第二十章 四季使いフユ
《夢》が閉じた朝、ローゼンは自分が見たものを、覚えている限りすべて話した。
アイリスとクローカス。
現実から消え、継承を果たせなかった精霊たちが暮らしていた世界。
その《夢》を見ていた《精霊の君》と、彼女が精霊戦争の《姫》とも呼ばれた存在であるらしいこと。
そして、目覚める直前に告げられた言葉。
――私を探しなさい。
――あなたはすでに、私を一度見つけている。
最後に見た黒と白、二つの影についても、ローゼンは隠さなかった。
話を聞き終えたキースは、当然のように質問を始めた。
「黒い影には、明確な輪郭があった?」
「人のようにも見えました。けれど、本当に人の形であったかと申されますと……」
「分からない」
「はい」
「白い方は?」
「同じでございます」
「二つは《精霊の君》とは別に動いていた?」
「そのように見えました」
「《ケーオス》《コスモス》という名を、実際に聞いたわけではない?」
「はい」
キースは帳面へ筆を走らせる。
見たものと、そこからローゼンが考えたもの。その二つを分けて記していく。
「つまり、黒と白だったというだけで、ケーオスとコスモスだと判断する根拠はない」
「はい。三つの歌を聞いたあとでしたので、わたくしがそう連想しただけなのかもしれません」
「それでいい。見たことと、考えたことは分けておこう」
そう言うキースの横では、メルリルが別の帳面へ恐ろしいほどの速さで筆を走らせていた。
「《夢》そのものへ入る方法は再現できませんの?」
「わたくしにも分かりません。以前から、眠ったときに時折訪れていただけでございます」
「でしたら、睡眠条件から洗い出しますわ。時間帯、体調、月齢、周囲の植物、魔力密度、精神状態――」
「もう《夢》は閉じたとローゼンが言っただろう」
「閉じたことと、接続できないことは同義ではありませんわ」
「本人を実験台にするな」
「観測対象と呼んでくださる?」
「もっと悪い!」
いつもの調子で言い争いを始めた二人を見て、シビウが呆れたように息を吐いた。
「朝から元気だねえ」
ローゼンは、そのやり取りを眺めながら少しだけ笑った。
《夢》を失った悲しみは、まだ胸の中に残っている。
アイリスもクローカスも、もうあそこにはいない。《精霊の君》も姿を消した。
それでも朝は来た。
キースがいて、シビウがいて、メルリルがいる。
三人の声を聞いていると、自分が現実へ戻ってきたのだということを、ようやく身体の感覚として受け入れられた。
*
昼前、一行は再び《歌蔵》へ集まった。
今度は新しい資料を調べるためではない。ラルソウムで行ってきた予備調査を、いったん終えるためだった。
机代わりの平たい根の上には、キースとメルリルがまとめた記録が置かれている。
アムドアから回収された古記録の写し。
ラルソウム側に残る《穴》に似た古伝承。
ヴァギュイザールの証言。
三つの創世歌についての調査記録。
そして、昨夜ローゼンから聞き取った《夢》についての覚え書き。
資料は増えた。
答えは増えなかった。
「結局」
シビウが紙の束を眺める。
「何が分かったんだい?」
キースは腕を組んだ。
「アムドアで見つかった古記録を、簡単な偽書として捨てるべきではない」
「一つ」
メルリルが指を立てる。
「精霊側にも、人間側の歴史とは合わない古い記録が残っております」
「二つ」
「ヴァギュイザール自身の記憶まで二つに分かれてる」
「三つ」
「創世神話も三つ」
「それは三つの中に三つを入れるな!」
「細かい男だねえ」
シビウが笑った。
キースは咳払いする。
「要するに」
今度は真面目に言った。
「アムドアの一枚の石刻だけがおかしいわけじゃない」
文字。
口承。
直接記憶。
創世歌。
形の違う記録の中で、同じように過去が一つへ揃わない。
「ただし」
キースは続ける。
「それらが全部、同じ原因で起きているとは限らない」
