
キースは思わず黙った。
「正式登録に残らない子もおりますもの。とくに平民へ魔導教育を認めない国では」
女の視線が、キースの衣服へ落ちた。
「あなた、神殿関係者でしょう」
「分かるのか」
「隠しているつもりでしたの?」
「一応は」
「立ち方が神官ですわ」
「立ち方で?」
「それと話し方。あと手」
「手?」
キースは自分の手を見る。
「武器を握る胼胝がない。農作業の傷もない。なのに指先には、長期間術式筆記をしている者特有の薄い硬化がある。服は旅で汚れているのに、仕立てだけは一級品。どう見ても高位神官か、貴族魔導士ですわ」
シビウが面白そうに笑った。
「当たりだよ」
「シビウ」
「メミスの神官長様さ」
キースは頭を抱えた。
「なぜ言う」
「もう隠す意味ないだろ」
女は目を瞬いた。
「神官長?」
数秒、キースの顔をじっと見る。
それから、ぱん、と手を打った。
「ああ! キース!」
「……知っているのか」
「知っていますとも」
女の目が輝いた。
「メミスのキース。歴代最高値の魔導力を持つとかいう、あの《世界一の魔導士》!」
嫌な呼び方が出た。
キースの顔が露骨に曇る。
「その呼び名は好きではない」
「どうして?」
「勝手につけられただけだ」
「でも世界一なんでしょう?」
「魔導力の測定値だけなら、そう言われている」
「なるほど」
女は腕を組み、頭の先から足元まで値踏みするようにキースを眺めた。
「ふうん」
「何だ」
「思っていたより普通ですわね」
「悪かったな」
「もっとこう、全身から魔力が溢れ出して、立っているだけで地面が割れるような方を想像しておりましたわ」
「そんな人間が町を歩けるか!」
「冗談ですわよ」
「分かりにくい」
シビウが口を挟んだ。
「世界一に会えて嬉しいんじゃないのかい?」
「嬉しい?」
女は首を傾げる。
そして、ごく当然のことを告げるように言った。
「どうしてわたくしが、自分より下の魔導士に会って喜ばなくてはいけませんの?」
キースは黙った。
「……何?」
聞き間違いかと思った。
女は胸へ片手を当て、堂々と名乗る。
「メルリル」
風が長い外套を揺らした。
「覚えておきなさいな。この宇宙一の魔導士、メルリルの名を!」
沈黙が落ちた。
キース。
ローゼン。
シビウ。
三人とも、しばらく何も言えなかった。
最初に口を開いたのはシビウだった。
「宇宙?」
「ええ」
「世界じゃなくて?」
「世界一では、キースと同格になってしまうでしょう」
メルリルは至極当然のように言う。
「ですから宇宙一ですわ」
シビウが無言でキースを見る。
「世界一」
「やめろ」
「負けたね」
「何にだ!」
「肩書き」
「私は競っていない!」
ローゼンが真面目な顔で尋ねる。
「宇宙とは、どこまでを指すのでございましょう」
「さあ?」
メルリルが答えた。
「さあ、なのですか?」
「わたくしより強い魔導士がおりましたら、そのとき考え直しますわ」
「ただの自称じゃないか!」
キースは思わず叫んだ。
「あら。世界一だって他人が決めただけでしょう?」
「少なくとも測定結果がある!」
「では今度勝負します?」
「しない!」
「怖いんですの?」
「そういう挑発には乗らない!」
「蜂には?」
シビウがぼそりと言った。
キースは黙った。
シビウ自身も、言ってから少し表情を曇らせる。
マーカスがいれば。
きっと、ここで大笑いした。
その不在が一瞬だけ三人の間に影を落とした。
メルリルは事情を知らず、不思議そうに三人を見たが、何があったのかを尋ねようとはしなかった。
*
「それで」
キースが話を戻す。
「魔導力の減衰を調べていると言ったな」
「ええ」
メルリルもすぐに研究者の顔へ戻った。
「正確には複数の現象ですわ。第一に、イースを持って生まれる子どもの割合そのものが落ちている地域がある。第二に、既存の魔導士が以前と同じ術式を使うために必要とする負荷が増えている」
「魔力消費が増えている?」
「そう表現する土地もありますわ。けれど、わたくしは少し違うと思っていますの」
「何が?」
「魔導士の力が単純に減っているのではなく、世界の側との噛み合わせが悪くなっている」
キースは眉を寄せる。
