第二十一章 旅水
翌朝、キースは荷物を三度確認した。
着替え。
食料。
魔導具。
筆記具。
そして、旅立ったときには持っていなかったもの。
アムドアから回収された古記録の写し。ラルソウム側に残る古い《穴》の伝承について、自分とメルリルがまとめた覚え書き。ヴァギュイザールから聞き取った《精霊戦争》の証言。そして、三つの創世歌についての比較記録。
どれも原本ではない。
どれも答えではない。
それでも、ここから先へ持っていく意味はあった。
「重くありませんの?」
隣で荷をまとめていたメルリルが尋ねる。
「紙だからな」
「精神的な意味ですわ」
「君がそんなことを訊くとは思わなかった」
「どういう意味ですの!」
キースは荷紐を締め直した。
ラルソウムで確認できたことは、大きく分ければ三つある。
一つ。
現在の《アムドアの大穴》より何百年も古い年代で、《穴》について記された資料は存在する。少なくとも、簡単な偽書として捨てられるものではなかった。
二つ。
精霊側にも、互いに両立しない記録と記憶が残っている。ヴァギュイザールは、同じ《王》について、敗北した記憶と、自ら力を捨てた記憶の両方を持っていた。
そして三つ。
さらに古い時代へ遡っても、過去は一つには揃わない。
三つの創世歌。
どれも古く、どれも単純な偽作とは判定できない。一つを原形、残る二つを後世の改変だと決める証拠もなかった。
そこまで調べて分かったのは、結局のところ――なぜ、そんなことが起きているのかは分からない、ということだった。
「ラルソウムへ来た意味はあった」
キースは荷物を背負いながら言った。
「ええ」
メルリルも珍しく素直に頷く。
「ただ」
「答えより問いが増えましたわね」
「先に言うな」
「同じことを考えておりましたもの」
「そこが嫌なんだ」
「失礼ですわね!」
少し離れたところでは、シビウがマーカスの大斧を背へ固定していた。
「何でもいいけどさ」
革帯を引き締めながら言う。
「結局、次は何を調べるんだい」
「現物」
キースは即答した。
「原資料。発見場所。大穴を囲んでいる封鎖構造。そして――」
北を向く。
「《アムドアの大穴》そのもの」
ラルソウムでは、記録を見た。
次は現実を見る。
書かれた《穴》と、今そこにある《穴》。
本当に同じものなのか。
それさえ、まだ分かっていない。
*
フユは日の出より早く迎えに来た。
もっとも、それを迎えに来たと表現してよいものかは怪しい。
大樹の根元で旅支度を確認していたキースたちの前へ音もなく現れると、
「行く」
一言だけ告げ、そのまま振り返りもせず森の方へ飛んでいったからだ。
「待て、まだサファイアたちへの挨拶が――」
「終わってる」
「私は終わっていない!」
「昨日した」
「昨日のは出発の相談だ!」
フユは聞いているのかいないのか、地面から僅かに浮いたまま、一定の速さで森へ向かっていく。
慌てて追おうとしたキースの背後から、穏やかな笑い声がした。
「行っておいで」
振り返る。
サファイアが立っていた。
片手を大樹の根へ添え、その傍らにはヴァギュイザールもいる。長老の顔には、古い記憶を語ったあとの疲れがまだ僅かに残っていたが、今朝は誰かの手を借りることなく、自分の足で立っている。
「アムドアに近づけば、ラルソウムよりずっと人の領域が増える」
サファイアが言った。
「精霊の里で見たことが、そのまま通じるとは思わない方がいい」
「分かっています」
キースは答えた。
旅へ出たばかりの頃なら、その一言だけでも十ほど質問しただろう。
何が違うのか。
どの程度違うのか。
人の領域とは、具体的にどこからなのか。
今も知りたい。
ただ、現地へ行かなければ分からないことがある。本や説明で先回りできないものが、世界にはある。
そのことを、ようやく身をもって理解し始めていた。
ローゼンはサファイアの前へ進み、深く頭を下げた。
「行ってまいります」
「ああ」
サファイアは彼女の白い髪へ、そっと手を触れた。
「今度は、誰かに頼まれたからではなく、自分で選んだ旅だね」
ローゼンは一瞬だけ目を見開いた。
それから、柔らかく微笑む。