「当然ですわ」
「創世歌が三つあることと、アムドアに〈混沌〉の穴が開いていることを直接結びつける証拠はない」
「では、どうする?」
ローゼンが尋ねた。
キースは迷わなかった。
「現地を見る」
アムドア。
最初から、それが旅の目的だった。
「ラルソウムでは、人間側だけでは得られない記録を調べた。次はアムドアで、原資料と発見場所、大穴そのものを確認する」
「そこで何か分かる?」
シビウが訊く。
「分からない」
「即答になったね」
「もう慣れた」
「成長しましたわね」
「君に言われると腹が立つ」
ローゼンが小さく笑った。
ラルソウムへ来る前、キースは一枚の古記録の謎を解こうとしていた。
今は、その一枚が世界のもっと古い矛盾へ繋がっている可能性を知ってしまった。
ラルソウムへ来た意味はあった。
答えを得たという意味ではない。
何を確かめるべきなのかが増えた、という意味で。
「では」
サファイアが言った。
「次は、アムドアだね」
「ああ」
「明朝、発てるよう準備しておこう」
キースが顔を上げる。
「普通の街道を?」
「いや」
サファイアは穏やかに首を振った。
「北へ行くなら、普通の街道を使う必要はない」
*
出立の方法について話すため、一行は大樹の根元に設けられた小さな広場へ移った。
地面には淡い色の花々が咲き、中央には浅い水盤が置かれている。空を覆う枝葉の隙間から落ちる光が、水面へ細かな模様を揺らしていた。
「ラルソウムには、外界との行き来に使う古い道がある」
サファイアが説明する。
「君たちには、それを使ってもらおうと思っている」
「古い道?」
当然、キースが食いついた。
「街道とは別に?」
「ああ」
「空間転移?」
「そう分類したければ、それでもいい。ただ、おそらく君の想像しているものとは少し違う」
キースの眉が寄る。
「また《少し違う》か」
「ラルソウムへ来てから何度目ですの?」
メルリルが笑う。
「数えてない」
「数えましょうか?」
「いらない」
サファイアは苦笑して続けた。
「人間の街道と違って、いつでも、誰でも通れるものではないんだ」
「条件がある?」
「道というより、水の繋がりを借りる」
キースの顔が変わった。
「水?」
「ああ。北方には、地表の川だけではなく、古い水の繋がりがいくつもある。場所から場所へ、水が道を覚えているところがあるんだ」
「水が道を覚えている?」
「詳しい説明は、案内役から聞いてくれ」
「案内役?」
「はい」
ローゼンが答えた。
「アムドア方面へ向かうため、お願いしております」
「ラルソウムの精霊?」
「妖精です」
「妖精?」
「北方の古い道と、水の繋がりに詳しい方でございます」
サファイアも頷く。
「我々が彼女へ期待しているのは、それだけだ」
「それだけ?」
メルリルが反応する。
「世界の異常に詳しいとか、〈混沌〉に特別な力を持つとかではありませんの?」
「少なくとも、我々はそんな理由で頼んだわけではない」
サファイアははっきり答えた。
「アムドアの謎を解ける者として選んだのでもない」
北方。
古い道。
水の繋がり。
人間の街道へ頼らず、アムドア方面まで安全に近づく方法。
それを知っている。
だから案内を頼んだ。
「それなら分かりやすい」
キースが言った。
「最近、何にでも世界の秘密が隠れている気がしていたからな」
「期待しない方がよいと思いますわよ」
「何を?」
「そういうことを言った直後に、何か出てくるものですわ」
「嫌な予言をするな」
「予言ではなく経験則です」
そのときだった。
水盤の表面に、波紋が生まれた。
風はない。
誰も水へ触れていない。
それなのに、水面を渡った細い揺れが一度だけ広がり、同時に広場の空気が僅かに変わった。
キースは反射的に顔を上げた。
暖かい。
そう感じた直後、頬を撫でた風はひやりと冷たかった。
