第二十二章 黒くなる魔導士
アムドアへ近づくにつれて、人の住む土地は増えていった。
それなのに、生活の気配はむしろ薄くなっていく。
《旅水》から出て半日ほど北へ進んだ頃には、街道の両側へ広い畑が現れた。麦らしき作物は実をつけたまま刈り取られず、果樹には熟れすぎて黒ずんだ実が枝へ残されている。農具を収めた小屋も、荷を積むための車も置き去りにされていた。それだけを見れば、つい数日前まで人が働いていたように思えるのに、畑にも道にも姿はない。
さらに進むと、街道脇へ白い杭が立ち始めた。
一本ごとに細い銀線が巻きつけられ、上部には小さな魔導文字が刻まれている。
「封鎖標ですわね」
メルリルが足を止めた。
「人間の?」
「ええ。簡易結界に使うものです。ずいぶん急造ですけれど」
キースも杭へ近づき、手を触れずに術式だけを読んだ。組まれているのは侵入を阻む障壁ではない。一定範囲内で起きた魔力の変動を拾い、内側へ知らせるための警戒線だった。
「対象は人ではないな」
「魔力?」
「たぶん」
二人が術式を確かめているあいだ、フユは興味を示すこともなく先へ進んでいた。ローゼンは街道の向こうへ視線を向けたまま、いつになく口数が少ない。
シビウだけが、別のことを気にしていた。
「鳥がいないね」
その一言で、キースもようやく気づいた。
森はある。
畑もある。
風も吹いている。
それなのに、鳥の声がまったくしない。
「旅水のところにはいた」
「いたね」
「ここだけか」
「かもしれない」
シビウは腰の《踊る剣》へ手を置いた。
「こういう静かな場所は好きじゃないよ」
マーカスなら、そこで何か言っただろう。
シビウ自身も同じことを思ったのかもしれない。肩に担いだ大斧へ一瞬だけ指を触れたが、何も言わず、再び歩き出した。
やがて街道の先に集落が見えてきた。
石壁はない。その代わり、村を囲むように何重もの封鎖標が立てられている。家の数は百に届かない程度だろうが、普通の農村にしては宿や倉庫が多かった。アムドアの《大穴》へ向かう者たちの補給地として使われてきたのかもしれない。
ようやく、人影も見えた。
だが、最初に聞こえてきたのは歓迎の声ではなかった。
「押さえろ!」
男の怒声が響く。
「腕に触るな! 布を使え!」
キースたちは顔を見合わせると、一斉に走り出した。
*
村の入口で、四人の男が一人の魔導士を地面へ押さえつけていた。
患者なのだと分かったのは、近くまで来てからだった。
年齢は三十代ほど。旅装の上から灰色の魔導外套を羽織り、腰には杖を下げている。身体つきは細いが、暴れる力は尋常ではなく、四人がかりでようやく押さえ込んでいるような状態だった。
「離せ!」
男は叫んでいた。
「俺はまだ大丈夫だ! 離せ!」
「大丈夫な奴は、そんな目にならねえよ!」
患者を押さえていた大柄な男が怒鳴り返す。
その男がゼクスだった。
肩幅が広く、日に焼けた顔には無精髭が生えている。重い革外套を袖までまくり上げた腕には、古い切り傷や火傷の痕が幾つも残っていた。
魔導士らしい長杖も法衣も持っていない。
それでもキースには、近づいた瞬間に分かった。
イースを持っている。
しかも弱くない。
「何が起きている!」
キースが声をかける。
ゼクスは一瞬だけこちらを見た。
「旅人なら下がってろ!」
「私も魔導士だ!」
「だったら余計に下がれ!」
叫び返され、キースは足を止めた。
「なぜ――」
「キース!」
メルリルの声が鋭くなる。
彼女は、患者を見ていた。
キースも改めて男へ視線を向ける。
最初に異常が分かったのは、指だった。
両手の指先が黒い。
泥や煤が付着しているのではない。皮膚そのものから色が失われ、爪と肉の区別さえできないほど深い黒へ変わっている。
さらに目。
白目の端から、黒い染みが広がっていた。
一見すれば瞳孔が異様に大きくなったようにも見える。だが違う。黒目と、その周囲にあるはずの白目との境界そのものが崩れ始めている。
「……何だ、これは」
