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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第三部 精霊たちは二つの過去を覚えている
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16/37

第十五章 二つの終戦

「最後の戦場の話をしよう」


 老いた《紅獅子の君》は、静かに口を開いた。


 その声音からは、先ほどまで僅かに残っていた笑いが消えていた。


 《王》の都。


 現在では、その場所すら特定されていない。


 人間側の伝承では、《天蓋城》《黒王都》《最後の王座》など、いくつもの名で記されている。ラルソウム側の古記録ですら名称は一定せず、ただ《王のいた場所》としか書かれていない断片もあった。


 キースは新しい頁の上へ筆を置いた。


「場所について、覚えていますか?」


「覚えておる」


「今の地図で、どこにあったかは?」


「分からぬ」


「土地そのものが失われた?」


「それも分からぬ」


 ヴァギュイザールは首を振った。


「わしが地図を持って戦をしていたわけではないのでな」


「では、見たものだけでいい」


「そうしよう」


 老人は目を閉じた。


「黒い山があった」


「山?」


「いや」


 すぐに訂正する。


「山に見えるものだ」


 キースは筆を止めない。


「自然の山ではない?」


「おそらく」


「建造物?」


「そう呼んでもよかろう」


 ヴァギュイザールは眉を寄せた。


「だが、今の城や塔を思い浮かべるな。地から生えておった。空へ届くほど高く、その内側にも空があった」


「内側にも?」


 メルリルが食いつく。


「どういう構造ですの?」


「知らぬ」


「見たのでしょう?」


「見たからといって、分かるとは限らぬ」


「もっと詳しく!」


「メルリル」


 キースが制した。


「今必要なのは、建築調査じゃない」


「気になりますわ!」


「私も気になるけど!」


「なら!」


「後!」


 メルリルは不満そうに口を閉じた。


 ヴァギュイザールが低く笑う。


「最後の戦では、その場所へ《姫》の軍勢が入った」


「軍勢の規模は?」


「覚えておらぬ」


「大勢?」


「多かった」


「あなた方四人は?」


「それぞれ別の場所から入った」


 ヴァギュイザールは右手を上げた。


「わしは右から攻めた」


 一本。


「ソーサイアは《王》の術を崩した」


 二本。


「コスモスは《姫》を守った」


 三本。


「ケーオスが、《王》の退く場所をなくした」


 四本。


 キースの筆が止まる。


「なくした?」


「そう覚えておる」


「退路を塞いだ、ではなく?」


「後世の歌なら、そう歌うのであろう」


 老人は目を開いた。


「だが、道へ立って塞いだわけではない」


「では?」


「《王》が逃げようと思えば逃げられる場所そのものが、なくなった」


 メルリルが僅かに息を呑んだ。


「それは……」


「ケーオスが何をしたのかと聞くな」


 先にヴァギュイザールが言った。


「分からぬ」


「本当に、あなた方は仲間の能力をよく分からないまま戦っていたんですね」


 キースが呟く。


「使えるなら、それでよかった」


「雑だな」


「戦場とはそういうものだ」


 返す言葉がない。


 ヴァギュイザールは、そのまま続けた。


「最後には、《姫》と《王》だけが残った」


 広間が静かになる。


「一対一?」


「ああ」


「あなた方は?」


「動けぬ者もいた。動けても、入るべきではなかった」


「なぜ?」


 ヴァギュイザールは少し考えた。


「二人の戦だったからだ」


「それだけ?」


「それだけで十分だ」


 老精霊の声には、説明し難い確信があった。


 キースは、それを事実ではなく、


 ――ヴァギュイザール本人の判断。


 として記録する。


「《姫》が勝った」


 ヴァギュイザールが言った。


 キースの筆が動く。


「《王》は敗れた?」


「ああ」


「あなた自身が見た?」


「見た」


「どう敗れた?」


「最後の一撃を受けた」


「誰から?」


「《姫》からだ」


「その時点で《王》は戦闘不能?」