足元の花が一輪だけ開き、その隣では色づいた葉が枝を離れる。
季節が定まらない。
ほんの一瞬だけ、そんな奇妙な感覚があった。
「遅い」
頭上から声が落ちてきた。
短い。
不機嫌というより、それ以上の言葉を足す必要を感じていないような声音だった。
四人が一斉に見上げる。
大樹から伸びた太い根の上に、小さな少女がいた。
いつからそこにいたのか、誰にも分からなかった。
見た目だけなら、子どもにしか見えない。
シビウの腰ほどまでしかない小柄な身体に、簡素な旅装をまとっている。髪にも衣服にも飾り気は乏しく、花や光をその身へ纏う精霊も珍しくないラルソウムの中では、むしろ地味に見えるほどだった。
だからこそ、妙だった。
周囲の景色の方が、少女に合わせているように見える。
彼女の右側では木洩れ日が暖かく揺れ、左側では葉先に薄い霜が残っている。背後の枝には若葉が芽吹いているのに、その少し先では黄金色の葉が静かに舞っていた。
ほんの数歩の範囲に、同じ季節が存在していない。
キースは思わず魔力を探った。
術式はない。
大きな魔力反応もない。
何かが起きているはずなのに、その原因だけが見つからなかった。
「この子?」
シビウが言った。
少女の眉が僅かに動く。
「子どもじゃない」
「ああ、悪かったね。妖精は見た目じゃ分からないんだった」
「分かればいい」
それだけ答えると、少女は根の上から身を離した。
落ちるのではない。
木の葉が風もない空を降りるように、ゆっくりと高度を下げていく。
その途中、彼女の傍らを一枚の若葉が舞った。
次の瞬間には、それが深い緑へ変わり、赤く色づき、乾いた褐色となって地面へ落ちる。
キースは目で追った。
見間違いかと思った。
少女は何もしていない。
ただ、降りてきただけだった。
やがて地面からわずかに浮いた位置で止まる。
「フユさんでございます」
ローゼンが紹介した。
「《四季使い》の妖精です」
「四季使い?」
今度はメルリルの声が変わった。
先ほどまでの軽さが消えている。
キースも、少女を見る目を改めた。
「実在したのか」
フユの顔が少し険しくなる。
「いる」
「いや、目の前にいる以上、それは分かる。文献が少ないんだ。《四季使い》は妖精や一部の精霊にだけ現れる特殊な術者で、人間の魔導とは――」
「長い」
キースの説明は途中で切られた。
「……まだ二文目だぞ」
「長い」
「二度言わなくても分かる」
横でシビウが笑った。
「相性悪そうだねえ」
「まだ話し始めたばかりだ!」
「もう嫌われておりますわよ」
「君は黙っていろ、メルリル」
そのメルリルは、そんなやり取りには構わず、フユを頭の先から足元まで真剣に観察していた。
「《四季使い》という名称は存じておりますけれど、実際の術式を見たことはありませんわ。よろしければ一つ――」
「嫌」
「まだお願いの内容を言っておりませんわ!」
「術を見せろ、でしょ」
「……鋭いですわね」
「みんな言うから」
フユは面倒そうに顔を背けた。
その瞬間、先ほどまで枝先に残っていた霜も、色づいた葉も、芽吹いた若葉も、最初から何もなかったように周囲の森へ馴染んでいた。
キースは、その変化にも術式を見つけられなかった。
「フユ」
サファイアが声をかける。
彼女はそちらへ顔を向けた。
「この者たちを頼めるかな」
「頼まれたから来た」
「そうだったね」
「どこまで?」
「アムドアそのものへ入る必要はない」
サファイアは答えた。
「人の街道を使わず、現地へ向かえるところまで」
「封鎖地の近く?」
「可能なら」
「《旅水》は?」
「使える場所を選んでくれ」
「分かった」
キースが口を挟む。
「待ってくれ」
フユが彼を見る。
「《旅水》というのが、その水の道?」
「うん」
「君が使う?」
「案内する」
「どういう原理で――」
「明日」
「まだ質問の途中だ!」
「明日見る」
それ以上説明する気はないらしい。