キースの声が低くなった。
患者の右頬にも黒い斑点が浮かんでいた。
皮膚病に見えなくはない。
ただ、その輪郭がおかしい。
黒くなった部分と健康な皮膚との境目が、まるで墨を水へ垂らしたように滲んでいる。
「頼む!」
患者がキースを見た。
まだ人間の理性が残っている。
「魔導士なんだろ! 治してくれ!」
「私は治癒師では――」
「何でもいい! 焼いても切ってもいい! この手を落とせば助かるなら――!」
「駄目だ!」
ゼクスが怒鳴った。
「もう試した! 腕を切ったって止まらねえ!」
患者の顔から血の気が引いた。
「……嘘だ」
「嘘じゃねえ」
「俺はまだ……俺は」
声が震える。
そのとき、キースの胸の奥でイースが強く脈打った。
「っ……!」
《旅水》を出たあと、遠くアムドアを見たときよりも、はっきりしている。
引かれる。
自分の内側にある何かが、患者の黒い部分へ向かって伸びようとしている。
「キース?」
ローゼンが異変に気づく。
「近づくな!」
メルリルがキースの肩を掴んだ。
彼女自身も顔を歪めている。
「あなたも?」
「ああ」
「わたくしもですわ」
メルリルは自分の胸へ手を当てた。
「イースが反応しています」
その言葉を聞いたゼクスの表情が変わった。
「お前ら、マジで魔導士か」
「そう言っただろう」
「なら、ここでぼさっとしてるんじゃねえ!」
患者を押さえたまま、彼が叫ぶ。
「結界小屋を開けろ!」
他の男たちが動いた。
村の門脇には、小さな石造りの小屋がある。入口には幾重にも魔導布が張られ、周囲には封鎖標と同じ銀線が巡らされていた。
「運ぶぞ!」
男たちが患者の身体を持ち上げる。
だが、間に合わなかった。
「待て」
キースが低く呟いた。
患者の左手。
黒くなった指先から。
何かが落ちた。
血ではない。
肉でもない。
黒い滴だった。
地面へ落ちたそれは、液体のようには広がらない。丸い形のまま留まり、表面だけが絶えず微細に形を変えている。
「……〈混沌〉」
ローゼンの声が震えた。
その名を聞いた瞬間、患者が絶叫した。
「嫌だ!」
身体を激しく捩る。
「嫌だ! まだ人間だ! 俺はまだ――!」
「押さえろ!」
「ゼクス、もう無理だ!」
「黙れ!」
黒い部分が、一気に広がった。
指先から手へ。
手首。
腕。
皮膚の上を這っているのではない。
肉体の形そのものが、黒い何かへ置き換わっていく。
骨の輪郭が消え、筋肉の境界もなくなる。袖の中にあったはずの腕は、粘り気を持った影のように膨らみ、縮み、一定の形を保てなくなっていった。
「結界!」
キースは反射的に術式を展開した。
地面へ光の線が走る。患者を中心に円環が閉じ、その外側へ幾重もの防護構文が重なっていく。
今度は、迷わなかった。
竜の峠で。
マーカスを失った。
あの数呼吸を、もう繰り返したくなかった。
「全員、円の外へ!」
ゼクスたちが飛び退く。
最後まで患者を押さえようとしていたゼクスの袖を、シビウが掴んで強引に引いた。
「離せ!」
「死にたいなら一人でやりな!」
次の瞬間。
患者の顔が崩れた。
目。
鼻。
口。
それぞれがあった位置は、まだ分かる。
だが、その境目がない。
黒い影の表面へ、人間の顔の痕跡だけが沈み込んでいるようだった。
「た……すけ……」
声だけが。
まだ人間だった。
ローゼンが両手で口元を覆った。
メルリルは青ざめながらも目を逸らさない。
キースも同じだった。
見なくてはならない。
恐ろしいからこそ。
何が起きているのかを、記憶しなければならない。
「名前は!」
キースが叫んだ。
なぜ、そんなことを訊いたのか。
自分でも分からなかった。
「あなたの名前は!」
黒い顔が揺れた。
「ラ……」
音が途切れる。
「ラウ……」
最後までは聞き取れなかった。
人間の輪郭が失われた。
衣服だけが、地面へ落ちた。
その内側に、拳より少し大きな黒い塊が残る。
〈混沌〉。
キースが文献で読んできたものと、よく似ている。
だが、違った。
