第十二章 ラルソウム
森へ踏み込んでから、キースは三度、道を見失った。
正確には、見失うべき道そのものが、最初から存在していなかった。
ローゼンは迷いなく歩いている。彼女の先には、ときおり白い花が咲いていた。一輪を見つけて近づけば、その先にもう一輪。さらに奥へ入ると、今度は右手の木の枝だけが、風もないのにかすかに揺れる。
その方向へ進めば、湿った土と樹皮の匂いに甘い花の香りが混じり、また次の兆しが現れた。
人間が設けた道標はない。
杭もなければ、石を積んだ目印も、踏み固められた地面もない。それでもローゼンにとっては、これが道らしかった。
「止まってください」
不意に彼女が言った。
キースたちは足を止める。
「どうした?」
「少し、道が考えております」
「道が?」
キースは思わず周囲を見回した。
針葉樹と広葉樹が入り交じる深い森。足元には柔らかな苔が厚く広がり、その隙間から青白い小花が顔を出している。樹冠は幾重にも重なり、午後の陽射しさえ細く砕いていた。
道らしきものは、本当にどこにもない。
すでにメルリルは帳面を取り出していた。
「非常に興味深いですわ。ここへ入ってから、方位が安定しておりませんの」
「磁針か?」
「磁針も、魔導方位計もですわ。三歩進むごとに北が少しずれますのよ」
「壊れているんじゃないか?」
「わたくしの道具を疑う前に、この森を疑ってくださる?」
メルリルは不満そうに魔導方位計を振った。
盤上の針は北を指そうと小刻みに震え、ようやく止まったかと思えば、数呼吸後には思い直したように別の方向へ向いてしまう。
キースも自分の感覚を探った。
魔力そのものに異常はない。イースにも、先ほど街道で感じたような引き込みはなかった。
だからこそ、余計に奇妙だった。
「幻術ではないな」
「そうですわね。空間歪曲でもありませんわ。少なくとも、わたくしが知る種類では」
「風そのものが違うんだよ」
シビウが言った。
二人の魔導士が同時に彼女を見る。
「分かるのか?」
「分からないよ。ただ、さっきから風が同じ方向へ吹いてない」
シビウは頭上を見上げた。
「上の葉は左へ揺れてる。でも足元の草は右。それなのに、あそこの花だけは真っ直ぐだ」
言われて初めて、キースも気づいた。
この森では、幾つもの風が同時に流れている。
梢を渡る風。
地面を這う風。
木立の間だけを抜ける風。
花の周りへ留まる風。
それぞれが互いを押し潰すことも、乱すこともなく、異なる方向へ流れていた。
「そんなことが自然に起こるのか?」
「さあね。魔導士様に聞きな」
「私も今訊いたところだ」
キースが答えると、シビウは小さく笑った。
マーカスを失ってから、その笑いは以前より少なくなった。それでも、完全に消えたわけではない。
「皆様」
ローゼンが振り返った。
「こちらでございます」
「道は考え終わったのか?」
「はい」
「本当に、道が考えているのか?」
キースが尋ねると、ローゼンは少し困ったように眉を寄せた。
「人間のお言葉で申しますと、そのようになるのでしょうか。あちらの木が、今日は右から来る方を嫌がっておりますので」
「木が嫌がる?」
「はい。根元で小さな精霊が眠っておりますから、踏まれたくないのだと思います」
キースは言葉を失った。
ローゼンは、それが特別な説明だとも思っていないらしく、そのまま左側へ大きく迂回していく。
後へ続きながら、メルリルが小声で呟いた。
「考えても仕方ない種類の場所ですわね」
「君でも諦めるのか?」
「諦めておりません。あとで全部調べますわ」
「安心した。宇宙一が急に常識人になったのかと思った」
「喧嘩を売っていますの?」
そんなやり取りを交わしながらしばらく歩くと、森の匂いが変わった。
湿った土。苔。樹液。
それまで森を満たしていた青く深い香りの中へ、次第に甘い花の芳香が混じり始める。
キースは足を止めた。