「はい」
「なら、なおさら無事に帰っておいで」
「必ず」
そのやり取りを眺めながら、キースは胸の片隅へ残り続けている疑問を思い出した。
サファイアは、いつからラルソウムにいるのか。
本人も。
古参の精霊たちも。
誰一人として、彼と出会った《最初》を正確には語れない。
けれど今、その問いを口にする気にはならなかった。
疑っているわけではない。
ただ、忘れない。
今は、それでいい。
「遅い」
森の方から、フユの声が飛んできた。
「今行く!」
キースが叫ぶ。
シビウはマーカスの大斧を肩へ担ぎ直し、サファイアへ軽く手を上げた。
「世話になったよ」
「ああ。また戻っておいで」
「そのつもりさ」
メルリルも一応は別れの礼を済ませた。
そして直後、
「帰ってきたら、古記録を全部見せてくださいな」
と言った。
「全部は無理だと思うよ」
「でしたら九割で我慢いたしますわ」
「君の我慢は基準がおかしいな」
サファイアの苦笑を背に、一行はラルソウムを発った。
ここまでは、記録を調べる旅だった。
ここから先は、記録と現実を照合する旅になる。
*
フユが向かったのは、里の北側だった。
大樹を離れるにつれ、木々は少しずつ密度を増していく。やがて彼らは、人の手どころか精霊の手さえほとんど加わっていない深い森へ入った。
ラルソウムへ来たときと同じく、踏み固められた道も道標もない。それでもフユは一度も迷わず、木々の間を縫うように進んでいく。
ローゼンもおおよその場所を知っているらしく、ときおり周囲へ目を向けては懐かしそうに微笑んでいた。
「《旅水》は使ったことがあるのか?」
キースが尋ねる。
「いいえ」
「ない?」
「見るのは初めてではございませんが、わたくし自身が使うのは今日が初めてでございます」
キースの足が止まりかけた。
「待て。君まで初めてなのか?」
「はい」
「昨日の時点で聞いていないぞ!」
「お尋ねになりませんでしたので」
「そういう問題ではない!」
前を飛ぶフユが振り返った。
「大丈夫」
「君が言うと、根拠が分からない!」
「フユは何度も使ってる」
「それを先に言ってくれ!」
それを聞いて、キースは多少なりとも安心した。
シビウが呆れた顔をする。
「あんた、竜には向かっていくようになったくせに、水溜まりには慎重なんだね」
「竜は危険だと分かっている。分からないものの方が判断しにくいんだ」
「それ、学者の悪い癖ですわ」
メルリルが言った。
「君だって昨夜、《旅水》の理論書はないのかと探していただろう」
「わたくしは慎重なのではなく、好奇心です」
「同じだ」
「違いますわ」
二人が言い争っている間にも、森の景色は少しずつ変わっていった。
足元に苔が増え、土は柔らかく湿り始める。樹皮にも細かな水滴がつき、葉の先からは朝露とは違う重い雫が、ときおり落ちた。
やがて木々の奥から、細い水音が聞こえてくる。
一つの川ではない。
右から。
左から。
前方から。
あちらこちらで小さな水音が生まれ、それらが森の奥で幾重にも重なっていた。
最後の木立を抜けたところで、キースは思わず足を止めた。
森の窪地いっぱいに、大小無数の水面が点在していた。
池と呼ぶには小さい。
もっとも大きなものでも馬車一台を収められる程度で、小さなものに至っては、人が両腕を広げたほどの大きさしかない。
円形のもの。
細長いもの。
木の根元にあるもの。
岩の隙間へ入り込んだもの。
花畑の中央で静かに空を映しているもの。
位置も形もばらばらだった。
にもかかわらず、どの水面も不思議なほど澄んでいる。
天から落ちた鏡の破片を、森がそのまま抱いているようにも見えた。
数は百を超えているかもしれない。
「……水溜まり?」
シビウが率直な感想を口にした。
「《旅水》です」
ローゼンが答える。
「全部?」
「はい」
「これ全部に飛び込むのかい?」
「一つだけ」
フユが言った。
彼女は水面から水面へ移動しながら、何かを確かめていた。ある水には屈み込んで顔を近づけ、別の水には指先だけを浸す。ときには水へ触れることさえせず、しばらく眺めるだけで次へ移った。