その黒い塊は、一度だけ。
結界の中で、心臓のように脈打った。
まるで生き物のように。
*
黒い塊は、その後しばらく動かなかった。
それでもキースは結界を解除しなかった。村へ常駐する別の魔導士たちが集まり、封印具を幾重にも取りつけ、ようやく厚い石箱へ収容する。
そのあいだ、誰も大きな声を出さなかった。
地面には患者の服が残されている。
靴。
腰の杖。
小さな革袋。
人間だった証拠だけが、黒いものの外側へ取り残されていた。
「……名前」
キースが呟いた。
隣に立つゼクスが顔をしかめる。
「ラウル=ハーディだ」
「ラウル」
「ああ。西から来た魔導士だ。ここへ来てふた月くらいになる」
「ふた月」
「封印作業を手伝ってた」
ゼクスは地面へ落ちていた杖を拾い上げた。
粗末な杖だった。
高価な魔霊石もない。長く使い込まれ、握る部分だけ色が変わっている。
「昨日までは喋れた。今朝、目が黒くなった」
「発症から、どのくらい?」
「最初に指が黒くなったのは三日前」
メルリルの表情が険しくなった。
「三日で?」
「ああ」
「全員、同じ速度ですの?」
「違う。半月保った奴もいる。半日で終わった奴もいる」
「治った者は?」
キースが尋ねた。
ゼクスは答えなかった。
それだけで分かった。
「一人も?」
「俺が知ってる限りはな」
風が吹いた。
地面に残ったラウルの外套の裾が揺れる。
身体だけがない。
「これが」
ローゼンが、ようやく口を開いた。
「この村で起きている奇病なのでございますか」
「村だけじゃねえよ」
ゼクスは北を見た。
遠く。
地平の向こう。
黒く欠けた場所。
「アムドアの外縁一帯だ。〈混沌〉へ近いところほど多い。正確な範囲は分からねえし、記録も揃ってない」
「感染する?」
シビウが訊く。
「分からん」
「分からない?」
「家族が何日も看病して、何ともなかった例がある。血に触れた奴も平気だった。逆に、誰とも接触してねえ魔導士が突然黒くなったこともある」
「では、病ではない可能性もありますわね」
メルリルが言った。
「感染症とは限らない」
「ああ」
キースも同意する。
「少なくとも、通常の伝染病とは考えにくい」
「それだけじゃねえ」
ゼクスが言う。
「ここまでで分かってることが、一つある」
嫌な予感がした。
「黒くなるのは」
ゼクスはキースを見る。
次にメルリルへ視線を移した。
「魔導士だけだ」
その場に沈黙が落ちた。
「……だけ?」
ローゼンが確認する。
「ああ」
「イースを持つ者だけ、という意味ですの?」
メルリルの声が低くなる。
「今んとこな」
「魔導士ではないイース保有者は?」
「この辺じゃ、正式な魔導士以外まで調べられねえよ。そもそも自分にイースがあるって知らない奴もいるだろうからな」
その言葉に、キースの胸が痛んだ。
メミス。
イースを持って生まれても、平民なら魔導士にはなれない。
存在していても。
制度が名を与えない。
「魔導を使わなければ、防げる?」
「それも分からん。発症してから術を使うと悪化するって話はある」
「因果は?」
「知らねえ」
「記録を見せてくれ」
キースとメルリルが、ほとんど同時に言った。
ゼクスが二人を見る。
「なんだ、お前ら」
「魔導士だと言っただろう」
「それは見りゃ分かる。お前ら、変なところで息合うな」
「合っていない」
「失礼ですわ」
ゼクスは口の端を上げた。
一瞬、こんな場面でも笑う男なのかと思った。
けれど、すぐに違うと分かった。
笑っていなければ、やっていられないのだ。
「ついて来い」
ゼクスはラウルの杖を肩へ担いだ。
「立ち話するには、ここは縁起が悪すぎる」
*
ゼクスが案内したのは、村の中央にある古い集会所だった。
もとは旅人向けの倉庫だったらしい。今では壁一面に地図が貼られ、長机の上には患者記録や封鎖報告が積み上げられている。
建物の半分は、臨時診療所として使われていた。
そこにも、黒くなり始めた魔導士たちがいる。
キースたちは、まず三人の患者を見た。
