第十六章 三つの創世神話
ラルソウムに残るもっとも古い歌は、誰も最後まで歌えないのだという。
その話を聞いたとき、キースには意味が分からなかった。長い年月のうちに歌詞が欠け、失われた部分があるのだろうと思ったのだが、ローゼンはそうではないと首を横に振った。
「長すぎるのでございます」
「どのくらい?」
「分かりません」
「歌い終えた者はいないのか?」
「途中で、次の方へ渡しますので」
大樹の根元を歩きながら、ローゼンはごく当たり前のことを説明するように答えた。
「一人の精霊が、すべてを覚えているわけではございません。ある方は最初のところを、別の方は途中を、そのまた別の方は終わりに近い部分を覚えております。木や水が覚えているところもございます」
「つまり、歌そのものを里全体で保存している?」
「そのようにお考えいただくのが、近いかもしれません」
キースは素直に感心した。
人間なら、おそらく一冊の書物へまとめようとする。原本を定め、写本を作り、異本を比較し、欠落を補いながら、もっとも古い形を復元しようとするだろう。
だが、ラルソウムではそうしない。
歌は歌のまま残される。一人の声が途切れれば、別の声が続きを受け取る。精霊が消えれば、その者が覚えていた一節を木や花、水や風から受け継ぎ、また別の者が歌う。
記録というより、それ自体が一つの生き物に近かった。
「それでは、内容が変わらない保証がないでしょう?」
案の定、メルリルが食いついた。
「歌い手が変わるたび、語句や旋律が変化する可能性がありますわ。保存媒体が精霊、植物、水、石と統一されていないなら、なおさらです」
「変わることもございます」
ローゼンはあっさり認めた。
「それでは史料として問題がありますわ!」
「だから、歌なのでございます」
「その答えで納得しろと?」
「わたくしはしております」
メルリルが頭を抱える。
少し前までなら、キースも隣で同じことを言っただろう。だが今は、完全には同意できなかった。
紙へ書かれたから正しいとは限らない。アムドアの石刻では、年代記号の読み方一つで推定年代が変わった。それでも、異常な古さだけは消えなかった。
さらに、つい先ほど《紅獅子の君》ヴァギュイザール自身が、同じ戦争について二つの因果を記憶していると証言したばかりだ。
《王》は敗れたから、力を失った。
《王》は自ら力を捨てたから、戦いが終わった。
同じ場所。同じ時。同じ人物。そして同じ証人。
それなのに、原因と結果が二つある。
文字だけではない。記憶そのものまで食い違っている。
だからこそ、もっと古い時代へ遡る必要がある。
精霊戦争より前。
《王》と《姫》の争いよりも前。
世界が始まったと語られるところまで。
「どこから違い始めたのか」
キースが呟くと、ローゼンが振り返った。
「はい?」
「アムドアの記録も、ヴァギュイザールの記憶も食い違っていた。でも、二つが同じ種類の食い違いだとはまだ分からない」
「はい」
「だから、もっと古い資料を見る」
メルリルが頷いた。
「どこかまで遡れば、一つへまとまる可能性がありますものね」
「ああ」
キースは一拍置いてから続けた。
「逆に、最初からまとまっていない可能性もある」
「それはそれで面白いですわ」
「世界が壊れそうなのに、本当に楽しそうだねえ」
シビウが呆れた声を出す。
「楽しいわけじゃない」
「面白いだけですわ!」
「君は言い切るな!」
ローゼンが小さく笑った。
「こちらでございます」
彼女が足を止めた。
*
大樹の幹に、ぽっかりと口を開けた空洞があった。
ヴァギュイザールと会った広間よりは狭い。けれど天井は遥かに高く、奥は薄暗くて見通せない。壁面には無数の細い根が走り、その隙間へ石片、貝殻、乾いた花、羽、半透明の結晶、朽ちた木片といったものが挟み込まれている。
人間の目には、何の秩序もなく集められたものにしか見えなかった。
「ここが?」
「《歌蔵》と呼ばれております」
「書庫ではなく?」
「書物はほとんどございませんので」
当然のような返答だった。
中にはサファイアが待っていた。その傍らには、幾分顔色を取り戻したヴァギュイザールもいる。
「長様まで?」
