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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第四部 アムドアには三つの歴史がある
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23/35

第二十二章 黒くなる魔導士

 アムドアへ近づくにつれて、人の住む土地は増えていった。


 それなのに、生活の気配はむしろ薄くなっていく。


 《旅水》から出て半日ほど北へ進んだ頃には、街道の両側へ広い畑が現れた。麦らしき作物は実をつけたまま刈り取られず、果樹には熟れすぎて黒ずんだ実が枝へ残されている。農具を収めた小屋も、荷を積むための車も置き去りにされていた。それだけを見れば、つい数日前まで人が働いていたように思えるのに、畑にも道にも姿はない。


 さらに進むと、街道脇へ白い杭が立ち始めた。


 一本ごとに細い銀線が巻きつけられ、上部には小さな魔導文字が刻まれている。


「封鎖標ですわね」


 メルリルが足を止めた。


「人間の?」


「ええ。簡易結界に使うものです。ずいぶん急造ですけれど」


 キースも杭へ近づき、手を触れずに術式だけを読んだ。組まれているのは侵入を阻む障壁ではない。一定範囲内で起きた魔力の変動を拾い、内側へ知らせるための警戒線だった。


「対象は人ではないな」


「魔力?」


「たぶん」


 二人が術式を確かめているあいだ、フユは興味を示すこともなく先へ進んでいた。ローゼンは街道の向こうへ視線を向けたまま、いつになく口数が少ない。


 シビウだけが、別のことを気にしていた。


「鳥がいないね」


 その一言で、キースもようやく気づいた。


 森はある。


 畑もある。


 風も吹いている。


 それなのに、鳥の声がまったくしない。


「旅水のところにはいた」


「いたね」


「ここだけか」


「かもしれない」


 シビウは腰の《踊る剣》へ手を置いた。


「こういう静かな場所は好きじゃないよ」


 マーカスなら、そこで何か言っただろう。


 シビウ自身も同じことを思ったのかもしれない。肩に担いだ大斧へ一瞬だけ指を触れたが、何も言わず、再び歩き出した。


 やがて街道の先に集落が見えてきた。


 石壁はない。その代わり、村を囲むように何重もの封鎖標が立てられている。家の数は百に届かない程度だろうが、普通の農村にしては宿や倉庫が多かった。アムドアの《大穴》へ向かう者たちの補給地として使われてきたのかもしれない。


 ようやく、人影も見えた。


 だが、最初に聞こえてきたのは歓迎の声ではなかった。


「押さえろ!」


 男の怒声が響く。


「腕に触るな! 布を使え!」


 キースたちは顔を見合わせると、一斉に走り出した。


          *


 村の入口で、四人の男が一人の魔導士を地面へ押さえつけていた。


 患者なのだと分かったのは、近くまで来てからだった。


 年齢は三十代ほど。旅装の上から灰色の魔導外套を羽織り、腰には杖を下げている。身体つきは細いが、暴れる力は尋常ではなく、四人がかりでようやく押さえ込んでいるような状態だった。