「少なくとも、それまでのようには戦えなかった」


「死亡は?」


「しておらぬ」


「その後、あなた方四人が?」


「《王》の残った力を分けた」


「奪った?」


「封じた」


「本人の意思に反して?」


 ヴァギュイザールは迷わない。


「ああ」


「《王》は抵抗した?」


「した」


「自ら力を手放した可能性は?」


「ない」


 断言だった。


 キースは、その言葉まで記す。


 ――《姫》が《王》を撃破。


 ――敗北後、《四貴精霊》が《王》の力を分割・封印。


 ――本人意思による放棄ではない。


 人間側の主流伝承と一致する。


 少なくとも、ここまでは。


「そのあと、《王》は?」


 シビウが尋ねた。


「長く眠った」


「死なずに?」


「ああ。力の大半を失えば、あれほどの者でも以前のままではいられぬ」


「今も?」


 誰も、すぐには答えなかった。


 キースはキロスのことを思い出す。


 彼の中にいる《王》。


 同じ存在なのか。


 その問いにも、まだ答えはない。


「最後の戦争は」


 キースが言った。


「それで終わった?」


「少なくとも、わしらの戦はな」


 また。


 わしらの戦。


 ヴァギュイザールは、最後まで世界全体の終戦とは言わなかった。


「《姫》の勝利によって?」


「ああ」


 キースはそこへ線を引いた。


「分かりました」


 帳面を一度閉じかける。


 その時、昨夜見た古記録の一節が頭をよぎった。


 ――《王、自ら冠を置く》。


 筆が止まる。


「もう一つ」


「何だ」


「古い記録について確認したい」


「うむ」


「ラルソウムの断片記録に、こういう一節があった」


 キースは記憶を確かめる。


「《王、自ら冠を置く》」


 広間の空気が変わった。


 ほんの僅かだった。


 だが、ヴァギュイザールの紅い瞳が揺れた。


「冠?」


 シビウが聞き返す。


「王位そのものを指しているのか、力の比喩なのかは分からない」


 キースは先に説明した。


「別の出来事かもしれない。後世の追記かもしれない。だから、まず当事者へ確認したい」


 老人を見る。


「何か覚えがありますか?」


 ヴァギュイザールは答えなかった。


「長様?」


 ローゼンが呼ぶ。


 サファイアが片手を上げた。


「待て」


 老人は、広間のどこも見ていなかった。


 遥か昔の戦場。


 《王》の都。


 《姫》と《王》。


 そこへ意識だけを戻しているようだった。


「……ああ」


 やがて、低い声が落ちた。


「覚えておる」


 キースの眉が動く。


「何を?」


「《王》は」


 ヴァギュイザールが、ゆっくりと言葉を探す。


「最後に、自ら武器を置いた」


 キースの手が止まった。


「……待ってください」


 声音は大きくない。


 だが、広間にいた全員が彼を見る。


「今の話は、さっきの証言と両立しません」


 ヴァギュイザールが顔を上げる。


「何?」


「順番を確認します」


 キースは閉じかけていた帳面を開き直した。


「先ほど、あなたはこう証言した」


 指を一本立てる。


「あなたが右方を破った」


 二本。


「ソーサイアが《王》の術式を壊した」


 三本。


「コスモスが《姫》を守り、ケーオスが《王》の退く場所をなくした」


 四本。


「そのあと、《姫》と《王》が戦った」


「ああ」


「《姫》が勝った」


「ああ」


「《王》は敗北した」


「そうだ」


「敗北後、あなた方四人が残った力を分け、封じた」


「そうだった」


「その時、私は確認しました。《王》が自ら力を手放した可能性はないかと」


 ヴァギュイザールの表情が僅かに固まる。


「あなたは」


 キースは老人を見る。


「《ない》と答えた」


 沈黙。


「本人の意思に反して封じた。抵抗もした」


「……ああ」


「でも今は、《王》が自ら武器を置いたと言った」


 メルリルも、自分の帳面を遡っていた。


「本当ですわ」


 いつもの軽さが消える。


「別の言い回しではありません」


「そうだ」


 キースは左手を開いた。


「一つ目の証言では、《姫》が勝ったから《王》は力を失った」


 右手。


「二つ目なら、《王》が自分から戦いをやめたことになる」