ローゼンが心配そうに近づいた。
「寝ていた方がよいのではございませんか」
「老人扱いするでない。少し昔を思い出しすぎただけだ」
「十分に老人でしょう」
サファイアが穏やかに言う。
「サファイアまで言うか」
「事実だからね」
ヴァギュイザールは不満そうだったが、先ほどのような深い疲労は見えない。キースは少し安心した。
「三つの創世歌について、最初に成立状況を確認させてください」
「ああ」
サファイアが頷く。
「正確には、創世について語っている歌が三系統残っている、と言った方がいい」
「三つの異本ではない?」
「違う。それぞれ、かなり古い段階から別の伝承経路を持っている」
サファイアは壁へ近づき、根の間に挟まれた白い石へ手を触れた。
「第一歌は、主に石と古い樹木へ残った。第二歌は、声と風による伝承が多い。第三歌は少し変わっていて、言葉より旋律の方が古い」
「成立年代は?」
キースとメルリルが同時に尋ねた。
二人は顔を見合わせる。
「真似しないでくださる?」
「私の方が先だった」
「同時ですわ」
「どちらでもよい」
サファイアが苦笑した。
「それが分かれば、我々も長いあいだ悩んではいない」
「年代を決められない?」
「下限なら、ある程度は推測できる。少なくとも三つとも、精霊戦争以前には存在していたと考えられている」
「三つとも?」
「ああ」
キースの表情が変わった。
「一つの古歌から、後世に三つへ枝分かれした可能性は?」
「当然、何度も疑われてきた」
メルリルもすぐに続く。
「保存媒体そのものの年代は?」
「かなり違う」
「なら、媒体が古い順に並べても意味はありませんわね。後から移された可能性がありますもの」
「ああ」
「魔導的な経年測定は?」
「行われている。ただし、古すぎて誤差が大きい」
「石の変質は?」
「調べられている」
「樹木は?」
「生存年代から下限を取れるものもある」
メルリルは、すでに完全な実地調査の顔になっていた。
キースは別のところを見る。
「語彙は?」
「違う」
「同じ語句を引用している形跡は?」
「確認できない」
「一方が他方を否定する表現は?」
「ない」
「後世の宗派争いで作られた可能性は?」
「それらしい痕跡はない」
メルリルがキースを見る。
「物はわたくし」
「文章は私」
ほとんど同時に役割が決まった。
シビウが呆れた。
「息合ってるじゃないか」
「よくない!」
「よくありませんわ!」
今度は完全に同時だった。
ローゼンが笑いを堪えている。
サファイアは静かに続けた。
「言葉が変わった部分もある。旋律が変化した部分もあるだろう。歌は生きているからね」
「では、完全な原形は残っていない?」
キースが訊く。
「その可能性が高い」
「それでも三つとも古いと?」
「ああ。古語、旋律構造、記憶を預けられた樹木の年代、石の変質、後世に生まれた概念が混じっていないか。確認できる範囲で何度も調べられてきた」
「結果は?」
メルリルが尋ねる。
「どれも古い」
「三つとも?」
「三つとも」
「どれが最古ですの?」
「決められない」
メルリルの顔が険しくなった。
「第一歌が原形で、第二、第三がそこから派生したとする証拠は?」
キースが訊く。
「ない」
「第二から第一が生まれた証拠も?」
「ない」
「第三が最古とも?」
「言えない」
キースは帳面を開いた。
頁を横向きに使い、縦へ二本の線を引く。
三列。
「また分類していますの?」
メルリルが覗き込んだ。
「並べないと、どこが違うのか分からない」
「まだ歌すら聞いておりませんわよ」
「だから空欄だ」
一列目へ《第一》。
二列目へ《第二》。
三列目へ《第三》。
その下に、成立、保存、世界、ケーオス、コスモス、サーガ、始まり、と短く項目だけを書いた。
「好きですわねえ、そういうの」
「悪いか」
「いいえ。わたくしは石を調べますので、あなたは文字と話を整理してくださいませ」
「最初からそのつもりだ」
シビウがまた言う。
「やっぱり仲いいじゃないか」
「だから違う!」
サファイアが笑った。
「三つとも、簡単には捨てられずに残っている」
壁へ収められた保存物を見渡し、穏やかに続ける。
