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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第三部 精霊たちは二つの過去を覚えている
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第十六章 三つの創世神話

 ラルソウムに残るもっとも古い歌は、誰も最後まで歌えないのだという。


 その話を聞いたとき、キースには意味が分からなかった。長い年月のうちに歌詞が欠け、失われた部分があるのだろうと思ったのだが、ローゼンはそうではないと首を横に振った。


「長すぎるのでございます」


「どのくらい?」


「分かりません」


「歌い終えた者はいないのか?」


「途中で、次の方へ渡しますので」


 大樹の根元を歩きながら、ローゼンはごく当たり前のことを説明するように答えた。


「一人の精霊が、すべてを覚えているわけではございません。ある方は最初のところを、別の方は途中を、そのまた別の方は終わりに近い部分を覚えております。木や水が覚えているところもございます」


「つまり、歌そのものを里全体で保存している?」


「そのようにお考えいただくのが、近いかもしれません」


 キースは素直に感心した。


 人間なら、おそらく一冊の書物へまとめようとする。原本を定め、写本を作り、異本を比較し、欠落を補いながら、もっとも古い形を復元しようとするだろう。


 だが、ラルソウムではそうしない。


 歌は歌のまま残される。一人の声が途切れれば、別の声が続きを受け取る。精霊が消えれば、その者が覚えていた一節を木や花、水や風から受け継ぎ、また別の者が歌う。


 記録というより、それ自体が一つの生き物に近かった。


「それでは、内容が変わらない保証がないでしょう?」


 案の定、メルリルが食いついた。


「歌い手が変わるたび、語句や旋律が変化する可能性がありますわ。保存媒体が精霊、植物、水、石と統一されていないなら、なおさらです」


「変わることもございます」


 ローゼンはあっさり認めた。


「それでは史料として問題がありますわ!」


「だから、歌なのでございます」


「その答えで納得しろと?」


「わたくしはしております」


 メルリルが頭を抱える。


 少し前までなら、キースも隣で同じことを言っただろう。だが今は、完全には同意できなかった。


 紙へ書かれたから正しいとは限らない。アムドアの石刻では、年代記号の読み方一つで推定年代が変わった。それでも、異常な古さだけは消えなかった。


 さらに、つい先ほど《紅獅子の君》ヴァギュイザール自身が、同じ戦争について二つの因果を記憶していると証言したばかりだ。


 《王》は敗れたから、力を失った。


 《王》は自ら力を捨てたから、戦いが終わった。


 同じ場所。同じ時。同じ人物。そして同じ証人。


 それなのに、原因と結果が二つある。


 文字だけではない。記憶そのものまで食い違っている。


 だからこそ、もっと古い時代へ遡る必要がある。


 精霊戦争より前。


 《王》と《姫》の争いよりも前。


 世界が始まったと語られるところまで。


「どこから違い始めたのか」


 キースが呟くと、ローゼンが振り返った。


「はい?」


「アムドアの記録も、ヴァギュイザールの記憶も食い違っていた。でも、二つが同じ種類の食い違いだとはまだ分からない」


「はい」


「だから、もっと古い資料を見る」


 メルリルが頷いた。


「どこかまで遡れば、一つへまとまる可能性がありますものね」


「ああ」


 キースは一拍置いてから続けた。


「逆に、最初からまとまっていない可能性もある」


「それはそれで面白いですわ」


「世界が壊れそうなのに、本当に楽しそうだねえ」


 シビウが呆れた声を出す。


「楽しいわけじゃない」


「面白いだけですわ!」


「君は言い切るな!」


 ローゼンが小さく笑った。


「こちらでございます」


 彼女が足を止めた。


          *


 大樹の幹に、ぽっかりと口を開けた空洞があった。


 ヴァギュイザールと会った広間よりは狭い。けれど天井は遥かに高く、奥は薄暗くて見通せない。壁面には無数の細い根が走り、その隙間へ石片、貝殻、乾いた花、羽、半透明の結晶、朽ちた木片といったものが挟み込まれている。