「離せ!」


 男は叫んでいた。


「俺はまだ大丈夫だ! 離せ!」


「大丈夫な奴は、そんな目にならねえよ!」


 患者を押さえていた大柄な男が怒鳴り返す。


 その男がゼクスだった。


 肩幅が広く、日に焼けた顔には無精髭が生えている。重い革外套を袖までまくり上げた腕には、古い切り傷や火傷の痕が幾つも残っていた。


 魔導士らしい長杖も法衣も持っていない。


 それでもキースには、近づいた瞬間に分かった。


 イースを持っている。


 しかも弱くない。


「何が起きている!」


 キースが声をかける。


 ゼクスは一瞬だけこちらを見た。


「旅人なら下がってろ!」


「私も魔導士だ!」


「だったら余計に下がれ!」


 叫び返され、キースは足を止めた。


「なぜ――」


「キース!」


 メルリルの声が鋭くなる。


 彼女は、患者を見ていた。


 キースも改めて男へ視線を向ける。


 最初に異常が分かったのは、指だった。


 両手の指先が黒い。


 泥や煤が付着しているのではない。皮膚そのものから色が失われ、爪と肉の区別さえできないほど深い黒へ変わっている。


 さらに目。


 白目の端から、黒い染みが広がっていた。


 一見すれば瞳孔が異様に大きくなったようにも見える。だが違う。黒目と、その周囲にあるはずの白目との境界そのものが崩れ始めている。


「……何だ、これは」


 キースの声が低くなった。


 患者の右頬にも黒い斑点が浮かんでいた。


 皮膚病に見えなくはない。


 ただ、その輪郭がおかしい。


 黒くなった部分と健康な皮膚との境目が、まるで墨を水へ垂らしたように滲んでいる。


「頼む!」


 患者がキースを見た。


 まだ人間の理性が残っている。


「魔導士なんだろ! 治してくれ!」


「私は治癒師では――」


「何でもいい! 焼いても切ってもいい! この手を落とせば助かるなら――!」


「駄目だ!」


 ゼクスが怒鳴った。


「もう試した! 腕を切ったって止まらねえ!」


 患者の顔から血の気が引いた。


「……嘘だ」


「嘘じゃねえ」


「俺はまだ……俺は」


 声が震える。


 そのとき、キースの胸の奥でイースが強く脈打った。


「っ……!」


 《旅水》を出たあと、遠くアムドアを見たときよりも、はっきりしている。


 引かれる。


 自分の内側にある何かが、患者の黒い部分へ向かって伸びようとしている。


「キース?」


 ローゼンが異変に気づく。


「近づくな!」


 メルリルがキースの肩を掴んだ。


 彼女自身も顔を歪めている。


「あなたも?」


「ああ」


「わたくしもですわ」


 メルリルは自分の胸へ手を当てた。


「イースが反応しています」


 その言葉を聞いたゼクスの表情が変わった。


「お前ら、マジで魔導士か」


「そう言っただろう」


「なら、ここでぼさっとしてるんじゃねえ!」


 患者を押さえたまま、彼が叫ぶ。


「結界小屋を開けろ!」


 他の男たちが動いた。


 村の門脇には、小さな石造りの小屋がある。入口には幾重にも魔導布が張られ、周囲には封鎖標と同じ銀線が巡らされていた。


「運ぶぞ!」


 男たちが患者の身体を持ち上げる。


 だが、間に合わなかった。


「待て」


 キースが低く呟いた。


 患者の左手。


 黒くなった指先から。


 何かが落ちた。


 血ではない。


 肉でもない。


 黒い滴だった。


 地面へ落ちたそれは、液体のようには広がらない。丸い形のまま留まり、表面だけが絶えず微細に形を変えている。


「……〈混沌〉」


 ローゼンの声が震えた。


 その名を聞いた瞬間、患者が絶叫した。


「嫌だ!」


 身体を激しく捩る。


「嫌だ! まだ人間だ! 俺はまだ――!」


「押さえろ!」


「ゼクス、もう無理だ!」


「黙れ!」


 黒い部分が、一気に広がった。


 指先から手へ。


 手首。


 腕。


 皮膚の上を這っているのではない。


 肉体の形そのものが、黒い何かへ置き換わっていく。


 骨の輪郭が消え、筋肉の境界もなくなる。袖の中にあったはずの腕は、粘り気を持った影のように膨らみ、縮み、一定の形を保てなくなっていった。


「結界!」


 キースは反射的に術式を展開した。


 地面へ光の線が走る。患者を中心に円環が閉じ、その外側へ幾重もの防護構文が重なっていく。


 今度は、迷わなかった。


 竜の峠で。


 マーカスを失った。


 あの数呼吸を、もう繰り返したくなかった。


「全員、円の外へ!」


 ゼクスたちが飛び退く。


 最後まで患者を押さえようとしていたゼクスの袖を、シビウが掴んで強引に引いた。


「離せ!」