「まだそこまでは――」


 メルリルが言う。


「だから確認する」


 キースはヴァギュイザールへ向き直った。


「まず、一番普通の説明から潰します」


「普通?」


「二つが同じ出来事の別の部分だった可能性です」


 ヴァギュイザールは黙って聞いている。


「《姫》に敗れたあと、《王》が残った武器を自分から捨てた。それなら、《敗北した》と《自ら武器を置いた》は両立します」


 老人は目を閉じた。


 長い沈黙。


「違う」


「何が?」


「今、思い出した方では」


 ヴァギュイザールの声が掠れる。


「《王》は負けておらぬ」


 広間が静まり返った。


「……もう一度」


 キースが言う。


「最初から聞かせてください」


 ヴァギュイザールは膝の上へ置いた自分の手を見る。


「最後の戦場だ」


「ああ」


「場所は同じ?」


「同じだ」


「《王》の都?」


「そうだ」


「四人が戦場を崩したところまでは?」


「同じだ」


「あなたが右方を破った」


「ああ」


「ソーサイアが術式を壊した」


「ああ」


「コスモスが《姫》を守った」


「ああ」


「ケーオスが退路を消した」


「ああ」


「そのあと、《姫》と《王》が向かい合う」


「そうだ」


「そこから違う?」


 ヴァギュイザールは、ゆっくり頷いた。


「二人は戦った」


「一つ目もそうだった」


「ああ」


「二つ目では?」


「《王》は、まだ戦えた」


 キースの筆が止まる。


「追い詰められていた?」


「いや」


「《姫》が優勢だった?」


「そうでもない」


「力を使い果たしていた?」


「いや」


「傷は?」


「負っておった」


「致命傷?」


「違う」


「なら」


 キースの声が少し低くなる。


「まだ戦える状態で、《王》が自分からやめた?」


「そうだ」


「《姫》に止められたのではなく?」


「違う」


「敗北を認めた?」


「それも……」


 ヴァギュイザールが眉を寄せた。


「違う気がする」


「では?」


「武器を置いた」


「なぜ?」


「分からぬ」


「そのあと?」


「自分の力を解いた」


「あなた方が奪ったのではない?」


「違う」


「ケーオスやコスモスが何かした?」


「違う」


「ソーサイアは?」


「違う」


「《姫》は?」


「見ておった」


「止めなかった?」


「止めなかった」


「そして戦争は?」


「終わった」


 キースは、それ以上すぐには聞かなかった。


 二つ。


 同じ場所。


 同じ人物。


 同じ戦い。


 途中まで同じ経過。


 最後だけが違う。


 いや、結末だけではない。


 原因と結果そのものが違っている。


 一つでは、


 《姫》が《王》を倒した。


 だから《王》は力を失った。


 もう一つでは、


 《王》が自分から力を解いた。


 だから戦いが終わった。


「別の戦いとの混同は?」


 キースが尋ねる。


「ない」


「《王》が過去に別の場所で武器を置いたことは?」


「知らぬ」


「後世に聞いた伝承が混ざった可能性は?」


 ヴァギュイザールは、今度は長く考えた。


「……それは、否定できぬ」


 キースはすぐに書く。


 ――後世伝承の混入:否定不能。


「夢で見た可能性」


「否定できぬ」


 ――夢:否定不能。


「精神干渉」


「分からぬ」


 ――精神干渉:不明。


「精霊特有の記憶継承」


「あり得る」


 メルリルが横から口を挟む。


「でしたら、そこを調べれば――」


「まだ」


 キースが止めた。


「まだ何も決めない」


「分かっておりますわ」


「君は分かった瞬間に実験しようとするからな」


「良い仮説は早く試すべきですもの!」


「長様の頭を開こうとするなよ」


「しませんわよ!」


「本当か?」


「……今は」


「今は!?」


 シビウがメルリルの外套を掴んだ。


「念のため、あんたはそこに座ってな」


「信用がありませんわ!」


「日頃の行いだ」


 僅かな笑いが広間へ戻る。


 だが、キースの頭は止まっていなかった。


「ヴァギュイザール」


「何だ」


「一つ目の記憶は、どの程度鮮明ですか?」


「昨日のことのように、とまでは言わぬ」


「二つ目は?」


「同じだ」