一人目は少女だった。
年齢は十五か十六ほど。右手を厚い包帯で巻いている。
「外しても?」
メルリルが尋ねると、少女は怯えながらも頷いた。
治療師が慎重に包帯を解く。
小指と薬指。
二本の指先が、黒く染まっていた。
まだ指としての形は保っている。
けれど皮膚の紋理が消えている。
指紋も。
爪と皮膚の境目も。
まるで、指の形をした黒い空白が手の先へ付いているようだった。
「感覚は?」
キースが尋ねる。
「あります」
「痛みは?」
「冷たい……です」
「実際の温度は?」
メルリルが触れずに測定具を近づける。
「周囲とほぼ同じですわ」
「でも、冷たいんです」
少女が言った。
「ずっと……水の底みたいに」
二人目は老人だった。
両目に症状が出ている。
黒い部分は瞳孔だけではなく、虹彩から白目へと広がっていた。
「見えますか?」
「お前さんの顔はな」
「色は?」
「色……」
老人は少し考えた。
「減った」
「減った?」
「赤が見えん。黄色も薄い」
ローゼンが、自分の赤い瞳へ手をやった。
老人は彼女を見ているはずなのに、その色が分からない。
三人目は、若い男だった。
症状は皮膚の変色ではなく、左肩に現れていた。
そこだけ、輪郭がおかしい。
正面から見れば普通に見える。
しかし横から見ると、肩の端が背景へ滲んでいた。本来そこに身体があるはずなのに、向こう側にある壁の色がわずかに透けて見える。
キースは息を呑んだ。
「黒くなるだけではない」
「境界が失われていますわ」
メルリルが呟く。
「身体の外と内を分けている、何かが」
フユは患者たちから少し離れた場所に立っていた。
珍しく。
彼女も、真剣な顔をしている。
「フユ」
キースが呼ぶ。
「何か分かるか?」
「嫌」
「何が」
フユはしばらく患者を見た。
「これ、嫌」
知識として答えたのではない。
感覚。
世界から力を得るという《四季使い》が、目の前の現象そのものを嫌がっている。
「世界のものではない?」
キースは思わず尋ねた。
フユは答えなかった。
「フユ?」
「分からない」
それだけだった。
キースも、それ以上は訊かなかった。
*
夕方まで、二人の魔導士は記録を調べ続けた。
発症者は、この村の記録だけで三十七名。
周辺の封鎖拠点まで含めれば、確認できるだけでも八十を超える。
死亡。
いや。
死亡と呼んでよいのか。
完全に〈混沌〉化した者は、五十余名。
回復例は零。
「年齢差はない」
キースは長机へ記録紙を並べた。
「十代から七十代までいる」
「男女差もなし」
メルリルが別の報告書をめくる。
「魔導系統にも偏りがありませんわ。火、水、風、土。治癒系統も、結界専門も発症しております」
「イースの強さは?」
「むしろ散らばっています。弱い術者も、強い術者も」
「アムドアからの距離」
「こちらは多少ありますわね」
メルリルが地図へ小さな印を置いた。
「近いほど報告数は増えています。ただし人口密度も違いますから、これだけでは危険度が距離へ比例するとまでは言えません」
「〈混沌〉封印作業への参加歴は?」
「かなり多いですわ」
「接近頻度との相関か」
「可能性はあります」
キースは別の記録へ目を落とした。
「しかし、発症していない封印魔導士も多い」
「原因を一つに絞るのは早いですわね」
「ああ」
そこへゼクスが入ってきた。
両手に木皿を持っている。
「飯だ」
「今は――」
「食え」
「資料を」
「黒くなってから後悔しても遅えぞ。食えるうちに食っとけ」
乱暴な言い方だった。
だが今日一日で何人もの患者を見てきた男が言うと、冗談には聞こえない。
キースは素直に木皿を受け取った。
豆と肉を煮込んだ料理だった。北方らしく香草が強く、長く煮込まれた肉は柔らかい。
「酒は?」
シビウが尋ねる。
ゼクスが、初めて心底嬉しそうな顔をした。
「ある!」
「じゃあ話が早い」
「シビウ」
「何さ」
「飲みすぎるな」
「あんた、誰に言ってんだい」
その言い方に、キースは一瞬だけマーカスを思い出した。
