第十三章 古記録は一度では読めない
サファイアに案内されたのは、大樹の根が幾重にも重なった、そのさらに奥だった。
太い根の一部が大きく持ち上がり、内部へ人が入れるほどの空洞を作っている。
書庫。
そう呼んでよいものか、キースには分からなかった。
人間の書庫のように、本棚が壁一面へ並んでいるわけではない。乾燥させた樹皮、薄い石板、編まれた蔓、色の違う種子を順番に並べた帯、硝子のように透明な葉、表面には何も書かれていない木片。そして、ほんのわずかではあるが、人間式の紙束も置かれている。
メルリルは入口を跨いだところで足を止めた。
「……これを、全部、記録と呼びますの?」
「そうだよ」
サファイアが答える。
「どう読むんですの?」
「ものによる」
メルリルは一番近くにあった、色違いの種子を連ねた細い帯を指した。
「これは?」
「音」
「こちらの蔓は?」
「順番」
「この透明な葉は?」
「光を当てる」
「では、この何も書いていない木片は?」
「匂い」
メルリルは両手で顔を覆った。
「最高ですわ」
「君、泣きそうだぞ」
「感動しておりますの!」
シビウが呆れたように息を吐いた。
「放っておこう。朝までここにいそうだ」
「それは困る」
キースも周囲の記録から目を離せないまま言った。
「明日はヴァギュイザールへ会うんだろう」
「あなたも同類でしょう!」
「私は予定を守る」
「本当に?」
「……努力する」
「ほら!」
「予定を守る意思はある!」
「意思だけでは守ったことになりませんわよ」
「うるさい」
サファイアは笑いながら、空洞の奥へ進んだ。
「まず、君たちが来た直接の理由から見てもらおう」
その言葉で、キースの顔から笑みが消えた。
*
アムドアから持ち出された記録そのものは、ここにはない。原物は現在も封鎖区域内で保管されている。
代わりに用意されていたのは、石刻から取られた拓本、複数の研究者が作成した転写、翻訳案、発見位置の記録、石そのものの状態、周囲の地層についての簡単な報告だった。
キースは、それらを一つずつ床へ並べていった。
以前ローゼンから見せられた資料より、遥かに情報が多い。
「これが年代記号ですわね」
隣へ座ったメルリルが、一枚の拓本を覗き込む。
刻まれている文字は、現行の北方文字とは大きく違っていた。その一角、本文から少し離れた位置に、幾つかの短い記号が並んでいる。
「解読報告では、大穴が生じる数百年前」
「ああ」
キースは答えながら、拓本を引き寄せた。
「石そのものの推定年代とも、そこまで大きく離れていないそうですわ」
「だから、本当に数百年前の《アムドアの穴》ということになりますの?」
キースは答えなかった。
拓本へ顔を近づける。
「キース?」
「待て」
「何ですの?」
「この数字だけでは年代にならない」
メルリルの眉が動いた。
「年代記号でしょう?」
「今の暦ならな」
キースは文字列の右側を指でなぞる。
「この並び方、古い祭祀記録に似ている」
「メミスの?」
「メミスそのものじゃない。もっと古い形式だ」
指先を少し横へずらす。
「ここ」
「小さな欠けにしか見えませんわ」
「欠けじゃない。補助記号だ」
サファイアが身を乗り出した。
「我々は、石の損傷だと判断していた」
「原物を見ないと断定はできない。でも、拓本を見る限り形が揃いすぎている」
キースは別の転写を取った。
二枚。
三枚。
採取した人物の違う拓本を順に並べる。
「全部、同じ位置に残っている」
メルリルも見比べた。
「……本当ですわ」
「損傷なら、ここまで同じ輪郭にはならない」
「では、何の記号ですの?」
「月相か、祭祀周期の補助」
「どちら?」
「まだ分からない」
キースは即答した。
メルリルが僅かに目を細める。
知らないことを誤魔化さない。
ただし、そこで止まりもしない。
「この形式だと」
キースは白紙を一枚取り出した。
「最初の大きな記号は《年》じゃない可能性が高い」
「では?」
「周期」
「何の?」
「そこを確かめる」
今度は石刻の本文ではなく、発見場所から回収された別の資料へ目を移した。
似た字体。同じような補助記号。
ただし、本文の内容はまったく違う。
「これも同じ場所から?」
キースが訊く。