「どれが真実かを教えるために見せるわけではない。まず、その事実を見てもらうためだ」
キースは頷いた。
ヴァギュイザールの記憶と同じだ。
正しいものを先に選ばない。
そこにあるものを、そこにある形で見る。
「聞かせてください」
キースは言った。
「三つとも」
*
第一歌を歌ったのは、ヴァギュイザールではなかった。
歌蔵の奥から現れたのは、人の姿を半ば失いかけた古い精霊だった。背はキースの胸ほどしかなく、その身体は薄い樹皮のようなもので覆われている。
名はないという。
あるいは、昔は持っていたのかもしれない。
ただ、今は使っていない。
「最初の節だけは、この者がもっともよく覚えている」
ヴァギュイザールが紹介した。
古精霊は大樹の根へ手を添える。
すると、空洞の奥で低い響きが生まれた。弦でも笛でもない。大樹の内部に見えない空洞があり、そこを遠い風が通り抜けているような音だった。
古精霊が歌い始める。
言葉は、キースの知らない古語だった。ローゼンでさえ完全には理解できないらしく、サファイアがところどころを現代の言葉へ置き換えていく。
歌は、何もないところから始まった。
光はない。闇さえない。
空も、大地もない。
時もまだなく、それらを呼ぶための言葉さえ存在しない。
そこに《サーガ》だけがいた。
ひとりだった。
なぜ存在していたのかは語られない。いつからいたのかも歌われない。
ただ、ひとりであった。
長い孤独の中で、サーガは自分ではないものを望んだ。
その願いから、《ケーオス》が生まれる。
形を持たぬもの。
あらゆる形になり得るもの。
無限をその内に抱き、まだ存在していないものさえ、可能性として眠らせるもの。
ケーオスは、サーガの傍らへ現れた。
そして、ケーオスの深みから白き《コスモス》が生じた。
コスモスは、散らばった可能性へ形を与えた。
上と下。
遠くと近く。
内と外。
昨日と明日。
星々の巡り。
世界の輪郭。
まだ何者も住んでいなかった場所へ、初めて秩序が生まれた。
やがてケーオスとコスモスは互いに触れ、そのあわいから数多のものが生まれていく。
神々。
精霊。
獣。
人。
山。
海。
空。
名を持つもの。
そして、未だ名を持たぬもの。
さらに歌の一節では、世界へ形を与えるため、ケーオスが自らの一部を材料として差し出したとも語られた。その欠片はあらゆる存在の内へ残り、ゆえに世界のすべては今も僅かな〈混沌〉を宿しているという。
キースは思わず顔を上げた。
メルリルも、ほとんど同時だった。
「イース」
キースが呟く。
「ええ」
メルリルの声も低い。
古い魔導理論の一部では、人間の魔導は世界に残る〈混沌〉の名残へ働きかけることで成立するとされる。
証明された理論ではない。
異説も多い。
それでも、もしこの歌が本当に精霊戦争以前から存在したなら、人間側の魔導理論より遥かに古いところに、似た構造の考えが残っていたことになる。
「偶然の一致?」
メルリルが小声で言う。
「候補の一つ」
「人間側へ伝わった」
「ある」
「共通するもっと古い伝承があった」
「ある」
「実際に同じ構造を、それぞれ別に観測した」
「それも残る」
「また全部ですの!」
「今、一つへ絞る材料がない!」
シビウが二人を横目で見る。
「歌を聞いてる途中だよ」
二人とも口を閉じた。
やがて古精霊は声を止める。
歌が終わったわけではない。ただ、その精霊が受け持つ部分が終わったのだ。
旋律そのものはなお大樹の奥を伝い、遥か遠くで別の何かが続きを歌っているようにも聞こえた。
「これが第一歌」
サファイアが言った。
キースは帳面へ視線を落とす。
第一列。
サーガ。
最初。
ケーオスを生む。
ケーオスからコスモス。
世界へ秩序。
そこまで書いてから、短く矢印を引いた。
サーガ。
ケーオス。
コスモス。
世界。
「人間側にも、かなり近い創世説がある」
「同じ話を?」
ローゼンが尋ねた。
「ああ。ただし、人間へ伝わったから同じになったのか、もともと共通していたのかまでは分からない」
メルリルが少し意外そうに彼を見る。
「最初から決めつけませんのね」
「昨日まで何を見てきたと思ってる」
「成長なさいましたわ」
「うるさい」