「死にたいなら一人でやりな!」


 次の瞬間。


 患者の顔が崩れた。


 目。


 鼻。


 口。


 それぞれがあった位置は、まだ分かる。


 だが、その境目がない。


 黒い影の表面へ、人間の顔の痕跡だけが沈み込んでいるようだった。


「た……すけ……」


 声だけが。


 まだ人間だった。


 ローゼンが両手で口元を覆った。


 メルリルは青ざめながらも目を逸らさない。


 キースも同じだった。


 見なくてはならない。


 恐ろしいからこそ。


 何が起きているのかを、記憶しなければならない。


「名前は!」


 キースが叫んだ。


 なぜ、そんなことを訊いたのか。


 自分でも分からなかった。


「あなたの名前は!」


 黒い顔が揺れた。


「ラ……」


 音が途切れる。


「ラウ……」


 最後までは聞き取れなかった。


 人間の輪郭が失われた。


 衣服だけが、地面へ落ちた。


 その内側に、拳より少し大きな黒い塊が残る。


 〈混沌〉。


 キースが文献で読んできたものと、よく似ている。


 だが、違った。


 その黒い塊は、一度だけ。


 結界の中で、心臓のように脈打った。


 まるで生き物のように。


          *


 黒い塊は、その後しばらく動かなかった。


 それでもキースは結界を解除しなかった。村へ常駐する別の魔導士たちが集まり、封印具を幾重にも取りつけ、ようやく厚い石箱へ収容する。


 そのあいだ、誰も大きな声を出さなかった。


 地面には患者の服が残されている。


 靴。


 腰の杖。


 小さな革袋。


 人間だった証拠だけが、黒いものの外側へ取り残されていた。


「……名前」


 キースが呟いた。


 隣に立つゼクスが顔をしかめる。


「ラウル=ハーディだ」


「ラウル」


「ああ。西から来た魔導士だ。ここへ来てふた月くらいになる」


「ふた月」


「封印作業を手伝ってた」


 ゼクスは地面へ落ちていた杖を拾い上げた。


 粗末な杖だった。


 高価な魔霊石もない。長く使い込まれ、握る部分だけ色が変わっている。


「昨日までは喋れた。今朝、目が黒くなった」


「発症から、どのくらい?」


「最初に指が黒くなったのは三日前」


 メルリルの表情が険しくなった。


「三日で?」


「ああ」


「全員、同じ速度ですの?」


「違う。半月保った奴もいる。半日で終わった奴もいる」


「治った者は?」


 キースが尋ねた。


 ゼクスは答えなかった。


 それだけで分かった。


「一人も?」


「俺が知ってる限りはな」


 風が吹いた。


 地面に残ったラウルの外套の裾が揺れる。


 身体だけがない。


「これが」


 ローゼンが、ようやく口を開いた。


「この村で起きている奇病なのでございますか」


「村だけじゃねえよ」


 ゼクスは北を見た。


 遠く。


 地平の向こう。


 黒く欠けた場所。


「アムドアの外縁一帯だ。〈混沌〉へ近いところほど多い。正確な範囲は分からねえし、記録も揃ってない」


「感染する?」


 シビウが訊く。


「分からん」


「分からない?」


「家族が何日も看病して、何ともなかった例がある。血に触れた奴も平気だった。逆に、誰とも接触してねえ魔導士が突然黒くなったこともある」


「では、病ではない可能性もありますわね」


 メルリルが言った。


「感染症とは限らない」


「ああ」


 キースも同意する。


「少なくとも、通常の伝染病とは考えにくい」


「それだけじゃねえ」


 ゼクスが言う。


「ここまでで分かってることが、一つある」


 嫌な予感がした。


「黒くなるのは」


 ゼクスはキースを見る。


 次にメルリルへ視線を移した。


「魔導士だけだ」


 その場に沈黙が落ちた。


「……だけ?」


 ローゼンが確認する。


「ああ」


「イースを持つ者だけ、という意味ですの?」


 メルリルの声が低くなる。


「今んとこな」


「魔導士ではないイース保有者は?」


「この辺じゃ、正式な魔導士以外まで調べられねえよ。そもそも自分にイースがあるって知らない奴もいるだろうからな」


 その言葉に、キースの胸が痛んだ。


 メミス。


 イースを持って生まれても、平民なら魔導士にはなれない。


 存在していても。


 制度が名を与えない。


「魔導を使わなければ、防げる?」


「それも分からん。発症してから術を使うと悪化するって話はある」


「因果は?」


「知らねえ」


「記録を見せてくれ」


 キースとメルリルが、ほとんど同時に言った。


 ゼクスが二人を見る。


「なんだ、お前ら」


「魔導士だと言っただろう」