「同じ地下区画だ」
サファイアが答える。
「数十歩は離れているがね」
「内容は?」
「祭祀に使った物品の記録と見られている」
「なら、こっちの方がいい」
キースは転写へ指を走らせる。
「物品の数と、供出時期が書いてある。周期が何を指すか比較できる」
「そんなことまで分かるんですの?」
メルリルが言った。
「全部は読めない」
キースは目を離さない。
「でも数字の置かれ方は分かる。神殿の収蔵記録は、時代も土地も違っても似るんだ」
「なぜ?」
「祭祀は繰り返すからだ」
キースの声が少し速くなる。
「王の即位年みたいに一度しか起きない出来事なら、単独の年代でもいい。でも祭祀は毎年、あるいは一定周期で繰り返す」
紙へ短い線を書き込む。
「だから古い記録では、《何年》より先に《何度目の祭祀か》を書くことがある」
「それを年号として読んだ?」
「可能性がある」
「では、数百年前という推定そのものが間違っている?」
「まだ分からない」
また迷いのない答えだった。
キースは別の紙へ、幾つかの数字と記号を書き並べる。
「この記号だけなら、これまでの解読でも成立する」
次に、小さな月形の記号を添える。
「でも、この補助記号を一緒に読むなら、一周期ずれる」
メルリルが顔を寄せた。
「一周期で?」
「かなり長い」
「具体的には?」
「この祭祀体系が、メミスの最古記録と同系統なら百年以上」
「百年!」
メルリルが拓本を見る。
「……それを最初から書いておいてくださいませ、古代人」
「古代人に言え」
「あなた神官でしょう。昔の人とお話しできませんの?」
「できたらこんな苦労してない!」
シビウが後ろで笑った。
だがキースは、すぐに紙へ視線を戻した。
「サファイア」
「何だい」
「この祭祀記録、同じ形式のものは他にも?」
「ある」
「一つ前と、一つ後の周期が欲しい」
「分かった」
「できれば、月相記号が欠けていないもの」
サファイアが根の奥へ向かう。
その間にもキースは、拓本の年代記号を書き写していた。
メルリルが横から覗き込む。
「あなた、あの古語そのものは読めませんでしょう?」
「全部は」
「なのに、年代だけ?」
「記録には型がある」
キースは答えた。
「知らない言語でも、同じ形式が十枚あれば、どこが人名で、どこが数で、どこが繰り返し使われる語かくらいは見えてくる」
「そんなものですの?」
「神殿の地下で、読めもしない石板を何年も相手にしていればな」
「……地味ですわね」
「学問はだいたい地味だ」
「世界一らしくありませんわ」
「世界一は魔導力の話だ!」
すぐにサファイアが数枚の拓本を持って戻ってきた。
「これでどうかな」
「十分」
そこからキースは、ほとんど喋らなくなった。
一枚を読む。
数字を抜き出す。
隣へ並べる。
別の一枚と比較する。
同じ記号が出てくれば位置を確認し、違うところだけを書き留めていく。
メルリルも途中から冗談を言わなくなった。キースが何をしているのかを追っている。
「この三枚」
やがてキースが言った。
「祭祀周期の番号が一つずつ進んでる」
「ええ」
「でも月相記号は同じじゃない」
「当然では?」
「なら、周期と月相は別に読む」
別の記号を指す。
「この小さい印が、周期内の位置を決めている」
「つまり?」
「最初の解読は、二つの情報を一つの年号として読んでいる」
キースは改めてアムドアの石刻へ戻った。
「ここを分ける」
一つ。
二つ。
三つ。
別々に計算する。
沈黙が続いた。
メルリルが先に口を開く。
「それで?」
キースは返事をしなかった。
もう一度計算する。
別の資料で確認する。
「キース?」
「……駄目だ」
その声で、メルリルの表情が変わった。
「駄目?」
「読み直しても古い」
キースは紙を床へ置いた。
「これまでの推定より、少し新しくなる可能性はある」
「どれくらい?」
「少なくとも一周期。最大でも二周期程度だと思う」
「それなら」
「それでも、大穴が生じるより遥か前だ」
キースは拓本を見る。
《アムドアの穴》。
その翻訳。
そして、読み直してなお消えなかった古い年代。
「つまり」
メルリルがゆっくり言った。
「単純な年代記号の読み間違いでは説明できない」
「ああ」
