第十七章 残すことも選択
三つの歌を聞き終えたあとも、キースとメルリルはそのまま歌蔵へ残った。
「第一歌の最古保存箇所を見せてくださいな」
メルリルは、すでに完全な研究者の顔になっていた。
「石へ残っているのでしょう?」
「見てもいいが、読めるとは限らないよ」
サファイアが答える。
「読めなくても調べられますわ。石そのものの年代、魔導的変質、表面の後加工、別の媒体から移された痕跡――見るべきものはいくらでもあります」
「なら、そっちは任せる」
キースが言うと、メルリルが振り返った。
「あなたは?」
「保存された内容を比較する。語句の差、構造、後世の概念が混ざっていないか」
「物はわたくし」
「文章は私」
「仲いいねえ」
シビウが言った。
「よくない!」
「よくありませんわ!」
「そこまで揃うなら、もういいじゃないか」
「よくない!」
二人はまず、第一歌が残っているという石片を調べることにした。
文字は刻まれていない。ただ、表面には波のような細かな筋が幾重にも走っている。精霊には、その石へ触れることで歌の断片が聞こえるらしい。
キースも触れてみたが、何も聞こえなかった。メルリルも同じだった。
「屈辱ですわ」
「何が?」
「この石の情報を直接取得できませんもの」
「人間なんだから仕方ないだろう」
「宇宙一でも?」
「宇宙一でも」
メルリルは不満そうに口を尖らせたものの、すぐに石そのものの観察へ切り替えた。指先で表面を確かめ、角度を変えて光へ透かしながら、細かな傷や変色を丹念に追っていく。
「少なくとも、近世の加工痕はありませんわ」
「石自体は古い?」
「ええ。ただし、石が古いことと、この歌が古いことは同じではありません」
キースが少し笑った。
「昨日の私みたいなことを言うな」
「学習しましたの」
「誰から」
「わたくし自身からですわ」
「絶対に認めないんだな」
サファイアが苦笑した。
「保存石そのものが、後世に交換された可能性はある」
「だから石だけでは年代を決めていない?」
キースが尋ねる。
「ああ。古い樹木に残る同じ節とも比較している」
「そちらは?」
「根の一部が、精霊戦争以前から生きている」
「内容は?」
「語句には差がある。構造は同じだ」
キースは帳面へ書き込んだ。
――第一歌。
――複数媒体。
――語句差あり。
――基本構造一致。
――相互依存、証明不能。
「一つの保存媒体から、他へ写した可能性は?」
メルリルが尋ねる。
「否定できない」
「またですの!」
「だが、どれが原本かも分からない」
「気持ちが悪いですわね!」
「昨日も聞いたぞ」
第二歌は、さらに難しかった。
最古とされる旋律を覚える精霊たちに、一人ずつ歌ってもらう。細部は違う。音程も違えば、歌詞の一部まで異なっていた。
それでも、ケーオスとコスモスがすでに存在し、そこへサーガが《見る者》として現れる。その骨格だけは変わらない。
「後から第一歌に対抗して作られた?」
メルリルが可能性を口にする。
「それなら、第一歌を意識した痕跡が欲しい」
キースは答えた。
「否定の語は?」
「ない」
「第一歌の言葉を引用して、意味を反転させている部分は?」
「確認できない」
「なら、今のところ対抗説と決める根拠はない」
「では逆に、第一歌がこちらへ対抗して作られた?」
「同じ問題だ」
メルリルが腕を組む。
「神話では、後世になるほど系譜を整理する傾向があるのでしょう?」
「ああ」
「第一歌の方が、系譜は綺麗ですわ」
「だから新しい、と?」
「候補としては」
「残していい」
キースはあっさり言った。
「でも、それだけでは決めない」
「なぜ?」
「第一歌自体の保存が古い。それに、分かりやすい神話が必ず新しいとは限らない」
「傾向は傾向」
「そう」
メルリルが少し笑った。
「知識がある人ほど、自分の知識を信用しないんですのね」
「使い方を間違えないようにしているだけだ」
「それを信用しないと言うのでは?」
「違う」
「細かい」
「大事なんだ!」
第三歌については、さらに人間式の検証が難しかった。
後世にしか存在しない概念が混ざったことを示す、明確な痕跡は見つからない。むしろ問題は、古すぎることだった。
言葉が少なすぎる。
旋律。
水音。
沈黙の間。
同じ音を繰り返す回数。
そうした文字へ置き換えにくい部分へ、あまりにも多くの意味が預けられている。