「噛み合わせ?」
「魔導は、術者の内側だけで完結しておりませんでしょう」
「当然だ。イースを起点として術式を構築し、外界へ現象を――」
「そう。それですわ」
メルリルは地図の一点へ指を落とした。
「ところが、同じ術者、同じ術式、同程度の体調でも、土地によって発動感覚が違うことがありますの」
「地脈の影響なら、昔からある」
「その程度なら、わざわざ半年も歩いておりませんわ」
彼女は別の印を指した。
「ここ。ここ。それと、この辺り」
「何の印だ?」
「〈混沌〉が確認された場所」
キースの表情が変わった。
ローゼンも身を乗り出す。
「〈混沌〉を?」
「ええ」
「どこから情報を?」
「目で見ましたわ」
メルリルは平然と言った。
「全部ではございませんけれど」
「近づいたのか?」
「調査するなら当然でしょう」
「危険だ!」
「知っていますわ」
「知っていて?」
「だから調べるのでしょう」
キースは言葉を失った。
この女は、本当に自分とは逆だ。
キースは危険について本を読み、十分に理解してから動こうとする。
メルリルは理解するために、まず現場へ行く。
「無謀だね」
シビウが言った。
「あなたに言われたくありませんわ」
「なんでさ」
「その剣で怪物へ飛び込む人でしょう?」
「戦えないなら剣士なんてやってないよ」
「わたくしも同じですわ。危険へ近づけないなら、調査魔導士などやっておりませんもの」
「調査魔導士?」
キースが聞き返す。
「自称ですわ」
「また自称か」
「何か問題でも?」
「いや……もういい」
メルリルは気にせず続けた。
「〈混沌〉そのものへ触れたわけではありません。封鎖線の外から、イースの変化だけを記録しましたの」
「どんな変化が?」
「場所によって違いますわ。脈動。熱。圧迫感。幻痛。術式を組んでいないのに、魔力が漏れることもある」
キースは、先ほど自分が感じたものを思い出した。
「引かれる感覚は?」
「あります」
即答だった。
「強い地点ほど?」
「概ね」
「距離との相関は?」
「あると思いますけれど、単純ではありませんわ。同じ距離でも反応が違う。地形か、地脈か、〈混沌〉そのものの状態か。まだ分かりません」
「魔導士による個人差は?」
「当然疑いました。だから途中で会った魔導士にも協力してもらいましたわ」
「何人?」
「正式に記録できたのは二十三人」
キースは驚いた。
「そこまで調べたのか」
「言ったでしょう。半年歩いたと」
改めて地図を見る。
一見すれば雑に散らされたような印には、それぞれ小さな数字が添えられていた。
日付。
距離。
術者の反応。
細かな注記。
これは旅人の覚え書きではない。
研究記録だった。
「……見せてもらっても?」
「どうぞ」
許可を得て紙を取る。
キースは、すぐに夢中になった。
地点ごとの反応差。
対象となった魔導士の年齢。
イースの強度。
使用可能な魔導系統。
〈混沌〉からの推定距離。
完全な記録ではない。測定方法も統一しきれておらず、土地によって情報の精度にもばらつきがある。それでも、個人が半年の旅で集めた資料としては驚くほど多い。
「この十二番」
「はい?」
「発生地点から離れたのに、反応が強くなっている」
「ええ。わたくしもそこが気になっていますの」
「地脈の向きは?」
「確認できませんでしたわ」
「なら地下水路かもしれない。魔力流が水系に沿って――いや、しかし〈混沌〉との関係なら」
「そうなんですのよ!」
メルリルも地面へしゃがみ込んだ。
「わたくしも水路説は考えましたの。でも十五番では、水系と反対へ反応が伸びているでしょう?」
「本当だ」
「だから単なる魔力伝導ではないと思うのですわ」
「待て。この三地点、発生日は?」
「欄外ですわ」
「……近いな」
「でしょう?」
二人は地図へ顔を寄せた。
シビウが呆れた声を出す。
「さっきまで喧嘩してたのに、急に仲良くなるんじゃないよ」
「仲良くない」
「研究の話をしているだけですわ」
「息ぴったりじゃないか」
「違う!」
「違いますわ!」
また二人の声が重なる。
ローゼンが微笑んでいる。
キースは咳払いして資料を返した。
「確かに興味深い」
「でしょう?」
