第十四章 紅獅子の君
翌朝、ラルソウムの大樹は、まだ枝先に夜の名残を留めていた。
夜半まで淡い青光を宿していた花々は、朝露を抱いたまま静かに輝きを閉じている。代わって高い梢の隙間から細い陽光が差し込み、大樹の根のあいだを流れる澄んだ水へ、揺れる光の模様を落としていた。
キースたちは、ローゼンとサファイアに導かれ、大樹のさらに奥へ向かっていた。
前日は、紙や石、樹皮に残された古い記録を調べた。今日はその続きとして、文字ではない資料――古い時代を実際に生きた者の記憶を確かめる。
ヴァギュイザール本人から証言を聞き、人間側の年代記とラルソウム側の記録へ照らし合わせる。それもまた、キースがここへ呼ばれた理由の一つだった。
「長様のお住まいは、こちらでございます」
先頭を歩くローゼンの声には、いつもより僅かな緊張が混じっている。
「昨日から気になっていたんだが」
キースは歩きながら尋ねた。
「《紅獅子の君》というのは、やはり異名なのか?」
「はい。ヴァギュイザール様ご自身のお名前とは別に、後世に《精霊戦争》と呼ばれるようになった戦の頃より、《紅獅子の君》と称されるようになったと伺っております」
「後世に……」
キースは、その一語を確かめるように繰り返した。
精霊戦争。
知識としては、当然知っている。
メミス神殿の書庫にも、その戦について記した文献はいくつか残されていた。ただし、その大半は戦から遥か後の時代に人間が編纂した伝承集である。古いものほど断片的で、新しいものほど物語として整っている。そして細部へ入るほど、互いに食い違う。
昨夜、キースとメルリルはラルソウム側に残る資料もいくつか確認していた。
大筋は、人間側の伝承と似ている。
《姫》と呼ばれた存在。
精霊たちが《王》と呼んだ存在。
二者の争いをきっかけに、多くの精霊が二つの陣営へ分かれ、やがて世界各地へ戦火が広がった。
その後、《姫》の側へ四人の強大な存在が集う。
後世、《四貴精霊》と総称される者たち。
《紅獅子の君》。
《蒼魔の君》。
《白光の君》。
《黒無相の君》。
彼ら四者が加わった《姫》の陣営は、ついに《王》を打ち破り、長い戦を終わらせた。
少なくとも、後世の歴史はそう整理している。
そして、その戦が終わった頃を境として、古い神話の世界は急速に姿を消していく。
現在の歴史学では、あまりに古く正確な年代を定められないその時代を、《黄金の時代》と呼ぶ。
精霊や神格、巨人、現在では存在分類すら困難なものたちが、伝承の向こうではなく現実の地上を歩いていたとされる時代。
その後に続くのが、《白銀の時代》だ。古い精霊文明の残響を受け継いだエルフたちが、世界各地に高度な文明を築いたとされる長い時代。
さらにその後、人間の国家が増え、現在へ繋がる文明が広がっていく。後世の歴史家が《黄銅の時代》と呼ぶ、今へ続く世界だ。
黄金。
白銀。
黄銅。
三つに並べれば、時代の移り変わりは分かりやすい。
だが、その境界が本当は何だったのかという話になると、途端に記録は曖昧になる。
《精霊戦争》が終わったから黄金の時代が終わったのか。黄金の時代が終わったから、精霊戦争も終わったのか。あるいは、二つはそもそも別の出来事だったのか。
そこまで説明している記録は、ほとんどなかった。
説明されていないのは、それだけではない。
なぜ、《四貴精霊》と呼ばれる四者がまとめて《精霊》とされたのか。
そもそも《姫》と《王》自身が、本当に精霊だったのか。
そして《王》は敗北して力を奪われたとする記録が多い一方で、昨夜見つけた古い断片の中には、《王、自ら冠を置く》と読める一節まであった。
後世の伝承は、出来事へ分かりやすい名前を与える。
けれど、その名前が当時の出来事をどれほど正しく切り取っているのかは、また別の問題だ。
だから今日、当事者へ聞く。
文字の記録と記憶。その二つが、どこまで一致するのかを確かめるために。