 人間の目には、何の秩序もなく集められたものにしか見えなかった。


「ここが?」


「《歌蔵》と呼ばれております」


「書庫ではなく?」


「書物はほとんどございませんので」


 当然のような返答だった。


 中にはサファイアが待っていた。その傍らには、幾分顔色を取り戻したヴァギュイザールもいる。


「長様まで?」


 ローゼンが心配そうに近づいた。


「寝ていた方がよいのではございませんか」


「老人扱いするでない。少し昔を思い出しすぎただけだ」


「十分に老人でしょう」


 サファイアが穏やかに言う。


「サファイアまで言うか」


「事実だからね」


 ヴァギュイザールは不満そうだったが、先ほどのような深い疲労は見えない。キースは少し安心した。


「三つの創世歌について、最初に成立状況を確認させてください」


「ああ」


 サファイアが頷く。


「正確には、創世について語っている歌が三系統残っている、と言った方がいい」


「三つの異本ではない?」


「違う。それぞれ、かなり古い段階から別の伝承経路を持っている」


 サファイアは壁へ近づき、根の間に挟まれた白い石へ手を触れた。


「第一歌は、主に石と古い樹木へ残った。第二歌は、声と風による伝承が多い。第三歌は少し変わっていて、言葉より旋律の方が古い」


「成立年代は?」


 キースとメルリルが同時に尋ねた。


 二人は顔を見合わせる。


「真似しないでくださる?」


「私の方が先だった」


「同時ですわ」


「どちらでもよい」


 サファイアが苦笑した。


「それが分かれば、我々も長いあいだ悩んではいない」


「年代を決められない?」


「下限なら、ある程度は推測できる。少なくとも三つとも、精霊戦争以前には存在していたと考えられている」


「三つとも?」


「ああ」


 キースの表情が変わった。


「一つの古歌から、後世に三つへ枝分かれした可能性は?」


「当然、何度も疑われてきた」


 メルリルもすぐに続く。


「保存媒体そのものの年代は?」


「かなり違う」


「なら、媒体が古い順に並べても意味はありませんわね。後から移された可能性がありますもの」


「ああ」


「魔導的な経年測定は?」


「行われている。ただし、古すぎて誤差が大きい」


「石の変質は?」


「調べられている」


「樹木は?」


「生存年代から下限を取れるものもある」


 メルリルは、すでに完全な実地調査の顔になっていた。


 キースは別のところを見る。


「語彙は?」


「違う」


「同じ語句を引用している形跡は?」


「確認できない」


「一方が他方を否定する表現は?」


「ない」


「後世の宗派争いで作られた可能性は?」


「それらしい痕跡はない」


 メルリルがキースを見る。


「物はわたくし」


「文章は私」


 ほとんど同時に役割が決まった。


 シビウが呆れた。


「息合ってるじゃないか」


「よくない!」


「よくありませんわ!」


 今度は完全に同時だった。


 ローゼンが笑いを堪えている。


 サファイアは静かに続けた。


「言葉が変わった部分もある。旋律が変化した部分もあるだろう。歌は生きているからね」


「では、完全な原形は残っていない?」


 キースが訊く。


「その可能性が高い」


「それでも三つとも古いと?」


「ああ。古語、旋律構造、記憶を預けられた樹木の年代、石の変質、後世に生まれた概念が混じっていないか。確認できる範囲で何度も調べられてきた」


「結果は?」


 メルリルが尋ねる。


「どれも古い」


「三つとも?」


「三つとも」


「どれが最古ですの?」


「決められない」


 メルリルの顔が険しくなった。


「第一歌が原形で、第二、第三がそこから派生したとする証拠は?」