「だが、これだけでは〈混沌〉が魔導力減衰の原因だとは言えない」
「そんなこと、わたくしも言っておりませんわ」
メルリルは少し不満そうだった。
「相関があるかもしれない、という段階です」
「ならいい」
「あなた、わたくしを何だと思っていますの?」
「宇宙一を自称する変な魔導士」
「失礼ですわね!」
「自分で言っただろう!」
シビウが吹き出した。
久しぶりに聞く、少し大きな笑いだった。
本人もそれに気づいたのだろう。笑いの終わりに、ほんの少しだけ目を伏せた。
だが今回は、そのまま沈黙へは戻らなかった。
*
「それで、宇宙一」
シビウが尋ねる。
「呼び捨てみたいに使わないでくださいな」
「この先、どうするつもりだった?」
「北へ参りますわ」
「どこまで?」
「決めておりません」
「調査地点を追うのか」
「そのつもりでしたけれど」
メルリルはローゼンを見る。
「ラルソウムへ向かっているのでしょう?」
「はい」
「なら、予定を変えますわ」
あまりにも簡単に言った。
「ご一緒します」
「待て」
キースが止める。
「なぜそうなる」
「目的が同じだからですわ」
「同じ?」
「あなた方も〈混沌〉を調べているのでしょう」
「正確には」
キースが言った。
「私たちは、ラルソウムでアムドアの古記録を調べる」
メルリルの表情が変わった。
「古記録?」
「ああ」
「アムドアの?」
「大穴が生じるより何百年も前の年代で、《アムドアの穴》と記された資料が見つかっている」
「……何ですって?」
先ほどまでの軽い調子が消えた。
「それ、本物ですの?」
「それを調べるために行く」
キースは答える。
「一枚の資料だけなら、偽書でも年代の誤認でも説明できる。だがラルソウムには、人間側とは別に残った古い記録があるらしい」
ローゼンが頷いた。
「精霊たちの古い歌や記憶もございます」
「古い精霊の直接証言まで?」
メルリルの目が輝き始める。
「いるそうだ」
「何年前?」
「精霊戦争を知る者もいると聞いた」
「行きますわ」
「早い!」
「なぜ止めますの!」
「まだ説明の途中だ!」
キースは額を押さえた。
「まずラルソウムで、人間側の記録と精霊側の記録を比較する。年代、伝承経路、後世の改変がないか。それでもアムドアの資料が単純な偽書と判断できなければ――」
北を指す。
「そのあと、アムドアへ現地調査に向かう」
メルリルは数秒、無言だった。
そして。
「どうして、それを先に言いませんの!」
「君が勝手についていくと言い出したからだ!」
「数百年前の《アムドアの穴》ですって?」
キースを無視して、すでに思考を走らせている。
「大穴発生以前に、その名称が存在した? 同名異地では? 後世の追刻? 地層は? 原資料は石ですの? 紙? 樹皮?」
「石刻らしい」
「刻線の風化比較は!」
「そこまで調べられているか、私も知りたい」
「拓本は?」
「写しを一部持っている」
「見せてくださいませ!」
「今ここで?」
「当然でしょう!」
「荷物の奥だ!」
「出してくださいな!」
シビウが深いため息を吐いた。
「さっきまでより面倒なのが二人になった」
「面倒とは何だ!」
「研究ですわ!」
「そこ、否定するところじゃないのかい」
ローゼンは少し嬉しそうだった。
「お二人でしたら、ラルソウムでも調査が進みそうでございますね」
「でしょう!」
「待て、私はまだ同行を認めていない」
「何を迷っておりますの?」
メルリルが真顔で尋ねる。
「わたくしは半年、〈混沌〉とイースの異常を追ってきた。あなたは古記録を調べる。そして精霊側には、人間の記録にはない資料がある」
自分の地図を叩く。
「わたくしの観測記録と、ラルソウムの古記録と、あなたの人間側の年代資料」
今度はキースを指す。
「これだけ独立した資料を同じ場所で比較できる機会が、ほかにどこにございますの?」
キースは答えられなかった。
理屈は通っている。
むしろ、こちらがメミスで古記録を初めて見せられた夜に、考えた調査方法そのものだった。
「……確かに」
「でしょう?」
「だからと言って勝手に決めるな」
「では、許可してくださいませ」
「ずいぶん素直になったな」