「つまり」
シビウが言った。
「この子が明日、あたしたちをアムドアへ行ける水の道まで連れてってくれるんだろ」
「うん」
「分かりやすいじゃないか」
「説明が足りない!」
「行けば分かるよ」
「そういう問題じゃない!」
フユはもう、キースに興味を失ったらしい。
四人を順番に見る。
最後に、シビウの肩の大斧へ視線を止めた。
ほんの一瞬。
何も訊かなかった。
「明日の朝」
フユが言った。
「《旅水》へ行く」
「今日では駄目なのか?」
「水がまだ寝てる」
「水?」
「明日」
「だから、それがどういう――」
「明日」
完全に打ち切られた。
シビウが肩を揺らして笑っている。
「世界一も形なしだねえ」
「私は説明を求めているだけだ!」
「それが長いんだよ」
フユは身体の向きを変えた。
「では明朝」
ローゼンが言う。
「よろしくお願いいたします」
「うん」
そして、ふわりと宙へ浮かび、大樹の根の向こうへ消えていった。
*
それから一刻ほど後。
キースはラルソウムの外れで、再びフユを見つけた。
探していたわけではない。
本当に偶然だった。
大樹を中心とする里の外側、森と草地の境を歩いていたところ、淡い風が木々のあいだを抜けていった。
その先に、宙へ浮かぶ小さな姿がある。
フユは一本の木の前にいた。
枯れた木だった。
周囲の木々は豊かに葉を茂らせているのに、それだけが完全に生気を失っている。枝は白く乾き、幹の表面には深い亀裂が幾筋も走っていた。
フユが、その幹へ小さな手を置く。
キースは足を止めた。
何かする。
魔導士として培った感覚が、そう告げた。
術式の起動を見逃すまいと、意識を研ぎ澄ませる。
イースから魔力が流れる瞬間。
術者の意志が構文となる瞬間。
対象へ力が接続される瞬間。
人間の魔導なら、どれほど高度な技術であっても、そこには必ず何らかの変化が生じる。
けれど、何もなかった。
フユは、ただ木へ触れていた。
「春」
小さく言った。
それだけだった。
枯れた枝の先に、緑が生まれた。
キースは息を呑んだ。
最初は針の先ほどの小さな芽だった。それが一つ、二つと枝先に現れたかと思うと、次の瞬間には枝から枝へ、まるで春の気配そのものが木の中を走るように広がっていく。
乾いていた樹皮の内側へ水分が戻り、白茶けていた幹へ生きた木の色が蘇る。
無数の若葉が一斉にほどけ、その間から淡い薄紅の花が咲いた。
ほんの数呼吸前まで枯死していた木が、春の盛りを迎えていた。
「……待て」
キースは木へ駆け寄った。
手のひらで幹へ触れる。
幻ではない。
若葉には水分があり、花からは確かな香りがした。魔力感覚を研ぎ澄ませれば、幹の内側には樹液が流れている。
「何をした?」
フユが振り返る。
「春を呼んだ」
「それは見れば分かる! どうやってだ」
「春だから」
「今は春ではない」
「ここはね」
「ここは?」
「今は春」
意味が分からない。
キースは幹へ手を当てたまま、術式の残滓を探した。
ない。
生命力を外部から注入した痕跡もない。
時間魔導でもない。
幻術でもない。
樹木の成長を強制する土系統の術でもない。
「キース?」
後ろからローゼンの声がした。
振り返ると、ローゼン、シビウ、メルリルの三人がこちらへ歩いてくる。
「何してるんだい」
「見てくれ!」
キースは珍しく興奮を隠せなかった。
「この木は、今まで枯れていた。フユが触れて『春』と言っただけで――」
「見ていましたわ!」
メルリルが、キースを押しのける勢いで木へ近づいた。
「いつから?」
「あなたが木へ駆け寄るところからですわ。退屈そうに散歩しておりましたら、ちょうど見つけましたの」
「誰が退屈そうだ」
「そこはどうでもいいでしょう!」
メルリルも幹へ手を当て、目を閉じる。
周囲に残された魔導の痕跡を追っているのだろう。
しばらくして目を開けた彼女の顔は、険しかった。