ヴァギュイザールは歌の余韻へ耳を傾けていた。
「わしが若かった頃には、この第一歌がもっとも正しいのだろうと思っておった」
「なぜです?」
ローゼンが尋ねる。
「分かりやすいからだ」
老人は苦笑した。
「最初の者がいる。そこから二番目が生まれ、三番目が生まれる。その後に世界ができる。物語として実に美しい」
キースにも、その感覚はよく分かった。
因果がある。
順序がある。
始まりがある。
神官として教えられてきた神話の多くも、そういう形を好んだ。
「神話では、後の時代ほど系譜が整うことがある」
キースが言った。
「後になるほど?」
ローゼンが尋ねる。
「ああ。古い祭祀文では『いつの間にかそこにいた』程度だった神が、後世の写本では誰かの子になったりする」
メルリルがすぐ反応した。
「では、第一歌が三つの中でもっとも新しい?」
「そうは言ってない」
「今、後世ほど順番を整理すると」
「そういう傾向がある、と言っただけだ」
キースは第一列を指す。
「第一歌そのものが古いことは、保存状態からも否定できない」
メルリルが口元を僅かに上げた。
「そこ、わたくしの担当ですわね」
「ああ」
「石と樹木の方は、あとで見ますわ」
「頼む」
「素直ですこと」
ヴァギュイザールが笑った。
「だが、第二歌は最初からその分かりやすさを壊しに来る」
*
第二歌には、歌い出しがなかった。
どこから歌い始めても、そこが始まりになるのだという。
今回、歌を受け持ったのは三人の精霊だった。一人は若い娘の姿。一人は老人。もう一人は姿を見せず、風の音だけで歌へ加わった。
三つの声が互いを追い、離れ、また重なりながら旋律を紡いでいく。
第一歌とは、まるで違った。
何もない場所から始まらない。
歌が開いたその瞬間、すでに《ケーオス》と《コスモス》が存在している。
黒きもの。
白きもの。
ただし、それは善と悪ではない。
形を持たず、無数の可能性を抱くケーオス。
形を与え、関係を結び、存在を保つコスモス。
二つは争っているわけではなかった。
混ざる。
離れる。
崩れる。
結ばれる。
その繰り返しの中から星が生まれ、世界が生まれ、また消えていく。
そこへ、ある時、《見るもの》が現れた。
見る。
覚える。
起きたことを、起きたこととして残す。
それが《サーガ》だった。
この歌では、サーガが何かを作ったとは語られない。
ただ、ケーオスとコスモスの間で生じ続けていたものを見た。
星が生まれたこと。
世界が形を得たこと。
形が再び崩れたこと。
その一つ一つを覚えた。
そして、覚えられたものは、それ以前よりも長く残るようになった。
名を得たのか。
物語を得たのか。
あるいは、単に忘れられなくなったのか。
歌は説明しない。
ただ、サーガが見たものには《続き》が生まれたと歌う。
キースは黙って帳面へ書いた。
第二列。
ケーオス。
コスモス。
世界。
サーガ。
その横へ、
――創造者ではなく、観測。
と添える。
「第一歌では、サーガが創造の起点」
メルリルが小声で言った。
「第二歌では観測者ですわね」
「ああ」
「ほとんど別の創世神話ですわ」
キースはすぐには答えず、第一列と第二列のあいだへ視線を往復させた。
「……全部が違うわけじゃない」
「どこが同じですの?」
「まだ二つだけだ」
「では二つで」
キースは帳面を指した。
「ケーオスはいる」
「ええ」
「コスモスもいる」
「ええ」
「サーガもいる」
「順番が違いますわ」
「そこだ」
キースが言った。
「存在するものそのものが違うんじゃない」
第一列では、サーガが最初。
第二列では、ケーオスとコスモスが先。
「違うのは、《誰を最初に置くか》だ」
メルリルが僅かに目を細める。
「つまり」
「第一歌と第二歌は、世界に何が存在するかではなく」
キースは言葉を探した。
「《世界の始まりを、どこへ置くか》で食い違っている」
サファイアが静かにキースを見る。
ヴァギュイザールも。
「まだ二歌だけだ」
キースは自分で釘を刺した。
「三つ目を聞くまでは結論にしない」
メルリルが笑う。
「本当に慎重ですわね」
「ヴァギュイザールの話を聞いた直後だぞ」
「それもそうですわ」