どこかで嗅いだことがある。
薔薇。
初めてローゼンが自分の部屋へ現れた夜。窓のない室内へ、あり得ない風とともに入り込んだ香り。
あのときと同じだった。
「近いのか」
キースが尋ねる。
ローゼンは嬉しそうに頷いた。
「はい。もうすぐです」
そこから先、彼女の足取りは目に見えて軽くなった。
故郷。
その言葉が、キースの胸へ小さく刺さった。
メミスを出てから、まだそれほど長い時間が過ぎたわけではない。それなのに、神殿の白い壁も、名のない巫女の顔も、ときおり遥か昔のもののように思えることがある。
ローゼンにも、同じように「帰る」と呼べる場所がある。
これから、自分たちはそこへ入るのだ。
*
森が途切れた。
その瞬間、キースは足を止めた。
「……これは」
言葉が続かなかった。
谷だった。
深い森に四方を囲まれた、広大な緑の谷。
その中央に、途方もない一本の樹が立っている。
巨大という言葉では足りなかった。
幹の直径だけで、小さな神殿ひとつを収められそうだった。太い根は大地の上を幾筋にも這い、あるものは丘のように盛り上がり、あるものは川を跨いで自然の橋を作っている。
枝は谷の空を覆い尽くさんばかりに広がり、その葉の隙間から差し込む陽光が、無数の光柱となって緑の地上へ降り注いでいた。
樹の周囲には建物がある。
だが、人間の町とはまるで違った。
石を積み上げた家もあるにはある。しかし、その石壁には継ぎ目が見えない。ひとつの巨大な岩が、初めから家の形を選んで地面から生えてきたように見える。
大樹の根元には、幹そのものと一体化した住居が幾つもあった。木を刳り抜いた痕跡はなく、枝や根が自ら空間を作るように膨らみ、滑らかな入口を開いている。
さらに高い場所では、太い枝と枝の間に小さな家々が浮かぶように連なっていた。
橋もある。
蔓が幾重にも編まれた橋。
枝同士が互いへ手を伸ばし、そのまま繋がったような橋。
中には、透明な水が細い帯となって空中を流れ、その上を小さな精霊が滑るように渡っている場所まであった。
そして、至るところに花が咲いている。
赤。
青。
白。
紫。
人間の染料では名を与えることさえ難しい、不思議な色の花もある。
昼間だというのに淡く光るものまであった。花弁の内側に小さな灯を宿し、風が通るたび、呼吸するように光を強めたり弱めたりしている。
「ラルソウムへ、お帰りなさいませ」
ローゼンが言った。
お帰りなさい。
その言葉は、故郷へ戻った彼女自身へ向けられたもののようにも、ここまで辿り着いた三人の客へ向けられた歓迎の言葉のようにも聞こえた。
「ここが……」
キースは谷を見渡した。
「ラルソウム」
「左様でございます」
「地図へ描けないのが惜しいですわ!」
メルリルの感動の第一声が、それだった。
すでに荷物から紙を引き出している。
「まず大樹の高さを測定して、それから谷の幅を――」
「無理だと思いますよ」
ローゼンが言った。
「なぜですの?」
「外から測るたび、少し違う場所になりますので」
「……どういう意味ですの?」
「そのままの意味でございます」
メルリルが固まった。
キースは笑いそうになる。
「諦めるか?」
「いいえ!」
すぐに復活した。
「なら、なぜ違うのかから調べますわ!」
「元気だねえ」
シビウが呆れた声を出す。
口ではそう言いながらも、彼女自身も里の風景から目を離せずにいた。
「こんな場所、本当にあるんだね」
「本には書いてあった」
「その本に、あれも書いてあった?」
シビウが指差した。
大樹の根元で、一人の精霊が大きな岩の前に立っている。
人間の子どもほどの背丈をした精霊だった。両手を岩へ当て、何かを囁いている。
すると、岩が動いた。
いや、形が変わった。
硬いはずの石肌が、湿った粘土のようにゆっくりと窪んでいく。中心に小さな穴が開き、それが左右へ広がり、最後には人が腰掛けるのにちょうどよい椅子の形へ変わった。