 キースが訊く。


「ない」


「第二から第一が生まれた証拠も?」


「ない」


「第三が最古とも?」


「言えない」


 キースは帳面を開いた。


 頁を横向きに使い、縦へ二本の線を引く。


 三列。


「また分類していますの?」


 メルリルが覗き込んだ。


「並べないと、どこが違うのか分からない」


「まだ歌すら聞いておりませんわよ」


「だから空欄だ」


 一列目へ《第一》。


 二列目へ《第二》。


 三列目へ《第三》。


 その下に、成立、保存、世界、ケーオス、コスモス、サーガ、始まり、と短く項目だけを書いた。


「好きですわねえ、そういうの」


「悪いか」


「いいえ。わたくしは石を調べますので、あなたは文字と話を整理してくださいませ」


「最初からそのつもりだ」


 シビウがまた言う。


「やっぱり仲いいじゃないか」


「だから違う!」


 サファイアが笑った。


「三つとも、簡単には捨てられずに残っている」


 壁へ収められた保存物を見渡し、穏やかに続ける。


「どれが真実かを教えるために見せるわけではない。まず、その事実を見てもらうためだ」


 キースは頷いた。


 ヴァギュイザールの記憶と同じだ。


 正しいものを先に選ばない。


 そこにあるものを、そこにある形で見る。


「聞かせてください」


 キースは言った。


「三つとも」


          *


 第一歌を歌ったのは、ヴァギュイザールではなかった。


 歌蔵の奥から現れたのは、人の姿を半ば失いかけた古い精霊だった。背はキースの胸ほどしかなく、その身体は薄い樹皮のようなもので覆われている。


 名はないという。


 あるいは、昔は持っていたのかもしれない。


 ただ、今は使っていない。


「最初の節だけは、この者がもっともよく覚えている」


 ヴァギュイザールが紹介した。


 古精霊は大樹の根へ手を添える。


 すると、空洞の奥で低い響きが生まれた。弦でも笛でもない。大樹の内部に見えない空洞があり、そこを遠い風が通り抜けているような音だった。


 古精霊が歌い始める。


 言葉は、キースの知らない古語だった。ローゼンでさえ完全には理解できないらしく、サファイアがところどころを現代の言葉へ置き換えていく。


 歌は、何もないところから始まった。


 光はない。闇さえない。


 空も、大地もない。


 時もまだなく、それらを呼ぶための言葉さえ存在しない。


 そこに《サーガ》だけがいた。


 ひとりだった。


 なぜ存在していたのかは語られない。いつからいたのかも歌われない。


 ただ、ひとりであった。


 長い孤独の中で、サーガは自分ではないものを望んだ。


 その願いから、《ケーオス》が生まれる。


 形を持たぬもの。


 あらゆる形になり得るもの。


 無限をその内に抱き、まだ存在していないものさえ、可能性として眠らせるもの。


 ケーオスは、サーガの傍らへ現れた。


 そして、ケーオスの深みから白き《コスモス》が生じた。


 コスモスは、散らばった可能性へ形を与えた。


 上と下。


 遠くと近く。


 内と外。


 昨日と明日。


 星々の巡り。


 世界の輪郭。


 まだ何者も住んでいなかった場所へ、初めて秩序が生まれた。


 やがてケーオスとコスモスは互いに触れ、そのあわいから数多のものが生まれていく。


 神々。


 精霊。


 獣。


 人。


 山。


 海。


 空。


 名を持つもの。


 そして、未だ名を持たぬもの。


 さらに歌の一節では、世界へ形を与えるため、ケーオスが自らの一部を材料として差し出したとも語られた。その欠片はあらゆる存在の内へ残り、ゆえに世界のすべては今も僅かな〈混沌〉を宿しているという。


