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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第三部 精霊たちは二つの過去を覚えている
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第十九章 私を探しなさい

 湖面を渡る風が、初めて冷たく感じられた。


 ほんの少し前まで、《夢》はどこまでも穏やかな場所だった。空には太陽も雲もないというのに柔らかな光が満ち、湖岸には白い花が咲き続け、現実から消えた精霊たちは、まるで終わりという言葉を知らないかのように暮らしていた。


 けれど、《精霊の君》が「もうすぐ私は目覚めます」と告げてから、同じ景色がまるで別のものに見えている。花はいまも咲き、湖も変わらず光を返し、森も町も、そこに暮らす精霊たちも消えてはいない。ただ、それらが永遠ではないと知ってしまっただけで、すべてが今この瞬間にも失われかねないものへ変わっていた。


「まだ、あなたに伝えなければならないことがあります」


 《精霊の君》は、静かにローゼンを見つめていた。その声には夢全体へ響き渡るような力がありながら、不思議とローゼン一人の耳元へ囁かれているようにも聞こえた。


 湖の少し離れた場所では、アイリスとクローカスが立ち尽くしている。二人だけではない。遠い岸辺にも、夢の町にも、多くの精霊たちがこちらを見つめていた。


 誰も声を上げない。


 夢を見る者が目覚める――その意味を、ここにいる者たちは皆理解しているのだろう。


「精霊の君」


 ローゼンは胸の前で両手を重ねた。


「先ほどのお言葉について、もう一度お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「何でしょう」


「ここにいらっしゃる皆様は、《夢》が閉じても消えるとは限らないと、おっしゃいました」


「はい」


「では、どこへ行かれるのでございますか。現実へ戻られるのでしょうか」


「そうなる者もいるかもしれません」


「新しい精霊として、継承されるのでしょうか」


「そうなる者もいるかもしれません」


「では……別の場所へ?」


「そうなる者もいるかもしれません」


 形だけを変えながら、同じ答えが返ってくる。ローゼンは困惑し、思わず眉を寄せた。


「どれなのでございますか」


「まだ決まっていないものを、私が一つに決めてしまうことはできません」


 《精霊の君》は穏やかに言った。


「ここにいる者たちは、一度、現実から失われました。けれど、失われたからといって、すべてが同じ場所へ行くとは限らないのです」


「では、皆様それぞれに違う未来が?」


「未来という言葉を使うなら」


 また、わずかに含みを残した答えだった。


 話せば話すほど、分からないことが増えていく。


 キースなら今頃、問いを幾つかに分け、前提から順番に確かめていくだろう。メルリルなら、どこまでが既知で、どこからが仮定なのかを書き出し始めるに違いない。シビウなら――分からないものは分からないままでいいじゃないか、と言うかもしれない。


 三人の顔を思い浮かべると、少しだけ心が落ち着いた。


「あなた様は、どうしてお目覚めになるのでございますか」


 今度は問いを変えた。


 《精霊の君》の瞳が、ほんの僅かに揺れる。


「眠り続ける理由がなくなるからです」


「理由?」


「長いあいだ、私は眠る必要がありました」


「何のために?」


「それを今ここで説明してしまえば、あなたがこれから探すものの意味がなくなってしまいます」


 女はそう言って言葉を切った。


 ローゼンは顔を上げる。


「探す?」


 《精霊の君》は、ゆっくりと頷いた。


「私を探しなさい」


 夢の空気そのものが、静止したように感じられた。


「あなた様を?」


「はい」


「ですが……あなた様は、今ここにいらっしゃいます」


「ここにいる私は、《夢》の中にいる私です」


「では、お目覚めになったあなた様を探せばよいのでございますか」


「そう考えても構いません」


 またしても、答えは輪郭を曖昧にしたままだった。


「どちらへ行かれるのでしょう」


「分かりません」


「ご自分のことでございますよ?」


「ええ」


 《精霊の君》は微笑んだ。冗談を言っている様子ではない。


「目覚めたあと、私はどこにいるのか。それを今の私は知りません」


「そんなことが……」


「夢を見ている者は、目覚めた自分のすべてを知っているでしょうか」


 ローゼンは答えられなかった。


 人間が眠る姿なら、何度も見てきた。キースも眠る。シビウも、メルリルも。


 夢の中にいる本人が、目覚めたあと自分が何をし、どこへ向かうのかまで知っているわけではない。その理屈そのものは分かる。ただ、目の前にいるこの存在へ、同じ理屈をそのまま当てはめてよいのかは分からなかった。