「子どもの頃、絵物語を読んだことがありますわ」
隣を歩くメルリルが口を挟んだ。
「まあ、わたくしは《蒼魔の君》の方がお好みでしたけれど」
「君もか」
キースは思わず振り返る。
「あら。あなたも?」
「魔導士なら一度くらい憧れるだろう。《蒼魔の君》ソーサイアは、四貴精霊の中でも魔導の理を極めた存在として――」
「ちょっと待ちな」
シビウが二人の会話へ割って入った。
「また始める気かい?」
「何がだ」
「魔導士二人で昔の英雄について語り始めたら、長くなるだろ」
「予備知識の確認だ」
「趣味のお話でしょう?」
ローゼンが振り返って微笑んだ。
キースは反論しようとしたものの、完全には否定できなかった。
幼い頃。神官長になるという意味も、イースを持って生まれたことの重さも、今ほど現実味を帯びていなかった時代。
冒険譚と神話を同じ棚から引っ張り出し、時間を忘れて読み耽っていた頃、《蒼魔の君》は確かに憧れの存在だった。
あらゆる魔導を知り、神々にさえ比肩する術を操ったと伝えられる青き魔導の君。
本当に存在したのなら、一度会ってみたかった。
そして今、その《四貴精霊》の一人として名を残す存在が、これから自分たちの目の前に現れる。
「妙なものだな」
キースは呟いた。
「何がですの?」
「本の中にいた人物へ、これから会いに行く」
メルリルは少し考えたあと、肩をすくめた。
「そういうものではなくて? 生きているなら、会いに行けるでしょう」
「君は夢がないな」
「現物が目の前におりますのに、絵本へ夢を見てどうしますの」
言い返せなかった。
旅へ出てから、本で知っていたものが現実ではまったく違う顔を見せたのは、一度や二度ではない。
今度は、伝説そのものだった。
*
大樹の根が幾重にも重なった奥に、広い空洞があった。
建物ではない。
巨大な根の一部が自然に持ち上がり、その下へ大広間のような空間を作っている。天井からは細い蔓が垂れ、その先には透明な実が幾つも実っていた。
実の内側には金色の光が満ち、朝だというのに燭台のような柔らかな明かりを広間へ落としている。
床は土だった。それでも長いあいだ多くの者が行き来してきたのだろう。よく踏み固められ、不思議なほど平らに均されている。
その最奥に、一人の精霊が座していた。
キースは思わず足を止めた。
老人だった。
少なくとも、人間の目にはそう見える。
痩せた身体を深紅の衣で包み、長い髪も髭も、枯れた草を思わせる灰白色をしている。皮膚には古木の幹のような深い皺が刻まれ、閉じた瞼の下にも幾筋もの線が走っていた。
しかし、その姿に弱々しさはない。
ただ座っているだけで、周囲の空気が違う。
マーカスのような肉体そのものの圧力ではない。メルリルのように、隠しきれない魔力が溢れているわけでもない。
そこに、長い年月そのものが座っている。
キースには、そう感じられた。
黄金の時代。
白銀の時代。
黄銅の時代。
歴史書の頁なら、三行で済む。
目の前の老人は、その最初の時代から今までを生きているのかもしれない。
そう考えた途端、伝説上の英雄を見るのとは違う緊張が背筋を走った。
「長様」
ローゼンが膝をついた。
「ローゼン、ただいま戻りました」
老人の目が、ゆっくりと開いた。
紅い。
老い衰えた外見とは対照的に、その瞳だけは今なお燃え続ける石炭のような鮮やかな色を保っていた。
「よく戻ったな、ローゼン」
声もまた、老人の姿から想像するより深く、広間の奥までよく通った。
「道中については、サファイアより聞いておる。まずは無事の帰還を喜ばせてもらおう」
「ありがとうございます」
ローゼンは深く頭を下げた。
ヴァギュイザールの視線が、やがてキースたちへ移る。
「そなたが、メミスのキースか」
「はい」
キースも礼をした。
「お招きいただき、感謝します」
「招いたのはこちらだ。礼を言うのは、むしろわしの方であろう。世界一の魔導士を神殿から引っ張り出すなど、ローゼンには少々難しい仕事をさせたと思っておったが」