「片方だけ、夢のように薄い?」


「いや」


「片方だけ、誰かから聞いた話みたいな感覚は?」


「ない」


「どちらも」


 キースは慎重に言葉を選ぶ。


「自分が、その場で見た記憶として残っている?」


「ああ」


「どちらも?」


「どちらもだ」


 紅い瞳がキースを見る。


「わしは、《姫》が《王》を倒すところを見た」


 一つ。


「そして」


 老人の手が僅かに震える。


「《王》が自ら武器を置くところも見た」


 二つ。


「どちらも、同じ最後の戦だ」


 水の流れる音だけが聞こえた。


          *


「記憶が」


 メルリルが、今度は慎重に言った。


「二つに割れた?」


 キースは首を横に振る。


「まだ、その言葉は使わない」


「なぜですの?」


「《割れた》と言った時点で」


 キースは二本の指を立てる。


「元は一つだった、と決めることになる」


 メルリルの口が閉じた。


「元々、一つの記憶があった。それが何かによって二つへ分裂した」


「そうではない可能性もある?」


「分からない」


「最初から二つ?」


「それも決めない」


「では何と言いますの?」


 キースは帳面を見る。


 必要なのは、名前ではない。


 今確認できたことだけだ。


「同じ場面について」


 ゆっくり書く。


「互いに両立しない二つの因果を」


 続ける。


「本人が、どちらも自分自身の経験として保持している」


 そこまで書き、筆を置いた。


 ――同一場面。


 ――異なる二つの因果。


 ――双方を本人の経験として保持。


「これだけだ」


 メルリルが横から読む。


「本当に、それしか書かないんですの?」


「何を足す?」


「記憶分裂の可能性」


「可能性の欄には書く」


「歴史改変」


「証拠がない」


「異なる世界――」


「それも今はない」


「つまらないですわ!」


「調査記録に面白さを求めるな!」


 シビウが苦笑する。


「でも、あんたらしいよ」


「何が?」


「答えを出せないのに、そこまで嬉しそうな顔をしてるところ」


「嬉しくない」


「嘘つけ」


「……少しだけだ」


 知らないことが増えた。


 普通なら、喜ぶべきではない。


 それでも、何が分からないのかが、少しずつ見えてきている。


 それは、何も分からない状態とは違った。


          *


「他の証人は?」


 キースが尋ねる。


「同じ最後の戦を見た者」


「多くはもうおらぬ」


 ヴァギュイザールが答える。


「精霊は長く生きる。だが永遠ではない」


「他の三人なら?」


「コスモスは消えた」


「ソーサイアは?」


「去った」


「ケーオスは?」


「もともと、どこにいるのか分からぬ」


「《姫》は?」


 その問いで、ヴァギュイザールの表情が少し変わった。


「眠った」


「戦いのあと?」


「ああ」


「すぐに?」


「いや」


「どのくらい後?」


「人間の年月で言われても分からぬ」


「長かった?」


「わしには短かった」


 使えない。


 キースは諦める。


「《姫》が眠る前に、コスモスが消えた」


「はい」


 ローゼンが僅かに顔を上げる。


「《姫》は深く嘆いた。その後、我らは少しずつ別の道へ分かれた」


「それが四貴精霊の解散?」


「だから、そんな集団ではない」


「そうだった」


 キースは訂正する。


「後世の呼称に引っ張られた」


「自覚があるだけましですわね」


「君に言われたくない」


「ソーサイアとは何度殴り合ったか覚えておらぬ」


 ヴァギュイザールが遠い目で言った。


「あれは口も態度も悪かった」


「やはり気が合いそうですわ」


「会っても喧嘩するだけだと思う」


「それも楽しそうですわね!」


「君、絶対ソーサイア本人を怒らせるぞ」


「世界一のあなたが先に怒らせるのでは?」


「なぜ!」


 ヴァギュイザールが笑った。


 だが、その笑いが消えたあと、キースはもう一つ確認した。


「黄金の時代が終わったのは、この戦いのあと?」


「さっきも言ったであろう」


「世界の変化は、戦争が終わる前から始まっていた」


「ああ」


「そして戦争後、それがさらに進んだ?」


「そう覚えておる」


「どんなふうに?」


 老人は大樹の天井を見上げる。