「目的のためなら礼儀くらい使いますわ」
「普段から使え!」
*
ローゼンが改めて説明した。
「世界各地で〈混沌〉が増加しております。ラルソウムからも、調査のため多くの者が外へ出ております」
「やはり」
メルリルの瞳が鋭くなる。
「精霊側も認識している」
「はい」
「そしてキースを呼びに来た」
「左様でございます」
「魔導力だけのためではないんだな?」
キースが代わりに答える。
「神官長として古い神話や年代記を読めることも理由らしい」
「なるほど」
「それに、人間側の記録体系を持つ人間を入れて、精霊側の記録そのものがおかしくないか調べたい、と」
メルリルの笑みが、少し深くなった。
「ますます面白いですわね」
「世界が壊れかけている話なんだけどね」
シビウが呆れる。
「それと研究対象が面白いことは両立しますわ」
「キースと同じこと言うね」
「私はそこまで言ってない!」
「顔が言ってるよ」
「また顔か!」
ローゼンも微笑んでいた。
「メルリル様のお調べになったことも、きっとラルソウムで役に立つと思います」
「様はいりませんわ」
「では、メルリルさん」
「それも少し普通すぎますわね」
「宇宙一様?」
「それは素敵ですわ!」
「やめろ、ローゼン。増長する」
「何ですって?」
キースはため息を吐いた。
それでも、反対する理由はほとんどなくなっていた。
メルリルの調査記録は本物だ。
実戦能力も先ほど見た。
半年にわたり、各地の〈混沌〉とイース異常を独自に追っている。
ラルソウムで古記録を調べるなら、むしろ彼女の観測記録は比較資料として使える。
「シビウは?」
キースが尋ねる。
「腕は立つんだろ?」
「宇宙一ですから」
「旅もできる?」
「半年、一人で各地を回りましたわ」
「食料は自分で持つ?」
「当然でしょう」
「じゃあ、あたしは構わないよ」
キースは意外そうにシビウを見る。
「いいのか?」
「あたしらだけじゃ、今は戦力が足りない」
現実的な言葉だった。
マーカスのいた場所。
そこが空いている。
誰かが代わりになるわけではない。
メルリルが加わったところで、マーカスの死が埋まるわけでもない。
それでも、生きている者は、生きるために必要なものを選ばなくてはならない。
シビウはメルリルへ顎をしゃくる。
「それに、古い紙切れを眺めて徹夜する奴が二人なら、一人より早く終わるだろ」
「紙切れとは何です!」
「そこに怒るのかい」
「貴重な記録へ紙切れなどと!」
キースも思わず口を挟む。
「そうだぞ。記録媒体そのものから分かることもある」
「ほら二人だ」
シビウは笑った。
ほんの少しだけ。
以前より自然に。
「ローゼンは?」
キースが尋ねる。
「わたくしは、ぜひご一緒いただきたいと思います」
即答だった。
「では」
キースはメルリルを見る。
「分かった」
「当然ですわね」
「まだ何も言ってない!」
「同行を認めるのでしょう?」
「……ラルソウムまでは」
「その先は?」
「ラルソウムで調査した結果を見て決める」
「あら。慎重ですこと」
「アムドアは封鎖区域だ。誰でも勝手に入れる場所じゃない」
「では、必要な許可を取ればよろしいでしょう」
「そう簡単に――」
「あなた、神官長でしょう?」
「そういう時だけ肩書きを利用しようとするな!」
メルリルは笑った。
「大丈夫ですわ。駄目と言われても、わたくしは勝手について行きますもの」
「許可を取った意味がない!」
*
四人になった一行は、再び北へ歩き始めた。
メルリルはよく喋った。
本当によく喋った。
見つけた薬草の分類。街道に使われている石材。昨日泊まった宿の料理がどれほど酷かったか。各地で出会った魔導士が自分より弱かった話。研究資金が足りないという愚痴。
そして何かにつけて、自分が宇宙一であるという主張。
「ところでキース」
「何だ」
「アムドアの古記録、今夜見せてくださる?」
「それは見るのか」
「当たり前でしょう。魔導勝負もいたしましょう」
「後半はいらない」
「どうして?」
「疲れる」
「逃げていますわね」
「何とでも言え」
「やっぱり怖いんですの?」
「そういう安い挑発には乗らないと言っただろう!」
前を歩くシビウの肩が震えていた。