シビウも気づいたのか。
ほんの僅かに表情が止まる。
それでも彼女は、ゼクスから差し出された酒杯を受け取った。
「一杯だけね」
「本当に一杯で終わる奴が言う台詞じゃねえな」
「あんたとは気が合いそうだよ」
「そりゃ光栄だ」
シビウは酒を口にした。
キースは何も言わなかった。
マーカスを忘れたのではない。
別の誰かと酒を飲んだからといって、死者への愛が薄れるわけではない。
「あんたの仲間か?」
ゼクスが大斧へ目を向けた。
シビウは酒杯を置く。
「元旦那のさ」
「元?」
「死んだ」
ゼクスは一瞬だけ黙った。
「そうか」
それだけだった。
余計な慰めはない。
「重いだろ」
「重いよ」
「だったら置いてきてもよかったんじゃねえか」
「まだいいんだ」
「そっか」
シビウは、もう一口酒を飲んだ。
キースは、その姿から目を逸らさなかった。
彼女は。
ちゃんと生きている。
*
「それで」
食事が一段落したところで、キースがゼクスへ尋ねた。
「この奇病と〈混沌〉崇拝者に関係があると聞いた」
ゼクスの手が止まった。
「誰から?」
「記録の端に何度も書かれている」
「ほんと、学者ってのは細けえところを見るな」
「教団がいるのか?」
「ああ」
ゼクスは酒杯を机へ置いた。
「《混沌崇拝教団》」
名前だけなら、単純だった。
「昔から?」
「俺がここへ来た頃には、もういた。ただ、今みてえに多くはなかった」
「今は増えている?」
「奇病が広がってからな」
「病人を勧誘しているのですか?」
ローゼンが尋ねる。
「そういう連中もいる」
ゼクスの声が低くなった。
「治らねえって言われた魔導士のところへ行くんだ。黒くなった指を見て、怖がるなって言う」
「怖がるな?」
「これは病気じゃない。変化だ。解放だってな」
キースの顔が険しくなる。
「〈混沌〉になることが?」
「ああ」
ゼクスは吐き捨てた。
「奴らの言い分じゃ、人間は形を持ってるから苦しむらしい」
「形?」
「身体。名前。身分。過去。記録。全部だ」
ゼクスは指を一本ずつ折っていった。
「人は、自分が自分であることに縛られてる。なら、形を失えば自由になる」
部屋が静かになった。
単なる狂信者の戯言として笑い飛ばすには、その思想にはどこか聞き覚えのある響きがあった。
「教典は?」
キースが尋ねる。
「ある」
「見せてくれ」
「やめといた方がいいぞ」
「なぜ」
「読むと腹立つ」
「それは読んでから決める」
ゼクスはしばらくキースを見ていた。
やがて立ち上がり、部屋の隅にある箱から薄い冊子を一冊取り出した。
黒い表紙。
装飾はない。
題名すら書かれていない。
「捕まえた信者が持ってた」
キースは冊子を受け取った。
紙は安い。
大量に配るために作られたものなのだろう。
最初の頁を開く。
短い文章。
キースの目が止まった。
「……これは」
「何かご存じですの?」
メルリルが横から覗く。
キースは答えず、そのまま読み進めた。
教典は、最初から〈混沌〉を讃えているわけではなかった。
むしろ、始まりは穏当だった。
人は、記録によってのみ存在するのではない。
名を記されなくても。
神殿に認められなくても。
国の台帳へ載らなくても。
誰かの記憶に残り。
誰かがその声を聞き。
本人が自分自身として生きているなら。
その者は存在している。
「……正しい」
キースが呟いた。
「何?」
ゼクスが顔をしかめる。
「いや。この部分だけなら、間違ってはいない」
メミスの巫女。
名を与えられなかった姉。
道端の、名もない石へ祈った村人たち。
文字ではなく、風や花へ記憶を預けるラルソウムの精霊たち。
そして、セーレの時代より後、世界各地へ広がった一つの思想。
記録されなければ存在できない。
そうした考えそのものへの疑問。
書かれた名は大切だ。
けれど、書かれていないからといって、存在していないわけではない。
それはキース自身も、この旅の中で少しずつ受け入れてきたことだった。
