第十五章 二つの終戦
「最後の戦場の話をしよう」
老いた《紅獅子の君》は、静かに口を開いた。
その声音からは、先ほどまで僅かに残っていた笑いが消えていた。
《王》の都。
現在では、その場所すら特定されていない。
人間側の伝承では、《天蓋城》《黒王都》《最後の王座》など、いくつもの名で記されている。ラルソウム側の古記録ですら名称は一定せず、ただ《王のいた場所》としか書かれていない断片もあった。
キースは新しい頁の上へ筆を置いた。
「場所について、覚えていますか?」
「覚えておる」
「今の地図で、どこにあったかは?」
「分からぬ」
「土地そのものが失われた?」
「それも分からぬ」
ヴァギュイザールは首を振った。
「わしが地図を持って戦をしていたわけではないのでな」
「では、見たものだけでいい」
「そうしよう」
老人は目を閉じた。
「黒い山があった」
「山?」
「いや」
すぐに訂正する。
「山に見えるものだ」
キースは筆を止めない。
「自然の山ではない?」
「おそらく」
「建造物?」
「そう呼んでもよかろう」
ヴァギュイザールは眉を寄せた。
「だが、今の城や塔を思い浮かべるな。地から生えておった。空へ届くほど高く、その内側にも空があった」
「内側にも?」
メルリルが食いつく。
「どういう構造ですの?」
「知らぬ」
「見たのでしょう?」
「見たからといって、分かるとは限らぬ」
「もっと詳しく!」
「メルリル」
キースが制した。
「今必要なのは、建築調査じゃない」
「気になりますわ!」
「私も気になるけど!」
「なら!」
「後!」
メルリルは不満そうに口を閉じた。
ヴァギュイザールが低く笑う。
「最後の戦では、その場所へ《姫》の軍勢が入った」
「軍勢の規模は?」
「覚えておらぬ」
「大勢?」
「多かった」
「あなた方四人は?」
「それぞれ別の場所から入った」
ヴァギュイザールは右手を上げた。
「わしは右から攻めた」
一本。
「ソーサイアは《王》の術を崩した」
二本。
「コスモスは《姫》を守った」
三本。
「ケーオスが、《王》の退く場所をなくした」
四本。
キースの筆が止まる。
「なくした?」
「そう覚えておる」
「退路を塞いだ、ではなく?」
「後世の歌なら、そう歌うのであろう」
老人は目を開いた。
「だが、道へ立って塞いだわけではない」
「では?」
「《王》が逃げようと思えば逃げられる場所そのものが、なくなった」
メルリルが僅かに息を呑んだ。
「それは……」
「ケーオスが何をしたのかと聞くな」
先にヴァギュイザールが言った。
「分からぬ」
「本当に、あなた方は仲間の能力をよく分からないまま戦っていたんですね」
キースが呟く。
「使えるなら、それでよかった」
「雑だな」
「戦場とはそういうものだ」
返す言葉がない。
ヴァギュイザールは、そのまま続けた。
「最後には、《姫》と《王》だけが残った」
広間が静かになる。
「一対一?」
「ああ」
「あなた方は?」
「動けぬ者もいた。動けても、入るべきではなかった」
「なぜ?」
ヴァギュイザールは少し考えた。
「二人の戦だったからだ」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
老精霊の声には、説明し難い確信があった。
キースは、それを事実ではなく、
――ヴァギュイザール本人の判断。
として記録する。
「《姫》が勝った」
ヴァギュイザールが言った。
キースの筆が動く。
「《王》は敗れた?」
「ああ」
「あなた自身が見た?」
「見た」
「どう敗れた?」
「最後の一撃を受けた」
「誰から?」
「《姫》からだ」
「その時点で《王》は戦闘不能?」
「少なくとも、それまでのようには戦えなかった」
「死亡は?」
「しておらぬ」
「その後、あなた方四人が?」
「《王》の残った力を分けた」
「奪った?」
「封じた」
「本人の意思に反して?」
ヴァギュイザールは迷わない。
「ああ」
「《王》は抵抗した?」
「した」
「自ら力を手放した可能性は?」
「ない」
断言だった。
キースは、その言葉まで記す。
――《姫》が《王》を撃破。
――敗北後、《四貴精霊》が《王》の力を分割・封印。