「石魔導?」
キースが呟く。
「違います」
ローゼンはすぐに否定した。
「では、何をした?」
「お願いしたのです」
「石に?」
「はい」
キースはもう一度、椅子になった岩を見る。
魔導の残滓を探った。
確かに、術式らしいものがない。
「魔力を使っていない?」
「全く使っていないわけではございません。ただ、人間の魔導とは少し違います」
「少しどころではありませんわ」
メルリルも目を細めていた。
「術式構築が見えませんもの。現象が起きているのに、外界へ命令構文が出ていない」
「命令?」
ローゼンが首を傾げる。
「人間の魔導は、世界へ命じる形なんだ」
キースが説明した。
「火を起こせ。風を吹かせろ。石を動かせ。実際に言葉を発する必要はないが、術式の構造としては、術者の意思を世界へ押し通す形になる」
「なるほど」
「精霊は違う?」
「わたくしたちは、頼みます」
「石へ?」
「石にも。木にも。水にも」
「断られることは?」
「もちろんございます」
キースは思わずローゼンを見た。
「断るのか?」
「嫌なこともございますでしょう?」
「石に?」
彼女は少し考えた。
「キース様は、石を生き物ではないとお考えなのですね」
質問の形だったが、責めてはいなかった。
「少なくとも、人間の分類では」
「では、人間の分類ではそうなのでしょう」
それだけだった。
ローゼンは、自分たち精霊の見方こそが正しいとは言わない。
けれど彼女にとって石は、明らかに何かを頼める相手だった。
「少し試しても?」
キースが訊いた。
「何をです?」
「あの石へ」
近くに、人の頭ほどの丸い石があった。
キースはその前へしゃがみ込む。
「……動いてくれ」
何も起こらなかった。
シビウが吹き出した。
「いきなり命令してるじゃないか」
「いや、頼んだつもりだ」
「声が命令だったよ」
「どう言えばいい?」
「わたくしにも分かりません」
「ローゼンにも?」
「石によって違いますので」
ますます分からない。
キースは石を見つめた。
今度は少し考えてから、手を差し出す。
「少しだけ、右へ動いてもらえないだろうか」
石は動かない。
「嫌われておりますの?」
メルリルが笑う。
「うるさい」
「キース様」
ローゼンが言った。
「動かしたい理由をお伝えしてはいかがでしょう」
「理由?」
「どうして動いてほしいのですか?」
問われ、キースは考えた。
特に理由はない。
精霊のやり方を試してみたかっただけだ。
「……実験のため?」
ローゼンは笑った。
「それでは、動いてくれないかもしれません」
「なぜ」
「石には、何の良いこともございませんから」
「石の利益まで考えるのか?」
「利益……」
ローゼンは、その言葉を確かめるように首を傾げた。
「少し違うような気がいたします」
「では?」
「一緒に何かをする、ということです」
キースは黙った。
人間の魔導は、力を行使する。
火を出す。
水を動かす。
風を集める。
石を割る。
魔導士の意思が先にあり、世界は術式によって形を変えさせられる。
ラルソウムでは、一緒に何かをする。
その違いを、キースはまだ理解できなかった。
分からないものを無理に自分の魔導理論へ押し込めても仕方がない。そのくらいは、この旅で少しずつ学び始めていた。
「貸してみな」
シビウが言った。
「何を?」
「石」
「私のものではない」
「だったら余計にいいだろ」
シビウは石の横へしゃがみ込み、しばらくその丸い形を眺めた。
「悪いけど、ちょっとだけこっちへ転がってくれないかい。そこだと歩くとき蹴っ飛ばしそうだからさ」
数呼吸。
ころん。
石が動いた。
ほんの半回転。
シビウが固まる。
キースも固まった。
メルリルは大急ぎで帳面へ何かを書き始める。
「なぜだ!」
「知らないよ!」
「私よりシビウの方が好かれた?」