「続き読んでみな」
ゼクスの声が冷たい。
キースは頁をめくった。
文章が変わった。
記録されなくても、存在できる。
ならば。
記録は不要である。
名がなくても、存在できる。
ならば。
名は不要である。
名がなくても生きられるなら。
名を捨てればよい。
形が変わっても存在できるなら。
形を捨てればよい。
肉体が自分を縛るなら。
肉体を捨てればよい。
そして最後には、同じ一文が何度も繰り返されていた。
形を失えば自由になる。
キースは冊子を閉じた。
「違う」
声が震えた。
「何が?」
シビウが訊く。
「全部だ」
キースは教典を机へ置いた。
「最初に言っていることと、最後の結論がまったく違う」
「どういうことですの?」
メルリルが冊子を取る。
「記録されなくても存在できる、というのは」
キースは言葉を選んだ。
「記録を捨てろという意味じゃない」
姉の顔を思い出す。
名を持たない巫女。
彼女は、名がないから自由なのではない。
名を与えられないことが、檻になることもある。
「名がなくても存在できることと、名などなくていいことは同じではない。記録されなくても人は生きられることと、その人について記録する価値がないことも違う」
メルリルが教典を読み進めるにつれ、その表情が徐々に険しくなっていった。
「論理の階段を、一段ずつずらしていますわね」
「ああ」
「『なくても存在できる』を、『あるものは不要だ』へ置き換えている」
「そうだ」
「そして」
ローゼンが静かに言った。
「『なくてもよい』から、『捨てるべきだ』へ」
キースは彼女を見る。
「そうだ」
ローゼンは少し悲しそうだった。
「名を持たずとも、祈りを聞く方がいらっしゃるかもしれません。でも、それは祈る相手の名を奪ってよいということではございません」
「その通りだ」
「わたくしたちは、石へお願いをいたします」
ラルソウム。
シビウの願いに応じて動いた、小さな石。
「石が動かなくても、壊せばよいとは思いません」
単純な言葉だった。
だからこそ、核心へ届いた。
「……教団は」
シビウが冊子を見る。
「自由にするって言いながら、全部なくそうとしてるんだね」
「そう見える」
キースは答えた。
「名前も。身体も。記録も。最後には、その人自身まで」
「それを自由って呼んでる」
シビウの声が冷えた。
「気に入らないね」
フユは、ずっと黙っていた。
やがて教典へ近づく。
文字を読めるのかどうか、キースには分からない。
フユは冊子へ触れなかった。
ただ見つめる。
「フユ?」
「なくてもいる」
小さな声だった。
「うん」
キースが頷く。
「でも」
フユは続けた。
「なくすのは、違う」
全員が黙った。
それだけだった。
四季使いは、それ以上説明しない。
けれどキースには、今日聞いたどんな理論よりも、その一言の方が明瞭に思えた。
なくてもいる。
だから。
なくしていいわけではない。
*
夜。
キースは一人で集会所の外へ出た。
空は曇り、月も星も見えない。村の周囲に立つ封鎖標だけが淡い魔導光を放ち、その向こうでは見張りの魔導士たちが交代している。
その中の何人が。
明日、黒くなるのか。
誰にも分からない。
キースは自分の手を見た。
普通だ。
指先も。
爪も。
皮膚も。
何も変わっていない。
それでも胸の奥では、イースがずっと落ち着かずに脈打っている。アムドアの方角へ近づいてから、休む間もなく何かへ反応し続けていた。
「人間魔導だけ……」
小さく呟く。
フユは平気だ。
ローゼンにも異常はない。
シビウは、そもそもイースを持たない。
反応しているのは、メルリルとキース。
人間の魔導士だけ。
〈混沌〉へ近づくほど、身体の内側にあるものが強く反応する。
昨日まで、キースは別のことを考えていた。
人間の魔導は、フユの四季魔導とは根本的に仕組みが違うのではないか。
フユは、世界にあるものを呼ぶ。
自分たちは術式によって、そこにない現象を作る。
ならば。
何を使って、それを作っている?