キースには、それぞれの違いがまったく分からない。
「それぞれ、行き先が違うのか?」
「違う」
「どうやって見分ける?」
「水」
「水の何を見るんだ」
「行き先」
「だから、その行き先がどう見えるのかを訊いている!」
フユは答えず、そのまま次の水面へ移った。
「諦めな」
シビウがキースの肩を叩く。
「フユから十以上の言葉を引き出すより、竜をもう一匹倒す方が早そうだよ」
「そんなことで諦めていたら学問にならない」
「今日は学問だけをしに来たんじゃないだろ」
「アムドアの調査も学問だ」
「世界を救う話はどこへ行ったのさ」
「両立する!」
その傍らでは、メルリルがすでに最寄りの旅水へしゃがみ込み、小さな測定具を取り出していた。
「普通の水ですわね」
「飲むなよ」
「誰が飲みますの」
「君ならやりかねない」
「水質を調べるのに舐めるほど原始的ではありませんわ!」
細い硝子管へ水を取り、光へ透かす。
透明度。
温度。
魔力残留。
メルリルが測定を始めたのを見て、キースも別の角度から水面へ意識を向けた。
水温は、周囲の気温に対して不自然ではない。
魔導反応も、ほとんど感じられない。
もしこれが転移魔導なら――あり得ない。
「術式がない」
キースが呟く。
「ええ」
メルリルも顔をしかめた。
「少なくとも、常時稼働している転移構文は見当たりませんわ」
「隠蔽されている?」
「あなたに隠せても、宇宙一のわたくしにまで?」
「そこで肩書きを使うな」
口ではそう返しながらも、キースも彼女と同じ結論へ達していた。
人間が魔導によって二つの地点を繋ぐには、まず《場所》を定めなければならない。
出発地点。
到着地点。
二点の座標差。
地形。
高度。
距離。
そして、その間に存在する空間をどう処理するのか。
転移術には幾つもの方式がある。
短距離であれば、術者自身の位置情報を一瞬だけ書き換える方法もある。より大がかりな施設では、二つの地点へ対になる術式を刻み、双方を固定したうえで安定した通路を形成することもできた。
方式が違っても、避けられないものはある。
計算。
構文。
そして、膨大な魔力。
ところが、目の前にある小さな水溜まりには、そのどれも見当たらなかった。
「フユ」
キースが呼ぶ。
「なに」
「この旅水は、今も働いているんだな?」
「うん」
「常に?」
「うん」
「誰が維持している?」
「誰も」
「……誰も?」
「水だから」
また、分からない答えが返ってきた。
「水であることと、何十日分もの距離を一瞬で移動できることは別問題だ!」
「別じゃない」
フユはそれだけ言うと、また別の水面へ向かっていった。
キースは額へ手を当てる。
「メルリル」
「何ですの」
「腹が立ってきた」
「奇遇ですわね。わたくしもです」
「二人とも、研究になると本当に似てるね」
シビウだけが楽しそうだった。
*
やがてフユは、窪地のいちばん奥にある旅水の前で止まった。
ほかのものより少しだけ大きい。
形はほぼ円形で、周囲を白い石が取り囲んでいる。
水はどこまでも澄み、空と木々を鏡のように映しながら、その下の浅い水底まで見通すことができた。
「これ」
「ここが?」
「アムドアに一番近い」
フユは頷いた。
キースは水面を覗き込む。
自分の顔が映る。その後ろからメルリルも覗き込み、ローゼンも顔を寄せたため、三人分の顔が水の上へ並んだ。
「向こう側は見えないのか?」
「見えない」
「安全確認は?」
「向こうの水は生きてる」
「それが安全確認なのか?」
「うん」
「分からん」
「フユには分かる」
ここまで来ると、いっそ清々しい。
キースは荷物から紙と筆記具を取り出した。
「何をなさるのです?」
ローゼンが尋ねる。
「計算する」
「飛び込むだけだよ」
シビウが言う。
「その前に仕組みを知りたい」
「さっき、現地へ行かないと分からないこともあるって顔してなかったかい?」
「これは今ここにある!」
「面倒な男だねえ」
キースは地面へ紙を広げた。
現在地。
目的地。
正確な距離は不明だが、既存の地図を信用するなら、徒歩では相当の日数が必要になる。
高度差。
方角。
到着地点の推定位置。