「それは見りゃ分かる。お前ら、変なところで息合うな」


「合っていない」


「失礼ですわ」


 ゼクスは口の端を上げた。


 一瞬、こんな場面でも笑う男なのかと思った。


 けれど、すぐに違うと分かった。


 笑っていなければ、やっていられないのだ。


「ついて来い」


 ゼクスはラウルの杖を肩へ担いだ。


「立ち話するには、ここは縁起が悪すぎる」


          *


 ゼクスが案内したのは、村の中央にある古い集会所だった。


 もとは旅人向けの倉庫だったらしい。今では壁一面に地図が貼られ、長机の上には患者記録や封鎖報告が積み上げられている。


 建物の半分は、臨時診療所として使われていた。


 そこにも、黒くなり始めた魔導士たちがいる。


 キースたちは、まず三人の患者を見た。


 一人目は少女だった。


 年齢は十五か十六ほど。右手を厚い包帯で巻いている。


「外しても?」


 メルリルが尋ねると、少女は怯えながらも頷いた。


 治療師が慎重に包帯を解く。


 小指と薬指。


 二本の指先が、黒く染まっていた。


 まだ指としての形は保っている。


 けれど皮膚の紋理が消えている。


 指紋も。


 爪と皮膚の境目も。


 まるで、指の形をした黒い空白が手の先へ付いているようだった。


「感覚は?」


 キースが尋ねる。


「あります」


「痛みは?」


「冷たい……です」


「実際の温度は?」


 メルリルが触れずに測定具を近づける。


「周囲とほぼ同じですわ」


「でも、冷たいんです」


 少女が言った。


「ずっと……水の底みたいに」


 二人目は老人だった。


 両目に症状が出ている。


 黒い部分は瞳孔だけではなく、虹彩から白目へと広がっていた。


「見えますか?」


「お前さんの顔はな」


「色は?」


「色……」


 老人は少し考えた。


「減った」


「減った?」


「赤が見えん。黄色も薄い」


 ローゼンが、自分の赤い瞳へ手をやった。


 老人は彼女を見ているはずなのに、その色が分からない。


 三人目は、若い男だった。


 症状は皮膚の変色ではなく、左肩に現れていた。


 そこだけ、輪郭がおかしい。


 正面から見れば普通に見える。


 しかし横から見ると、肩の端が背景へ滲んでいた。本来そこに身体があるはずなのに、向こう側にある壁の色がわずかに透けて見える。


 キースは息を呑んだ。


「黒くなるだけではない」


「境界が失われていますわ」


 メルリルが呟く。


「身体の外と内を分けている、何かが」


 フユは患者たちから少し離れた場所に立っていた。


 珍しく。


 彼女も、真剣な顔をしている。


「フユ」


 キースが呼ぶ。


「何か分かるか?」


「嫌」


「何が」


 フユはしばらく患者を見た。


「これ、嫌」


 知識として答えたのではない。


 感覚。


 世界から力を得るという《四季使い》が、目の前の現象そのものを嫌がっている。


「世界のものではない?」


 キースは思わず尋ねた。


 フユは答えなかった。


「フユ?」


「分からない」


 それだけだった。


 キースも、それ以上は訊かなかった。


          *


 夕方まで、二人の魔導士は記録を調べ続けた。


 発症者は、この村の記録だけで三十七名。


 周辺の封鎖拠点まで含めれば、確認できるだけでも八十を超える。


 死亡。


 いや。


 死亡と呼んでよいのか。


 完全に〈混沌〉化した者は、五十余名。


 回復例は零。


「年齢差はない」


 キースは長机へ記録紙を並べた。


「十代から七十代までいる」


「男女差もなし」


 メルリルが別の報告書をめくる。


「魔導系統にも偏りがありませんわ。火、水、風、土。治癒系統も、結界専門も発症しております」


「イースの強さは?」


「むしろ散らばっています。弱い術者も、強い術者も」


「アムドアからの距離」


「こちらは多少ありますわね」


 メルリルが地図へ小さな印を置いた。


「近いほど報告数は増えています。ただし人口密度も違いますから、これだけでは危険度が距離へ比例するとまでは言えません」


「〈混沌〉封印作業への参加歴は?」


「かなり多いですわ」


「接近頻度との相関か」


「可能性はあります」


 キースは別の記録へ目を落とした。


「しかし、発症していない封印魔導士も多い」


「原因を一つに絞るのは早いですわね」


「ああ」


 そこへゼクスが入ってきた。


 両手に木皿を持っている。


「飯だ」


「今は――」


「食え」


「資料を」


「黒くなってから後悔しても遅えぞ。食えるうちに食っとけ」