「静かになった」


「静か?」


「世界がな」


 抽象的すぎる。


 だが、ヴァギュイザール自身にも、それ以上の言葉がないらしい。


「昔は、遠くの精霊の声が聞こえた」


「どのくらい遠く?」


「山をいくつ越えても」


「今は?」


「この森の外へ出れば、ずいぶん薄い」


「あなた自身が衰えた可能性は?」


「あろう」


「世界が変わった可能性も?」


「あろう」


「両方?」


「それもあろう」


 キースは、そこも分けて書く。


 ――ヴァギュイザール自身の老化・霊格低下。


 ――世界側の精霊接続条件変化。


 ――両者の複合。


 いずれも未確定。


「古い精霊たちの中には」


 ヴァギュイザールが続ける。


「以前の形を保てなくなった者もおった」


「死んだ?」


「死んだ者もいた」


「他は?」


「眠った。土地へ溶けた。姿を変えた。名だけ残った者もいる」


 サファイアが僅かに目を伏せた。


 キースは気づいたが、そこで彼へ質問を向けることはしなかった。


「では」


 メルリルが尋ねる。


「そのあとにエルフたちが?」


「ああ」


「あなたは白銀の時代も見た?」


「見た」


 全員がヴァギュイザールを見る。


 老人は、不思議そうに眉を上げた。


「何だ」


「いや」


 キースは思わず苦笑した。


「歴史書なら、《黄金の時代》と《白銀の時代》で頁が分かれる」


「そうか」


「あなたの場合、ただ次の日みたいに話すから」


「次の日ではない」


「分かってます」


「長かったぞ」


「あなたの《長かった》が信用できないんだ」


 ヴァギュイザールが笑う。


「白銀の時代には、エルフたちが栄えた」


「黄金時代の精霊文明を受け継いだ?」


「そういう者もいたのであろう」


「あなたはどう見ていた?」


「器用な者たちだと思った」


「器用?」


 老人は少し懐かしそうに言った。


「我らが失ったものを、そのまま取り戻そうとはしなかった」


 キースが目を上げる。


「どういう意味ですか?」


「昔と同じ精霊にはなれぬ。昔と同じ神々も戻らぬ」


 ヴァギュイザールは手を広げた。


「ならば、残ったものだけで別の暮らしを作る」


「それがエルフ文明?」


「わしには、そう見えた」


 本人の解釈。


 キースはそう添えて記す。


「古い歌。土地との約束。精霊との交わり。わしらの頃には必要のなかったものまで、あやつらは丁寧に形へした」


「必要なかった?」


「精霊同士なら、話せば済むことも多い」


「それを制度や儀式にした?」


「そうだ」


 キースは少し驚いた。


 現在から見れば、白銀時代のエルフ文明は十分に神話的だ。


 だが、黄金時代を生きたヴァギュイザールから見れば、すでにそれは――失われたものを文明によって補う時代だったのかもしれない。


「つまり」


 キースは確認する。


「白銀時代は、黄金時代がそのまま続いたわけじゃない」


「違う」


「神話の残りを、エルフたちが別の形で使った」


「そう見えた」


「それでも、現在より精霊との距離は近かった」


「ああ」


 黄金。


 白銀。


 黄銅。


 ただ価値が落ちていく三段階ではない。


 存在の仕方そのものが変わっている。


「人間は?」


 シビウが尋ねた。


「白銀時代にもいたんだろ?」


「おった」


「でも世界の中心ではなかった?」


「中心という言葉が何を指すかによる」


 ヴァギュイザールは少し考える。


「数は増えておった。国もできた。だが、今ほどどこへ行っても人間ばかりという時代ではなかった」


「では」


 キースが聞く。


「黄銅の時代への移行は見た?」


「見たと言えば見た」


「また曖昧だな」


「境目など知らぬ」


「大事件があったわけではない?」


「少なくとも」


 ヴァギュイザールは首を振った。


「黄金が終わった時ほど、わしには分からなかった」


 キースは、その言葉を記した。


「人間の国が増えた。道が繋がった。金が遠くまで流れるようになった。ドワーフどもは、それをうまく使った」


「ドワーフが?」


「あやつらは昔からしぶとい」


 ヴァギュイザールが笑う。


「世界が変わるたび、いつの間にか次のやり方を覚えておる」


 現在。


 産業。


 鉱業。


 金融。