――本人意思による放棄ではない。
人間側の主流伝承と一致する。
少なくとも、ここまでは。
「そのあと、《王》は?」
シビウが尋ねた。
「長く眠った」
「死なずに?」
「ああ。力の大半を失えば、あれほどの者でも以前のままではいられぬ」
「今も?」
誰も、すぐには答えなかった。
キースはキロスのことを思い出す。
彼の中にいる《王》。
同じ存在なのか。
その問いにも、まだ答えはない。
「最後の戦争は」
キースが言った。
「それで終わった?」
「少なくとも、わしらの戦はな」
また。
わしらの戦。
ヴァギュイザールは、最後まで世界全体の終戦とは言わなかった。
「《姫》の勝利によって?」
「ああ」
キースはそこへ線を引いた。
「分かりました」
帳面を一度閉じかける。
その時、昨夜見た古記録の一節が頭をよぎった。
――《王、自ら冠を置く》。
筆が止まる。
「もう一つ」
「何だ」
「古い記録について確認したい」
「うむ」
「ラルソウムの断片記録に、こういう一節があった」
キースは記憶を確かめる。
「《王、自ら冠を置く》」
広間の空気が変わった。
ほんの僅かだった。
だが、ヴァギュイザールの紅い瞳が揺れた。
「冠?」
シビウが聞き返す。
「王位そのものを指しているのか、力の比喩なのかは分からない」
キースは先に説明した。
「別の出来事かもしれない。後世の追記かもしれない。だから、まず当事者へ確認したい」
老人を見る。
「何か覚えがありますか?」
ヴァギュイザールは答えなかった。
「長様?」
ローゼンが呼ぶ。
サファイアが片手を上げた。
「待て」
老人は、広間のどこも見ていなかった。
遥か昔の戦場。
《王》の都。
《姫》と《王》。
そこへ意識だけを戻しているようだった。
「……ああ」
やがて、低い声が落ちた。
「覚えておる」
キースの眉が動く。
「何を?」
「《王》は」
ヴァギュイザールが、ゆっくりと言葉を探す。
「最後に、自ら武器を置いた」
キースの手が止まった。
「……待ってください」
声音は大きくない。
だが、広間にいた全員が彼を見る。
「今の話は、さっきの証言と両立しません」
ヴァギュイザールが顔を上げる。
「何?」
「順番を確認します」
キースは閉じかけていた帳面を開き直した。
「先ほど、あなたはこう証言した」
指を一本立てる。
「あなたが右方を破った」
二本。
「ソーサイアが《王》の術式を壊した」
三本。
「コスモスが《姫》を守り、ケーオスが《王》の退く場所をなくした」
四本。
「そのあと、《姫》と《王》が戦った」
「ああ」
「《姫》が勝った」
「ああ」
「《王》は敗北した」
「そうだ」
「敗北後、あなた方四人が残った力を分け、封じた」
「そうだった」
「その時、私は確認しました。《王》が自ら力を手放した可能性はないかと」
ヴァギュイザールの表情が僅かに固まる。
「あなたは」
キースは老人を見る。
「《ない》と答えた」
沈黙。
「本人の意思に反して封じた。抵抗もした」
「……ああ」
「でも今は、《王》が自ら武器を置いたと言った」
メルリルも、自分の帳面を遡っていた。
「本当ですわ」
いつもの軽さが消える。
「別の言い回しではありません」
「そうだ」
キースは左手を開いた。
「一つ目の証言では、《姫》が勝ったから《王》は力を失った」
右手。
「二つ目なら、《王》が自分から戦いをやめたことになる」
「まだそこまでは――」
メルリルが言う。
「だから確認する」
キースはヴァギュイザールへ向き直った。
「まず、一番普通の説明から潰します」
「普通?」
「二つが同じ出来事の別の部分だった可能性です」
ヴァギュイザールは黙って聞いている。
「《姫》に敗れたあと、《王》が残った武器を自分から捨てた。それなら、《敗北した》と《自ら武器を置いた》は両立します」
老人は目を閉じた。
長い沈黙。
「違う」
「何が?」
「今、思い出した方では」
ヴァギュイザールの声が掠れる。
「《王》は負けておらぬ」
広間が静まり返った。
「……もう一度」
キースが言う。
「最初から聞かせてください」
ヴァギュイザールは膝の上へ置いた自分の手を見る。
「最後の戦場だ」