 キースは思わず顔を上げた。


 メルリルも、ほとんど同時だった。


「イース」


 キースが呟く。


「ええ」


 メルリルの声も低い。


 古い魔導理論の一部では、人間の魔導は世界に残る〈混沌〉の名残へ働きかけることで成立するとされる。


 証明された理論ではない。


 異説も多い。


 それでも、もしこの歌が本当に精霊戦争以前から存在したなら、人間側の魔導理論より遥かに古いところに、似た構造の考えが残っていたことになる。


「偶然の一致?」


 メルリルが小声で言う。


「候補の一つ」


「人間側へ伝わった」


「ある」


「共通するもっと古い伝承があった」


「ある」


「実際に同じ構造を、それぞれ別に観測した」


「それも残る」


「また全部ですの!」


「今、一つへ絞る材料がない!」


 シビウが二人を横目で見る。


「歌を聞いてる途中だよ」


 二人とも口を閉じた。


 やがて古精霊は声を止める。


 歌が終わったわけではない。ただ、その精霊が受け持つ部分が終わったのだ。


 旋律そのものはなお大樹の奥を伝い、遥か遠くで別の何かが続きを歌っているようにも聞こえた。


「これが第一歌」


 サファイアが言った。


 キースは帳面へ視線を落とす。


 第一列。


 サーガ。


 最初。


 ケーオスを生む。


 ケーオスからコスモス。


 世界へ秩序。


 そこまで書いてから、短く矢印を引いた。


 サーガ。


 ケーオス。


 コスモス。


 世界。


「人間側にも、かなり近い創世説がある」


「同じ話を?」


 ローゼンが尋ねた。


「ああ。ただし、人間へ伝わったから同じになったのか、もともと共通していたのかまでは分からない」


 メルリルが少し意外そうに彼を見る。


「最初から決めつけませんのね」


「昨日まで何を見てきたと思ってる」


「成長なさいましたわ」


「うるさい」


 ヴァギュイザールは歌の余韻へ耳を傾けていた。


「わしが若かった頃には、この第一歌がもっとも正しいのだろうと思っておった」


「なぜです?」


 ローゼンが尋ねる。


「分かりやすいからだ」


 老人は苦笑した。


「最初の者がいる。そこから二番目が生まれ、三番目が生まれる。その後に世界ができる。物語として実に美しい」


 キースにも、その感覚はよく分かった。


 因果がある。


 順序がある。


 始まりがある。


 神官として教えられてきた神話の多くも、そういう形を好んだ。


「神話では、後の時代ほど系譜が整うことがある」


 キースが言った。


「後になるほど?」


 ローゼンが尋ねる。


「ああ。古い祭祀文では『いつの間にかそこにいた』程度だった神が、後世の写本では誰かの子になったりする」


 メルリルがすぐ反応した。


「では、第一歌が三つの中でもっとも新しい?」


「そうは言ってない」


「今、後世ほど順番を整理すると」


「そういう傾向がある、と言っただけだ」


 キースは第一列を指す。


「第一歌そのものが古いことは、保存状態からも否定できない」


 メルリルが口元を僅かに上げた。


「そこ、わたくしの担当ですわね」


「ああ」


「石と樹木の方は、あとで見ますわ」


「頼む」


「素直ですこと」


 ヴァギュイザールが笑った。


「だが、第二歌は最初からその分かりやすさを壊しに来る」


          *


 第二歌には、歌い出しがなかった。


 どこから歌い始めても、そこが始まりになるのだという。


 今回、歌を受け持ったのは三人の精霊だった。一人は若い娘の姿。一人は老人。もう一人は姿を見せず、風の音だけで歌へ加わった。


 三つの声が互いを追い、離れ、また重なりながら旋律を紡いでいく。


 第一歌とは、まるで違った。


 何もない場所から始まらない。


 歌が開いたその瞬間、すでに《ケーオス》と《コスモス》が存在している。


 黒きもの。


 白きもの。


 ただし、それは善と悪ではない。


 形を持たず、無数の可能性を抱くケーオス。


 形を与え、関係を結び、存在を保つコスモス。


 二つは争っているわけではなかった。


 混ざる。


 離れる。


 崩れる。


 結ばれる。


 その繰り返しの中から星が生まれ、世界が生まれ、また消えていく。


 そこへ、ある時、《見るもの》が現れた。


 見る。


 覚える。


 起きたことを、起きたこととして残す。


 それが《サーガ》だった。


 この歌では、サーガが何かを作ったとは語られない。


 ただ、ケーオスとコスモスの間で生じ続けていたものを見た。


 星が生まれたこと。


 世界が形を得たこと。


 形が再び崩れたこと。


 その一つ一つを覚えた。


 そして、覚えられたものは、それ以前よりも長く残るようになった。


 名を得たのか。


 物語を得たのか。


 あるいは、単に忘れられなくなったのか。


 歌は説明しない。


 ただ、サーガが見たものには《続き》が生まれたと歌う。


 キースは黙って帳面へ書いた。


 第二列。


 ケーオス。


 コスモス。


 世界。


 サーガ。


 その横へ、


 ――創造者ではなく、観測。


 と添える。


「第一歌では、サーガが創造の起点」


 メルリルが小声で言った。