「史料として扱いにくすぎる」
キースが呻く。
「だから歌だと申したでしょう?」
ローゼンが穏やかに答えた。
「それで全部済ませるのはずるい」
「そうでしょうか」
「キース」
メルリルが呼ぶ。
「何だ」
「これ」
彼女は、第一歌の保存石と、第三歌の泉の周囲から採取した小さな鉱物片を示した。
「物質的な繋がりは、少なくとも見つかりませんわ」
「同じ場所で、後世に一括して作った可能性は下がる?」
「ええ。ただし、伝承そのものの独立性までは証明できません」
「十分」
キースは答えた。
「では、物はわたくし」
「文章は私」
「やっぱり仲いいねえ」
「シビウ!」
*
夕刻まで調べた。
結論は、驚くほど増えなかった。
それでも、最初より明確になったものはある。
キースは自分の帳面へ、三列を改めて整理した。
一。
第一歌。
サーガが最初に存在する。
サーガからケーオス。
ケーオスからコスモス。
その後、世界が形を得る。
二。
第二歌。
ケーオスとコスモスは、すでに存在する。
世界は動いている。
サーガは、それを観測し、記す者として現れる。
三。
第三歌。
三者に、唯一の先後関係を置かない。
《始まり》という考えそのものが、世界の継続を説明するため、後から生まれたとする。
さらに、その下へ共通点を書いた。
ケーオス。
コスモス。
サーガ。
世界が続いていること。
相違点は、先後、役割、始まりの位置。
最後に調査結果を添える。
――三歌とも、精霊戦争以前へ遡る可能性が高い。
――単純な偽作と判定できる証拠なし。
――一歌を原形、他二歌を後世改変とする証拠なし。
――相互依存関係、不明。
メルリルが横から覗き込んだ。
「並べると、本当に分かりやすいですわね」
「だろう」
「そこは少し腹が立ちますけれど」
「なぜだ!」
「わたくしが一日石を調べた成果まで、あなたの紙一枚へ綺麗に収まっておりますもの」
「君の結果がなければ、この結論は書けない」
メルリルが口を止めた。
「石そのものが古い。複数媒体がある。近世の一括偽造の痕跡もない」
「ええ」
「そこは君が確認した」
キースは帳面を指した。
「私は、それを内容の比較へ使っただけだ」
メルリルは少しだけ目を逸らした。
「……そういうところは、素直ですのね」
「事実だからな」
「世界一と宇宙一が揃って、ようやく一枚の紙かい」
シビウが笑う。
「一枚じゃない!」
「裏にも書いてありますわ!」
「そこは大事なのかい?」
ヴァギュイザールも笑った。
「で」
シビウが尋ねる。
「何が分かったんだい」
キースは帳面へ視線を落とした。
「三つとも、簡単には捨てられない」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
キースは三列を示す。
「違い方が分かった」
「違い方?」
「三つは《何が存在したか》では、思ったほど離れていない」
「でも、始まり方は違う」
メルリルが言う。
「ああ」
キースは頷いた。
「だから、この三つを比較するときは、《どれが正しい創世神話か》だけで考えると見落とす」
「何を?」
「《なぜ、それぞれが違うものを始まりと呼んだのか》」
サファイアが静かに頷いた。
「それで十分だよ」
「世界の始まりを調べて、その程度か?」
キースが言う。
「一日で創世の真相まで解いたら、わしはそなたを世界一と認めてやるぞ」
ヴァギュイザールが言った。
「魔導士としてはもう世界一なんだ!」
「そこは認めるのですわね」
「今は創世史の話だ!」
シビウが笑う。
その笑いは、少し前より自然になっていた。
*
「ところで」
ローゼンがキースの帳面を横から覗き込んだ。
「キース様は、どの歌がお好きですか?」
「好き?」
「はい」
「真偽ではなく?」
「はい」
考えたことのない質問だった。
キースは三つの記述を見る。
「第一歌かな」
「やはり」
メルリルが言う。
「なぜ『やはり』なんだ」
「あなた、順番が好きでしょう」
「悪いか?」
「いかにも神官ですわ」
否定できない。
第一歌には、始まりがある。
サーガ。
ケーオス。
コスモス。
世界。
順番に並び、何が何から生まれたのか説明できる。
理解しやすい。
「でも」
キースは帳面を見る。
「好きだから正しい、とはしない」
「それは当然でしょう」