「追刻なら?」
「残る」
「石の転用」
「残る」
「翻訳そのものが違う」
「それも残る」
「では、まだ候補はある」
「ああ」
キースは頷いた。
「だから一つずつ潰す」
メルリルが黙った。
ややあって、
「……なるほど」
と呟く。
「何だ」
「神官長を連れてきた意味が、少し分かりましたわ」
キースが顔を上げる。
「少しか」
「宇宙一から見れば、十分な賛辞です」
「君、本当に一言余計だな!」
「でも」
メルリルは拓本へ視線を戻した。
「こういうところでは、わたくしより速いですわね」
今度はキースが黙った。
メルリルが自分からそんなことを認めるとは思っていなかった。
「……珍しいな」
「撤回しますわよ?」
「いや、受け取っておく」
「素直ですこと」
「褒められたら受け取るのが礼儀なんだろ?」
以前メルリル自身が言った言葉を返す。
彼女は一瞬だけ口を止めた。
「覚えておりましたの」
「そのくらいは」
少し離れたところから二人を見ていたサファイアが、静かに言った。
「我々だけで読んでいたときは、あの記号を一続きの年代として扱っていた」
キースが振り返る。
「間違っていたとまでは言えない」
「なぜ?」
「原物を見ていない。それに、私の読み方だって、人間側の祭祀記録との類似を前提にしている」
「それでも」
サファイアは笑った。
「人間側の古記録を読む者が必要だった理由の一つだ」
キースは何も言わなかった。
「だから君を呼んだ」
今度は、その言葉が少し違って聞こえた。
評価されたからではない。
実際に必要な仕事があった。
そして、自分はその仕事を少なくとも一つ果たせた。
「まだ何も解けていない」
キースは言った。
「そうだね」
サファイアはあっさり認める。
「むしろ厄介になった」
「そうだね」
「嬉しそうだな」
「君もだよ」
「私は嬉しくない」
「顔は?」
メルリルが言った。
「君までローゼンみたいなことを言うな!」
*
次に確認したのは、ラルソウム側に残された資料だった。
アムドアから持ち込まれたものではない。文字体系も、保存方法も違う。
一枚は古い樹皮。
一つは石片。
もう一つは、蔓へ結ばれた色違いの種子だった。
「これをどう比較するんだ」
キースが種子を見る。
「こちらは音として残っている」
サファイアが答えた。
「精霊に聞いてもらう」
「私たちには?」
「現代語へ移すことはできる」
「原文は?」
「原文という考え方自体が難しい」
キースは少し嫌そうな顔をした。
「学者へ一番言ってはいけない言葉だな」
「慣れてくださいませ」
ローゼンが飲み物を持って現れた。
「ラルソウムには、そういうものが多うございます」
「慣れたくない」
それでも、調べる。
樹皮には、
《地が欠ける》。
《返事のないところ》。
石片には、
《黒きところ》。
種子から再現された古い節には、
《水も風も名を返さぬ》。
現代語へ移せば似ている。
だが、同じものとは限らない。
「同じ現象とは言えない」
キースが言った。
「似ておりますのに?」
ローゼンが尋ねる。
「似ているからこそ、慎重にしないといけない」
メルリルも頷く。
「《暗い場所》と《黒い場所》が同じとは限りませんものね」
「そう。それに」
キースはアムドア側の翻訳を指した。
「こっちは明確に《穴》と読まれている」
次にラルソウム側。
「こっちは欠落、あるいは失われた場所に近い」
「翻訳が違う?」
「原語が違う」
「では、完全な別物?」
「それもまだ言えない」
メルリルが頬を引きつらせる。
「またですの」
「調査ってそういうものだ」
「何を訊いても、可能性が残りますわ!」
「最初から一つに絞れるなら、わざわざここまで来ない」
キースは三つの記録を順に並べた。
「むしろ重要なのは、こっちがアムドアの石刻を写しただけではなさそうだということだ」
「なぜ?」
「言葉が違いすぎる。構造も違う。それに、保存経路も違う」
「共通の原話は?」
「あるかもしれない」
「後世に同じ出来事を、それぞれ別の形で語った?」
「ある」
「全部別の現象?」
「ある」
「何も絞れておりませんわ!」
「だから最初なんだ!」
「面白くなってまいりましたわね」
「だから世界が壊れそうなんだって」