「ああ」
「場所は同じ?」
「同じだ」
「《王》の都?」
「そうだ」
「四人が戦場を崩したところまでは?」
「同じだ」
「あなたが右方を破った」
「ああ」
「ソーサイアが術式を壊した」
「ああ」
「コスモスが《姫》を守った」
「ああ」
「ケーオスが退路を消した」
「ああ」
「そのあと、《姫》と《王》が向かい合う」
「そうだ」
「そこから違う?」
ヴァギュイザールは、ゆっくり頷いた。
「二人は戦った」
「一つ目もそうだった」
「ああ」
「二つ目では?」
「《王》は、まだ戦えた」
キースの筆が止まる。
「追い詰められていた?」
「いや」
「《姫》が優勢だった?」
「そうでもない」
「力を使い果たしていた?」
「いや」
「傷は?」
「負っておった」
「致命傷?」
「違う」
「なら」
キースの声が少し低くなる。
「まだ戦える状態で、《王》が自分からやめた?」
「そうだ」
「《姫》に止められたのではなく?」
「違う」
「敗北を認めた?」
「それも……」
ヴァギュイザールが眉を寄せた。
「違う気がする」
「では?」
「武器を置いた」
「なぜ?」
「分からぬ」
「そのあと?」
「自分の力を解いた」
「あなた方が奪ったのではない?」
「違う」
「ケーオスやコスモスが何かした?」
「違う」
「ソーサイアは?」
「違う」
「《姫》は?」
「見ておった」
「止めなかった?」
「止めなかった」
「そして戦争は?」
「終わった」
キースは、それ以上すぐには聞かなかった。
二つ。
同じ場所。
同じ人物。
同じ戦い。
途中まで同じ経過。
最後だけが違う。
いや、結末だけではない。
原因と結果そのものが違っている。
一つでは、
《姫》が《王》を倒した。
だから《王》は力を失った。
もう一つでは、
《王》が自分から力を解いた。
だから戦いが終わった。
「別の戦いとの混同は?」
キースが尋ねる。
「ない」
「《王》が過去に別の場所で武器を置いたことは?」
「知らぬ」
「後世に聞いた伝承が混ざった可能性は?」
ヴァギュイザールは、今度は長く考えた。
「……それは、否定できぬ」
キースはすぐに書く。
――後世伝承の混入:否定不能。
「夢で見た可能性」
「否定できぬ」
――夢:否定不能。
「精神干渉」
「分からぬ」
――精神干渉:不明。
「精霊特有の記憶継承」
「あり得る」
メルリルが横から口を挟む。
「でしたら、そこを調べれば――」
「まだ」
キースが止めた。
「まだ何も決めない」
「分かっておりますわ」
「君は分かった瞬間に実験しようとするからな」
「良い仮説は早く試すべきですもの!」
「長様の頭を開こうとするなよ」
「しませんわよ!」
「本当か?」
「……今は」
「今は!?」
シビウがメルリルの外套を掴んだ。
「念のため、あんたはそこに座ってな」
「信用がありませんわ!」
「日頃の行いだ」
僅かな笑いが広間へ戻る。
だが、キースの頭は止まっていなかった。
「ヴァギュイザール」
「何だ」
「一つ目の記憶は、どの程度鮮明ですか?」
「昨日のことのように、とまでは言わぬ」
「二つ目は?」
「同じだ」
「片方だけ、夢のように薄い?」
「いや」
「片方だけ、誰かから聞いた話みたいな感覚は?」
「ない」
「どちらも」
キースは慎重に言葉を選ぶ。
「自分が、その場で見た記憶として残っている?」
「ああ」
「どちらも?」
「どちらもだ」
紅い瞳がキースを見る。
「わしは、《姫》が《王》を倒すところを見た」
一つ。
「そして」
老人の手が僅かに震える。
「《王》が自ら武器を置くところも見た」
二つ。
「どちらも、同じ最後の戦だ」
水の流れる音だけが聞こえた。
*
「記憶が」
メルリルが、今度は慎重に言った。
「二つに割れた?」
キースは首を横に振る。
「まだ、その言葉は使わない」
「なぜですの?」
「《割れた》と言った時点で」
キースは二本の指を立てる。
「元は一つだった、と決めることになる」
メルリルの口が閉じた。
「元々、一つの記憶があった。それが何かによって二つへ分裂した」
「そうではない可能性もある?」
「分からない」
「最初から二つ?」
「それも決めない」
「では何と言いますの?」