やがて第二歌も途切れ、風だけがしばらく大樹の空洞を巡っていた。
「この歌のサーガは」
キースはサファイアへ尋ねる。
「神なのか?」
「歌の中では、その言葉は使われていない」
「精霊?」
「それも」
「人?」
「もちろん違う」
「何なんだ」
サファイアは少し考えた。
「見る者」
「それだけ?」
「記す者、と訳す者もいる。覚える者。語る者。続きを持たせる者。古語一つに幾つもの意味が重なっているから、現代語では完全に置き換えられない」
「サーガというのは固有名なのか?」
「そこも分からない」
キースは眉を寄せた。
「分からない?」
「最初から《サーガ》という一個の存在を呼んだ名なのか。それとも『記すもの』に近い意味の語が、後に名として扱われるようになったのか」
「そんな根本から?」
「ああ」
「それなら」
キースは第二列の《サーガ》という文字へ小さな印をつけた。
「現代語へ訳した時点で、意味を一つに固定している可能性がある」
「そうだね」
「第一歌の《生まれる》も?」
「同じ問題はある」
メルリルが顔をしかめる。
「翻訳まで疑い始めると、何も残りませんわよ」
「だから原語と現代語を分ける」
「本当に神官ですわね」
「それはどういう感想だ」
「細かい」
「古典を読むなら普通だ!」
「普通ではない、という話を昨日もしましたでしょう?」
キースは反論しかけて、止めた。
「第三歌は、もっと酷いぞ」
ヴァギュイザールが楽しそうに言った。
「長様」
ローゼンが少し咎める。
「何じゃ。事実であろう。若い頃のわしは、あの歌を聞くたび腹が立った」
「なぜ?」
シビウが尋ねる。
「何を訊いても、答えが返ってこぬからだ」
「今のキースには一番効きそうだね」
「どういう意味だ」
「そのままだよ」
*
第三歌は、最初は言葉ですらなかった。
水音だった。
歌蔵の奥で、細い泉が湧く。
根の隙間から滲み出した水が浅い窪みへ静かに溜まり、その水面へ光る花弁が一枚落ちる。
波紋が広がった。
一つ。
それに重なって、もう一つ。
やがて、どこからともなく声が加わった。
誰が歌っているのか分からない。
老いた声。
若い声。
男の声。
女の声。
幾つもの響きが水音の底へ溶け、ひとつの旋律を作っていく。
言葉は、非常に少なかった。
第一歌のように創造の順序を語らない。
第二歌のように三者の役割も定めない。
ただ、
ケーオスがある。
コスモスがある。
サーガがある。
どれが先か。
その問いそのものが、歌の中には存在していなかった。
ケーオスは、コスモスがあるときにはすでにある。
コスモスは、サーガが見るときにはすでにある。
サーガは、ケーオスについて語られるときには、すでにそこにいる。
輪のようだった。
どこを指しても、その前がある。どこまで戻っても、別の何かへ繋がっていく。
そして歌は、やがて奇妙な一節へ入った。
始まりがあったから、世界が始まったのではない。
世界が続くようになったあとで。
生きる者たちが、過ぎたものを振り返るようになったあとで。
彼らは、続いているものには最初があるはずだと考えた。
そこで初めて、《始まり》が生まれた。
キースは息を止めた。
逆だ。
あまりにも逆だった。
普通なら、始まりが先にある。何かが生じ、その後に続きが生まれる。
だが、この歌では違う。
すでに続いている世界を説明するために、後から《始まり》という考えが作られる。
ならば、その前は。
その問い自体に意味がない。
歌は、そう告げている。
「……無茶苦茶だ」
キースはとうとう耐えきれず、呟いた。
ヴァギュイザールが大笑いする。
「分かるぞ。わしもそう言った」
「こんなもの、創世神話と呼べるのか?」
「だから人間には嫌われるのかもしれませんわね」
メルリルは、むしろ興味を深めていた。
「創世を語っているのに、唯一の創世点を置かない」
「正確には」
サファイアが言った。
「創世そのものを否定しているのではない。《唯一の最初》を置かないんだ」
「同じようなものだろう」
「少し違う」
サファイアは水面へ視線を落とした。
「第三歌にも、世界が形を変えた時代はある。何かが生まれた出来事もある。ただ、それらをすべて遡って、一つの最初へ集める必要はない、と歌っている」