キースは頭の中で数式を組み始める。
もし二地点間の空間を圧縮するなら。
いや。
空間そのものを折り曲げるのか。
それでは必要出力が大きすぎる。
水を媒介とした転移なら、同属性の物質を基準点として固定し――。
「違う」
隣からメルリルが言った。
「何が」
「その式ですわ。空間を圧縮すると仮定したら、途中で生じる座標偏差が大きすぎます」
「分かっている。今、修正しているところだ」
「でしたら、水同士を同一座標として一時的に重ねる方が――」
「それこそ魔力量が足りない」
「外部から供給されているのでは?」
「どこから」
二人そろってフユを見る。
「世界」
先日と同じ答えが返ってきた。
「それだけでは計算できない!」
「計算しなくていい」
「私たちには必要なんだ!」
「なんで?」
キースは一瞬詰まった。
「なぜって……仕組みを理解するためだ」
「使えるよ」
「使えることと、理解することは違う」
「使えるのに?」
フユは、本当に分からないという顔をしていた。
この妖精と自分たちのあいだには、単に持っている知識が違うだけではない。
もっと根本的な隔たりがある。
キースは気を取り直し、さらに式を展開した。
出発点をA。
到着点をB。
その間の距離を――。
「……おかしい」
筆が止まった。
式そのものが成立しない。
どの方式を採用しても、観測できる魔力量と必要量が一致しない。しかも、この旅水には到着地点を指定する術式そのものが存在していなかった。
人間の転移魔導なら、出口を定義しなければならない。
定義のない転移は、移動ではなく消失だ。
「向こうに何がある?」
キースはフユへ尋ねる。
「湖」
「そこにも同じ術式が?」
「ない」
「旅水は?」
「ない」
「ない?」
キースは顔を上げた。
「一方通行だから」
フユは当然のように答えた。
シビウの顔が引きつった。
「ちょっと待ちな」
「なに」
「一方通行?」
「うん」
「これに入ったら、ここへ戻ってこられないのかい?」
「戻れない」
「それ、今言う!?」
怒声が森へ響き、鳥のような姿をした小さな精霊たちが木々から一斉に飛び立った。
「聞かれなかった」
「昨日から一緒に旅するって話してただろ!」
「帰るとは聞いてない」
「いつかは帰るだろ!」
「歩けば?」
「何日かかると思ってんだい!」
シビウが頭を抱える。
キースも思わず水面を見直した。
「出口側からは使えない?」
「普通の湖だから」
「では、この旅水だけが特殊なのか」
「ううん」
「何?」
フユは少し考えた。
どう説明すればよいのか悩んでいるのではない。
どうしてそこが分からないのか、そのこと自体を不思議に思っているような顔だった。
「水は同じ」
「同じ?」
「ここの水と、向こうの水」
「物質的に同じ水だという話か?」
「違う」
「では何が――」
フユは足元の旅水を指した。
「つながってる」
次に、北の方角を指す。
「向こうと」
「どうやって?」
とうとう、フユの表情に僅かな苛立ちが浮かんだ。
「つながってるものを、つないでるだけ」
キースは黙った。
メルリルも。
シビウでさえ、すぐには言葉を返さなかった。
「……つながっているものを」
キースはゆっくり繰り返す。
「つないでるだけ」
「うん」
「では、旅水が二つの水辺を新しく繋いでいるわけではない?」
「うん」
「最初から繋がっている?」
「うん」
「距離は?」
「あるよ」
「なら離れているだろう!」
「離れてるけど、つながってる」
「矛盾している!」
思わず声が大きくなった。
フユは首を傾げる。
「川も離れてる?」
「川?」
「上と下。遠い。でも水はつながってる」
「それは実際に水路が続いているからだ」
「これも同じ」
「どこに水路がある!」
「世界」
キースは額へ手を当てた。
また、そこへ戻ってきた。
世界。
先日、四季使いの力をどこから得ているのかと尋ねたときも、フユは同じ一語を返した。
春を呼ぶ。
冬を呼ぶ。
夏を呼ぶ。
秋を呼ぶ。
あれらの現象も、フユが何か新しいものをその場へ作り出したようには見えなかった。
枯れ木へ生命力を注いだわけではない。