「石に好かれて嬉しいのかどうか、あたしにも分からないね!」
「待って、もう一度やってくださる?」
「嫌だよ! なんか怖くなってきた!」
ローゼンが楽しそうに笑っている。
「ようこそ、ラルソウムへ」
キースは改めて辺りを見渡した。
ここでは、自分が知っている魔導の常識が通用しない。
《世界一の魔導士》。
そんな称号だけを頼りにすれば、この谷では何も分からないだろう。
だからこそ、分かることと、分からないことを分けるしかない。
*
ローゼンの帰還に気づいた精霊たちは、ほどなくして次々と集まってきた。
人間に近い姿をした者。
背に小さな羽を持つ者。
身体の半分が花弁のように透けている者。
人間なら老人と呼ぶような姿の者もいれば、幼い子どもにしか見えない者もいる。
ただし、見た目の年齢と、その存在が過ごしてきた時間は、必ずしも一致しないらしい。
「ローゼン!」
「お帰り!」
「戻ったのですね!」
歓声が上がる。
それだけではなかった。
光が舞い、閉じていた花が一斉に開く。頭上の枝がざわめき、風へ甘い香りが満ちた。
人間の町なら、歓声と抱擁だけで済む帰還の喜びを、ラルソウムでは森そのものまで分かち合っているようだった。
ローゼンは次々に精霊たちへ頭を下げ、時には抱きしめられ、子どもの姿をした精霊には両腕へしがみつかれている。
キースは少し離れたところから、その光景を見ていた。
初めて見るローゼンの顔だった。
本当に、嬉しそうだ。
彼女は旅の間もよく笑っていた。けれど今の笑顔には、帰る場所へ戻った者にしか浮かべられない安堵があった。
「人気者ですのね」
メルリルが言った。
「ああ」
「少し意外ですわ」
「なぜ」
「静かな方ですから」
「静かな人間に友人が少ないとでも?」
「そこまで言っておりませんわ」
シビウも二人の横へ来た。
「これで、あの子にもちゃんと帰る場所があったって分かったね」
「ああ」
その声には、ほんの少しだけ別の意味が混じっていた。
帰る場所。
マーカスには、もう帰れない。
キースは何も言わなかった。
そのとき、精霊たちの輪の向こうから一人の男が歩いてきた。
人間の男によく似た姿をしている。
年齢は四十前後に見えた。長身で、体つきは細身ながら弱々しさはない。深い青を基調とした衣をまとい、長い外套の裾には銀色の細かな刺繍が施されている。
目立つ装飾はない。
武器も持っていない。
それでも周囲の精霊たちは、彼が近づくとごく自然に道を空けた。
地位があるのだと分かった。
男の髪は、夜明け前の空を思わせる青灰色だった。
瞳もまた、静かな青。
歩き方に威圧するものはなく、強大な精霊力が周囲を圧しているようにも感じられない。
それなのにキースは、一目見た瞬間、妙な印象を覚えた。
知っているような。
どこかで見たことがあるような。
もちろん、会った記憶はない。頭の中で過去の顔を探しても、該当する人物など出てこなかった。
ただ、その男がそこにいる光景が、あまりにも自然だった。
大樹がある。
光る花がある。
ローゼンがいる。
そして、彼がいる。
そんな風景を、自分まで昔から知っていたような気がした。
「ローゼン」
男が呼んだ。
それまで他の精霊たちと話していたローゼンが振り向く。
「サファイア様!」
表情が変わった。
ローゼンは駆けた。
キースは驚いた。旅の間、彼女がこれほど勢いよく誰かへ駆け寄る姿など、一度も見たことがなかった。
サファイアと呼ばれた男も柔らかく笑い、両腕を広げる。
ローゼンが、その胸へ飛び込んだ。
「ただいま戻りました」
「お帰り、ローゼン」
男は白い髪へ手を置いた。
「随分と長い旅になったようだな」
「はい」
「怪我は?」
「ございません」
「本当に?」
「少しはございましたけれど、もう大丈夫です」
「ならばよい」
やり取りだけなら、ごく普通の再会だった。
それでもキースには、二人の距離感が分かった。