後ろからシビウの声がした。
二人が振り返る。
「まだいたのか」
「客を放っておいて、紙と石と種に夢中になってる奴らがいるからね」
「これは必要な調査だ」
「昼間は石に話しかけてたしね」
「それとこれは別だ!」
ローゼンがくすくす笑った。
「お二人とも、とても楽しそうでございます」
「ローゼンまで!」
「わたくしは研究しておりますの!」
「君は楽しんでるだろ」
「もちろんですわ」
「認めるのか!」
ローゼンは二人の間へ器を置いた。
「では、研究の途中で倒れないよう、お飲みください」
「ありがとう」
「いただきますわ」
二人とも、そこだけは素直だった。
*
しばらく調べたあと、キースは一枚の白紙を取り出した。
「整理する」
「何を?」
メルリルが隣へ来る。
「ここで確認しなければならないこと」
一つ目。
アムドアの大穴が生じる以前から、本当に《穴》についての記録が存在していたのか。
二つ目。
人間側の年代記と、精霊側に残る記録は、どこで食い違うのか。
三つ目。
文字ではなく、古い時代を実際に知る精霊の記憶は、どちらと一致するのか。
そこまで書いて、キースは筆を止めた。
「もう一つ」
「何ですの?」
「もっと古い伝承」
「創世?」
「そこまで遡る必要があるかは、まだ分からない」
「でも、精霊戦争以前の資料にすでに似た食い違いがあるなら」
「ああ」
キースは最後に短く書き加えた。
――古伝承。
「〈混沌〉や世界の成立について、似た構造の記録が残っていないか」
メルリルが紙を覗く。
「随分、大きくなりましたわね」
「何が?」
「最初はアムドアの穴だけだったのでしょう?」
キースは筆を止めた。
そうだった。
数百年前の《アムドアの穴》。
その一つを確かめるために、ラルソウムへ来た。
ところが、人間側の古記録だけではない。精霊側にも似た記録があり、しかも人間の歴史体系とはまったく異なる方法で残されている。
「まだ大きくなったと決めるのは早い」
「そう言いながら、顔が楽しそうですわ」
「また顔か!」
メルリルが笑った。
「明日のヴァギュイザールへの聞き取りで、少しは絞れるでしょう」
「本人の記憶を資料として扱う?」
「当然ですわ。ただし」
メルリルの表情が少し真面目になる。
「長く生きているからといって、最優先で正しいとは扱いません」
「そこは同意する」
少し離れたところで話を聞いていたサファイアが口を開いた。
「それでいい」
二人が振り返る。
「ヴァギュイザール自身も、そう望んでいる」
「自分の記憶を疑ってくれと?」
キースが尋ねる。
「正確には」
サファイアは少し考えた。
「自分が覚えていることを、そのまま世界の事実として扱うな、と」
キースは目を細める。
「変わった長だな」
「古いからね」
「古いほど、自分の記憶へ自信を持ちそうだが」
「逆なのかもしれない」
サファイアは穏やかに言った。
「長く生きれば、同じ出来事を違う形で語る者も増える」
「明日、分かる?」
「少なくとも」
サファイアは大樹の奥へ視線を向ける。
「君たちの問いは増えると思う」
「答えじゃなく?」
「残念ながら」
キースはため息を吐いた。
「最近、そればかりだ」
「悪いことですの?」
ローゼンが尋ねる。
キースは少し考えた。
「以前ほどは」
*
調査をいったん切り上げたあと、四人には宿が与えられた。
もっとも、それを宿と呼ぶべきなのか、キースにはよく分からない。
巨大な樹木の根元が緩やかに盛り上がり、そこへ自然に三つの部屋が作られている。入口には扉すらなく、厚い葉が幾重にも重なることで、外から内部を見えなくしていた。
ローゼンが葉へそっと手を触れる。
「お客様です。少しの間、こちらをお借りしてもよろしいでしょうか」
葉が、さわりと揺れた。
そのまま左右へ分かれる。
「今、返事をしたのか?」
キースが訊く。
「はい」
「何と?」
「どうぞ、と」
「私には、葉が揺れただけにしか見えなかった」
「そうでしたか」
ローゼンは不思議そうだった。
室内へ入ると、さらに驚いた。
床も壁も木でできているが、刃物で削った痕跡はどこにもない。根と幹が柔らかな曲線を描き、壁際には寝台のような隆起まで作られている。
