第十八章 夢に死者が住んでいる
その夜、ローゼンは久しぶりによく眠った。
ラルソウムへ帰ってからというもの、旅のあいだ意識の底へ押し込めていた疲れが、今になって一度に身体へ押し寄せてきたらしい。精霊は人間ほど頻繁に眠りを必要とはしない。それでも長く現実へ意識を留め続け、土地を越え、見知らぬ者と出会い、危険をくぐり抜けていれば、いつかは静かな休息を求める。
大樹の根が形づくった寝床へ横たわると、長い白髪を整える間もなく瞼が重くなった。
宿として借りた樹室には、夜の森の匂いが満ちていた。壁を形づくる木そのものが呼吸しているのか、一定の間隔でかすかな葉擦れが響く。少し離れた部屋では、まだメルリルが何かを書きつけているらしく、紙を擦る筆先の音がときおり聞こえていたが、それもやがて遠ざかり、夜の静けさへ溶けていった。
眠りへ落ちる直前、ローゼンは昼間に聞いた三つの創世歌を思い返していた。
サーガがケーオスを生んだ歌。
ケーオスとコスモスを見つめるため、サーガが後から現れた歌。
そして、三者のいずれにも唯一の始まりなどなかったと歌うもの。
どれが真実なのかは分からない。そもそも、どれか一つを選ばなければならないのかさえ、今のローゼンには分からなかった。
ただ、《サーガ》という名だけが妙に胸へ残っている。
懐かしい。
歌蔵で覚えた、理由のない感覚。
なぜそう思うのだろうと考えかけたところで、意識は深い場所へ静かに沈んでいった。
*
次に目を開けたとき、ローゼンは花畑に立っていた。
不思議なことに、驚きはしなかった。
白、青、黄、薄紫。見渡す限りの花々が地平まで続き、風もないのに、まるで呼吸を合わせているように緩やかに揺れている。遠くにはなだらかな丘があり、その向こうには湖を思わせる銀色の水面が細く光っていた。
空は青い。
けれど、太陽がない。
雲もない。
どこから光が来ているのか分からないのに、世界全体が柔らかな明るさに包まれている。
ローゼンは、この場所を知っていた。
「また、来たのですね」
背後から声をかけられ、ローゼンは振り返った。
一人の女性が立っている。
長い髪を花冠で飾った、穏やかな顔立ちの精霊だった。白を基調とした衣は光に溶けるほど薄く、その足元に咲く花々は、彼女が歩くたびにほんの少し頭を垂れる。
「アイリス様」
ローゼンは自然に笑った。
「お久しぶりでございます」
「そうでしょうか」
アイリスも微笑み返す。
「こちらでは、あまり時間を数えませんから」
「ラルソウムも、似たようなものでございます」
「それでも、外の世界へ出ていたあなたには長かったでしょう?」
「はい」
答えながら、ローゼンは改めて辺りを見回した。
幼い頃から、ときおりこの場所へ来ていた。
毎晩ではない。
眠れば必ず訪れる場所でもない。
ただ、気づけば花畑へ立っている。
そこでアイリスやクローカスと話し、やがて目覚めればラルソウムへ戻っている。
幼い頃には不思議にも思った。けれど精霊にとって、夢は人間ほど固く閉ざされた場所ではない。眠りの中で森の記憶を見たり、遠く離れた精霊の気配へ触れたりすることは珍しくなく、ローゼンもいつしか深く考えなくなっていた。
「ずいぶん、いろいろなものをご覧になったようですね」
アイリスが言った。
「分かるのでございますか?」
「あなたの顔を見れば」
優しい答えだった。
「少し、大人になりました」
「わたくしは以前から大人でございます」
「あら」
アイリスが口元へ手を当てて笑う。
「そのようなところは、あまり変わっていませんね」
「アイリス様まで、サファイア様のようなことをおっしゃるのですね」
「サファイア……」
その名を聞いた瞬間、アイリスの笑顔がほんの僅かに止まった。
あまりに小さな変化だったため、見間違いだったのかもしれない。ローゼンが気づいたときには、もういつもの穏やかな表情へ戻っている。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ」
アイリスは首を振った。
「懐かしい名だと思っただけです」
「アイリス様も、サファイア様をご存じなのですか?」
「ラルソウムのことは、いろいろと」
答えになっているようで、なっていない。