「第二歌では観測者ですわね」


「ああ」


「ほとんど別の創世神話ですわ」


 キースはすぐには答えず、第一列と第二列のあいだへ視線を往復させた。


「……全部が違うわけじゃない」


「どこが同じですの?」


「まだ二つだけだ」


「では二つで」


 キースは帳面を指した。


「ケーオスはいる」


「ええ」


「コスモスもいる」


「ええ」


「サーガもいる」


「順番が違いますわ」


「そこだ」


 キースが言った。


「存在するものそのものが違うんじゃない」


 第一列では、サーガが最初。


 第二列では、ケーオスとコスモスが先。


「違うのは、《誰を最初に置くか》だ」


 メルリルが僅かに目を細める。


「つまり」


「第一歌と第二歌は、世界に何が存在するかではなく」


 キースは言葉を探した。


「《世界の始まりを、どこへ置くか》で食い違っている」


 サファイアが静かにキースを見る。


 ヴァギュイザールも。


「まだ二歌だけだ」


 キースは自分で釘を刺した。


「三つ目を聞くまでは結論にしない」


 メルリルが笑う。


「本当に慎重ですわね」


「ヴァギュイザールの話を聞いた直後だぞ」


「それもそうですわ」


 やがて第二歌も途切れ、風だけがしばらく大樹の空洞を巡っていた。


「この歌のサーガは」


 キースはサファイアへ尋ねる。


「神なのか?」


「歌の中では、その言葉は使われていない」


「精霊?」


「それも」


「人?」


「もちろん違う」


「何なんだ」


 サファイアは少し考えた。


「見る者」


「それだけ?」


「記す者、と訳す者もいる。覚える者。語る者。続きを持たせる者。古語一つに幾つもの意味が重なっているから、現代語では完全に置き換えられない」


「サーガというのは固有名なのか?」


「そこも分からない」


 キースは眉を寄せた。


「分からない?」


「最初から《サーガ》という一個の存在を呼んだ名なのか。それとも『記すもの』に近い意味の語が、後に名として扱われるようになったのか」


「そんな根本から?」


「ああ」


「それなら」


 キースは第二列の《サーガ》という文字へ小さな印をつけた。


「現代語へ訳した時点で、意味を一つに固定している可能性がある」


「そうだね」


「第一歌の《生まれる》も?」


「同じ問題はある」


 メルリルが顔をしかめる。


「翻訳まで疑い始めると、何も残りませんわよ」


「だから原語と現代語を分ける」


「本当に神官ですわね」


「それはどういう感想だ」


「細かい」


「古典を読むなら普通だ!」


「普通ではない、という話を昨日もしましたでしょう?」


 キースは反論しかけて、止めた。


「第三歌は、もっと酷いぞ」


 ヴァギュイザールが楽しそうに言った。


「長様」


 ローゼンが少し咎める。


「何じゃ。事実であろう。若い頃のわしは、あの歌を聞くたび腹が立った」


「なぜ?」


 シビウが尋ねる。


「何を訊いても、答えが返ってこぬからだ」


「今のキースには一番効きそうだね」


「どういう意味だ」


「そのままだよ」


          *


 第三歌は、最初は言葉ですらなかった。


 水音だった。


 歌蔵の奥で、細い泉が湧く。


 根の隙間から滲み出した水が浅い窪みへ静かに溜まり、その水面へ光る花弁が一枚落ちる。


 波紋が広がった。


 一つ。


 それに重なって、もう一つ。


 やがて、どこからともなく声が加わった。


 誰が歌っているのか分からない。


 老いた声。


 若い声。


 男の声。


 女の声。


 幾つもの響きが水音の底へ溶け、ひとつの旋律を作っていく。


 言葉は、非常に少なかった。


 第一歌のように創造の順序を語らない。


 第二歌のように三者の役割も定めない。


 ただ、


 ケーオスがある。


 コスモスがある。


 サーガがある。


 どれが先か。


 その問いそのものが、歌の中には存在していなかった。


 ケーオスは、コスモスがあるときにはすでにある。


 コスモスは、サーガが見るときにはすでにある。


 サーガは、ケーオスについて語られるときには、すでにそこにいる。


 輪のようだった。


 どこを指しても、その前がある。どこまで戻っても、別の何かへ繋がっていく。


 そして歌は、やがて奇妙な一節へ入った。


 始まりがあったから、世界が始まったのではない。


 世界が続くようになったあとで。


 生きる者たちが、過ぎたものを振り返るようになったあとで。


 彼らは、続いているものには最初があるはずだと考えた。


 そこで初めて、《始まり》が生まれた。


 キースは息を止めた。


 逆だ。


 あまりにも逆だった。


 普通なら、始まりが先にある。何かが生じ、その後に続きが生まれる。


 だが、この歌では違う。


 すでに続いている世界を説明するために、後から《始まり》という考えが作られる。


 ならば、その前は。


 その問い自体に意味がない。


 歌は、そう告げている。


「……無茶苦茶だ」


 キースはとうとう耐えきれず、呟いた。


 ヴァギュイザールが大笑いする。


「分かるぞ。わしもそう言った」


「こんなもの、創世神話と呼べるのか?」