 物流。


 人間中心社会の中で、人口以上の存在感を持つドワーフ。


 それが一朝一夕に生まれたものではないのかもしれない。


「エルフは?」


 ローゼンが静かに尋ねた。


 ヴァギュイザールの笑みが消える。


「苦労した」


 短い答えだった。


「白銀の時代を作った者たちが?」


「ああ」


「なぜ?」


「分からぬ」


「精霊との繋がりが弱くなったから?」


「そういう者もおった」


「人間社会へ適応できなかった?」


「そういう者もおった」


「文明そのものが衰退した?」


「そういう国もあった」


 ヴァギュイザールは首を振った。


「一つにするな」


 キースは目を上げた。


「何が?」


「エルフが衰えた理由だ」


 老人の紅い瞳がキースを見る。


「国ごとに違う。森ごとに違う。人によっても違った」


 それは、《精霊戦争》について彼が言ったことと同じだった。


 後世は、一つの名称へまとめる。


 エルフの時代が終わった。


 人間の時代になった。


 言葉にすれば、一行で済む。


 だが実際には、無数の国が興り、無数の森が消えた。別の場所では残り、人間と共に生きる者もいれば、拒んだ者もいる。


 そして結果だけを後から見れば、白銀は終わり、黄銅が始まっていた。


「では」


 キースは帳面へ視線を落とす。


「黄金から白銀への移行と、白銀から黄銅への移行は、同じ種類の変化だとは言えない」


「わしにはな」


「黄金の終わりには、世界そのものが変わったように見えた」


「ああ」


「白銀の終わりには?」


「世界も少しずつ変わったのかもしれぬ」


「でも」


「人々の方が変わっただけでも、かなり説明できる」


 キースは頷いた。


 ここも重要だった。


 何でも一つの巨大現象へ結びつけない。


 《ラグナ――》。


 その音が、頭の奥へ浮かびかける。


 まだ。


 キースは口にしなかった。


 その名を、この話へ置くには材料が足りない。


          *


「今日は、ここまでにしよう」


 サファイアが言った。


 ヴァギュイザールの肩が、先ほどより少し下がっている。


「長にも休んでもらった方がいい」


「すまぬな」


 老人は目を閉じた。


「昔話をするだけのつもりが、余計な謎を増やしたようだ」


「そのために来たんです」


 キースは帳面を閉じる。


「謎を増やすために?」


「違います」


「でも増えましたわね」


「君は嬉しそうに言うな」


「実際、面白いでしょう?」


「……否定はしない」


 シビウが呆れたように息を吐いた。


「二人とも、似た者同士だよ」


「違う」


「違いますわ」


 声まで揃った。


 ローゼンが笑う。


 キースは改めてヴァギュイザールへ向き直った。


「最後に、一つだけ確認させてください」


「何だ」


「あなたは、今日話したことについて」


 言葉を選ぶ。


「嘘をついていない?」


「そのつもりだ」


「《姫》が《王》を倒した記憶も」


「ああ」


「《王》が自分から武器を置いた記憶も」


「ああ」


「どちらも、自分自身の経験として覚えている」


「そうだ」


「それから」


 キースはもう一つ追加する。


「精霊戦争が終わる前から、世界の変化は始まっていた」


「ああ」


「でも、それが戦争のせいだったかは分からない」


「分からぬ」


「戦争を終わらせた原因だったかも?」


「分からぬ」


「黄金の時代が終わった原因も?」


「分からぬ」


「それでいい」


 ヴァギュイザールが僅かに眉を上げた。


「よいのか?」


「分からないことを、分かった形にするよりは」


 キースは帳面を軽く叩く。


「ずっといい」


 老人の表情が少し和らいだ。


「そなたは、若いわりに年寄りじみたことを言う」


「十八です」


「知っておる」


「年寄りじゃない」


「わしから見れば、昨日生まれたようなものだ」


「その基準はずるい!」


 久しぶりに、広間へ笑いが戻った。


          *


 大樹の広間を出ると、ラルソウムには穏やかな昼の光が満ちていた。


 子どもの姿をした精霊たちが大樹の根を滑り降り、光る蝶のようなものを追いかけている。水路では小さな石たちが流れを避けるように並び替わり、精霊たちが渡れる足場を作っていた。