「その呼び名は――」
「好きではないのであろう?」
先に言われ、キースは目を瞬いた。
老人の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「ローゼンの報告にあった」
「そんなことまで報告したのか」
キースが彼女を見る。
「必要かと存じまして」
「必要ないだろう」
「大切なことでございます」
ヴァギュイザールが低く笑った。
「よい。名や異名というものは、本人が望むよりも長く残るものだ。わしとて、いつまでも《紅獅子》などと呼ばれるつもりはなかったのだがな」
老人は痩せた自分の腕を持ち上げて見せる。
「今では、この通りだ」
メルリルが遠慮なく眺めた。
「たしかに獅子というより、古木ですわね」
「メルリル!」
キースが思わず咎める。
サファイアも眉を寄せた。
ところが当のヴァギュイザールは怒るどころか、腹の底から豪快に笑った。
「ははは。古木か。昨日サファイアから聞いた通り、随分と威勢のよい娘だ」
「宇宙一の魔導士、メルリルですもの」
「そうであったな。世界一と宇宙一が揃うとは、わしも長生きしてみるものだ」
「比較しないでください」
キースが即座に言った。
「比較されて困るのは、あなたの方ではなくて?」
「なぜそうなる!」
「宇宙は世界より広いからですわ」
「基準が雑すぎる!」
シビウがため息を吐く。
「長様の前でもこれかい」
サファイアも似たような顔をしている。
ローゼンだけは楽しそうだった。
しばらく笑っていたヴァギュイザールは、やがて表情を改めた。
「さて」
老人の視線が、キースの手元へ向いた。
昨夜まとめた帳面には、アムドアの石刻とラルソウム側の古記録、その相違点がすでに簡単に書き出してある。
「そなたらは、昔話を聞きに来たのではなかったな」
キースも表情を変えた。
「はい」
「ラルソウム側へ残る記録と、人間側の記録を照らし合わせる。そのために、古い時代を知る者の話も聞きたい」
「その通りです」
「ならば」
ヴァギュイザールは僅かに笑う。
「わしの話も、古い本を一冊読むつもりで聞くがよい」
「あなた自身の記憶を?」
「そうだ」
「事実としてではなく?」
老人の紅い瞳が細くなった。
「事実であるつもりで語る。ただし、それが世界そのものの記憶と同じである保証まではできぬ」
キースは黙った。
昨日、サファイアも同じことを言っていた。
長く残るから、正しいとは限らない。
「分かりました」
キースは帳面を開く。
「では、言葉そのものより、順序と関係を確認しながら聞かせてください」
ヴァギュイザールが僅かに眉を上げた。
「順序?」
「誰が先に何をしたのか。それによって何が起きたのか。後世の呼び名より、そちらの方を知りたい」
「なるほど」
老人は満足そうに頷いた。
「遠慮するな」
「宇宙一のわたくしも質問しますわ」
「そなたは遠慮を覚えた方がよいかもしれぬな」
「長様まで!」
再び小さな笑いが起きる。
やがてキースが口を開いた。
「まず、《精霊戦争》について」
広間の空気が、静かに変わった。
*
「遥か昔。今ある国々がまだ生まれず、人間が神々の名を今ほど多く知らなかった時代のことだ」
ヴァギュイザールは、ゆっくりと語り始めた。
「後世に《精霊戦争》と呼ばれる、大きな戦があった」
「後世に、ですね」
「ああ」
「当時の呼称ではない?」
「ない」
キースは帳面へ短く記す。
――《精霊戦争》は後世名。
「戦の中心に精霊が多くいた。それゆえ、後の者にはそう見えたのであろう」
「では、精霊だけの戦争ではなかった?」
「少なくとも、そう単純なものではない」
ヴァギュイザールは答えた。
キースは筆を止めない。
「神々は?」
老人の紅い瞳が、僅かに動いた。
「何だ」
「人間側の伝承を読む限り、《精霊戦争》はほとんど精霊同士の戦いとして記されています。神格の介入については、地方伝承に断片がある程度です」