「笑っているな」
「いや?」
「絶対笑っている」
「静かだった旅が、急にうるさくなったと思ってね」
その声は、ほんの少しだけ明るかった。
キースは何も言わなかった。
メルリルも事情を知らぬまま、さらに何か言おうと口を開く。
その少し前を歩いていたローゼンは、白い髪を揺らしながら風の匂いを確かめていた。
「もう近いです」
不意に彼女が言った。
「ラルソウムが?」
「はい」
メルリルが一気に前へ出る。
「どこですの?」
「まだ見えません」
「地図では?」
「地図だけでは、おそらく辿り着けません」
「なぜ?」
ローゼンは微笑んだ。
「里へ続く道は、いつも同じ場所にはございませんので」
「……は?」
メルリルが固まった。
キースには、少しだけ優越感があった。
「知らなかったのか?」
「知識としては知っておりますわ!」
「では驚くな」
「実際に言われると腹が立つでしょう!」
「何にだ?」
「地図が役に立たないことにです!」
キースは笑った。
少し前までなら、自分も同じ反応をしたかもしれない。
いや、今でもきっとする。
だが旅へ出てから、何度も思い知らされてきた。
本に書かれていることと。
現実に、そこにあること。
二つは同じではない。
「メルリル」
「何ですの」
「一つ聞いていいか」
「魔導勝負なら喜んで」
「違う」
キースは歩きながら、自分の胸へ手を当てた。
「さっきのイースの反応だ」
今はもう収まっている。
「あの場所の北西に、何があった?」
「調査しておりませんわ」
「なぜ?」
「日が暮れますもの」
「君でも安全を取るのか」
少し意外だった。
メルリルは露骨に嫌な顔をした。
「わたくしを何だと思っていますの?」
「危険を見つけたら喜んで突っ込む人間」
「研究と自殺は違いますわ」
きっぱりと言った。
「生きて帰れなければ、記録を残せないでしょう」
キースは足を止めかけた。
メルリルは気づかず先へ進む。
「それに、今は一人ではありませんもの。わたくし一人なら背負える危険でも、同行者まで勝手に巻き込む気はございませんわ」
胸の奥で、マーカスの言葉とシビウの言葉が重なった。
自分で決めること。
生きること。
死者のために、自分の人生を使い切らないこと。
「……そうだな」
キースは小さく答えた。
「何ですの?」
「いや」
前を見る。
森が近づいている。
その奥から、微かな花の香りが流れてきた。
ローゼンが立ち止まる。
白い髪が風に揺れた。
「この風です」
彼女が言った。
街道から外れた森には、道らしい道はない。
それでも森の奥、まだ季節には早いはずの白い花が一輪だけ開いていた。
さらに奥にも一輪。
その向こうにも、もう一輪。
白い花は、木立のあいだを縫うように点々と続いている。獣道でも、人が踏み固めた道でもない。ただ森そのものが、訪れた者へ行き先を示しているようだった。
「こちらです」
ローゼンが森へ入る。
シビウが続く。
メルリルは目を輝かせ、早くも何かを書き留め始めた。
「本当に花で道を示すのね……。待って、風向きとの相関を――」
「置いていくぞ、宇宙一」
「ちょっと! 待ちなさいな!」
キースも森へ足を踏み入れた。
その瞬間、風が変わった。
街道を渡っていた乾いた風ではない。
湿り気を含み、葉と土と花の香りを運ぶ、森の内側の風だった。
頭上では枝葉が擦れ合い、どこか遠くから水の流れる音が聞こえてくる。白い花は人の足元で揺れながら、さらに深い木立へと続いていた。
森へ入っただけのはずなのに、キースには別の旅が始まったように思えた。
メミスを出たとき。
マーカスを失ったとき。
そして今。
世界一の魔導士。
宇宙一を名乗る魔導士。
名のない巫女の弟。
故郷へ帰る精霊。
死者を愛したまま歩く剣士。
それぞれ違うものを背負い、それぞれ違う理由で歩きながら、四人は同じ森の奥へ入っていく。
その先に待つのは、人間の魔導とはまるで異なる仕方で世界へ触れる者たちの里。
そして、アムドアへ向かう前に、人間と精霊、それぞれが残してきた過去を並べて確かめる場所。
地図の上では場所さえ定まらず、風と花だけが道を知るという精霊の里――ラルソウムだった。