 前日と同じ里。


 何も変わっていないように見える。


 しかしキースには、少し違って見えた。


 黄金の時代。


 当時、精霊が生きるとはどういうことだったのか。


 今のラルソウムさえ、その時代の残りではないのかもしれない。


 これはこれで、長い時代を越えて現在まで残るために形を変えた、精霊たちの暮らしなのかもしれない。


「どう思う?」


 シビウが隣へ来た。


「何を」


「全部」


「範囲が広い」


「じゃあ、二つの終戦」


 キースは歩きながら考えた。


「どちらかが間違っている、というのが普通だ」


「普通じゃなかったら?」


「分からない」


「またそれかい」


「悪いか?」


「いや」


 シビウは少し笑った。


「前より、その答えを嫌がらなくなったと思ってね」


 キースは返事をしなかった。


 以前なら、分からないと言うことは、負けたように感じていたかもしれない。


 今は少し違う。


 分からないなら、境界を決めればいい。


 ここまでは分かる。


 ここから先は分からない。


 それを切り分ける。


 その先は、また調べればいい。


「わたくしは調べますわよ!」


 後ろからメルリルが走ってくる。


「何を?」


「全部ですわ!」


「また範囲が広い」


「まず《精霊戦争》です」


 一本。


「《姫》と《王》の戦線だけではない戦争記録」


 二本。


「神格が参加していた記録」


 三本。


「巨人関連」


 四本。


「四貴精霊という呼称が、いつ成立したか」


「それは重要だな」


「でしょう?」


「それから」


 キースも指を立てた。


「黄金・白銀・黄銅という時代区分自体の成立時期」


「それもですわ!」


「黄金の時代の人たちが、自分たちを黄金時代と呼んでいたとは思えない」


「ヴァギュイザール様も妙な名だとおっしゃってましたものね」


「つまり」


 キースは考える。


「時代名自体にも、後世の解釈が入っている」


 ローゼンが振り返った。


「でしたら、もっと古いものをご覧になりますか?」


 キースとメルリルが同時に彼を見る。


「もっと古い?」


「はい」


「精霊戦争より?」


「さらに古いものでございます」


 キースの目が変わる。


「何が残ってる?」


「歌が」


「歌?」


「世界の始まりについて歌ったものだと聞いております」


「創世歌」


「三つございます」


 キースが止まった。


「三つ?」


「はい」


 ローゼンは少し困ったように微笑んだ。


「どれも、少しずつ違うそうです」


「どこが?」


 メルリルが身を乗り出す。


「世界が」


 ローゼンは答えた。


「どのように始まったのかが、でございます」


 キースとメルリルは顔を見合わせる。


「成立年代は?」


 キース。


「伝承経路は?」


 メルリル。


「保存状態は?」


「歌詞の差異は?」


「古形は?」


「旋律も違いますの?」


 二人が同時に質問する。


 ローゼンが少し後ずさった。


「わ、わたくしには……」


「落ち着きな」


 シビウが二人の頭を軽く叩いた。


「痛い!」


「何をなさいますの!」


「ローゼンを追い詰めるんじゃないよ」


「調査です!」