「ならば、ずいぶん綺麗になったものだ」
「参加していた?」
「いた」
返答は短かった。
今度はメルリルまで筆を止める。
「《姫》側に?」
「いた」
「《王》側にも?」
「いた」
「では、神々も二つの陣営へ?」
ヴァギュイザールが笑った。
楽しそうな笑みではない。
あまりに見当違いな問いをされた者の笑いだった。
「そもそも」
老人はキースを見る。
「お前たちは、あれを一つの戦争だと思っているのか?」
キースの筆が止まった。
「違う?」
「《姫》と《王》の戦はあった。わしも、そこで戦った」
「ああ」
「だが、それだけだ」
「それだけ?」
「遠い土地では、別の神々が争っておった。巨人どもが国を潰しておるところもあった。空の彼方で何者かが争っているのを、何年も夜ごと見上げたこともある」
「空の彼方……」
「わしが名も知らぬ連中だ。《姫》にも《王》にも属しておらぬ」
キースは黙って聞いた。
「昨日まで共に戦った者が、別の土地へ行けば敵になることもあった。こちらの戦と、あちらの戦では理由が違う。利害も違う。古い恨みで争う者もいれば、土地を巡って争う者もいた。何をしているのか、わしには最後まで理解できなかった者もいた」
「……それを」
メルリルがゆっくり言った。
「後世の人間が、まとめて《精霊戦争》と呼んだ?」
「そうなのであろうな」
「では」
キースは頭の中で、それまで覚えてきた歴史像を組み替える。
「《姫》と《王》の戦いは、《精霊戦争》全体ではない」
「わしの知る戦は、それだ」
「主要な戦線の一つ」
「主要であったかどうかは知らぬ」
ヴァギュイザールは首を振った。
「わしには、他のすべての戦を見る目などなかった」
その一言に、キースは少しだけ感心した。
自分が中心にいた戦争を、世界の中心だったとは言わない。
「今となっては、《姫》と《王》の戦がもっとも多く記録へ残ったのであろう。それだけかもしれぬ」
キースは帳面へ書く。
――《精霊戦争》=単一戦争とは限らない。
少し考えて、その下へ付け加えた。
――ヴァギュイザール証言範囲:《姫》対《王》戦線中心。他戦域は断片的認識。
メルリルが横から覗く。
「その書き方は良いですわね」
「何が?」
「この方が世界中の戦争を全部知っていたみたいに書かないところ」
「本人が知らないと言っただろ」
「たまには褒めておりますのに」
「たまにだから分かりにくいんだ」
ヴァギュイザールがまた小さく笑った。
「そなたらは、いつもそうなのか」
「残念ながら」
シビウが答えた。
「誰が残念だ!」
*
「では」
笑いが収まるのを待って、キースは問いを戻した。
「《姫》と《王》について」
「うむ」
「人間側の資料では、《姫》は精霊の母、最初の精霊、神の娘、世界樹の化身など、記述が一定しません」
「そのどれであったかと問われても、わしには答えられぬ」
「あなた自身は、何だと思っていた?」
「《姫》だ」
即答だった。
メルリルが眉を上げる。
「分類ではなく?」
「当時は、それで足りていた」
ヴァギュイザールは少し懐かしそうに目を細めた。
「《姫》は、我らにとって《姫》であった。それ以上の名を必要としなかった」
「精霊では?」
「そうだったのかもしれぬ」
「かもしれない?」
「あれほど近くにいながら、存在の分類など考えたこともなかった」
キースは帳面へ書きかけた、
――《姫》=精霊。
という文字を止めた。
一本、線を引く。
代わりに、
――分類不明。当時の本人認識は《姫》。
と記す。
「《王》も同じだ」
ヴァギュイザールは続けた。
「精霊たちは、あの者を《王》と呼んでいた。力ある者であり、多くの精霊を従えていた」
「精霊だったのですか?」
キースが尋ねる。
ヴァギュイザールはすぐには答えなかった。
思い出せないのではない。
その問いそのものを、長い年月の向こうへ照らし合わせているような沈黙だった。
「……分からぬ」
「《王》も?」