「ありませんわ」
「だろう?」
「あり得ませんわ」
「それを今、私も考えている」
「何かの精霊術では?」
「ローゼン」
二人が同時に彼女を見る。
ローゼンは申し訳なさそうに首を横へ振った。
「わたくしにも分かりません。《四季使い》の方のお力は、普通の精霊術とも異なりますので」
キースとメルリルは、ほとんど同時にフユへ視線を戻した。
本人は、ただ面倒そうだった。
「もういい?」
「よくない!」
「よくありませんわ!」
また二人の声が重なる。
「もう一度見せてくれ」
「嫌」
「なぜ!」
「もう見せた」
「一回では観測が足りない!」
「わたくしも同意しますわ!」
フユはしばらく二人を見つめたあと、ローゼンへ顔を向けた。
「この二人、いつもこう?」
「近頃は、よく」
「大変だね」
「ありがとうございます」
「なぜ私たちが問題児みたいな扱いなんだ!」
シビウが腹を抱えて笑った。
フユは小さく息を吐く。
「四つなら見せる」
「四つ?」
「春、夏、秋、冬」
キースの表情が一気に明るくなった。
「頼む!」
「一回だけ」
「分かった」
「質問も一つ」
キースの顔が固まった。
「一つ?」
「一つ」
「少なすぎないか?」
「嫌ならやめる」
「分かった! 一つでいい!」
その横からメルリルが口を挟む。
「わたくしの質問は別枠ですわよね?」
「一緒」
「なぜですの!」
「二人で一人みたいだから」
シビウが今度こそ声を上げて笑った。
「気に入ったよ、あたしは」
キースとメルリルだけが、不満そうな顔をしていた。
*
フユが最初に向かったのは、森の中を流れる小川だった。
ラルソウムの水は澄み切っている。浅い流れの底には白い小石が敷き詰められ、陽光を受けた水面が木洩れ日と重なりながら、細かな光を川底へ揺らしていた。
フユは岸へ降りると、水面へ指先を触れさせる。
「冬」
透明な音がした。
水が凍る音だった。
指先を中心に薄い氷が広がっていく。それだけなら、キースにもできる。冷却術式を使い、水から熱を奪って凝固点以下まで温度を落とせばよい。
だが、フユの起こした現象はそれだけではなかった。
川全体が凍ったわけではない。
彼女を中心とする数歩ほどの範囲だけへ、冬が訪れた。
水辺の草へ白い霜が降り、近くの枝に残っていた葉が色を失って音もなく地面へ落ちる。キースが息を吐けば、吐息は白く曇った。
肌に触れる空気そのものが冷たく乾き、季節が一瞬にして幾月も先へ進んだようだった。
ところが、ほんの数歩下流では、同じ川が変わらず流れている。
「温度を局所的に下げた?」
メルリルが測定具へ手を伸ばす。
「違う」
キースは、ほとんど直感的に言った。
「何が?」
「分からない。だが、冷却だけじゃない」
水が凍るだけなら説明できる。
霜も、まだいい。
けれど木々まで、まるで本当に冬を迎えたかのように葉を落としている。
フユが水から指を離した。
それでも氷はすぐには解けなかった。
「次」
彼女はそれだけ言って歩き始める。
今度は、精霊たちが煮炊きに使っている小さな火床だった。
丸い石に囲まれた内側で、炎が穏やかに燃えている。
フユが手をかざした。
「夏」
炎が大きくなった。
だが、それも単純な火力の増強ではない。
陽炎が立った。
周囲の空気が急激に熱を帯び、近くに咲いていた花々が一斉に開く。湿っていた土の匂いまで変わり、乾いた草原で真夏の陽射しを受けたときのような熱気が、キースの頬を撫でた。
「火から熱を得て、周囲へ拡散した?」
メルリルが呟く。
「逆かもしれない」
「何が?」
「夏が来たから、火が強くなった」
自分で口にしておきながら、キースは眉を寄せた。
魔導理論としては、ほとんど意味をなしていない。
原因と結果が逆だ。
だが、目の前で起きた現象を見ていると、そう考える方がむしろ自然に思えた。
「気持ち悪いですわね」
メルリルが言う。
「何がだ」