「二人がかりで尋問してただろ」


 フユが、横からぽつりと言う。


「怖かった」


「フユまで!」


 キースは咳払いした。


「……案内してくれる?」


「はい」


 ローゼンが笑う。


「三つとも残っております」


「一つが原形で、残りが変化した可能性は?」


「分かりません」


「よし」


「何がよしなんですの?」


 シビウが呆れる。


「比較できる」


「やはりそう来ましたわね!」


 メルリルが楽しそうに笑った。


「三つあるなら、違うところだけじゃない。同じところも見られる」


「わたくしも同じことを考えておりましたわ!」


「真似するな」


「あなたがわたくしを真似したのでしょう!」


「今、私が先に言った!」


「考えたのはわたくしが先ですわ!」


「証明できるか!」


「頭を開けば!」


「開くな!」


 ラルソウムの大樹に、二人の声が響いた。


          *


 歩き出してから、キースは一度だけ後ろを振り返った。


 根の奥。


 もう、ヴァギュイザールの姿は見えない。


 それでも、老人の言葉は帳面の中だけではなく、頭の中にも残っていた。


 《姫》が《王》を倒した。


 《王》は敗れた。


 だから、力を失った。


 もう一つ。


 《王》はまだ戦えた。


 誰にも敗れていなかった。


 それでも自ら武器を置き、力を解いた。


 だから、戦いが終わった。


 二つの終戦。


 どちらも、一人の精霊が自分自身の目で見た記憶だという。


 そして、その戦争が終わる前から、黄金の時代そのものも変わり始めていた。


 昨日まで通れた道が閉じた。


 古い精霊が姿を保てなくなった。


 神々が直接姿を見せなくなった。


 戦争が世界を変えたのか。


 変わり始めた世界が、戦争を終わらせたのか。


 今は分からない。


 そのあとに白銀の時代が来た。


 エルフたちは、黄金をそのまま取り戻したのではない。失われたものを残った形へ変え、文明として継いだ。


 そして、その白銀もいつしか終わった。


 現在は黄銅。


 人間が最も多く、ドワーフが産業や商いに強く、かつて世界を栄えさせたエルフは以前ほどの力を持たない。


 歴史書なら、三つの時代を三行にできる。


 だが、その三行のあいだには、どれほど多くの出来事が落ちているのだろう。


 精霊戦争という名前が、無数の戦争を一つにまとめたように。


 四貴精霊という名前が、四者を同じ存在分類へまとめたように。


 黄金。


 白銀。


 黄銅。


 それらの名前もまた、後から過去へ与えられた一つの形なのかもしれない。


 ならば、名前から先に世界を理解してはいけない。


 まず、残っているものを見る。


 記録。


 記憶。


 歌。


 遺跡。


 そこから、何が一致し、何が一致しないのかを確かめる。


「キース?」


 ローゼンが前から呼んだ。


「何をしておられるのです?」


「今行く」


 キースは答え、歩き出す。


 次に調べるのは、世界の始まりを歌う三つの歌。


 一つの世界に、三つの始まり。


 まだ、それが何を意味するのかは分からない。


 だからこそ、調べる価値があった。

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