「神話では、案外そこが混ざるんだ」
メルリルが少しだけ真面目な顔になる。
「人は、分かりやすい方を信じたがる?」
「分かりやすい。美しい。自分たちに都合がいい。昔から語られている」
キースは指を折りながら挙げた。
「全部、真偽とは別の話だ」
「神官が言いますのね」
「神官だから言う」
ローゼンが静かにキースを見る。
「メルリルは?」
「第二歌ですわね」
「理由は?」
「観測者が後から現れる方が面白いでしょう。世界は誰かに作られる前から動いていた、という方が研究者好みですわ」
「そういうものか」
「シビウ様は?」
ローゼンに訊かれ、シビウは露骨に困った顔をした。
「あたしかい?」
「はい」
「どれでもいいよ」
全員が彼女を見る。
「なんだい」
「いや」
キースは少し笑った。
「君らしいと思った」
「だって、どれが本当でもマーカスは生き返らないし、明日の道が変わるわけでもないだろ」
その言葉に、空気が一瞬だけ静かになった。
シビウは、自分からマーカスの名を口にした。
苦しさが消えたわけではない。
それでも、もう名前を避けてはいなかった。
「だったら、三つとも覚えておけばいいじゃないか」
シビウは続ける。
「決められないんだろ?」
キースは帳面を見る。
三つ。
どれか一つだけを残すことはできる。
第一歌を正統と定め、残る二つを異説と呼ぶ。
人間の神殿なら、そうするだろう。
少なくともメミスでは、神学上の矛盾を放置しない。正統教義と異端を分け、人々がどの物語を信じるべきなのかを定める。
けれど、ラルソウムは三つとも残してきた。
何千年なのかさえ分からないほど長い時間。
互いに矛盾する歌を、一つも消さずに。
「なぜ三つとも残したんだ?」
キースはヴァギュイザールへ尋ねた。
老人は少し不思議そうな顔をした。
「なぜ捨てる?」
「矛盾するからです」
「矛盾したら、一方を消さねばならぬのか?」
「人間の歴史なら、少なくとも検証する」
「検証はした」
「決着しなかった」
「だから残した」
あまりにも単純だった。
「後の者が分かるかもしれぬ」
ヴァギュイザールは大樹へ背を預ける。
「我らが見落としているものがあるかもしれぬ。あるいは、永遠に分からぬかもしれぬ」
老人は笑った。
「分からぬという理由だけで、古い歌を殺すほど、わしらは賢くない」
キースは何も言わなかった。
神殿なら、どうしただろう。
ムーミストの神託が三つに分かれたなら。
互いに矛盾する古文書が現れたなら。
民が混乱するからと、そのうち一つだけを残さなかったと言い切れるだろうか。
三百年間。
神が答えていないという事実さえ隠してきた国だ。
「残すことも、選択なんだな」
キースは呟いた。
「そうだよ」
サファイアが答える。
「何も決めないこととは違う。分からないものを、分からないまま次へ渡す。それも記録の仕方の一つだ」
その声を聞きながら、キースはふと、サファイアについて里の者たちへ尋ねたことを思い出した。
誰も、彼と初めて会った時期を覚えていない。
昔から。
初めから。
ずっと。
あれも、ただ分からないものとして残すべきなのだろうか。
それとも、調べるべきなのか。
キースが顔を上げると、サファイアはいつもの穏やかな表情で、三つの歌の保存片を眺めていた。
疑う理由はない。
まだ。
*
しばらくして、メルリルが帳面を閉じた。
「では」
珍しく真面目な声だった。
「アムドアの記録も、偽書として片づけるべきではありませんわね」
キースが彼女を見る。
「ああ」
最初は、一枚の異常な石刻だった。
大穴が生じるより遥か以前の年代なのに、《アムドアの穴》と記されている。
それだけなら、偽書、年代誤読、追刻、翻訳ミス。そのいずれかで済んだかもしれない。
だが、年代記号を読み直しても異常な古さは消えなかった。ラルソウムには、それとは別系統の古い《穴》の記録がある。ヴァギュイザール自身の記憶も、同じ出来事について二つの因果を持っていた。
さらに遡れば、世界の始まりについてさえ、互いに両立しない三つの古歌が存在する。
しかも、その三つはいずれも簡単な偽作とは判定できない。
「似ていますわね」
メルリルが言った。
「何が?」
ローゼンが尋ねる。
「アムドアの記録と、この三つの歌ですわ」
「同じ現象だということですか?」
「いや」
答えたのはキースだった。
即答だった。