キースが手で触れると、木はほんのりと温かかった。
「これも頼んで作ってもらったのか?」
「昔からございます」
「昔とは?」
「わたくしが幼い頃には、もう」
ローゼンは少し懐かしそうに辺りを見る。
「ここで、よくサファイア様に叱られました」
「何をしたんだ?」
「大樹の高い枝まで登りまして」
「君でも子どもの頃はそんなことをするのか」
「はい」
「意外だな」
「三度ほど落ちました」
「三度!?」
「サファイア様が受け止めてくださいました」
さらりと言う。
「全部?」
「はい」
「それで叱られたのか」
「『次は受け止められると思うな』と」
「受け止めたあとで言われても、説得力がないな」
ローゼンは笑った。
「でも、次の日にも登りました」
「全く効いていないじゃないか」
「また叱られました」
「今の君から想像できないな」
その会話を聞いていたシビウが口を挟んだ。
「父親みたいなもんなんだね」
ローゼンは少し考える。
「父親」
「違うかい?」
「精霊には、人間のような親子関係が必ずしもございませんので」
「なら、それに近いもの」
ローゼンは微笑んだ。
「そうかもしれません」
その笑顔に迷いはなかった。
「わたくしが物心を得た頃から、ずっと一緒にいてくださいました。言葉も、外のことも、サファイア様からたくさん教えていただきました」
「物心を得た頃から」
キースが繰り返す。
「では、サファイアはかなり長くこの里にいる?」
「はい」
「どれくらい?」
「どれくらい……」
ローゼンは少し考えた。
「ずっと、でございます」
「ずっと?」
「はい」
答えに曖昧さはない。
むしろ、質問の意味そのものがよく分からないようだった。
「わたくしが幼い頃には、もうおられました。わたくしより前から、ずっとラルソウムに」
「何年くらい前からかは?」
「精霊は、人間ほど年を数えませんので」
「そうか」
それなら不思議ではない。
キースは、そのときはそう思った。
*
夕刻になると、里の中央で小さな宴が開かれた。
ローゼンの帰還と、客人を迎えた祝いらしい。
人間の祭りとは違い、大きな料理卓が並ぶわけではない。
花が開く。
光が増える。
木々の間から淡い音が響く。
楽器を奏でている者は見当たらないのに、弦を弾くような細い音や、遥か遠くで鳴る笛のような響きが、夜へ向かう風に混じって流れていた。
キースは大樹の根元へ腰を下ろし、その様子を眺めていた。隣ではメルリルが、発光する花を観察している。
「取るなよ」
「取りませんわよ」
「今、手を伸ばしただろ」
「花弁の温度を確かめようとしただけですわ」
「それを取ると言うんじゃないのか?」
「触れるだけです!」
「先に訊けばいいだろう」
「花に?」
メルリルは口を止めた。
昼間の石を思い出したのだろう。
しばらく悩んだ末、彼女は花へ向かって尋ねた。
「少し触れてもよろしくて?」
花がふわりと光った。
「今のは許可ですの?」
メルリルは周囲を見回し、ローゼンを探した。
いない。
「分からないなら、やめた方がいいんじゃないか」
「……屈辱ですわ」
「何が?」
「宇宙一のわたくしが、花一輪の言葉も理解できませんのよ!」
「宇宙一の範囲に植物語まで入っているのか」
「今日から入れますわ!」
キースは笑った。
その少し先では、シビウが数人の精霊と酒らしきものを飲んでいる。人間の酒とは違うらしく、小さな透明な実へ穴を開け、その中に溜まった甘い汁を飲むのだという。
シビウは一口飲み、顔をしかめる。
「甘いね」
「嫌い?」
小柄な精霊が訊く。
「酒なら、もっと苦くていい」
「苦いのが好きなの?」
「好きっていうか……」
そこで言葉が止まった。
マーカスなら、何と答えただろう。
そんなことを考えたのかもしれない。
「……慣れてるんだよ」
シビウは、もう一口飲んだ。
キースは視線を外した。
「キース殿」
声をかけられた。
サファイアだった。
「少しいいかな」
「ああ」
二人は宴から少し離れた。
サファイアは大樹の根へ腰を下ろし、キースにも座るよう示した。
「旅の事情は、ローゼンから簡単に聞いた」
「マーカスのことも?」
「ああ」
「そうか」
「残念だった」
簡単な言葉だった。
だからこそ、キースにはありがたかった。