「あなたと同じことを考えていた自分が」
「そこなのか!」
フユは二人を無視して、次へ進んだ。
最後は、風だった。
ラルソウムの谷を渡る、柔らかな風。
フユは何にも触れず、地面から少し高く宙へ浮かぶと、目を閉じた。
「秋」
風の匂いが変わった。
ほんの少し前まで若葉と花の香りを含んでいた風が、急に深く、乾いたものへ変わる。
枯葉。
熟した果実。
冷え始めた土。
遠くの森では、一部の木々だけが赤や黄へ色づいた。色を変えた葉のうち幾枚かが枝を離れ、風に乗ってこちらへ飛んでくる。
葉はフユの周囲を一度だけ巡り、ゆっくりと地面へ落ちた。
シビウが、その一枚を拾う。
「本物だね」
「本物とは?」
「ちゃんと枯れてる」
指先で葉を折ると、ぱり、と乾いた音がした。
「幻じゃない」
「分かっている」
キースは答えたが、視線はフユから離せなかった。
春。
冬。
夏。
秋。
四つとも、人間の魔導として似た現象を再現すること自体は不可能ではない。
木を急速に成長させる。
水を凍らせる。
火を強める。
気温と風向きを操作し、枯葉を舞わせる。
キースなら、高度な術式を幾つも組み合わせれば、見た目だけはかなり近い光景を作れるだろう。
メルリルにもできる。
だが、それは同じではない。
キースが木へ春を見せようとするなら、生命活動を促進する術式を組む。
水を凍らせるなら熱を奪う。
炎を強めるなら燃焼を促進する。
秋を作るなら植物の状態と気温と風を、それぞれ別の術で操作する。
そこには、現象の数だけ別の術式が必要になる。
フユには、その区別がないように見えた。
彼女は木を成長させたのではない。
水を凍らせたのでもない。
炎を強めたのでも。
葉を枯らしたのでもない。
春を呼んだ。
冬を呼んだ。
夏を呼んだ。
秋を呼んだ。
その結果として、木が芽吹き、水が凍り、火が勢いを増し、葉が枯れた。
「術式がない」
キースが呟いた。
メルリルも隣で腕を組んでいる。
「わたくしにも見つけられませんでしたわ。精霊術に近い感応はありますけれど、それとも違う。少なくとも、人間の魔導式へ翻訳するのは無理です」
「イースもない」
「妖精ですもの」
「では、何を起点にしている?」
「それを質問に使いますの?」
メルリルが顔を向ける。
そうだった。
質問は一つ。
キースは考えた。
聞きたいことなら、山ほどある。
季節とは現象の総体なのか。
四季使いは、本当に季節そのものを移動させているのか。
効果範囲はどこまでか。
持続時間は。
術者によって扱える季節に差はあるのか。
季節という概念が存在しない土地でも使えるのか。
複数の季節を同時に呼ぶことはできるのか。
考えるほど、質問は増えていく。
フユは無言で待っている。
やがてキースは、そのすべての根にあるものを選んだ。
「フユ」
「なに」
「どこから魔力を得ている?」
メルリルも黙った。
悪くない質問だと思ったのだろう。
人間の魔導には、起点がある。
イース。
術者の内側に宿る資質から力を引き出し、それを術式として組み上げ、外界へ働きかける。
精霊術にも、精霊自身と周囲にあるものとの感応がある。
ならば、四季使いはどこから力を得ているのか。
フユはキースを見る。
最初、質問の意味が理解できなかったのかと思った。
違った。
あまりにも当たり前のことを訊かれたため、なぜそんな質問をするのか分からない。
そんな顔だった。
「世界」
フユは答えた。
それだけだった。
キースはしばらく待った。
続きがあると思ったのだ。
ない。
「……世界?」
「うん」
「世界の、どこから? 大地か? 大気? 地脈? 精霊力を指して世界と呼んでいるのか。それとも――」
「質問、一つ」
「今のは、最初の質問を詳しく――」
「一つ」
「そこを何とか!」
「約束」
キースは絶句した。
すかさずメルリルが横から割り込む。
「でしたら、わたくしが――」