父と娘。
血縁という意味ではない。
それに近い。
ローゼンはサファイアの前では、旅の間より少し幼く見えた。
「そちらが」
サファイアの視線がキースたちへ向いた。
「メミスのキース殿かな」
「私を知っている?」
「もちろん。君を迎えに行くよう、ローゼンへ頼んだ者の一人だからね」
キースは少し驚いた。
「では、あなたも今回の調査を?」
「外界との折衝と、古記録の整理を任されている」
男は胸へ手を置き、穏やかに一礼した。
「サファイアだ。長ではない。もっとも、この里では人間の国ほど役職は厳密ではないけれどね」
「よろしく」
「こちらこそ。よく来てくれた」
交わした握手は、ごく普通だった。
精霊に触れているという違和感がない。
ローゼンと初めて会ったときは、人の姿をしていても、人間ではないとすぐに分かった。
サファイアは違う。
あまりにも、人間に近い。
「あなたも精霊なのか?」
「そうだよ」
男は笑った。
「人間に見えるかい?」
「かなり」
「昔からよく言われる」
昔から。
なぜか、その一言が耳に残った。
「こちらはシビウさんです」
ローゼンが紹介する。
「剣士の方でございます」
「シビウだよ」
「道中、ローゼンを守ってくれたそうだね。礼を言う」
「仕事さ」
シビウは肩をすくめた。
「……途中からは、あんまり守れたとも言えないけどね」
サファイアは、彼女の肩に担がれた大斧へ一瞬だけ目を向けた。
事情を聞いたのだろうか。
何も訊かなかった。
ただ、わずかに頭を下げる。
「それでも、ここまで来てくれたことに感謝する」
シビウは目を逸らした。
「こっちはメルリル」
キースが言った。
「宇宙一の魔導士だそうだ」
「そうだそうですわ、ではなく! 宇宙一の魔導士、メルリルですわ!」
本人が即座に訂正する。
サファイアは一瞬だけ目を瞬いた。
それから笑った。
「宇宙一とは大きく出たね」
「事実ですもの」
「頼もしい。ちょうど魔導士の知見を必要としていたところだ」
メルリルは得意そうに胸を張る。
「見る目がありますわね」
キースは小声で言った。
「初対面でよくそこまで増長できるな」
「褒められたら受け取るのが礼儀ですわ」
「そういうものか?」
サファイアは二人を見て、また微笑んだ。
「話に聞いていたより、楽しそうな旅だったようだ」
その言葉で、空気が一瞬だけ止まった。
シビウの肩にある大斧。
サファイアもすぐに気づいたようだった。
「……失礼」
「いいよ」
シビウが先に答えた。
「楽しいこともあった」
それ以上は言わなかった。
サファイアも掘り下げなかった。
*
「まずは休んでくれ」
サファイアは言った。
だが、そのまま一行を宿へ案内しようとはしなかった。
「――と言いたいところだが、その前に一つだけ。キース殿には、ここへ来てもらった理由を正式に伝えておきたい」
キースの表情が変わる。
「アムドアについて?」
「ああ」
サファイアは大樹の根元に設けられた広い場所へ、一行を案内した。
人間の会議室のような机も椅子もない。根が自然に盛り上がって座れる形になり、その中央には平らな石盤がひとつ置かれている。
サファイアが、その石盤へ手を触れた。
「少し借りてもいいかな」
石の表面が淡く光った。
次の瞬間、薄い水膜のようなものが広がり、その上へ北方の地形が浮かび上がる。
「地図?」
キースが身を乗り出した。
「記憶を写してもらっているだけだよ。正確な測量図ではない」
「石に?」
「そう」
「あとで調べますわ!」
メルリルが即座に言った。
「話を聞け」
「聞きながら調べられますわ」
「器用だな!」
サファイアは苦笑しながら、地図の一角を指した。
「アムドアだ」
そこだけ、地図が欠けている。
本来なら都市と周囲の地形があるはずの場所に、黒い空白があった。
「大穴そのものは、現在も複数の封鎖線で囲われている」
「拡大は?」