もう少し詳しく訊こうとしたところへ、上空から別の声が飛んできた。
「君は夢の中へ来てまで、質問ばかりだね」
ローゼンが見上げる。
男の姿をした精霊が、花畑の上をゆっくりと降りてきた。
「クローカス様」
「久しぶり、ローゼン」
彼は地面へ降りることなく、ローゼンと目線が合う高さでふわりと浮かんだまま腕を組んだ。
「相変わらずだ」
「何がでございますか?」
「困ると、すぐここへ来る」
「今回は、わたくしから来たわけではございません」
「夢なんだから、だいたい皆そう言うんだよ」
「ですが、本当に――」
「クローカス」
アイリスが静かに窘めた。
「帰ってきたばかりなのですから、あまり意地悪をしてはいけませんよ」
「僕はこの子のためを思って言ってるんだけど」
クローカスは不満そうに言ったものの、それ以上からかおうとはしなかった。
この二人も変わらない。
ローゼンが幼い頃から、アイリスは優しく、クローカスは少し口うるさい。
不思議なのは、現実のラルソウムでは二人を一度も見たことがないことだった。
以前、一度だけ尋ねたことがある。
どこの里に住んでいるのか、と。
そのときアイリスは「ここです」と答え、クローカスも「ここ以外にどこへ行くのさ」と笑った。
夢の中にいる者へ住処を訊くこと自体がおかしいのだろう。
ローゼンはそう考え、それ以上は深く気にしなかった。
「皆様へ、お話ししたいことがたくさんございます」
「でしょうね」
アイリスが言う。
「人間の国へ行きました」
「知っています」
「キース様という、とても優れた魔導士の方と――」
「知っているよ」
今度はクローカスが答えた。
「シビウ様と、メルリル様にも」
「それも」
ローゼンは首を傾げる。
「なぜ皆様がご存じなのですか?」
「夢は、外で見たものを連れてくるのですよ」
アイリスが答えた。
「あなたがここへ来るとき、あなたの記憶まで置いてくるわけではありませんから」
「では、マーカス様のことも」
二人が黙った。
それだけで、ローゼンの胸が痛んだ。
明るい花畑の中へ、不意に竜の峠の光景が蘇る。
竜の角を掴んだ大きな背中。
崩れる崖。
届かなかったシビウの手。
「人間が亡くなった場合、その方はどこへ行くのでしょう」
ローゼンは尋ねた。
アイリスは悲しそうに首を横へ振る。
「それは、私たちには分かりません」
「ここへは?」
「来ない」
クローカスが答えた。
「ここは、人間の死者が来る場所じゃない」
「では、ここは……」
ローゼンは言葉を止めた。
何を訊こうとしているのか、自分でも分からなかった。
夢。
ただそれだけだと思っていた。
けれど、今のクローカスの言い方は、この場所に夢以上の明確な意味があることを知っている者のものだった。
「今日は、少し歩きましょうか」
アイリスが言った。
「見ていただいた方が早いでしょう」
三人は、花畑の奥へ向かって歩き始めた。
*
歩けば歩くほど、夢の世界は広がっていった。
花畑の向こうには森があった。
ラルソウムの森とは違う。幹が半透明の木々が立ち並び、その内部を淡い光が根から枝へ向かってゆっくりと昇っている。風が枝を揺らすたび、その光も水の流れのように形を変えた。
森を抜けると、町のような場所へ出た。
家々はある。
ただし、石でも木でもない。
大きな花弁が幾重にも重なり、その内側へ部屋を作っているものもあれば、水そのものが壁となり、透き通った家の形を保っているものもある。遠くには逆さまに生えた樹木が宙へ浮かび、その根から降る細い雨は地上ではなく空へ向かって流れていた。
そして、そこには精霊たちがいた。
大勢。
ローゼンの知らない者ばかりだった。
人の姿をした者。
獣に近い者。
光だけのもの。
石のような身体を持つ者。
名前を持つ者もいれば、持たない者もいる。
誰も争わず、思い思いに歩き、話し、歌い、穏やかに暮らしていた。
「こんなに多くの方が……」
「ここは広いからね」
クローカスが言った。
「どこの精霊の里から?」
返事がなかった。
ローゼンは横を見る。
アイリスもクローカスも、変わらず歩いている。
「アイリス様?」
「まず、一つお聞きしてもよいですか」
「はい」
「ローゼン。あなたは、精霊が最後にどうなるかを知っていますね」
突然の問いだったが、答えに迷うことはなかった。