「ああ」
「人間側では《精霊王》と書く文献があります」
「後世なら、そう呼びたくなるであろう」
「あなたは?」
「《王》は精霊を率いた。精霊の力を知り、精霊たちも《王》を同族のように扱うことが多かった」
そこで老人は、小さく首を振った。
「だが、それがそのままあの者の存在そのものを表していたのかと問われれば、分からぬ」
キースは記す。
――《王》=精霊、と断定不可。
昨日の資料と似ていた。
後世の名前は明確だ。
だが、当時を知る者へ聞くほど、分類がぼやけていく。
「二人は、何を巡って争ったのです?」
メルリルが尋ねた。
「世界をどう保つか」
ヴァギュイザールは答える。
「少なくとも、わしはそう覚えている」
キースは、その言い回しも記した。
――本人の解釈。
事実と、その事実を当人がどう理解していたか。
それもまた、同じではない。
「《王》は、一つの秩序へ多くを集めようとした。《姫》は、それを良しとはしなかった。どちらが最初に刃を向けたのかなど、今となっては問うても仕方がない。争いは広がり、多くの精霊が二つに分かれた」
語る老人の声が、少しずつ遠くなる。
今この広間ではなく、遥かな過去の戦場を見ながら話しているのかもしれない。
「森が燃えた。川が逆へ流れた。山の形さえ変わった。精霊が精霊を裂き、水が水を押し返し、火が火を喰らった。人間たちも巻き込まれ、多くが住処を失った」
少し間を置き、ヴァギュイザールは続けた。
「だが、それでもわしらの戦場だけを見ればの話だ。遠くでは、海が何年も陸へ戻らなかったと聞いた。太陽が昇らなくなった土地もあった。神と呼ばれる者が神を殺したという話もあった」
「……本当に?」
メルリルが問う。
「知らぬ」
「今、話したでしょう!」
「聞いたと言った」
老人は平然としている。
「見てはおらぬ」
メルリルが口を閉じた。
キースは思わず頷く。
「それでいい」
「何がですの」
「伝聞は伝聞として分ける」
「分かっておりますわよ!」
「今、一瞬信じただろ」
「太陽が昇らなくなったなんて聞けば気になるでしょう!」
ローゼンが口元を押さえて笑っている。
ヴァギュイザールも少し笑ったあと、再び遠い目をした。
「今のお前たちは、あの頃を《黄金の時代》と呼ぶのであったな」
「はい」
「妙な名だ」
「そうですか?」
「生きておった者からすれば、黄金などと呼びたくなるような時代ではなかった」
キースは少しだけ筆を止めた。
「なぜ?」
「強いものが、そのまま世界へ力を振るえた」
ヴァギュイザールは大樹の根へ目を向ける。
「神も。精霊も。名を知らぬ何かもな」
深い皺の刻まれた指が、ゆっくりと土を撫でた。
「美しいものも多かった。今では見ることのできぬものも、いくらでもあった」
「なら――」
「だが、それを美しいと思わぬ者にまで、世界は美しかったわけではない」
老人はキースの言葉を遮るように続けた。
「山の神が怒れば、山の下に住む者は死ぬ。海が気まぐれを起こせば、岸に暮らす者は家を失う。精霊同士が喧嘩をすれば、森一つがなくなることもあった」
現在の人間が神話として読む出来事も、その中で生きる者にとっては、ただの災害だった。
「黄金というのは、後から眺める者がつけた名だ」
ヴァギュイザールは静かに言った。
「遠いものほど、美しく見える」
*
「四貴精霊についても確認したい」
キースは問いを進めた。
「人間側でも、ラルソウム側の後世資料でも、四人が《姫》側へ加わったことで戦況が変わったとされている」
「大筋では、その通りだ」
「四人は最初から仲間だった?」
「まさか」
ヴァギュイザールが笑った。
「やがて、わしと同じように《姫》の側へ三人の者が集まった」
老人は右手を開く。
「わし、《紅獅子の君》ヴァギュイザール」
一本。
「魔導を極め、《王》側の術式をことごとく破った《蒼魔の君》ソーサイア」
二本。
キースの目が僅かに輝く。