キースがすぐに尋ねた。
「止まっていない」
「ローゼンから聞いた通りか」
「ああ。急激ではないが、封鎖の内側で少しずつ範囲が変わっている」
「変わっている?」
今度はメルリルが反応する。
「広がっている、ではなく?」
「測定結果が一定しないんだ」
サファイアは答えた。
「ある地点では昨日より外へ出ている。別の地点では逆に引いている。全体として見れば拡大傾向にあるが、単純な円形ではない」
「地形の侵食ではありませんわね」
「その可能性は低いと見られている」
「測定方法は統一されている?」
キースが訊いた。
「できる限りは」
「測量者が違うことで生じる誤差は?」
「それも疑われた」
「封鎖線そのものが移動した可能性は?」
「ないとは言わない。だからこそ、拡大していると断言するより《範囲が変わっている》と表現している」
キースは小さく頷いた。
分かっていることを、分かっている以上には言わない。
少なくとも、ラルソウム側の調査方針は信用できそうだった。
「それで」
キースが言う。
「私たちが調べるべきなのは、大穴そのものだけではないんだな」
「そうだ」
サファイアは頷いた。
「むしろ、君を呼んだ直接の理由は別にある」
「古記録」
「ああ」
以前、ローゼンから見せられた写し。
数百年前。
《アムドアの穴》。
「原資料は?」
キースは真っ先にそこを訊いた。
「封鎖区域内だ。簡単には動かせない」
「発見された場所は記録されている?」
「されている」
「出土状況は?」
「可能な範囲で」
「石そのものを、発見後に別の場所から持ち込んだ可能性は?」
「完全には否定できない」
「刻まれた文字が、石そのものより新しい可能性は?」
サファイアが少し目を細めた。
「追刻か」
「ああ。石が古くても、文字まで古いとは限らない」
「そこも調べてはいる。ただ、我々だけでは判断しきれなかった」
「翻訳は?」
「複数の者が別々に行った」
「年代の読みも?」
「同じだ」
キースは腕を組んだ。
まだ資料を見ていない。
この段階で結論など出せない。
それでも、何を確認すべきかは見えてきた。
「では少なくとも」
キースは言った。
「《古い石から見つかった》ことと、《古い時代にアムドアの穴と書かれた》ことは、今のところ分けて考えた方がいい」
メルリルが横を見る。
「同じではありませんの?」
「同じなら楽なんだ」
キースは答えた。
「石が古くても、文字が後世の追記なら話は変わる。文字が古くても、年代記号の読みが間違っていれば、やっぱり話は変わる」
「では、まずそこから?」
「ああ」
キースの目は、もう完全に調査対象を見るものへ変わっていた。
「何が本当に確認されていて、何が推定なのか。最初に分ける」
メルリルは少しだけ眉を上げた。
何か言いかけたが、まだ口にはしなかった。
サファイアも、それ以上説明を挟まず続ける。
「そして、もう一つ」
石盤へ別の光が浮かんだ。
今度は文字だった。
《アムドアの穴》という翻訳の横へ、まったく違う形の記号が並ぶ。
「これは?」
キースが尋ねる。
「ラルソウムに残る古い記録だ」
その瞬間、キースの目が鋭くなった。
「同じ文章ではない」
「もちろん」
「同じ資料の写しでもない?」
「違う」
「成立した場所は?」
「ラルソウムだ」
「アムドアの記録がこちらへ持ち込まれたあとに作られたものでは?」
「それより古いと考えられている」
「《考えられている》」
キースは、その言葉を拾った。
「確定ではない?」
「ああ」
「何を根拠に古いと?」
「その話も、資料を見ながらした方がいいだろう」
キースは頷いた。
良い答えだった。
口頭説明だけで年代を確定させるより、実物を確認した方が早い。
「内容は?」
「《アムドア》という都市名は使われていない」
「なら、同じ事件とは限らない」
「そうだ」
「場所も?」