キースは帳面を見る。
必要なのは、名前ではない。
今確認できたことだけだ。
「同じ場面について」
ゆっくり書く。
「互いに両立しない二つの因果を」
続ける。
「本人が、どちらも自分自身の経験として保持している」
そこまで書き、筆を置いた。
――同一場面。
――異なる二つの因果。
――双方を本人の経験として保持。
「これだけだ」
メルリルが横から読む。
「本当に、それしか書かないんですの?」
「何を足す?」
「記憶分裂の可能性」
「可能性の欄には書く」
「歴史改変」
「証拠がない」
「異なる世界――」
「それも今はない」
「つまらないですわ!」
「調査記録に面白さを求めるな!」
シビウが苦笑する。
「でも、あんたらしいよ」
「何が?」
「答えを出せないのに、そこまで嬉しそうな顔をしてるところ」
「嬉しくない」
「嘘つけ」
「……少しだけだ」
知らないことが増えた。
普通なら、喜ぶべきではない。
それでも、何が分からないのかが、少しずつ見えてきている。
それは、何も分からない状態とは違った。
*
「他の証人は?」
キースが尋ねる。
「同じ最後の戦を見た者」
「多くはもうおらぬ」
ヴァギュイザールが答える。
「精霊は長く生きる。だが永遠ではない」
「他の三人なら?」
「コスモスは消えた」
「ソーサイアは?」
「去った」
「ケーオスは?」
「もともと、どこにいるのか分からぬ」
「《姫》は?」
その問いで、ヴァギュイザールの表情が少し変わった。
「眠った」
「戦いのあと?」
「ああ」
「すぐに?」
「いや」
「どのくらい後?」
「人間の年月で言われても分からぬ」
「長かった?」
「わしには短かった」
使えない。
キースは諦める。
「《姫》が眠る前に、コスモスが消えた」
「はい」
ローゼンが僅かに顔を上げる。
「《姫》は深く嘆いた。その後、我らは少しずつ別の道へ分かれた」
「それが四貴精霊の解散?」
「だから、そんな集団ではない」
「そうだった」
キースは訂正する。
「後世の呼称に引っ張られた」
「自覚があるだけましですわね」
「君に言われたくない」
「ソーサイアとは何度殴り合ったか覚えておらぬ」
ヴァギュイザールが遠い目で言った。
「あれは口も態度も悪かった」
「やはり気が合いそうですわ」
「会っても喧嘩するだけだと思う」
「それも楽しそうですわね!」
「君、絶対ソーサイア本人を怒らせるぞ」
「世界一のあなたが先に怒らせるのでは?」
「なぜ!」
ヴァギュイザールが笑った。
だが、その笑いが消えたあと、キースはもう一つ確認した。
「黄金の時代が終わったのは、この戦いのあと?」
「さっきも言ったであろう」
「世界の変化は、戦争が終わる前から始まっていた」
「ああ」
「そして戦争後、それがさらに進んだ?」
「そう覚えておる」
「どんなふうに?」
老人は大樹の天井を見上げる。
「静かになった」
「静か?」
「世界がな」
抽象的すぎる。
だが、ヴァギュイザール自身にも、それ以上の言葉がないらしい。
「昔は、遠くの精霊の声が聞こえた」
「どのくらい遠く?」
「山をいくつ越えても」
「今は?」
「この森の外へ出れば、ずいぶん薄い」
「あなた自身が衰えた可能性は?」
「あろう」
「世界が変わった可能性も?」
「あろう」
「両方?」
「それもあろう」
キースは、そこも分けて書く。
――ヴァギュイザール自身の老化・霊格低下。
――世界側の精霊接続条件変化。
――両者の複合。
いずれも未確定。
「古い精霊たちの中には」
ヴァギュイザールが続ける。
「以前の形を保てなくなった者もおった」
「死んだ?」
「死んだ者もいた」
「他は?」
「眠った。土地へ溶けた。姿を変えた。名だけ残った者もいる」
サファイアが僅かに目を伏せた。
キースは気づいたが、そこで彼へ質問を向けることはしなかった。
「では」
メルリルが尋ねる。
「そのあとにエルフたちが?」
「ああ」
「あなたは白銀の時代も見た?」
「見た」
全員がヴァギュイザールを見る。
老人は、不思議そうに眉を上げた。
「何だ」
「いや」
キースは思わず苦笑した。
「歴史書なら、《黄金の時代》と《白銀の時代》で頁が分かれる」