「それでは、どこから探せば……」


 ローゼンの声が弱くなる。


 世界は広い。


 もしこの《精霊の君》が、精霊戦争の《姫》と同じ存在であるなら、ヴァギュイザールでさえ長い年月、その行方を知らなかった。


 そんな存在を、自分一人で探す。


「わたくしには、何も手掛かりがございません」


「あります」


「どこに?」


「あなたの中に」


 ローゼンは反射的に、自分の胸へ手を当てた。


「わたくしの?」


「あなたは、私を知らないと思っていますね」


「はい。少なくとも、現実の世界でお会いした記憶はございません」


「そうでしょう」


「では――」


 《精霊の君》の声が、その先へ静かに重なった。


「あなたはすでに、一度、私を見つけている」


 意味が分からなかった。


 ローゼンは何も言えず、ただ目の前の女を見つめる。


「……いつでございますか」


「それを探しなさい」


「ですが、わたくしは覚えておりません」


「覚えていないことと、起きなかったことは同じではありません」


 その言葉を聞いた瞬間、昨日の会話が蘇った。


 キースが、サファイアについて何度も問いを重ねていた。


 最初に会ったのは、いつか。


 どれほど昔から知っているのか。


 ローゼン自身は、こう答えた。


 ずっと。


 幼い頃から。


 サファイア様は、サファイア様だから。


 なぜ今、その会話を思い出したのか。自分でも分からなかった。


「わたくしが、あなた様を見つけた。でも、覚えていない」


「はい」


「それは、わたくしが忘れたのでございますか?」


 《精霊の君》は、ただ微笑んでいる。


「誰かに忘れさせられた? あるいは、記憶そのものが……」


 そこで、ローゼンの頭にヴァギュイザールの姿が浮かんだ。


 同じ戦場で《王》が敗れた記憶と、自ら力を捨てた記憶。


 三つの創世歌。


 互いに相容れない三つの始まり。それでも、どれも古く、どれも簡単には偽りとして捨てられない。


 これまで互いに無関係だと思っていた疑問の端と端が、ローゼンの胸の内で初めて触れ合った。


「精霊の君」


 ローゼンは慎重に尋ねた。


「わたくしたちが覚えている過去は、本当に一つなのでございますか」


 女の瞳が、わずかに細くなった。


 初めて見る表情だった。悲しんでいるようにも見え、同時に、長く待っていた問いをようやく聞いた者の喜びにも見えた。


「良い問いです」


「答えを教えてはいただけないのでしょうか」


「今のあなたは、誰かから答えを与えられることを望んでいますか?」


 ローゼンは言葉を失った。


 旅へ出る前ならば、欲しかったかもしれない。神のような存在が現れ、すべての真実を教えてくれるなら、その言葉に従って進めばいい。


 けれどローゼンは、キースが神殿を出るまでに何があったのかを知った。


 三百年間、答えなかった神。


 その沈黙へ、人間が勝手に言葉を足した。


 そして最後にキースたちは、答えのないまま、自分たちで決めることを選んだ。


「……いいえ」


 ローゼンは小さく答えた。


「たぶん、違います」


「ならば」


 《精霊の君》が手を伸ばす。


 指先がローゼンの額へ触れた。夢の中でありながら、その温もりははっきりと感じられた。


「探しなさい」


 その一言だけは、命令には聞こえなかった。


 願い。


 あるいは遥かな昔に交わした約束を、もう一度確かめるための言葉のようだった。


          *


 最初に崩れたのは、空だった。