「はい」
精霊にとって、それは生まれたときから身近なことだった。
「わたくしたちは、人間のように親から子へ命を渡すわけではございません。長い時を生き、自らの形を保つことが難しくなった精霊は、自らを次の存在へ継承いたします」
クローカスが頷く。
「続けて」
「古くなった身体と力を解き、その中から新しい自分を生みます。新しく生まれた者は以前とよく似ていますが、同じ記憶をそのまま持つわけではございません」
「以前の記憶は?」
「深いところへ封じられると教わっております。すべてが消えるわけではございませんが、新しい精霊は、新しい者として生きます」
人間へ説明すれば、ひどく奇妙な仕組みに聞こえるだろう。
けれど精霊たちにとっては、ごく自然な命の巡りだった。
老いた精霊が終わり。
新しい精霊が始まる。
同じでありながら。
同じではない。
以前と同じ名を引き継ぐ者もいれば、別の名を選ぶ者もいる。姿までほとんど変わらないこともあれば、まるで異なる形で生まれることもあった。
重要なのは、途切れないことだった。
「これを《継承》と呼びます」
ローゼンが言った。
「そう」
アイリスは微笑んだ。
「それが、精霊たちの普通の終わり方です」
普通。
その一語が、ローゼンの胸へ引っかかった。
「では、普通ではない場合は?」
アイリスの表情から、微笑みが消えた。
「継承する前に、消えてしまった精霊もいます」
「……はい」
ローゼンも知っている。
戦い。
事故。
〈混沌〉。
精霊が自らを次代へ渡す前に、その形を失うことはある。
精霊戦争では、数え切れないほど起きたと聞いていた。近年でも、決して皆無ではない。
「その方々は」
ローゼンは口にしてから、自分の中に答えがないことへ気づいた。
「どうなるのでしょう」
「以前、シビウという人にも訊かれたでしょう?」
クローカスが言った。
ローゼンは驚いて彼を見る。
「そこまでご存じなのですか」
「言ったろ。君は外の記憶を持って、ここへ来る」
確かに、旅の途中でシビウと似た話をした。
精霊の数が減っている。
継承前に消えてしまった精霊は、どうなる。
あのときのローゼンには答えられなかった。
このまま消える者が増えれば、自分たちはいつか世界からいなくなってしまうのではないか。
そう考えて、恐ろしくなった。
「これが答えだよ」
クローカスは周囲を示した。
ローゼンは、夢の中で暮らす無数の精霊たちを見た。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていった。
「まさか」
アイリスが静かに頷く。
「ここにいる者たちは、現実の世界で継承を果たす前に消えた精霊たちです」
ローゼンは動けなかった。
すぐ近くを、小さな精霊が駆けていく。
笑っている。
その後ろを、鳥のような羽を持った精霊が追いかけている。
遠くでは、誰かが歌っていた。
穏やかで。
明るくて。
美しい場所。
幼い頃から、ただ不思議で優しい夢だと思っていた。
「では……」
ローゼンはアイリスを見る。
「アイリス様も?」
「はい」
「クローカス様も?」
彼は肩をすくめた。
「大昔にね」
「いつ?」
「さあ」
「なぜ消えたのでございますか?」
「それも、もういいじゃないか」
軽く答えた。
だが、その声には、それ以上を語るつもりがないことが分かった。
ローゼンも、なお問い続けることはできなかった。
代わりにアイリスが穏やかに言う。
「私たちにとって、現実での最後がすべてではありません。ここへ来てから過ごした時間の方が、ずっと長くなった者もいます」
「ですが」
ローゼンは周囲を見渡した。
「亡くなった、ということでしょうか」
アイリスは少し考えた。
「人間の言葉を借りるなら、そう呼ばれるのでしょうね」
死者。
ローゼンは、その言葉を胸の内で口にした。
夢に、死者が住んでいる。
人間の死者ではない。
精霊たちの死者。
マーカスは、ここにはいない。
彼の魂がどこへ行ったのかは、誰にも分からない。
シビウが抱えた死と、ここにいる精霊たちの消滅は、似ているようで違うのだろう。
それでも。
一度失われたはずの者が、目の前で笑い、話し、歩いている。
「では、皆様は生きておられるのでしょうか」