「シビウは?」
「大丈夫とは言えないだろうな」
「そうだな」
「だが、あの剣士は自分で歩こうとしている。ならば、我々が勝手に止めるものでもない」
キースはサファイアを見る。
「よく分かるんだな」
「長く生きているからね」
穏やかに笑った。
「生きていれば、見送ることも多くなる」
「精霊も死ぬのか?」
「もちろん」
「人間とは違う形で?」
「それは明日以降、話すことになるかもしれない」
サファイアは大樹を見上げた。
「この里には、失われた者についての古い考え方がある」
キースは興味を引かれた。
「記録に残っている?」
「記憶に残っている」
昼間とは違う種類の答えだった。
「人間は記すことで過去を残す。精霊は少し違う。色や匂い、音、夢。そうしたものへ記憶を預ける」
「それで正確さを保てる?」
「保てないこともある」
キースは少し考える。
「人間の記録だって、もちろん間違う」
「ああ」
「ただ、文字なら比較できる。写本間の差も、追記も、場合によっては成立順まで調べられる」
サファイアが少し笑った。
「今日の君のように?」
「ああ。だから検証という点では、文字記録の方が扱いやすいとは思う」
「それでも、正しいとは限らない」
「分かっている」
「君自身、古い記録が現在と食い違っているから、ここまで来た」
《アムドアの穴》。
読み直してもなお、現在より遥か以前に置かれた記録。
「……そうだな」
「精霊の記憶も同じだよ」
サファイアは静かに言った。
「長く残るから、正しいとは限らない」
「記憶が変わる?」
「変わることもある。抜けることもある」
そこでサファイアは、少しだけ間を置いた。
「二つの形で残ることすら」
キースは顔を上げる。
「二つ?」
「明日、ヴァギュイザールから聞くといい」
それ以上は説明しなかった。
「彼は古い」
「あなたより?」
何気なく訊いた。
「もちろん」
サファイアはすぐに答えた。
「では、あなたはどれくらいこの里に?」
今度は、ほんの僅かに間があった。
「随分長いよ」
穏やかな声だった。
不自然ではない。
「随分?」
「数えていない」
「精霊は年を数えないと、ローゼンも言っていた」
「彼女らしい」
サファイアは笑った。
それだけで会話は終わった。
それなのにキースの頭には、なぜか《随分長い》という曖昧な言葉だけが残った。
*
宴が続く中、キースは少し歩いた。
大樹の裏側へ回ると、先ほどまでの光と笑い声は幹の向こうへ遠ざかり、里の夜は急に深くなる。
そこには、何人かの古い精霊がいた。
見た目だけで古いと判断したわけではない。身体の輪郭が、他の精霊より薄い。樹皮のような肌を持つ者、髪の代わりに白い苔を生やした者、声を発さず枝の揺れだけで会話する者。
キースはその中に、人間の老人に近い姿をした精霊を見つけた。
「少しいいだろうか」
「人の魔導士か」
老人の精霊が笑う。
「珍しい客じゃ」
「キースという」
「知っておるよ。ローゼンが連れてきた」
「彼女を昔から知っている?」
「昔から?」
精霊は目を細めた。
「さて。ローゼンは昔からローゼンじゃ」
答えになっているような、なっていないような返事だった。
「幼い頃も?」
「白い髪の小さな子が、あちらこちらを走り回っておった」
「サファイアに叱られながら?」
「そうそう」
老人は笑った。
「よく大樹へ登っておったな」
ローゼンの話と一致している。
「サファイアも、その頃にはいた?」
「もちろん」
「では、あなたが彼と初めて会ったのは?」
老人の笑みが止まった。
「初めて?」
「ああ」
精霊は考えた。
長い沈黙ではない。
ごく当たり前にあるはずの記憶を探そうとしているように見えた。
「……さて」
「覚えていない?」
「随分昔だからの」
「ローゼンが生まれる前?」
「そうじゃったと思う」
「どれくらい前?」
「どれくらい……」
老人は眉を寄せた。
「妙なことを訊くのう」
「気になっただけだ」
「サファイアは昔からおるよ」
「その《昔から》が知りたい」
「昔からは、昔からじゃ」
キースはそれ以上訊かなかった。
精霊は、人間ほど年を数えない。
それだけの話なのだろう。
そう思い、念のため別の精霊へ同じことを尋ねた。