「世界の光を集め、傷ついた者を癒やし、時には一軍を光の中へ閉じ込めた《白光の君》コスモス」
三本。
「形を持たず、形なきものを操った《黒無相の君》ケーオス」
四本。
広間が静まり返った。
最後の二つの名には、キースも聞き覚えがある。
人間の神学書では、この二者を単なる古代精霊として扱わない文献も多い。
秩序。
混沌。
ある地方では神格として祀られ、別の神学書では世界を成り立たせる原理に近いものとして論じられている。
それを、後世の精霊戦争伝承はヴァギュイザールやソーサイアと同じ箱へ入れた。
「その四人が」
キースは帳面から顔を上げる。
「《四貴精霊》?」
「そう呼ばれるようになったらしいな」
ヴァギュイザールは、自分にはあまり関係のない呼び名のように答えた。
「当時の我らが、自分たちをそう名乗っていたわけではない」
「では」
キースは少し考えた。
「四貴精霊というからには、あなたたち四人が《姫》側でもっとも強かった……というわけでもない?」
「誰がそんなことを言った」
返された言葉があまりに早く、キースは一瞬黙った。
「いや」
帳面へ視線を落とす。
「四貴精霊だろう?」
「それは、お前たちが後からそう呼んだ名だ」
「でも、四人が戦況を変えた」
「ああ」
「《姫》側の中心だった」
「そうであった時期は長い」
「なら――」
「それと、四人がもっとも強かったことに何の関係がある?」
キースは口を閉じた。
メルリルが横で小さく吹き出す。
「笑うな」
「あなた、完全に絵物語へ引っ張られておりますわ」
「君だって蒼魔の君が好きだっただろ!」
「わたくしは強さランキングまでは信じておりませんもの」
「そういう話じゃない!」
ヴァギュイザールが肩を震わせる。
「ははは。よい。後の者がそう考えるのも分からぬではない」
「実際には?」
「わしより強い者など、いくらでもおった」
キースが、ぴたりと止まった。
メルリルも笑うのをやめる。
「……あなたより?」
「ああ」
「神格を含めて、という意味ですか?」
「何を神格と数えるかにもよるがな」
「精霊だけなら?」
「それでも、わしより力の強い者はおった」
「では」
キースは眉を寄せた。
「なぜ、あなたが四貴精霊に数えられた?」
「知らん」
「知らない?」
「後からつけられた名だと言ったであろう」
「でも何か理由は――」
ヴァギュイザールは顎髭を撫で、しばらく考えた。
「最後まで《姫》のそばにおったからではないか」
「それだけ?」
「それだけ、とは何だ」
「いや……」
「あるいは」
老人は少し笑った。
「最後まで死ななかったからかもしれぬな」
キースは何も言えなかった。
冗談めいた口調だった。
だが、その紅い瞳は笑っていない。
神々が戦い、巨人が国を潰し、山も川も形を変え、ケーオスやコスモスのような、現代では存在分類すら定まらないものが戦場へ立つ。
その時代を、一人の精霊が最後まで生き抜いた。
「……わしは精霊だ」
ヴァギュイザールが、不意に言った。
キースが顔を上げる。
「それは間違いない?」
「ああ」
老人は自分の胸を指した。
「少なくとも、それくらいは自分で分かる」
「ソーサイアは?」
「わしは精霊だと思っておった」
「思っていた?」
「あれは魔導ばかり弄っておったからな。何をどうして、どこまで自分を変えていたかなど知らぬ」
「では、コスモスとケーオスは?」
ヴァギュイザールが、今度こそ困った顔をした。
「お前たちは、今あれらを精霊に入れるのか?」
逆に聞かれた。
「神学的には意見が割れています」
「なら、わしに聞くな」
「あなたは一緒に戦ったんだろう!」
「一緒に戦えば、相手の存在分類まで分かるものなのか?」
正論だった。
キースは詰まる。
「あれはコスモスで、あれはケーオスだった」
ヴァギュイザールは当たり前のように言う。
「それで困らなかった」
「……当時は」
「ああ」
「精霊か、神か、原理存在かなんて分類しなかった?」