「眠れねえのか」
背後から声がした。
振り返ると、ゼクスがいた。
片手には酒瓶。
「君はいつも飲んでいるのか」
「飲めるうちはな」
「さっきと同じことを言うんだな」
「俺の信条だ」
ゼクスは隣へ並んだ。
酒の匂いはする。
けれど、酔っているようには見えない。
「怖くねえのか」
ゼクスが訊いた。
「何が」
「黒くなるのが」
キースは少し考えた。
「怖い」
「世界一でも?」
キースが顔を向ける。
「なぜその呼び名を」
「聞いた。メミスの神官長。世界一の魔導士キース」
どこから聞いたのかは分からない。
この村にも外から来た魔導士が多い。
噂が伝わったのだろう。
「世界一でも、怖いものは怖い」
「へえ」
「魔導力が強ければ、恐怖を感じないとでも?」
「いや」
ゼクスは酒を飲んだ。
「その答えなら、ちょっと安心した」
「なぜ」
「怖くねえ奴は、この辺じゃ早く死ぬ」
マーカスと、似たことを言う。
口調も。
酒好きなところも。
けれど、違う。
キースはもう、誰かを誰かの代わりとして見ることはしなかった。
「ゼクス」
「ん?」
「なぜ、ここにいる」
「何だ急に」
「奇病が魔導士だけを襲うなら、君も危険だろう」
「そうだな」
「逃げないのか」
ゼクスは酒瓶を口から離した。
しばらく、北の方角を見ている。
「逃げたら、誰が封じる?」
「ほかにも魔導士はいる」
「そいつらだって、同じこと考えてる」
「皆がそう言えば、誰も逃げられない」
「その通り」
ゼクスは笑った。
「だから、馬鹿なんだろ」
「君は」
何かを訊こうとして、キースはやめた。
今、知る必要はない。
「変な奴だな、お前」
ゼクスが言う。
「よく言われる」
「もっと偉そうな奴かと思った。世界一だろ?」
「だからその呼び名は――」
「嫌いなんだろ。聞いた」
「誰から何を聞いたんだ」
ゼクスが笑った。
初めて、その笑いが少しだけ普通のものに見えた。
そのときだった。
村の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
警鐘。
ゼクスの表情が一変した。
「またか!」
持っていた酒瓶を放り捨て、そのまま走り出す。
キースも後を追った。
「何が起きた!」
「封鎖線だ!」
村の北側。
すでに魔導士たちが集まり始めている。
その向こう。
封鎖標の光が届かない暗闇の中に、人影が立っていた。
一人ではない。
十人。
二十人。
それ以上。
全員が黒い布で顔の一部を覆っている。
武器を持つ者は少ない。
代わりに、同じ言葉を低く繰り返していた。
「名は檻」
「形は檻」
「記録は檻」
祈りのように。
何度も。
同じ言葉が闇の中から押し寄せる。
キースは息を呑んだ。
《混沌崇拝教団》。
「来やがったか」
ゼクスが吐き捨てる。
信者の一人が、ゆっくりと両腕を広げた。
袖が落ちる。
露わになった手。
その指先は。
黒かった。
「恐れるな」
男が言った。
人々へ。
村へ。
そして、封鎖線の内側に立つ魔導士たちへ。
「これは病ではない」
男の声が夜へ広がる。
「形を失えば、我らは自由になる」
キースはその言葉を聞きながら、自分の胸へ手を当てた。
イースが、強く脈打った。
まるで暗闇の向こうにある何かが。
こちらから触れるより先に。
キースという魔導士を見つけたかのように。