「そうか」
「あなたの場合、ただ次の日みたいに話すから」
「次の日ではない」
「分かってます」
「長かったぞ」
「あなたの《長かった》が信用できないんだ」
ヴァギュイザールが笑う。
「白銀の時代には、エルフたちが栄えた」
「黄金時代の精霊文明を受け継いだ?」
「そういう者もいたのであろう」
「あなたはどう見ていた?」
「器用な者たちだと思った」
「器用?」
老人は少し懐かしそうに言った。
「我らが失ったものを、そのまま取り戻そうとはしなかった」
キースが目を上げる。
「どういう意味ですか?」
「昔と同じ精霊にはなれぬ。昔と同じ神々も戻らぬ」
ヴァギュイザールは手を広げた。
「ならば、残ったものだけで別の暮らしを作る」
「それがエルフ文明?」
「わしには、そう見えた」
本人の解釈。
キースはそう添えて記す。
「古い歌。土地との約束。精霊との交わり。わしらの頃には必要のなかったものまで、あやつらは丁寧に形へした」
「必要なかった?」
「精霊同士なら、話せば済むことも多い」
「それを制度や儀式にした?」
「そうだ」
キースは少し驚いた。
現在から見れば、白銀時代のエルフ文明は十分に神話的だ。
だが、黄金時代を生きたヴァギュイザールから見れば、すでにそれは――失われたものを文明によって補う時代だったのかもしれない。
「つまり」
キースは確認する。
「白銀時代は、黄金時代がそのまま続いたわけじゃない」
「違う」
「神話の残りを、エルフたちが別の形で使った」
「そう見えた」
「それでも、現在より精霊との距離は近かった」
「ああ」
黄金。
白銀。
黄銅。
ただ価値が落ちていく三段階ではない。
存在の仕方そのものが変わっている。
「人間は?」
シビウが尋ねた。
「白銀時代にもいたんだろ?」
「おった」
「でも世界の中心ではなかった?」
「中心という言葉が何を指すかによる」
ヴァギュイザールは少し考える。
「数は増えておった。国もできた。だが、今ほどどこへ行っても人間ばかりという時代ではなかった」
「では」
キースが聞く。
「黄銅の時代への移行は見た?」
「見たと言えば見た」
「また曖昧だな」
「境目など知らぬ」
「大事件があったわけではない?」
「少なくとも」
ヴァギュイザールは首を振った。
「黄金が終わった時ほど、わしには分からなかった」
キースは、その言葉を記した。
「人間の国が増えた。道が繋がった。金が遠くまで流れるようになった。ドワーフどもは、それをうまく使った」
「ドワーフが?」
「あやつらは昔からしぶとい」
ヴァギュイザールが笑う。
「世界が変わるたび、いつの間にか次のやり方を覚えておる」
現在。
産業。
鉱業。
金融。
物流。
人間中心社会の中で、人口以上の存在感を持つドワーフ。
それが一朝一夕に生まれたものではないのかもしれない。
「エルフは?」
ローゼンが静かに尋ねた。
ヴァギュイザールの笑みが消える。
「苦労した」
短い答えだった。
「白銀の時代を作った者たちが?」
「ああ」
「なぜ?」
「分からぬ」
「精霊との繋がりが弱くなったから?」
「そういう者もおった」
「人間社会へ適応できなかった?」
「そういう者もおった」
「文明そのものが衰退した?」
「そういう国もあった」
ヴァギュイザールは首を振った。
「一つにするな」
キースは目を上げた。
「何が?」
「エルフが衰えた理由だ」
老人の紅い瞳がキースを見る。
「国ごとに違う。森ごとに違う。人によっても違った」
それは、《精霊戦争》について彼が言ったことと同じだった。
後世は、一つの名称へまとめる。
エルフの時代が終わった。
人間の時代になった。
言葉にすれば、一行で済む。
だが実際には、無数の国が興り、無数の森が消えた。別の場所では残り、人間と共に生きる者もいれば、拒んだ者もいる。
そして結果だけを後から見れば、白銀は終わり、黄銅が始まっていた。
「では」
キースは帳面へ視線を落とす。
「黄金から白銀への移行と、白銀から黄銅への移行は、同じ種類の変化だとは言えない」
「わしにはな」
「黄金の終わりには、世界そのものが変わったように見えた」
「ああ」
「白銀の終わりには?」