「だから人間には嫌われるのかもしれませんわね」


 メルリルは、むしろ興味を深めていた。


「創世を語っているのに、唯一の創世点を置かない」


「正確には」


 サファイアが言った。


「創世そのものを否定しているのではない。《唯一の最初》を置かないんだ」


「同じようなものだろう」


「少し違う」


 サファイアは水面へ視線を落とした。


「第三歌にも、世界が形を変えた時代はある。何かが生まれた出来事もある。ただ、それらをすべて遡って、一つの最初へ集める必要はない、と歌っている」


「では、サーガも、ケーオスも、コスモスも?」


「始まりを持たない」


「いつから存在した?」


「その問いそのものが、後から生まれた概念だというのが第三歌だ」


 キースは額へ手を当てた。


「本当に腹が立つな」


「でしょう?」


 珍しくヴァギュイザールと意見が一致した。


 シビウが呆れたように二人を見る。


「あんたら、答えがないとそんなに困るのかい」


「困る」


「困りますわ」


 キースとメルリルの声が重なる。


「世界の始まりだぞ。存在したのか、しなかったのか。誰が最初だったのか。それくらい――」


「それくらい、何?」


 シビウに問い返され、キースは言葉を止めた。


「知らないと、今日の飯が食えない?」


「そういう話ではない」


「じゃあ、何が困るんだい」


「……世界の理解が」


「始まりが分からなきゃ、今ある世界がなくなるの?」


「なくならない」


「なら、今はそれでいいんじゃないの」


 あまりにも簡単に言われた。


 キースは反論しようとして、口を閉じる。


 シビウには前世もない。古代の記憶も、世界一の魔力も、神学者としての教育もない。


 だからこそ、ときどきキースたちが何日も頭を抱えるような問題を、まったく違う場所から見てしまう。


「学者には、それでよくない」


「そうかい」


「だが」


 キースは水面へ広がる波紋を見た。


「今すぐ一つに決める必要はない、というところまでは同意する」


 シビウが笑った。


「進歩したねえ」


 キースは帳面へ戻った。


 三列目。


 ケーオス。


 コスモス。


 サーガ。


 三つとも記す。


 その上に、


 ――先後関係なし。


 さらに、


 ――《始まり》そのものが後世の概念。


 と書いた。


 しばらく三列を見比べる。


「どうしましたの?」


 メルリルが覗く。


 キースは答えず、第一列の三つの名を指した。


 次に第二。


 最後に第三。


「メルリル」


「何ですの?」


「さっき、ほとんど別の創世神話だと言ったな」


「ええ」


「半分は正しい」


「半分?」


「三つとも、話の順番は違う」


 第一歌。


「サーガが最初」


 第二歌。


「ケーオスとコスモスが先で、サーガは後から見る」


 第三歌。


「そもそも《先》という問いを置かない」


「ですから、違いますでしょう?」


「違う」


 キースは頷いた。


「でも、違っている場所がはっきりした」


 メルリルが黙る。


「三歌とも、ケーオスを消していない」


「ええ」


「コスモスも」


「ええ」


「サーガも」


「……ええ」


「そして、世界が今まで続いていることも否定していない」


 メルリルの目が少し細くなる。


「つまり?」


「三つが争っているのは」


 キースは三つの《始まり》の欄を指した。


「《世界が存在するか》じゃない」


 一。


 サーガ。


 二。


 ケーオスとコスモス。


 三。


 最初そのものを置かない。


「《何を始まりと呼ぶか》だ」


 しばらく、誰も口を挟まなかった。


 メルリルが三列を見直す。


「……なるほど」


「第一歌は、始まりを一人の存在へ置く」


 キースは整理していく。


「第二歌は、すでに動いているケーオスとコスモスの働きへ置く」


「第三歌は」


 メルリルが引き取った。


「始まりそのものを、後世の者が世界へ与えた説明だとする」


「ああ」


「存在するものは、かなり重なっている」


「ああ」


「でも」


 メルリルは帳面を指した。


「関係と順序が違う」


「だから、そこを見る」


 キースは答えた。


「三つ全部を《全然違う話》として分けるのも早いし、一つの原話が変形しただけだとまとめるのも早い」


 ヴァギュイザールが静かに笑った。


「なるほど」


「何です?」


「そなたを呼んだ理由が、少し分かった」


 キースが眉を上げる。


「長までメルリルみたいなことを」


「わたくしの方が先ですわ!」


「競うところか?」


 サファイアも三列を見ていた。


「我々は三つを長く保存してきた」


 穏やかに言う。


「ただ、違う歌として扱うことに慣れすぎていたのかもしれない」


「同じ歌だとは言ってません」


「分かっている」


 サファイアは笑った。


「何が違い、何が同じかを分けて見る。その視点の話だ」


 キースは帳面へ目を落とした。


 資料を整理する。


 それだけのことだった。


 少なくとも、本人にとっては。

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