「そこまでは言えない」
メルリルも頷く。
「ええ」
キースは帳面を閉じた。
「三つの創世歌が食い違っていることと、アムドアの〈混沌〉異常が同じ原因だという証拠はない」
「でも、どちらも過去が一つではない」
「そう見える」
「では」
ローゼンが尋ねる。
「何が違うのでしょう」
「それを確かめる」
キースが言った。
「ここで、創世神話だけを材料にアムドアの答えを作るのは危険だ」
サファイアが静かに彼を見る。
「なぜ?」
「記録同士が矛盾しているからこそだ。全部を説明できそうな仮説を一つ思いついたら、今の私たちはそれへ飛びつきやすい」
メルリルが少しだけ目を逸らす。
「……耳が痛いですわね」
「君だけじゃない。私もだ」
キースは三つの歌を見回した。
「でも、それをやったら、私たちまで分からないものを分かったことにする」
シビウが腕を組む。
「じゃあ、どうする?」
「次へ行く」
「アムドア?」
「ああ」
迷いはなかった。
「ラルソウムで調べられることは、かなり調べた」
古記録。
保存媒体。
年代。
古い精霊の記憶。
創世歌。
それらを確かめた今、次に見るべきものは決まっている。
「次は現物を見る」
「何を?」
「アムドアの原本」
一つ。
「発見場所」
二つ。
「封鎖構造」
三つ。
「そして、大穴そのもの」
四つ。
「三つの歌と同じ種類の矛盾なのかさえ、まだ分からない。だから現地へ行く」
メルリルが口元を上げた。
「珍しく話が早いですわね」
「ラルソウムへ来る前から、最後は現地調査だ」
「そうでしたわ」
「忘れるな!」
シビウが笑った。
「答えは?」
「増えてない」
「何が増えた?」
「問い」
キースは苦笑した。
「最初よりずっと」
ローゼンが尋ねる。
「それでも、ラルソウムへ来た意味はございましたか?」
キースは少しだけ考えた。
「あった」
今度は迷わなかった。
「むしろ、来ないでアムドアへ直行していたら、古い石刻一枚だけ見て、偽書か異常か、その二択で考えていたと思う」
「今は?」
「何が分かっていないのかが増えた」
「それは良いことですの?」
ローゼンが笑う。
「学者には」
キースも笑った。
「たぶん」
*
夜になってから、ローゼンは一人で歌蔵へ戻った。
三つの歌が気になったからではない。
幼い頃から、この場所が好きだった。
眠れない夜や、サファイアに叱られた日。誰かと喧嘩したときや、消えてしまった精霊を思い出した夜には、よく一人でここへ来た。
大樹の内部を流れる遠い歌へ耳を澄ませていると、自分より遥か昔から世界が続いているのだと思えた。
その感覚が好きだった。
薄暗い歌蔵の中を、ゆっくりと歩く。
第一歌の石。
第二歌を覚えた根。
第三歌の泉。
三つとも、今は静かだった。
「サーガ……」
ローゼンは小さく、その名を口にした。
自分にとっても、神話の中にしか存在しない名だった。
最初の存在。
あるいは、後から現れた観測者。
あるいは、最初など持たないもの。
どれが正しいのか、ローゼンにも分からない。
それなのに、その名を口にした瞬間、なぜか懐かしいと思った。
ローゼンは足を止めた。
「……?」
胸へ手を置く。
何もない。
魔力が動いたわけではない。
誰かの声が聞こえたわけでもなかった。
ただ一瞬。
遥か昔に、その名前を誰かから呼ばれたような気がした。
「気のせい、でしょうか」
答える者はいない。
泉へ光る花弁が一枚落ち、水面に波紋が広がった。
その揺れを見つめているうちに、ローゼンは少し眠くなった。
ラルソウムへ帰ってから、よく眠れる。
長い旅の疲れが出たのだろう。
そう思い、歌蔵を出ようと振り返った。
その時だった。
泉の水面へ映った自分の背後に、誰かが立っているように見えた。
女。
長い髪。
静かな影。
ローゼンはすぐに振り返った。
誰もいない。
もう一度、水面を見る。
そこには、自分の姿しか映っていなかった。
「……疲れているのですね」
ローゼンは自分へ言い聞かせ、歌蔵を出た。
大樹の外には、ラルソウムの穏やかな夜が広がっている。
予備調査として始まったラルソウム滞在は、すでにアムドアに開いた一つの穴だけでは収まらない問いを抱え始めていた。
そしてローゼンだけが、まだ誰にも報告する理由すらない、小さな違和感を胸に残していた。
夢を見るには、まだ早い時刻だった。