 乱暴な言い方だった。


 だが今日一日で何人もの患者を見てきた男が言うと、冗談には聞こえない。


 キースは素直に木皿を受け取った。


 豆と肉を煮込んだ料理だった。北方らしく香草が強く、長く煮込まれた肉は柔らかい。


「酒は?」


 シビウが尋ねる。


 ゼクスが、初めて心底嬉しそうな顔をした。


「ある!」


「じゃあ話が早い」


「シビウ」


「何さ」


「飲みすぎるな」


「あんた、誰に言ってんだい」


 その言い方に、キースは一瞬だけマーカスを思い出した。


 シビウも気づいたのか。


 ほんの僅かに表情が止まる。


 それでも彼女は、ゼクスから差し出された酒杯を受け取った。


「一杯だけね」


「本当に一杯で終わる奴が言う台詞じゃねえな」


「あんたとは気が合いそうだよ」


「そりゃ光栄だ」


 シビウは酒を口にした。


 キースは何も言わなかった。


 マーカスを忘れたのではない。


 別の誰かと酒を飲んだからといって、死者への愛が薄れるわけではない。


「あんたの仲間か?」


 ゼクスが大斧へ目を向けた。


 シビウは酒杯を置く。


「元旦那のさ」


「元?」


「死んだ」


 ゼクスは一瞬だけ黙った。


「そうか」


 それだけだった。


 余計な慰めはない。


「重いだろ」


「重いよ」


「だったら置いてきてもよかったんじゃねえか」


「まだいいんだ」


「そっか」


 シビウは、もう一口酒を飲んだ。


 キースは、その姿から目を逸らさなかった。


 彼女は。


 ちゃんと生きている。


          *


「それで」


 食事が一段落したところで、キースがゼクスへ尋ねた。


「この奇病と〈混沌〉崇拝者に関係があると聞いた」


 ゼクスの手が止まった。


「誰から?」


「記録の端に何度も書かれている」


「ほんと、学者ってのは細けえところを見るな」


「教団がいるのか?」


「ああ」


 ゼクスは酒杯を机へ置いた。


「《混沌崇拝教団》」


 名前だけなら、単純だった。


「昔から?」


「俺がここへ来た頃には、もういた。ただ、今みてえに多くはなかった」


「今は増えている?」


「奇病が広がってからな」


「病人を勧誘しているのですか?」


 ローゼンが尋ねる。


「そういう連中もいる」


 ゼクスの声が低くなった。


「治らねえって言われた魔導士のところへ行くんだ。黒くなった指を見て、怖がるなって言う」


「怖がるな?」


「これは病気じゃない。変化だ。解放だってな」


 キースの顔が険しくなる。


「〈混沌〉になることが?」


「ああ」


 ゼクスは吐き捨てた。


「奴らの言い分じゃ、人間は形を持ってるから苦しむらしい」


「形?」


「身体。名前。身分。過去。記録。全部だ」


 ゼクスは指を一本ずつ折っていった。


「人は、自分が自分であることに縛られてる。なら、形を失えば自由になる」


 部屋が静かになった。


 単なる狂信者の戯言として笑い飛ばすには、その思想にはどこか聞き覚えのある響きがあった。


「教典は?」


 キースが尋ねる。


「ある」


「見せてくれ」


「やめといた方がいいぞ」


「なぜ」


「読むと腹立つ」


「それは読んでから決める」


 ゼクスはしばらくキースを見ていた。


 やがて立ち上がり、部屋の隅にある箱から薄い冊子を一冊取り出した。


 黒い表紙。


 装飾はない。


 題名すら書かれていない。


「捕まえた信者が持ってた」


 キースは冊子を受け取った。


 紙は安い。


 大量に配るために作られたものなのだろう。


 最初の頁を開く。


 短い文章。


 キースの目が止まった。


「……これは」


「何かご存じですの?」


 メルリルが横から覗く。


 キースは答えず、そのまま読み進めた。


 教典は、最初から〈混沌〉を讃えているわけではなかった。


 むしろ、始まりは穏当だった。


 人は、記録によってのみ存在するのではない。


 名を記されなくても。


 神殿に認められなくても。


 国の台帳へ載らなくても。


 誰かの記憶に残り。


 誰かがその声を聞き。


 本人が自分自身として生きているなら。


 その者は存在している。


「……正しい」


 キースが呟いた。


「何?」


 ゼクスが顔をしかめる。


「いや。この部分だけなら、間違ってはいない」


 メミスの巫女。


 名を与えられなかった姉。


 道端の、名もない石へ祈った村人たち。


 文字ではなく、風や花へ記憶を預けるラルソウムの精霊たち。


 そして、セーレの時代より後、世界各地へ広がった一つの思想。


 記録されなければ存在できない。