「サファイア? 知っているとも」
「最初に会ったのは?」
「最初……?」
「覚えていない?」
「いや」
精霊は困ったように笑った。
「初めからおったような気がする」
三人目。
「サファイアは古い友だ」
「いつ知り合った?」
「いつだったかな」
四人目。
「最初?」
「そんなもの、覚えておらぬ」
五人目。
「サファイアの来た日?」
「来た日などあったか?」
キースは黙った。
誰もサファイアを知らないとは言わない。
誰も彼を怪しいとも思っていない。
全員が当たり前のように彼を知っている。
ローゼンの幼い頃。
里の祭り。
外部との交渉。
古い争いの仲裁。
いくらでも思い出はある。
それなのに、最初だけがない。
「何してますの?」
背後から声がして、キースは振り返った。
メルリルだった。
「驚かすな」
「あなたが怪しいことをしておりますからでしょう」
「誰が怪しい」
「古い精霊を捕まえて、端から質問していたでしょう」
「見ていたのか」
「研究者は観察が仕事ですの」
「聞きたいことがあっただけだ」
「何を?」
キースは少し迷った。
「サファイアについて」
「あの青い方?」
「ああ。いつからこの里にいるのかと思って」
「分かりましたの?」
「分からない」
「では、調べればよろしいでしょう」
「何を?」
「記録」
「ここには紙の記録が少ない」
「今日、紙以外も全部記録だと見たばかりでしょう?」
キースは口を止めた。
「……それはそうだ」
「しかも、古記録の整理はサファイア自身が手伝っているとおっしゃった」
「そこなんだ」
「何ですの?」
「本人に、自分がいつからいるのか調べるから記録を見せてくれと言うのも妙だろう」
「別に?」
「君は気にしないのか」
「研究ですもの」
「便利な言葉だな」
「何ですの、その顔」
「いや」
「まさか、何か疑っておりますの?」
「疑ってはいない」
キースは即座に答えた。
本当にそうだった。
サファイアに悪意を感じたわけではない。
むしろ、信頼できる人物に思える。
ローゼンも慕っている。
里の者たちからも、深く信頼されている。
「ただ」
「ただ?」
「誰も、最初を覚えていない」
メルリルが眉を寄せた。
「最初?」
「サファイアと初めて会った時期」
「精霊は長命ですもの。忘れたのでは?」
「たぶん」
「なら、現時点ではそれまでですわね」
「ああ」
メルリルはあっさりしたものだった。
キースも同意した。
気になる。
それだけ。
証拠ではない。
「キース様?」
今度はローゼンの声がした。
二人が振り返ると、彼女が歩いてくる。
「こちらにおられたのですね」
「ああ」
「サファイア様がお探しでした。明日の予定をお話ししたいと」
「今行く」
キースは歩き出しかけて、ふと思った。
「ローゼン」
「はい」
「一つ訊いていいか」
「何でしょう」
「サファイアと初めて会ったときのことを覚えている?」
ローゼンは目を瞬いた。
「初めて?」
「ああ」
彼女は少し考えた。
「……覚えておりません」
キースの足が止まる。
「君も?」
「はい」
「では、いつから知っている?」
ローゼンは不思議そうに微笑んだ。
「ずっとでございます」
「ずっと?」
「わたくしが物心を得た頃には、サファイア様がおられました。泣けば慰めてくださいましたし、悪戯をすれば叱られました。外の世界のお話も、たくさん聞かせてくださいました」
「最初の日は?」
「覚えておりません」
「気にならない?」
「なぜでしょう」
問い返された。
その表情には、一片の疑念もない。
「サファイア様は、サファイア様ですから」
キースは何も言えなかった。
当たり前の答えだった。
幼い頃から共にいた家族と、最初に会った日など、人間でも覚えていないことは珍しくない。親と出会った日を覚えている子どもが、どれほどいるだろう。
ローゼンにとってサファイアが父親に近い存在なら、むしろ自然だ。
「そうだな」
キースは頷いた。
「変なことを訊いた」
「いいえ」
ローゼンは笑った。
「キース様は、何でもお知りになりたいのですね」
「悪い癖か?」
「わたくしは、良いところだと思います」
「宇宙一は面倒だと言っていたぞ」
「わたくしはそんなこと言っておりませんわ!」