 青い天蓋へ細い亀裂が走った。音はない。ガラスのように割れたのでもない。ただ空の一部が薄く剥がれ、その向こうに、色も奥行きも持たない白い領域が覗いた。


「姫君!」


 アイリスの声が湖を渡った。


 遠い夢の町からも声が上がり、精霊たちが一斉に空を仰ぐ。


 続いて森が揺れた。


 半透明の木々が、根元から少しずつ光へ変わっていく。葉は散るのではなく、細かな粒となって宙へほどけ、そのまま何もない空間へ溶けていった。


「始まった……」


 クローカスが呟く。


「何が?」


 ローゼンが振り返ると、そこには隠しようのない恐怖が浮かんでいた。いつもなら皮肉の一つでも返してくる彼が、今はもう笑っていない。


「目覚めるんだよ。本当に」


 その言葉と同時に、湖の水まで失われ始めた。


 どこかへ流れ出しているのではない。水面の縁から、存在そのものが静かに消えている。岸辺に咲く白い花々も、一輪ずつ輪郭を薄くし、光の中へ融けていった。


「アイリス様!」


 ローゼンは彼女へ駆け寄ろうとした。


 その瞬間、足元の湖面が崩れた。


「きゃっ……!」


 落ちると思ったのに、身体は沈まなかった。水面そのものが消え去り、その代わりに白い光だけが足元へ広がっている。


「ローゼン!」


 アイリスが手を伸ばした。


 ローゼンも懸命に手を伸ばす。


 ほんの数歩しか離れていないはずだった。けれど、踏み出すほど二人のあいだにある距離は伸びていき、指先は決して届かなかった。


「アイリス様!」


「大丈夫です!」


 彼女は叫んだ。


「わたしたちのことは――」


 声が途中で途切れた。世界そのものが、もう音を正しく運べなくなっている。


「気にしないで!」


「でも!」


「あなたは、現実へ戻らなくてはいけません!」


「皆様は、どうなるのでございますか!」


 アイリスは何か答えようとした。


 だが、その姿が光の中で揺らいだ。足先から順番に消えるのではない。身体の一部だけが先に透明となり、その向こうに崩れかけた夢の景色が透けて見えている。


「アイリス様!」


「ローゼン」


 今度はクローカスが彼女を呼んだ。


 彼はアイリスの隣へ降り立ち、いつもの皮肉っぽい笑みを無理にでも浮かべようとしていた。


「君は相変わらず、心配しすぎなんだよ」


「クローカス様まで……」


「僕たちは一度、消えた。そのあとで、ここに来た。だったら次も、何かあるかもしれない」


「あるかもしれない、では!」


「それで十分だろ?」


 シビウなら、同じようなことを言うかもしれない。


 ローゼンは唇を噛み、それでも震える声で尋ねた。


「また、お会いできますか」


 クローカスは答えなかった。


 代わりにアイリスが、消えかけた光の向こうで穏やかに微笑んだ。


「会える、とお約束はできません。でも、会えないとも決まっていません」


 ローゼンの目から涙が溢れた。


「ずるい言い方でございます」


「姫君に似てしまいました」


 アイリスが笑った。


 その笑顔を最後に、二人の姿は白い光へ包まれた。


 消えたのか。


 どこかへ移ったのか。


 ローゼンには分からない。何度名前を呼んでも、もう返事はなかった。


 夢の町も、すでに半分以上が失われていた。建物は輪郭だけになり、そこに暮らしていた精霊たちも、一人ずつ異なる姿で世界から離れていく。


 泣く者がいた。笑う者もいた。隣にいる者の手を握り、最後まで離そうとしない者もいる。歌い続ける精霊の声は、姿が失われたあともしばらく残り、やがて風の中へ消えていった。