 そうした考えそのものへの疑問。


 書かれた名は大切だ。


 けれど、書かれていないからといって、存在していないわけではない。


 それはキース自身も、この旅の中で少しずつ受け入れてきたことだった。


「続き読んでみな」


 ゼクスの声が冷たい。


 キースは頁をめくった。


 文章が変わった。


 記録されなくても、存在できる。


 ならば。


 記録は不要である。


 名がなくても、存在できる。


 ならば。


 名は不要である。


 名がなくても生きられるなら。


 名を捨てればよい。


 形が変わっても存在できるなら。


 形を捨てればよい。


 肉体が自分を縛るなら。


 肉体を捨てればよい。


 そして最後には、同じ一文が何度も繰り返されていた。


 形を失えば自由になる。


 キースは冊子を閉じた。


「違う」


 声が震えた。


「何が?」


 シビウが訊く。


「全部だ」


 キースは教典を机へ置いた。


「最初に言っていることと、最後の結論がまったく違う」


「どういうことですの?」


 メルリルが冊子を取る。


「記録されなくても存在できる、というのは」


 キースは言葉を選んだ。


「記録を捨てろという意味じゃない」


 姉の顔を思い出す。


 名を持たない巫女。


 彼女は、名がないから自由なのではない。


 名を与えられないことが、檻になることもある。


「名がなくても存在できることと、名などなくていいことは同じではない。記録されなくても人は生きられることと、その人について記録する価値がないことも違う」


 メルリルが教典を読み進めるにつれ、その表情が徐々に険しくなっていった。


「論理の階段を、一段ずつずらしていますわね」


「ああ」


「『なくても存在できる』を、『あるものは不要だ』へ置き換えている」


「そうだ」


「そして」


 ローゼンが静かに言った。


「『なくてもよい』から、『捨てるべきだ』へ」


 キースは彼女を見る。


「そうだ」


 ローゼンは少し悲しそうだった。


「名を持たずとも、祈りを聞く方がいらっしゃるかもしれません。でも、それは祈る相手の名を奪ってよいということではございません」


「その通りだ」


「わたくしたちは、石へお願いをいたします」


 ラルソウム。


 シビウの願いに応じて動いた、小さな石。


「石が動かなくても、壊せばよいとは思いません」


 単純な言葉だった。


 だからこそ、核心へ届いた。


「……教団は」


 シビウが冊子を見る。


「自由にするって言いながら、全部なくそうとしてるんだね」


「そう見える」


 キースは答えた。


「名前も。身体も。記録も。最後には、その人自身まで」


「それを自由って呼んでる」


 シビウの声が冷えた。


「気に入らないね」


 フユは、ずっと黙っていた。


 やがて教典へ近づく。


 文字を読めるのかどうか、キースには分からない。


 フユは冊子へ触れなかった。


 ただ見つめる。


「フユ?」


「なくてもいる」


 小さな声だった。


「うん」


 キースが頷く。


「でも」


 フユは続けた。


「なくすのは、違う」


 全員が黙った。


 それだけだった。


 四季使いは、それ以上説明しない。


 けれどキースには、今日聞いたどんな理論よりも、その一言の方が明瞭に思えた。


 なくてもいる。


 だから。


 なくしていいわけではない。


          *


 夜。


 キースは一人で集会所の外へ出た。


 空は曇り、月も星も見えない。村の周囲に立つ封鎖標だけが淡い魔導光を放ち、その向こうでは見張りの魔導士たちが交代している。


 その中の何人が。


 明日、黒くなるのか。


 誰にも分からない。


 キースは自分の手を見た。


 普通だ。


 指先も。


 爪も。


 皮膚も。


 何も変わっていない。


 それでも胸の奥では、イースがずっと落ち着かずに脈打っている。アムドアの方角へ近づいてから、休む間もなく何かへ反応し続けていた。


「人間魔導だけ……」


 小さく呟く。


 フユは平気だ。


 ローゼンにも異常はない。


 シビウは、そもそもイースを持たない。


 反応しているのは、メルリルとキース。


 人間の魔導士だけ。


 〈混沌〉へ近づくほど、身体の内側にあるものが強く反応する。


 昨日まで、キースは別のことを考えていた。


 人間の魔導は、フユの四季魔導とは根本的に仕組みが違うのではないか。


 フユは、世界にあるものを呼ぶ。


 自分たちは術式によって、そこにない現象を作る。


 ならば。


 何を使って、それを作っている?