水から熱を奪ったのでもない。
ただ、その場所に春があり、冬があった。
キースは地面へ広げた計算式を見つめた。
出発点A。
到着点B。
二つは離れている。
だから、その間をどう短縮するか。
最初から、その考え方そのものが違っていたのではないか。
「……メルリル」
「何ですの」
「この式、全部捨てる」
「あら。世界一が敗北宣言?」
「違う。前提が間違っている」
キースは紙の上へ一本の線を引いた。
「私たちは、AとBが別の場所にあると考えている」
「実際、そうでしょう」
「地理的にはな」
「では?」
「人間の転移魔導なら、この距離を越えるために新しい通路を作る。空間を曲げるにせよ、位置を書き換えるにせよ、存在していない近道を術式によって成立させる」
メルリルの顔から軽口が消えた。
「ええ」
「だから巨大な魔力が必要になる。現実に存在しない状態を、無理に作るからだ」
「……続けて」
「もし、フユの言っていることをそのまま受け取るなら」
キースは旅水へ目を向ける。
「これは、道を作っていない」
水面が静かに揺れていた。
「もともと世界の中にある繋がりを、こちらから使える形にしているだけなのかもしれない」
メルリルはしばらく黙っていた。
やがて、彼女にしては珍しく慎重な口調で言った。
「先日見せていただいた四季の力と、同じ?」
「分からない」
「でも」
彼女は旅水を見た。
「似ていますわ」
「ああ」
春を新しく作るのではない。
世界のどこかにある春という状態を呼ぶ。
離れた水を新しく繋ぐのではない。
すでに繋がっているものを、こちらから使う。
言葉にすれば奇妙で、矛盾しているようにさえ聞こえる。
けれど、フユにとっては、こちらの方が自然なのだ。
「人間の魔導は……」
キースは小さく呟いた。
術式を組む。
イースへ触れる。
まだそこにはない火を生み、風を起こし、石を動かす。
そのたびに、現実へ術者の望む形を一時的に押しつけている。
ならば、その材料はどこから来る。
古くから魔導理論は、それを術者自身の魔力だと説明してきた。
だが、イースとは本当に単なる魔力の貯蔵器官なのか。
なぜ〈混沌〉の近くでは、術式を使ってもいないイースそのものが異常な反応を見せる。
しかも、魔導士だけに。
キースの思考が、何かへ届きかけた。
「キース」
シビウの声で、現実へ引き戻された。
「考えるのは、向こうに着いてからにしな」
「あと少し――」
「フユがもう入るよ」
「何?」
見れば、フユは旅水の縁に立っていた。
「待て! まだ観測が――」
「終わり」
「終わっていない!」
「行く」
フユは何の躊躇もなく、水面へ一歩踏み出した。
小さな足が水へ沈む。
普通なら、浅い水溜まりへ膝まで浸かる程度の深さしかない。
それなのに、足から腰へ、腰から肩へ。そして頭まで。
フユの身体は、そのまま水面の下へ滑り込むように消えた。
大きな水しぶきすら上がらない。
幾つかの波紋だけが静かに広がり、ほどなく水面は何事もなかったように元へ戻った。
底には、誰もいない。
「……行った」
シビウが呟いた。
「行きましたわね」
「本当に」
キースは旅水へ近づき、身を屈めて覗き込む。
水底には白い小石がある。
どう見ても浅い。
人一人が消えられるような深さではない。
「これは……」
「考えるな」
シビウが言った。
「でも」
「今考えても分からないんだろ?」
「……ああ」
「なら、行くよ」
シビウは肩へ担いでいた大斧を外し、革帯で背へしっかり固定し直した。
「向こうで斧だけ置いていかれたら、マーカスに化けて出られそうだからね」
ほんの少し笑う。
キースは何も言わず、その背を見た。
「じゃ、お先」
シビウは勢いをつけ、そのまま旅水へ飛び込んだ。
今度は盛大に水しぶきが上がった。
「冷たっ――」
叫び声が途中で途切れた。
消えた。
メルリルが水面を見つめる。
「さて」
「君、楽しそうだな」
「当然でしょう。計算不能の現象へ、実際に入れるのですよ」
「怖くないのか?」
「怖いですわよ」
メルリルは、あっさり答えた。
「でも、怖いことと調べたいことは両立しますもの」