 誰もが同じ終わり方をしているわけではない。


 ある精霊は白い光となった。ある精霊は無数の花弁へ変わり、風の中へほどけた。ある者は地面へ影だけを残し、その影さえ少しずつ薄れていった。


 《精霊の君》の言葉が蘇る。


 ――消える、とは限りません。


 確かに、今目の前で起きていることを、単純に《消えた》と呼んでよいのかすら分からなかった。


          *


「ローゼン」


 声がした。


 振り返ると、《精霊の君》だけは変わらずそこにいた。湖も花も空も失われていく中で、彼女だけが最初に見た姿のまま、静かに佇んでいる。


 ローゼンは頬の涙を拭った。


「これは、あなた様が望まれたことなのでございますか」


「望んだ、という言葉だけでは足りません」


「皆様と別れることになっても?」


「別れることが、終わりとは限りません」


 また、同じような答えだった。


 それでもローゼンは今度、別のことを尋ねた。


「あなた様は、寂しくないのでございますか」


 その問いだけは、《精霊の君》を少し驚かせたようだった。


 女は目を伏せ、失われつつある世界へゆっくりと視線を巡らせた。


「寂しいですよ」


 初めて返ってきた、あまりにも普通の答えだった。


「長い夢でした。多くの者と出会いました。消えてしまうはずだった声を聞き、覚えられないはずだった者たちを覚えました」


「では、なぜ」


「それでも、目覚めなくてはいけない時があります」


「誰かに、起こされるのですか?」


「それも」


 彼女は少し考えたあと、どこか楽しげに言った。


「探してみてください」


「またでございますか」


 ローゼンは涙の跡が残る顔で、少しだけ困ったように笑った。


 《精霊の君》も笑う。


「あなたは、問いを持つことを覚えました」


「もともと持っていたと思います」


「以前のあなたは、答えをもらうことの方が好きでした」


「……そうでしょうか」


「そうでした」


 断言されてしまった。


 ローゼンには覚えがない。けれど、そのやり取りそのものにさえ、なぜか懐かしさを覚えた。


 初めてではない。


 胸の奥では、そんな感覚だけが確かに残っている。


「精霊の君」


「はい」


「本当に、わたくしはあなた様を見つけたことがあるのでございますか」


「あります」


「この《夢》で?」


 女は答えない。


「ラルソウムで?」


 やはり答えない。


「もっと昔?」


 今度は、ただ微笑んだ。


 ローゼンは諦めて息を吐いた。


「キース様の気持ちが、少し分かった気がいたします」


「彼は、答えがないと困る方なのですね」


「とても」


「では、あなたが隣にいてあげなさい」


 あまりにも自然に言われたので、ローゼンは首を傾げた。


「なぜでございますか?」


「あなたは、分からないままでも歩けるからです」


「そんなことは……」


 否定しかけて、止めた。


 旅へ出てから、確かに自分は何度も「分かりません」と口にしてきた。


 分からないから、見に行く。


 分からないから、話を聞く。


 分からないからこそ、今すぐ答えを作らない。


 それをキースも少しずつ覚え始めている。


「そうかもしれません」


 ローゼンは言った。


「では、キース様と探します。シビウ様も。メルリル様も」


「ええ」


「皆様のお力を借りてもよろしいのでしょうか」


「それを決めるのは、彼らです」


 その答えに、ローゼンは頷いた。


 ムーミストへ伺いを立てた、メミスの話を思い出す。


 神の決定ではない。


 人の決定。


 たとえ《精霊の君》であっても、他者の意志までは決めない。


「分かりました。必ず、探します」


 そう言ってから、ローゼンは少しおかしくなった。


「ですが、見つけたことがあるのに、もう一度探すというのは妙でございますね」


「二度目だからこそ、見つけられるものもあります」


「一度目のことを覚えていないのに?」


「だからこそ」


 《精霊の君》は、それだけ答えた。


 その意味を考える時間は、もう残されていなかった。


 夢の崩壊が、一気に速まった。


          *


 大地が失われ、湖も消えた。


 花も森も、遠くの町もない。


 ローゼンは、果てのない白い空間へ立っていた。もはや上も下も分からず、遠近さえ曖昧になり、《精霊の君》だけが少し離れた場所へ浮かぶように佇んでいる。


「もう、お別れです」


「また、お会いできますか」


 ローゼンは尋ねた。


 今度は、女が少しだけ笑った。


「それを確かめるために、私を探すのでしょう?」


「……そうでございました」


 ローゼンも笑った。