「世界も少しずつ変わったのかもしれぬ」
「でも」
「人々の方が変わっただけでも、かなり説明できる」
キースは頷いた。
ここも重要だった。
何でも一つの巨大現象へ結びつけない。
《ラグナ――》。
その音が、頭の奥へ浮かびかける。
まだ。
キースは口にしなかった。
その名を、この話へ置くには材料が足りない。
*
「今日は、ここまでにしよう」
サファイアが言った。
ヴァギュイザールの肩が、先ほどより少し下がっている。
「長にも休んでもらった方がいい」
「すまぬな」
老人は目を閉じた。
「昔話をするだけのつもりが、余計な謎を増やしたようだ」
「そのために来たんです」
キースは帳面を閉じる。
「謎を増やすために?」
「違います」
「でも増えましたわね」
「君は嬉しそうに言うな」
「実際、面白いでしょう?」
「……否定はしない」
シビウが呆れたように息を吐いた。
「二人とも、似た者同士だよ」
「違う」
「違いますわ」
声まで揃った。
ローゼンが笑う。
キースは改めてヴァギュイザールへ向き直った。
「最後に、一つだけ確認させてください」
「何だ」
「あなたは、今日話したことについて」
言葉を選ぶ。
「嘘をついていない?」
「そのつもりだ」
「《姫》が《王》を倒した記憶も」
「ああ」
「《王》が自分から武器を置いた記憶も」
「ああ」
「どちらも、自分自身の経験として覚えている」
「そうだ」
「それから」
キースはもう一つ追加する。
「精霊戦争が終わる前から、世界の変化は始まっていた」
「ああ」
「でも、それが戦争のせいだったかは分からない」
「分からぬ」
「戦争を終わらせた原因だったかも?」
「分からぬ」
「黄金の時代が終わった原因も?」
「分からぬ」
「それでいい」
ヴァギュイザールが僅かに眉を上げた。
「よいのか?」
「分からないことを、分かった形にするよりは」
キースは帳面を軽く叩く。
「ずっといい」
老人の表情が少し和らいだ。
「そなたは、若いわりに年寄りじみたことを言う」
「十八です」
「知っておる」
「年寄りじゃない」
「わしから見れば、昨日生まれたようなものだ」
「その基準はずるい!」
久しぶりに、広間へ笑いが戻った。
*
大樹の広間を出ると、ラルソウムには穏やかな昼の光が満ちていた。
子どもの姿をした精霊たちが大樹の根を滑り降り、光る蝶のようなものを追いかけている。水路では小さな石たちが流れを避けるように並び替わり、精霊たちが渡れる足場を作っていた。
前日と同じ里。
何も変わっていないように見える。
しかしキースには、少し違って見えた。
黄金の時代。
当時、精霊が生きるとはどういうことだったのか。
今のラルソウムさえ、その時代の残りではないのかもしれない。
これはこれで、長い時代を越えて現在まで残るために形を変えた、精霊たちの暮らしなのかもしれない。
「どう思う?」
シビウが隣へ来た。
「何を」
「全部」
「範囲が広い」
「じゃあ、二つの終戦」
キースは歩きながら考えた。
「どちらかが間違っている、というのが普通だ」
「普通じゃなかったら?」
「分からない」
「またそれかい」
「悪いか?」
「いや」
シビウは少し笑った。
「前より、その答えを嫌がらなくなったと思ってね」
キースは返事をしなかった。
以前なら、分からないと言うことは、負けたように感じていたかもしれない。
今は少し違う。
分からないなら、境界を決めればいい。
ここまでは分かる。
ここから先は分からない。
それを切り分ける。
その先は、また調べればいい。
「わたくしは調べますわよ!」
後ろからメルリルが走ってくる。
「何を?」
「全部ですわ!」
「また範囲が広い」
「まず《精霊戦争》です」
一本。
「《姫》と《王》の戦線だけではない戦争記録」
二本。
「神格が参加していた記録」
三本。
「巨人関連」
四本。
「四貴精霊という呼称が、いつ成立したか」
「それは重要だな」
「でしょう?」
「それから」
キースも指を立てた。
「黄金・白銀・黄銅という時代区分自体の成立時期」
「それもですわ!」
「黄金の時代の人たちが、自分たちを黄金時代と呼んでいたとは思えない」