その言葉を聞いて、キースは少し笑った。
「君は本当に私と逆だな」
「それ、褒めています?」
「半分くらい」
「では、半分だけ受け取っておきますわ」
メルリルも旅水へ足を踏み入れた。
水が胸へ届くより早く、その身体はすっと水面の下へ沈み、姿を消した。
残ったのは、キースとローゼンだけだった。
ローゼンは、しばらく静かな水面を見つめている。
「怖いか?」
キースが尋ねた。
「少し」
「私もだ」
「キース様も?」
「知らない場所へ出る。一方通行。理屈も分からない。怖くない方がおかしい」
以前なら、怖いと口にすること自体を恥じていたかもしれない。
世界一の魔導士だから。
神官長だから。
怖がるべきではないと、どこかで思っていた。
けれど今は違う。
怖いものは怖い。
そのうえで、進めばいい。
「一緒に行くか」
キースが手を差し出す。
ローゼンは、その手を見た。
それから微笑み、静かに首を横へ振った。
「大丈夫でございます」
「そうか」
「はい。自分で参ります」
《精霊の君》を探す。
その旅もまた、彼女自身が選んだものだった。
「なら、向こうで」
「はい」
キースは旅水へ足を踏み入れた。
冷たい。
驚くほど普通の水だった。
足首が沈み、次の一歩を踏み出した瞬間――身体が落ちた。
*
水中へ沈んだのではない。
それだけは、すぐに分かった。
息ができる。
衣服が肌へまとわりつく感覚もなく、身体が水の抵抗を受けている様子もない。
それなのに視界だけは水中のように歪み、どこからともなく差し込む光が幾重にも波打っている。
上も下もない。
落ちているのか、浮いているのかさえ分からなかった。
その曖昧な世界の中に、無数の水があった。
川。
湖。
雨。
井戸。
山を流れる雪解け水。
大地の下を走る細い水脈。
朝露。
海。
それらを本当に見ているのか。
ただ、そこにあると感じているだけなのか。
キースには判断できなかった。
手を伸ばす。
指先へ、ほんの一瞬だけ、自分の周囲とは違う水の冷たさが触れたような気がした。
無意識に計算しようとする。
距離。
方向。
時間。
どれも定まらない。
人間の魔導なら、最初に確定させなければならないものが、ここでは一つも意味を持たなかった。
それなのに、不思議と迷っている感覚はなかった。
自分がどこへ行くのか、キース自身には分からない。
だが、水は知っている。
そんな、理屈では説明できない確信だけがあった。
フユの言葉が蘇る。
――つながってるものを、つないでるだけ。
あの言葉の意味を。
ほんの少しだけ。
理解したような気がした。
次の瞬間、世界がひっくり返った。
*
「ぶはっ!」
キースは水面から顔を出した。
反射的に大きく息を吸う。
目の前には岸があった。
「早く上がりな!」
シビウが手を伸ばしている。
その手を掴むと、強い力で引き上げられた。
岸へ転がったキースは数度咳き込み、それから自分の身体を見た。
「濡れて……ない?」
法衣も、髪も。
何一つ濡れていなかった。
つい今しがた、水面から顔を出したはずなのに、布には水の染み一つない。
「わたくしも同じでしたわ」
メルリルは、すでに岸辺で測定を始めていた。
「なのに、水中にいた感覚はある。呼吸阻害なし。体温変化もほぼなし。面白すぎますわ」
「フユは?」
キースが辺りを見回す。
少し離れた場所に、彼女はいた。
「全員来た」
それだけ確認すると、もう湖から離れようとしている。
「待て!」
まだ四人目がいない。
ローゼン。
キースが湖へ向き直った直後、水面が大きく膨らんだ。
「きゃっ!」
ローゼンが飛び出す。
キースとシビウが二人がかりで腕を掴み、その身体を岸へ引き上げた。
「大丈夫か?」
「はい……驚きました」
ローゼンも、やはり濡れていなかった。
五人。
全員揃った。
そこでようやく、キースにも周囲を見る余裕が生まれた。
出口は、本当にただの湖だった。
ラルソウムのような光る花はない。
巨大な大樹も。
無数の旅水も。
ただ、森に囲まれた静かな湖があり、薄い朝霧の向こうで木々が水面へ影を落としている。
「ここからラルソウムへ戻るには?」