「では、サーガも、ケーオスも、コスモスも?」
「始まりを持たない」
「いつから存在した?」
「その問いそのものが、後から生まれた概念だというのが第三歌だ」
キースは額へ手を当てた。
「本当に腹が立つな」
「でしょう?」
珍しくヴァギュイザールと意見が一致した。
シビウが呆れたように二人を見る。
「あんたら、答えがないとそんなに困るのかい」
「困る」
「困りますわ」
キースとメルリルの声が重なる。
「世界の始まりだぞ。存在したのか、しなかったのか。誰が最初だったのか。それくらい――」
「それくらい、何?」
シビウに問い返され、キースは言葉を止めた。
「知らないと、今日の飯が食えない?」
「そういう話ではない」
「じゃあ、何が困るんだい」
「……世界の理解が」
「始まりが分からなきゃ、今ある世界がなくなるの?」
「なくならない」
「なら、今はそれでいいんじゃないの」
あまりにも簡単に言われた。
キースは反論しようとして、口を閉じる。
シビウには前世もない。古代の記憶も、世界一の魔力も、神学者としての教育もない。
だからこそ、ときどきキースたちが何日も頭を抱えるような問題を、まったく違う場所から見てしまう。
「学者には、それでよくない」
「そうかい」
「だが」
キースは水面へ広がる波紋を見た。
「今すぐ一つに決める必要はない、というところまでは同意する」
シビウが笑った。
「進歩したねえ」
キースは帳面へ戻った。
三列目。
ケーオス。
コスモス。
サーガ。
三つとも記す。
その上に、
――先後関係なし。
さらに、
――《始まり》そのものが後世の概念。
と書いた。
しばらく三列を見比べる。
「どうしましたの?」
メルリルが覗く。
キースは答えず、第一列の三つの名を指した。
次に第二。
最後に第三。
「メルリル」
「何ですの?」
「さっき、ほとんど別の創世神話だと言ったな」
「ええ」
「半分は正しい」
「半分?」
「三つとも、話の順番は違う」
第一歌。
「サーガが最初」
第二歌。
「ケーオスとコスモスが先で、サーガは後から見る」
第三歌。
「そもそも《先》という問いを置かない」
「ですから、違いますでしょう?」
「違う」
キースは頷いた。
「でも、違っている場所がはっきりした」
メルリルが黙る。
「三歌とも、ケーオスを消していない」
「ええ」
「コスモスも」
「ええ」
「サーガも」
「……ええ」
「そして、世界が今まで続いていることも否定していない」
メルリルの目が少し細くなる。
「つまり?」
「三つが争っているのは」
キースは三つの《始まり》の欄を指した。
「《世界が存在するか》じゃない」
一。
サーガ。
二。
ケーオスとコスモス。
三。
最初そのものを置かない。
「《何を始まりと呼ぶか》だ」
しばらく、誰も口を挟まなかった。
メルリルが三列を見直す。
「……なるほど」
「第一歌は、始まりを一人の存在へ置く」
キースは整理していく。
「第二歌は、すでに動いているケーオスとコスモスの働きへ置く」
「第三歌は」
メルリルが引き取った。
「始まりそのものを、後世の者が世界へ与えた説明だとする」
「ああ」
「存在するものは、かなり重なっている」
「ああ」
「でも」
メルリルは帳面を指した。
「関係と順序が違う」
「だから、そこを見る」
キースは答えた。
「三つ全部を《全然違う話》として分けるのも早いし、一つの原話が変形しただけだとまとめるのも早い」
ヴァギュイザールが静かに笑った。
「なるほど」
「何です?」
「そなたを呼んだ理由が、少し分かった」
キースが眉を上げる。
「長までメルリルみたいなことを」
「わたくしの方が先ですわ!」
「競うところか?」
サファイアも三列を見ていた。
「我々は三つを長く保存してきた」
穏やかに言う。
「ただ、違う歌として扱うことに慣れすぎていたのかもしれない」
「同じ歌だとは言ってません」
「分かっている」
サファイアは笑った。
「何が違い、何が同じかを分けて見る。その視点の話だ」
キースは帳面へ目を落とした。
資料を整理する。
それだけのことだった。
少なくとも、本人にとっては。