「少なくとも、戦場でそんなことを気にしておる暇はなかった」
メルリルが口元へ指を当てた。
「面白いですわね」
「何が?」
「後世の人間は、《精霊戦争》という名前を付けた」
一本。
「《四貴精霊》という名前も付けた」
二本。
「その結果、戦争も四人も《精霊》という分類の中へ入った」
キースも、同じところへ辿り着いていた。
「四人が精霊だったから《四貴精霊》になったんじゃない」
「ええ」
「《四貴精霊》という名前でまとめられたから、後世から見ると四人とも精霊に見える」
ヴァギュイザールは答えなかった。
肯定できるほど、彼自身が後世の歴史編纂を知っているわけではないのだろう。
キースは帳面へ記した。
――《四貴精霊》、後世名。
――四者同一分類とは断定不能。
――ヴァギュイザール本人は精霊と明言。
その三行だけを書く。
誰かの分類が間違っている、とまでは記さなかった。
「ソーサイアとは何度殴り合ったか覚えておらぬ。あれは口も態度も悪かった」
「なんとなく気が合いそうですわ」
メルリルが言う。
「君はそこで共感するのか」
「何か問題でも?」
「コスモスは、我らの中ではもっとも争いを嫌った。ケーオスは……」
ヴァギュイザールは一瞬、言葉を探した。
「最後まで、何を考えているのか分からぬ者だった」
「それでも《姫》側についた」
「そうだ」
老人の紅い瞳が細くなる。
「四人が揃ってから、わしらの戦場の流れは変わった」
わしらの戦場。
キースは、その言い方を聞き逃さなかった。
世界の戦況ではない。
《姫》と《王》の戦線。
ヴァギュイザールが実際に見た範囲だけを、老人は一貫して語っている。
*
後世に《精霊戦争》と呼ばれる時代の後半。
《姫》と《王》の戦線では、《王》の軍勢が次第に押し返されていった。
ソーサイアが術式を崩し、コスモスが光によって戦場を分断し、ケーオスが《王》側の精霊たちの作った構造そのものを呑み込んでいく。
ヴァギュイザールは二振りの剣を手に前線を駆け、敵陣へ道を切り開いた。
「あなたは」
キースが思わず尋ねる。
「魔導や世界構造へ直接作用するようなことは?」
「せぬ」
即答だった。
「しない?」
「できぬ」
「……できない?」
「何を驚いておる」
「四貴精霊なのに?」
「まだそれを言うか」
ヴァギュイザールが呆れた。
メルリルが横で笑う。
「では、何を?」
「斬った」
「何を」
「敵を」
あまりにも単純な答えだった。
「道を塞ぐ者がおれば斬る。仲間が囲まれれば助ける。敵陣を破らねばならぬなら前へ出る」
「それだけ?」
「それだけで困る戦場であった」
老人は静かに言った。
キースは何も返せなくなる。
「ソーサイアには、わしにできぬことができた。コスモスにも、ケーオスにもな」
「あなたにしかできないことは?」
キースが尋ねた。
ヴァギュイザールは少し考える。
「さて」
「ない?」
「そんなことを考えながら戦っておらん」
「でも、最後まで《姫》のそばにいた」
「そうだ」
それ以上、老人は自分を大きく語ろうとはしなかった。
後世から見れば英雄だった。
だが彼自身にとっては、自分にできることを続けただけなのかもしれない。
強い者がいる。
自分では到底できないことをする者もいる。
それでも、自分が立つ場所はなくならない。
キースは、少しだけその感覚が分かる気がした。
メミスにいた頃、自分は世界一の魔導士という呼び名を、ただ重荷としてしか見ていなかった。
旅へ出てからは、自分より経験のある者、自分にはできないことのできる者を何人も見た。
だからといって、自分の役目が消えるわけではなかった。
「昔のあなたは、今より強かったのですか?」
メルリルが訊いた。
「若かったからな」
「どのくらい?」
「さて」
「今の十倍?」
「知らぬ」
「百倍?」
「数えたことがない」
「比較対象は?」
「そなたは何でも数字にしたがるな」
「研究者ですもの」
ヴァギュイザールが笑った。