すぐ横からメルリルが抗議した。
「君の顔が言っている」
「顔を勝手に解釈なさらないでくださる?」
三人は宴へ戻った。
遠くではサファイアが、幾人かの精霊と穏やかに話している。
ローゼンが彼を見つけると、小さく手を振った。
サファイアも笑って手を上げる。
どこにも不自然なものはない。
ただ、キースは歩きながら、先ほどの精霊たちの答えを頭の中へ並べていた。
昔から。
初めから。
ずっと。
言葉自体は違う。
だが、どれも《最初を示せない》という点だけは一致している。
具体的な日付がないこと自体は、不思議ではない。季節を覚えていないこともある。精霊が年数を数えないなら、なおさらだ。
それでも、誰一人として《初めて会った場面》そのものを思い出せない。
そこだけが、少し気になった。
だからといって、何かがおかしいとはまだ言えない。
今日の石刻と同じだった。
気になることと、証明されたことは別だ。
*
その夜、ラルソウムの花は星より先に眠り始めた。
昼のあいだ淡く輝いていた花々が、一輪ずつ静かに光を閉じていく。大樹の葉も風を鎮め、谷はゆっくりと夜へ沈んだ。
代わりに、枝の高いところで青い光が幾つも灯る。
精霊灯というものらしい。
キースは借りた部屋の入口へ座り、大樹を見上げていた。
ローゼンはサファイアのもとへ行っている。久しぶりの帰郷だ。話したいことも多いのだろう。
シビウはすでに眠っている。マーカスの斧は、今日も寝床の横に置かれていた。
メルリルだけは、まだ外で発光花と格闘しているらしい。ときおり遠くから、
「なぜ返事をなさらないの!」
という声が聞こえてくる。
キースは少し笑った。
静かな夜だった。
不思議な場所だ。
人間の神殿より、よほど神聖に見える。
それなのに、神を祀るために造られたものはほとんどない。
木がいる。
石がいる。
水がいる。
花がいる。
精霊たちは、それらへ命令しない。
話しかける。
頼む。
断られれば、別の方法を探す。
キースは自分の右手を見る。
この手には、《世界一》と呼ばれるほどの魔力がある。
石を動かしたければ、力ずくで動かせる。
木を折りたければ、折れる。
水を沸かし、風を起こし、火を放てる。
けれど、昼間の小さな石はキースの願いには応じず、シビウの願いには応じた。
強さとは何だ。
魔導とは何だ。
世界へ力を及ぼせることと、世界がこちらの言葉を聞いてくれることは、同じではないのかもしれない。
ただ、今日のキースには、それとは別に一つだけ分かったことがあった。
ラルソウムへ来るまで、自分はずっと、外の世界で役に立てる自信がなかった。
実際、旅の仕方も知らなかった。
怪物との戦いでは迷った。
竜の前では、自分が持つ力をどう使えばよいのか分からなかった。
《世界一》。
その名が、自分には不釣り合いなのではないかと何度も思った。
けれど、古い記録を前にしたとき、自分にはできることがあった。
人が《古い》と呼んだものを、そのまま古いとは認めない。
数字を疑う。
言葉を疑う。
記録された順番を確かめる。
何が分かっていて、何がまだ推定に過ぎないのかを分ける。
それは、竜を倒すような力ではない。
旅の道を見つける力でもない。
それでも、ラルソウムが自分を呼んだ理由の一つにはなった。
キースは少しだけ息を吐いた。
明日は、文字ではない記録を見る。
実際に精霊戦争を生きたヴァギュイザールの記憶。
人間の年代記。
精霊の古記録。
そして、一人の古い精霊が覚えている過去。
それらを並べる。
今日の石刻と同じように。
何が同じで、何が違うのか。
決めるのは、そのあとだ。
大樹の向こうから、ローゼンの笑い声が聞こえた。
サファイアも何か答えている。
家族。
その言葉でよいのだろう。
キースはそう思った。
それでも頭の片隅には、まだ一つの問いが残っている。
サファイアは、いつからラルソウムにいるのか。
答えは簡単だった。
皆が言う。
昔から。
ずっと。
初めから。
だから、その夜のキースは、それ以上の答えを作らなかった。
分からないものを、分かったことにはしない。
翌日、《紅獅子の君》が語る古い戦争の記憶によって、その慎重さが今まで以上に必要になるとも知らずに。