「二人で一つ」
「まだその扱いですの!?」
フユは、もう話すことはないと言わんばかりに身体を浮かせた。
「明日の朝」
「《旅水》か」
キースが先に言う。
「うん」
「それでアムドア方面へ?」
「行けるところまで」
「そこから先は?」
「歩く」
「……急に普通だな」
「道だから」
フユにとっては、それで説明が終わっているらしい。
今度こそ彼女は森の向こうへ飛んでいった。
*
「世界、ですって」
メルリルが呟いた。
「ああ」
「何ですの、それ」
「私に聞くな」
「あなた、世界一でしょう?」
「それとこれは関係ない!」
少し離れたところでは、シビウが拾った秋の葉を指先で弄んでいた。
「そんなに難しい話かい?」
二人の魔導士が同時に彼女を見る。
「難しいだろう!」
「世界から借りてるって言っただけじゃないか」
「だから、その《世界》が何を指すのかという話をしているんだ!」
「世界は世界なんじゃないの」
「シビウまでフユみたいなことを言うな!」
ローゼンが小さく笑った。
彼女は、先ほど春を迎えた枯れ木の方を見ている。
薄紅の花はまだ枝いっぱいに咲き、風が吹くたび淡い香りを運んでいた。
「わたくしたち精霊も、木や石へお願いをいたします」
「そうだな」
「ですが、フユさんのお力は、わたくしたちとも少し違います」
ローゼンは、しばらく適切な言葉を探した。
「木に春になっていただいたというより……」
薄紅の花。
凍った水。
夏の熱。
秋の風。
「その場所に、春があったように見えました」
キースも、同じ感覚を持っていた。
木を変えたのではない。
水を凍らせたのでもない。
火を強くしたのでも。
風へ枯葉を乗せたのでもない。
あの場所だけ。
春だった。
冬だった。
夏だった。
秋だった。
「あり得ない」
キースは呟いた。
だが、この旅へ出てから、その言葉を口にすることが増えた。
名のない祈り。
道を考える森。
お願いに応じる石。
二つの過去。
三つの創世神話。
死者の住む《夢》。
そのたびに、あり得ないはずのものは目の前へ現れ、キースが理解するのを待つこともなく、当たり前のように存在し続けた。
「また、分からないものが増えましたね」
ローゼンが言った。
「嬉しそうに言わないでくれ」
「以前ほど嫌そうなお顔ではございません」
キースは反論しようとして、やめた。
確かに。
分からない。
けれど、それが以前ほど腹立たしくはない。
理解できないことへの苛立ちより、知りたいという気持ちの方が強くなっていた。
それでもキースは一度、フユが消えた森の方を見る。
彼女が案内役として選ばれた理由は、四季使いだからではない。
世界の秘密を知っているからでもない。
北方の古い道を知り、水の繋がりを辿れるからだ。
そのはずだった。
「明日」
キースは呟く。
「《旅水》を見る」
「楽しそうですわね」
メルリルが言う。
「調査だ」
「はいはい」
「君こそ嬉しそうだろう」
「当然ですわ」
「認めるのか!」
シビウが笑った。
ローゼンも笑う。
キースは春を宿した木へ近づき、枝に咲く花を見上げた。
世界。
フユは、そう言った。
イースでもなく。
神でもなく。
精霊でもなく。
ただ、世界。
それが単なる比喩なのか。
それとも、四季使いの力を説明するうえで文字通り正確な答えなのか。
今は判別できない。
そして、その答えを確かめるためにフユが同行するわけでもない。
明日から始まるのは、別の調査だった。
ラルソウムで記録を読む旅は、ここでいったん終わる。
次は、アムドア。
古い記録が掘り出された場所へ行き、大穴そのものを見て、記録と現実を自分たちの目で照らし合わせる。
フユは、その場所へ続く最初の道を知っている。
それだけで、今は十分だった。
キースは花へ触れなかった。
ただ、その姿を目へ焼きつけた。
翌朝、一行は《旅水》を通り、ラルソウムを離れる。