「昔の方が、力はあった」
それだけは認めた。
「だが」
老人は自分の掌を見る。
「わしが衰えたのか」
指をゆっくり閉じる。
「世界の方が変わったのか」
再び、掌を開く。
「今となっては、どちらなのか分からぬところもある」
キースの筆が止まった。
「世界の方が?」
「ああ」
老人は大樹の外を見るように、遠くへ目を向ける。
「戦の終わり頃には、もう始まっておった」
「何が?」
「変化が」
広間が静かになった。
「昨日まで通れた精霊の道が、ある日突然閉じた。遠くの森へ声を届かせられなくなった者がいた。土地と結びついていた古い精霊が、以前と同じ姿を保てなくなったという話も聞いた」
「戦争で傷ついたからでは?」
「そういう場所もあった」
「では――」
「だが、戦場ではない土地でも起きた」
キースは黙った。
「神々の姿も、少しずつ見なくなった」
「神々も?」
「消えた者もいたのであろう。去った者もいたのであろう。あるいは、ただ姿を見せなくなっただけかもしれぬ」
ヴァギュイザールは首を振った。
「それはわしには分からぬ」
「コスモスやケーオスも、その変化と関係している?」
「知らぬ」
「精霊戦争が原因?」
「知らぬ」
「《姫》と《王》の戦いが?」
「知らぬ」
キースはそこで質問を止めた。
老人は何も隠しているようには見えない。
本当に、知らないのだ。
ヴァギュイザールは戦場を生きた。
だが、世界の外からその時代を眺めていたわけではない。
「後世の歴史では」
キースは慎重に言った。
「精霊戦争が終わった頃に、《黄金の時代》も終わったとされています」
「そうなのであろうな」
「その後、《白銀の時代》が始まる」
「エルフどもの時代か」
「知っている?」
「後からな」
「黄金の時代が終わって、エルフたちが世界の中心へ立った」
「そう聞いておる」
「では」
キースは帳面を見ながら、言葉を選んだ。
「精霊戦争が終わったから、黄金の時代が終わったんですか?」
ヴァギュイザールは答えなかった。
長い沈黙。
「それとも」
キースは続ける。
「黄金の時代そのものが終わり始めたから、精霊戦争も続けられなくなった?」
老人の紅い瞳が、ゆっくりとキースへ向いた。
「分からぬ」
短い。
だが、今までの「知らぬ」とは、少し違って聞こえた。
「ただ、一つだけ言える」
ヴァギュイザールは続けた。
キースは待つ。
「あの戦が終わってから、世界が変わり始めたのではない」
「……では?」
「戦が終わる前からだ」
キースの指が、帳面の上で止まった。
「最後の戦いより前?」
「ああ」
「どのくらい前から?」
「分からぬ。戦の最中は、誰も世界全体の変化など数えておらん」
老人は苦く笑う。
「今日は一つの森が消えた。明日は一つの道が閉じた。それが戦争のせいなのか、別の何かなのか。そんなことを確かめる余裕のある時代ではなかった」
キースは何も書かなかった。
まだ、書けない。
精霊戦争が黄金の時代を終わらせた。
そう歴史書へ書けば、分かりやすい。
だが、目の前の証人は違う順序を語っている。
戦争が終わる前から、古い世界はすでに変わり始めていた。
「それでも」
キースはゆっくり顔を上げた。
「《姫》と《王》の戦争には、終わりがあった」
「ああ」
「最後の戦いが?」
「あった」
ヴァギュイザールの表情から、僅かに笑みが消えた。
老人の視線が、キースではなく、遥か遠い何かへ向かう。
黄金の時代。
神々と精霊が直接世界を歩き、数えきれない戦が同時に続いていた時代。
その中の一つ。
後世には、すべてを代表する戦争として語られるようになった、《姫》と《王》の最後の戦い。
「聞かせてください」
キースは帳面の新しい頁を開いた。
「《姫》と《王》は、どうやって戦争を終わらせたんですか?」
ヴァギュイザールは、しばらく答えなかった。
やがて深く息を吐き、老いた《紅獅子の君》は静かに口を開く。
「では、最後の戦場の話をしよう」