シビウが念のため尋ねる。
「歩く」
フユが即答した。
「やっぱりかい」
シビウは肩を落とした。
やがて諦めたように息を吐き、マーカスの大斧を背負い直す。
「まあ、いいさ。帰るために来たわけじゃないしね」
その一言には、以前とは違う重みがあった。
帰れない道。
それでも進む。
キースは湖へ目を戻した。
「こちら側には、何もない」
「だから一方通行ですのね」
メルリルも水面を調べながら言う。
「向こうの旅水だけが入口として機能する。でもフユは、両方の水が最初から繋がっていると言った」
「ああ」
「なら、一方通行なのは、水の繋がりそのものが一方向だから?」
「川の流れのように?」
「可能性はありますわ」
二人の会話を聞いていたフユが、短く言った。
「違う」
「どこが!」
「水は両方つながってる」
「では、なぜ戻れない!」
「入口がないから」
「だから、その入口が――」
言い終えるより先に、フユはもう歩き始めていた。
キースは続きを飲み込んだ。
「……あとで必ず聞く」
「頑張ってくださいませ」
ローゼンが微笑んだ。
「君も他人事みたいに言うな」
一行は湖を離れた。
*
こちらの森は、ラルソウムより乾いていた。
木々の種類も違い、苔や花よりも低い灌木が目立つ。空気の中には水の匂いより、乾いた土や細かな砂埃の気配が強く混じっている。
ほんの一つの水面を越えただけで、世界の手触りそのものが変わっていた。
「アムドアは?」
キースが尋ねた。
フユは北を指した。
「向こう」
「どのくらい?」
「近い」
「君の《近い》は信用していいのか?」
「歩いて何日もはかからない」
「それなら十分だ」
シビウが言った。
確かに。
ラルソウムから通常の街道を使っていれば、ここまで来るだけでも遥かに長い旅になっていた。
《旅水》は、その距離を一瞬で越えた。
いや。
越えた、という表現そのものが間違っているのかもしれない。
キースは歩きながら、もう一度背後の湖を振り返った。
人間の魔導なら、あれほど離れた二地点を結ぶために、現実には存在していない通路を作ろうとする。
術式で。
魔力で。
世界へ別の形を押しつけて。
けれど、フユたちは違う。
春を作るのではなく、春を呼ぶ。
道を作るのではなく、すでに繋がっているものを使う。
人間の魔導と彼女たちの力の差は、単なる出力や技術の差ではないのかもしれない。
もっと根本にある。
世界へどう触れるか。
世界を何だと考えるか。
その段階から違っている。
まだ仮説にすらならない考えだった。
形のある言葉へまとめることもできない。
だから、今は帳面にも書かなかった。
現地へ行く。
見る。
測る。
記録する。
分からないことへ、先に名前を与えない。
それが今のキースにできることだった。
腰の荷袋には、ラルソウムで得た記録が入っている。
《穴》についての古記録。
二つの過去を持つヴァギュイザールの証言。
三つの創世歌。
これから向かうアムドアで、それらと何が一致し、何が食い違うのか。
それを確かめる。
北へ進むにつれ、空の霞は次第に濃くなっていった。
やがて森が途切れる。
その向こうに、人の住む土地が見え始めた。
煙。
畑。
小さな集落。
人間の暮らしがある風景。
ラルソウムではなく、人の世界へ戻ってきたのだと、ようやく実感する。
そして、そのさらに向こう。
地平の一部だけが、不自然に黒く欠けていた。
雲ではない。
山でもない。
何か黒いものがそこにあるのではなく、そこにあるはずの空と大地が、まとめて抜け落ちているように見えた。
キースは足を止めた。
「……あれが」
ローゼンも同じ方角を見つめている。
「はい」
その声が、僅かに硬くなった。
「アムドアの方角でございます」
遥かな距離を隔ててなお、そこだけは世界の景色として馴染んでいなかった。
大地に穿たれた穴というより、世界そのものから何か一つが失われている。
そんなふうに見えた。
キースは無意識に胸へ手を当てる。
イースが、かすかに脈打っていた。
ラルソウムでの予備調査は終わった。
ここから先は、アムドアそのものが彼らの調査対象だった。