 そのとき、白い世界へ一本の亀裂が走った。


 裂け目の向こうに見えるのは、光のない暗闇だった。さらに別の場所でも白が剥がれ始め、夢が一枚ずつその形を失っていく。


 現実へ戻る。


 そう理解した直前、ローゼンは《精霊の君》の背後に何かがあることへ気づいた。


 最初は、崩れかけた夢が生んだ影だと思った。


 違う。


 二つあった。


 一つは黒い。


 ただ黒い色をしているのではない。形になる以前の暗さとしか言いようがなく、明確な境界すら持たぬまま、周囲の白を静かに呑み込んでいるように見える。


 もう一つは白い。


 夢そのものを満たしていた白とは違う。確かに輪郭らしきものがあるのに、あまりにも明るく、形を見ようと意識するほど逆に姿が分からなくなる。


 人なのか。


 精霊なのか。


 巨大な何かなのか。


 小さな光なのか。


 何一つ判別できない。


 ただ、黒と白が並んでいる。


 その組み合わせを見た瞬間、三つの創世歌がローゼンの脳裏へ蘇った。


 《ケーオス》。


 《コスモス》。


「まさか……」


 思わず声が漏れた。


 《精霊の君》が振り返る。


 黒い影と白い影。


 彼女にも、それらは見えているようだった。


「あなた様の後ろに――」


 ローゼンが言い切るより先に、世界が大きく揺れた。


 白い空間が一斉に砕け、亀裂の向こうから黒い領域が広がってくる。《精霊の君》の姿も急速に遠ざかり、ローゼンは反射的に手を伸ばした。


「待ってください! 精霊の君!」


 女の口が動いた。


 声は、もう届かない。


 それでも最後に、彼女が確かに微笑んだことだけは分かった。


 黒いものと白いものが、その背後で重なった。


 混ざったのか。


 離れたのか。


 ローゼンには、もう見分けられなかった。


 そして《夢》は閉じた。


          *


 目を開けると、大樹の天井があった。


 朝だった。


 ラルソウムの柔らかな光が、重なった葉の隙間から樹室へ差し込み、木肌へ淡い明暗を作っている。外では、朝を迎えた里の葉擦れと水音が聞こえていた。


 ローゼンは寝床の上で身体を起こした。


 息が速い。


 頬が濡れていた。


 反射的に手を伸ばしてみる。


 もちろん、誰もいない。


 アイリス。


 クローカス。


 精霊の君。


 名を呼んでも、返事はない。


 ローゼンはもう一度目を閉じ、花畑を思い浮かべた。銀色の湖。太陽のない青空。白い花々。逆さまの樹木が浮かぶ町。アイリスとクローカスの顔。


 何も起きなかった。


 ただ、閉じた瞼の裏側に暗闇があるだけだった。


「……閉じた」


 ローゼンは呟いた。


 《夢》が、本当に閉じたのだ。


 胸の内へ、大きな空白が開いたようだった。


 幼い頃から、いつか眠ればまた会えると思っていた場所。アイリスとクローカスがいる場所。現実とは別に、これからもずっと存在し続けるものだと、疑ったことさえなかった世界。


 それが、なくなった。


 けれど――消えたとは限らない。


 ローゼンは、その言葉へ縋るように胸の内で何度も繰り返した。


「ローゼン?」


 入口から声がした。


 顔を上げると、キースが立っていた。早朝から起きていたらしく、手には昨日の古歌について書き留めた帳面を持っている。


「どうした。顔色が悪い」


 ローゼンは彼を見た。


 何から話せばいいのか分からなかった。


 夢に住んでいた死者たち。


 精霊の君。


 目覚め。


 崩壊していった世界。


 最後に見た二つの影。


 そして、意味の分からない言葉。


「キース様」


「何だ」


 ローゼンは一度、呼吸を整えた。


「わたくしは、探さなくてはならない方ができました」


 キースが眉を寄せる。


「誰を?」


「《精霊の君》を」


 そう答えてから、少し間を置き、もう一つの言葉も伝えた。


「あの方は――わたくしがすでに一度、ご自分を見つけているとおっしゃいました」


 キースの表情が変わった。


「どういう意味だ?」


「分かりません」


 ローゼンは首を横へ振った。


「ですから、今度はそれを探しに参ります」


 涙の跡が残る顔で、それでも彼女は微笑んだ。


 窓の代わりに開かれた葉の隙間から、朝の風が入り込む。


 薔薇の香りがした。


 ローゼンは、その香りをよく知っていた。生まれてからずっと、自分とともにあるものだと思っていた。


 けれど、その朝だけは。


 その薔薇の香りが、遥か遠いどこかから、誰かが自分を呼ぶために運んできたもののように感じられた。

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