「眠れねえのか」


 背後から声がした。


 振り返ると、ゼクスがいた。


 片手には酒瓶。


「君はいつも飲んでいるのか」


「飲めるうちはな」


「さっきと同じことを言うんだな」


「俺の信条だ」


 ゼクスは隣へ並んだ。


 酒の匂いはする。


 けれど、酔っているようには見えない。


「怖くねえのか」


 ゼクスが訊いた。


「何が」


「黒くなるのが」


 キースは少し考えた。


「怖い」


「世界一でも?」


 キースが顔を向ける。


「なぜその呼び名を」


「聞いた。メミスの神官長。世界一の魔導士キース」


 どこから聞いたのかは分からない。


 この村にも外から来た魔導士が多い。


 噂が伝わったのだろう。


「世界一でも、怖いものは怖い」


「へえ」


「魔導力が強ければ、恐怖を感じないとでも?」


「いや」


 ゼクスは酒を飲んだ。


「その答えなら、ちょっと安心した」


「なぜ」


「怖くねえ奴は、この辺じゃ早く死ぬ」


 マーカスと、似たことを言う。


 口調も。


 酒好きなところも。


 けれど、違う。


 キースはもう、誰かを誰かの代わりとして見ることはしなかった。


「ゼクス」


「ん?」


「なぜ、ここにいる」


「何だ急に」


「奇病が魔導士だけを襲うなら、君も危険だろう」


「そうだな」


「逃げないのか」


 ゼクスは酒瓶を口から離した。


 しばらく、北の方角を見ている。


「逃げたら、誰が封じる?」


「ほかにも魔導士はいる」


「そいつらだって、同じこと考えてる」


「皆がそう言えば、誰も逃げられない」


「その通り」


 ゼクスは笑った。


「だから、馬鹿なんだろ」


「君は」


 何かを訊こうとして、キースはやめた。


 今、知る必要はない。


「変な奴だな、お前」


 ゼクスが言う。


「よく言われる」


「もっと偉そうな奴かと思った。世界一だろ?」


「だからその呼び名は――」


「嫌いなんだろ。聞いた」


「誰から何を聞いたんだ」


 ゼクスが笑った。


 初めて、その笑いが少しだけ普通のものに見えた。


 そのときだった。


 村の鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 警鐘。


 ゼクスの表情が一変した。


「またか!」


 持っていた酒瓶を放り捨て、そのまま走り出す。


 キースも後を追った。


「何が起きた!」


「封鎖線だ!」


 村の北側。


 すでに魔導士たちが集まり始めている。


 その向こう。


 封鎖標の光が届かない暗闇の中に、人影が立っていた。


 一人ではない。


 十人。


 二十人。


 それ以上。


 全員が黒い布で顔の一部を覆っている。


 武器を持つ者は少ない。


 代わりに、同じ言葉を低く繰り返していた。


「名は檻」


「形は檻」


「記録は檻」


 祈りのように。


 何度も。


 同じ言葉が闇の中から押し寄せる。


 キースは息を呑んだ。


 《混沌崇拝教団》。


「来やがったか」


 ゼクスが吐き捨てる。


 信者の一人が、ゆっくりと両腕を広げた。


 袖が落ちる。


 露わになった手。


 その指先は。


 黒かった。


「恐れるな」


 男が言った。


 人々へ。


 村へ。


 そして、封鎖線の内側に立つ魔導士たちへ。


「これは病ではない」


 男の声が夜へ広がる。


「形を失えば、我らは自由になる」


 キースはその言葉を聞きながら、自分の胸へ手を当てた。


 イースが、強く脈打った。


 まるで暗闇の向こうにある何かが。


 こちらから触れるより先に。


 キースという魔導士を見つけたかのように。

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