ローゼンは訊いた。
珍しく、クローカスが答えに迷った。
「難しいことを訊くね」
「現実では消滅した。けれど、こちらでは話せます。触れることもできます。ならば――」
自分でも、どこからが生で、どこからが死なのか分からなかった。
アイリスはローゼンの手を取った。
温かい。
夢なのに。
はっきりとした温度がある。
「今、あなたが私に触れていることは本当です」
「はい」
「それ以上を、急いで決めなくてもよいのではありませんか」
ローゼンは黙った。
キースなら、きっともっと多くの質問をする。
これは魂なのか。
記憶なのか。
複製なのか。
現実で消えた精霊と、今ここにいる者は同一なのか。
それとも、消滅するまでの記録を写し取った別の存在なのか。
メルリルなら、すぐに確かめる方法を考え始めるだろう。
シビウなら。
もしかすると、もっと単純に言うかもしれない。
そこにいるなら、いるんだろ。
ローゼンは少しだけ笑った。
「どうしたのです?」
「皆様でしたら、何とおっしゃるかと思いまして」
「外へ出て、よい友人ができたようですね」
アイリスの声は嬉しそうだった。
「はい」
ローゼンは迷わず答えた。
「とても」
*
夢の町を抜けた先には、湖があった。
その水は空と同じ青ではない。
銀。
白。
金。
見る角度によって色を変え、どの色も完全には水面へ留まらない。
湖岸には、無数の白い花が咲いていた。
ローゼンは、その場所を見た瞬間に足を止めた。
「ここ……」
歌蔵で見た。
泉の水面。
自分の背後に立っていた女。
あのときは、一瞬だけだった。
今は違う。
湖の向こうに、誰かがいる。
女だった。
長い髪。
白とも銀ともつかない衣。
風に揺れているように見えるのに、その足元の湖面には一つの波紋すらない。
顔は見える。
見えているはずなのに、あとから思い出そうとすれば、その輪郭を言葉にできないだろうという確信があった。
美しい。
そう思う。
けれど、どこが美しいのか説明できない。
若いようにも見えた。
遥かな時を生きた者のようにも見えた。
優しげでもあり。
どこか恐ろしくもある。
何より。
ローゼンは、その姿を知らないはずなのに。
懐かしいと思った。
「アイリス様」
隣を見る。
アイリスは膝をついていた。
クローカスも空中から地へ降り、深く頭を垂れている。
「どうされたのですか?」
「ローゼン」
アイリスの声が震えていた。
「御前です」
「御前?」
湖の向こうに立つ女が、こちらを見る。
ただ、それだけだった。
夢の中に咲くすべての花が、一斉に頭を垂れた。
森が静まり返る。
町から聞こえていた歌も止まる。
湖を満たしていた光さえ、彼女の周囲へ集まっていくように見えた。
「おいでなさい」
声がした。
大きくない。
それでも、夢の世界そのものが聞いているように、どこまでも届いた。
ローゼンは一歩進んだ。
湖へ踏み入れたつもりだった。
だが、足は濡れない。
水面の上へ立っている。
一歩。
もう一歩。
アイリスとクローカスは、ついてこない。
ローゼンだけが女へ近づいていく。
胸が苦しいほど高鳴っていた。
恐怖ではない。
なぜか、泣きそうだった。
「あなた様は……」
声が震える。
女は微笑んだ。
「皆は、私を《精霊の君》と呼びます」
ローゼンは息を呑んだ。
精霊の君。
昨日まで、古い歌や伝承の中でしか意識していなかった呼び名。
そして。
もう一つ。
「《姫》……」
その名は、考えるより先に口から零れた。
女は否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ、微笑みが僅かに深くなる。
「そう呼ばれたこともあります」
ローゼンの脳裏へ、ヴァギュイザールから聞いた話が蘇る。
精霊戦争。
《王》。
四貴精霊。
《紅獅子の君》。
《蒼魔の君》。
《白光の君》。
《黒無相の君》。
そのすべての中心にいた《姫》。
「本当に、あの《姫》なのでございますか」
「あなたは、そう思いますか?」
問い返された。
「わたくしには……」
分からない。
けれど、なぜか。
「そうであるように感じます」
「それで十分です」
何が十分なのか、ローゼンには分からなかった。
「ここは、あなた様がお作りになったのでございますか?」
「ええ」