「伝承上は北方中央部。ただし、人間の地図へ正確には置けない」
「時代は?」
「精霊戦争より前とされる」
キースの指が止まった。
「かなり古い」
「ああ」
「人間側でアムドアが都市として成立する以前?」
「少なくとも、その可能性がある」
「その記録にも《穴》に相当する言葉がある?」
「ある」
キースは黙った。
アムドアで見つかった一枚だけなら、偽書でも、追刻でも、年代の読み違いでも説明できる。
だが、本当に独立した別系統の古記録が、似た現象を語っているなら。
話は変わる。
「だから私を呼んだ」
キースが言った。
「そうだ」
サファイアはまっすぐ答えた。
「我々だけで調べ続けても、どうしても精霊側の記憶と伝承を前提にしてしまう」
「自分たちの記録を疑うために?」
「そのためでもある」
「随分と慎重なんだな」
「長が望んだ」
「ヴァギュイザールが?」
「ああ」
サファイアは大樹の奥へ視線を向けた。
「人間側で古い神話、祭祀記録、年代記を読める者。そして、人間魔導そのものを理解している者。その両方を満たす人物として、君の名が挙がった」
「世界一だから、ではなく?」
「それも理由の一つだよ」
「やっぱり入っているのか」
「便利な肩書きですわね」
メルリルが口を挟む。
「君に言われたくない」
「宇宙一ですもの」
「さらに上を名乗るな!」
サファイアが笑った。
それから、メルリルへ目を向ける。
「君の調査記録についても、あとで見せてもらえるかな」
「もちろんですわ」
「〈混沌〉周辺でのイース異常は、こちらでも気になっている」
「でしたら、こちらの二十三例と比較できますわね」
「二十三?」
「半年分です」
「それは助かる」
メルリルが満足そうに胸を張った。
「やはり宇宙一を連れてきて正解でしたわね」
「自分でついてきたんだろ」
キースが呆れる。
サファイアは、そんな二人をしばらく見ていた。
「どうやら」
穏やかに言う。
「二人とも、こちらが思っていた以上に役に立ってくれそうだ」
「二人とも?」
メルリルが不満そうにする。
「当然だろ」
「まだあなたは質問しただけですわ」
「質問の仕方で分かることもある」
サファイアの言葉に、キースは少しだけ眉を上げた。
「何が?」
「君は、こちらが《古い》と言っただけでは、一度も古いと認めなかった」
「当たり前だろう」
「我々にとっては、その《当たり前》が必要だった」
サファイアは石盤の光を静かに消した。
「だから、君を呼んだ」
キースは何も答えなかった。
褒められたという感覚は、あまりなかった。
まだ何一つ調べていない。
むしろ、話を聞けば聞くほど確かめるべきことが増えている。
「説明は、ここまでにしよう」
サファイアが立ち上がった。
「長旅の直後に、これ以上立ち話をさせるのも悪い」
「資料は?」
キースが即座に訊く。
サファイアが笑った。
「休む気は?」
「あとで」
「やはり、ローゼンの話どおりだな」
「何を聞いたんだ」
「本を渡すと食事を忘れる、と」
キースはローゼンを見る。
彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「必要な情報かと」
「それは絶対に必要ない」
「わたくしは見たいですわよ」
メルリルまで加わる。
「アムドアの石刻も、こちらの古記録も。口で聞くだけでは始まりませんもの」
「そこは同意する」
「ほら、仲がよい」
「よくない!」
「よくありませんわ!」
シビウが深いため息を吐いた。
「休ませても無駄みたいだね」
サファイアも諦めたように笑った。
「分かった」
そして大樹の根が幾重にも重なる奥へ、静かに視線を向ける。
「では、場所を移そう」
「どこへ?」
キースが尋ねた。
「記録を保管しているところだ」
サファイアは答えた。
「ここから先は、私の説明ではなく――」
一拍。
「君自身の目で、確かめてもらおう」