「ヴァギュイザール様も妙な名だとおっしゃってましたものね」
「つまり」
キースは考える。
「時代名自体にも、後世の解釈が入っている」
ローゼンが振り返った。
「でしたら、もっと古いものをご覧になりますか?」
キースとメルリルが同時に彼を見る。
「もっと古い?」
「はい」
「精霊戦争より?」
「さらに古いものでございます」
キースの目が変わる。
「何が残ってる?」
「歌が」
「歌?」
「世界の始まりについて歌ったものだと聞いております」
「創世歌」
「三つございます」
キースが止まった。
「三つ?」
「はい」
ローゼンは少し困ったように微笑んだ。
「どれも、少しずつ違うそうです」
「どこが?」
メルリルが身を乗り出す。
「世界が」
ローゼンは答えた。
「どのように始まったのかが、でございます」
キースとメルリルは顔を見合わせる。
「成立年代は?」
キース。
「伝承経路は?」
メルリル。
「保存状態は?」
「歌詞の差異は?」
「古形は?」
「旋律も違いますの?」
二人が同時に質問する。
ローゼンが少し後ずさった。
「わ、わたくしには……」
「落ち着きな」
シビウが二人の頭を軽く叩いた。
「痛い!」
「何をなさいますの!」
「ローゼンを追い詰めるんじゃないよ」
「調査です!」
「二人がかりで尋問してただろ」
フユが、横からぽつりと言う。
「怖かった」
「フユまで!」
キースは咳払いした。
「……案内してくれる?」
「はい」
ローゼンが笑う。
「三つとも残っております」
「一つが原形で、残りが変化した可能性は?」
「分かりません」
「よし」
「何がよしなんですの?」
シビウが呆れる。
「比較できる」
「やはりそう来ましたわね!」
メルリルが楽しそうに笑った。
「三つあるなら、違うところだけじゃない。同じところも見られる」
「わたくしも同じことを考えておりましたわ!」
「真似するな」
「あなたがわたくしを真似したのでしょう!」
「今、私が先に言った!」
「考えたのはわたくしが先ですわ!」
「証明できるか!」
「頭を開けば!」
「開くな!」
ラルソウムの大樹に、二人の声が響いた。
*
歩き出してから、キースは一度だけ後ろを振り返った。
根の奥。
もう、ヴァギュイザールの姿は見えない。
それでも、老人の言葉は帳面の中だけではなく、頭の中にも残っていた。
《姫》が《王》を倒した。
《王》は敗れた。
だから、力を失った。
もう一つ。
《王》はまだ戦えた。
誰にも敗れていなかった。
それでも自ら武器を置き、力を解いた。
だから、戦いが終わった。
二つの終戦。
どちらも、一人の精霊が自分自身の目で見た記憶だという。
そして、その戦争が終わる前から、黄金の時代そのものも変わり始めていた。
昨日まで通れた道が閉じた。
古い精霊が姿を保てなくなった。
神々が直接姿を見せなくなった。
戦争が世界を変えたのか。
変わり始めた世界が、戦争を終わらせたのか。
今は分からない。
そのあとに白銀の時代が来た。
エルフたちは、黄金をそのまま取り戻したのではない。失われたものを残った形へ変え、文明として継いだ。
そして、その白銀もいつしか終わった。
現在は黄銅。
人間が最も多く、ドワーフが産業や商いに強く、かつて世界を栄えさせたエルフは以前ほどの力を持たない。
歴史書なら、三つの時代を三行にできる。
だが、その三行のあいだには、どれほど多くの出来事が落ちているのだろう。
精霊戦争という名前が、無数の戦争を一つにまとめたように。
四貴精霊という名前が、四者を同じ存在分類へまとめたように。
黄金。
白銀。
黄銅。
それらの名前もまた、後から過去へ与えられた一つの形なのかもしれない。
ならば、名前から先に世界を理解してはいけない。
まず、残っているものを見る。
記録。
記憶。
歌。
遺跡。
そこから、何が一致し、何が一致しないのかを確かめる。
「キース?」
ローゼンが前から呼んだ。
「何をしておられるのです?」
「今行く」
キースは答え、歩き出す。
次に調べるのは、世界の始まりを歌う三つの歌。
一つの世界に、三つの始まり。
まだ、それが何を意味するのかは分からない。
だからこそ、調べる価値があった。