今度は迷いなく答えた。
「ここは、私の《夢》です」
ローゼンは周囲を見る。
空。
湖。
花。
森。
遠くに暮らす、無数の精霊たち。
「では、皆様をこちらへ?」
「現実で継承を終えられなかった者たちが、何も残さず消えてしまわないように」
「救ってくださったのでございますか」
《精霊の君》は少しだけ首を傾げた。
「救った」
その言葉を確かめるような間があった。
「そう呼ぶ者もいます」
また。
断言しない。
「では、ここにいる皆様は、あなた様が眠っておられる間ずっと?」
「ここにいます」
「あなた様は、いつから眠っていらっしゃるのですか?」
返事は、すぐには来なかった。
ローゼンは昼間に聞いた第三歌を思い出した。
いつから。
始まり。
その問いそのものが、後から生まれた。
「長いあいだ」
《精霊の君》は答えた。
どこか、サファイアと似た答えだった。
「けれど」
女は湖の彼方へ視線を向ける。
「それも、もう終わります」
ローゼンの胸がざわついた。
「終わる?」
夢の空に、風が吹いた。
それまで動くもののなかった青空へ、細い白い線が走ったように見えた。
「もうすぐ、私は目覚めます」
その言葉は、ローゼン一人へ向けられたものではなかった。
夢の世界全体へ広がった。
湖岸の花々が震えた。
森の木々が一斉に葉を鳴らす。
遠い町から、幾つもの声が上がった。
「お目覚めに……?」
アイリスが顔を上げていた。
驚愕している。
クローカスも同じだった。
先ほどまで落ち着いていた彼の顔から、血の気にも似た色が消えている。
「姫君」
アイリスの声が湖を渡った。
「それは、この《夢》が終わるということでございますか?」
「そうです」
《精霊の君》は答えた。
静かな声だった。
夢の世界へ、波紋のように動揺が広がっていく。
遠くにいた精霊たちが立ち上がる。
誰かが空を見上げる。
誰かが隣の者の手を取る。
泣き出す者もいた。
「待ってください!」
クローカスが水面へ飛び出した。
ローゼンの近くまで来たところで止まり、《精霊の君》を見上げる。
「目覚めるって……そんな。では、この世界はどうなるんです」
「閉じます」
「閉じる?」
「夢は、目覚めれば夢ではいられません」
「だったら……」
クローカスの声が震えた。
普段はローゼンをからかってばかりいる彼が、初めて見せる明らかな恐怖だった。
「僕たちは?」
《精霊の君》は、すぐには答えなかった。
ローゼンは周囲を見る。
アイリス。
クローカス。
数え切れない精霊たち。
一度、現実で消えた者たち。
継承できなかった者たち。
夢によって、ここへ留められた者たち。
もし夢そのものがなくなれば。
彼らは。
「精霊の君」
ローゼンは声を上げた。
女の瞳が、こちらへ向く。
「ここにいる精霊たちは、どうなるのでございますか?」
答えが来るまでの時間は、長かった。
実際には、幾呼吸もなかったのかもしれない。
それでもローゼンには、一輪の花が開き、季節を越え、やがて枯れるほどの時間に感じられた。
やがて。
《精霊の君》は言った。
「消える、とは限りません」
ローゼンは目を見開いた。
「……とは、限らない?」
消えない。
そうは言わなかった。
残るとも。
救われるとも。
現実へ戻るとも。
ただ。
消えるとは限らない。
希望のようにも聞こえる。
警告のようにも聞こえる。
「それは、どういう――」
ローゼンが訊こうとしたとき、《精霊の君》は静かに片手を上げた。
「まだ、あなたに伝えなければならないことがあります」
その声に応じるように、湖面へ一本の波紋が走った。
夢の空は、まだ青い。
花々も咲いている。
アイリスも、クローカスも、ここにいる。
けれど、先ほどまで永遠に続くように見えていた世界は、もう同じものには見えなかった。
これは眠りの中にある世界。
夢見る者が目覚めれば、閉じる世界。
そしてローゼンの目の前には、その夢を見ているという女が立っている。
《精霊の君》。
あるいは。
《姫》。
ローゼンは胸へ手を当てた。
なぜ自分がここへ呼ばれたのか。
なぜ今なのか。
そして、なぜこの人を見ると懐かしいのか。
答えは、まだ一つもなかった。
《精霊の君》は揺れる湖面の向こうから、ただローゼンだけを見つめていた。




